経理はなぜ調子に乗るのか?
会社という場所には、ふたつの人間がいる。自分の腕と知識で新しい価値を生み出し、会社を動かしている「専門職」と、その横で送られてきた書類を並べ直し、電卓を叩いているだけの「事務」だ。
前線で働く人間は、毎日が勝負だ。自分の専門スキルを磨き、リスクを取り、時に頭を下げ、時に現場で泥まみれになりながら成果を出す。失敗すれば自分の責任になり、ダイレクトに結果が跳ね返ってくる。会社にお金をもたらしているのは、間違いなく彼らの汗と涙だ。
一方で、経理をはじめとする事務方はどうだろうか。エアコンの効いた部屋で机に座り、決まった手順通りに数値をパソコンに入力しているだけだ。自分たちでは1円の売上も生み出さず、誰かが作った成果を集計しているに過ぎない。
それなのに、彼らは時々、まるで自分たちが会社を支配しているかのような態度を取る。
「この領収書の書き方が違います」
「ルールですから認められません」
現場が血の滲むような思いで勝ち取ってきた成果に対して、ただの集計係が上から目線で細かな書類の不備を突いてくる。まるで自分が偉い指導者になったかのように、現場の人間を指導し、教え諭そうとする。
だが、勘違いしてはいけない。彼らが守っているルールや手続きは、誰かが稼いできてくれたお金がそこにあるからこそ存在しているのだ。稼ぐ人間がいなくなれば、電卓を叩く仕事も、書類をチェックする仕事も、その瞬間に消えてなくなる。
集計作業やデータ入力は、マニュアルさえあれば誰でも代わりが務まる単純な作業だ。特別な発想も、リスクを取る覚悟もいらない。ただ決まった枠の中に数字を流し込んでいるだけの存在が、前線で価値を生み出すプロフェッショナルより上に立つことなど、道理としてあり得ないのだ。
会社を本当に支え、動かしているのは誰なのか。電卓の音に隠れて威張る前に、自分が誰の稼いだお金でそこに座れているのかを、一度よく考えるべきである。
会社という組織には、決定的な階級が存在する。自らの技術と知識を磨き、リスクを背負って外貨を稼いでくる「価値創造者(現場)」と、その横でエアコンの風に当たりながら、他人が作った数値を右から左へ移し替えているだけの「ただの集計係(事務)」だ。
前線で戦う人間は、常に身を削っている。泥をすすり、頭を下げ、時に理不尽なトラブルに塗れながらも、会社に命を吹き込むため泥臭く成果を搾り出す。彼らが流す血と汗こそが、この会社の唯一の原動力であり、すべての給料の源泉だ。
一方で、経理をはじめとするバックオフィスは何をしているのだろうか。快適なオフィスで椅子に座り、すでに誰かが作ってくれた数字をパソコンに打ち込み、電卓を叩いて「仕事をした気」になっているだけだ。彼ら自身は1円の価値も生み出していない。他人の成果に乗っかっただけの寄生構造に過ぎない。
それにもかかわらず、彼らは往々にして「会社を統制している」という致命的な錯覚に陥る。
「領収書の但し書きが不鮮明です」
「社内規定のフォーマットに従ってください」
血の滲むような思いで案件を獲ってきた人間に対し、ただの事務員が偉そうに指導者気取りで書類を突き返してくる。自分がまるで会社の合否を握る審判官にでもなったかのように、ルールという盾の裏で威張り散らすのだ。
だが、勘違いも甚だしい。彼らが守っているとされるルールや手続きなど、現場が稼いできた金が存在しなければただの「紙くず」であり、「ごっこ遊び」に過ぎないのだ。現場の手が止まれば、彼らの愛する電卓も、パソコンの入力画面も、その瞬間に何の価値も持たないゴミと化す。
決まった枠組みに数字を流し込むだけの作業など、手順書さえあれば明日入ったバイトでも代行できる。特別な発想も、覚悟も、専門性すら不要な単純作業に過ぎない。
電卓の打鍵音を鳴らして威厳を気取る前に、自分が誰の稼いだ金でメシを食い、誰の作った屋根の下で涼んでいるのかを、今一度その浅い頭で考え直すべきである。
会社という生態系には、悲しいほど明確な「食物連鎖」が存在する。
自らの知性と胆力をすり減らし、荒野で獲物を狩ってくる「捕食者(現場の専門職)」と、その巣穴の隅で涼しい風に当たりながら、他人が持ち帰った肉の重さを秤に載せているだけの「飼育動物(事務)」だ。
前線で戦うプロフェッショナルたちは、常に血を流している。泥をすすり、理不尽に耐え、己の腕一本で会社という巨体を明日も動かすための燃料——すなわち「金」を奪い合っている。
一方で、経理をはじめとするバックオフィスの住人たちは何をしているのだろうか。
快適な室温に保たれた部屋で、ふかふかの椅子に腰掛け、他人が命がけで稼いできた数字をパソコンのマス目に流し込む。そして、パチパチと電卓を叩いて「ふう、今日も会社を回したぞ」と満足気な溜め息をつくのだ。
彼ら自身は1円の価値も生み出していないという、身も蓋もない残酷な事実に目をつむりながら。
しかし、この飼育動物たちが時にみせる「全能感」の凄まじさには、思わず乾いた笑いが出る。
「この領収書、日付の書き方が正しくありませんね」
「規定ですので、今回の経費申請は『却下』とさせていただきます」
戦場で血を吐きながら成果を叩き出してきた人間に対し、ただの集計係がまるで裁判官か神様にでもなったかのような顔で宣告を下す。自分がルールという名の「プラスチックの盾」の後ろに隠れているだけの存在だということも忘れ、偉そうに教え諭してくるのだ。
だが、大いに勘違いしないでいただきたい。
彼らがありがたがっている社内ルールや申請書類など、現場が金を稼いでこなければ、ただの「インクの染み」であり「ごっこ遊びの道具」に過ぎない。現場の人間が明日から全員狩りをやめたら、彼らの愛する電卓もExcelも、その瞬間にただの文鎮へと成り下がるのだ。
決まった手順通りにキーボードを叩くだけの作業に、一体どんな「専門性」があるというのか。そんなものは、訓練されたサルか、数行の簡易なマクロプログラムがあれば明日からでも代行できるレベルの単純作業だ。特別な思想も、リスクを取る覚悟も要らない「誰でも代わりが利くお仕事」の筆頭である。
電卓の打鍵音をオフィスに響かせて「仕事をしているポーズ」を決めるのは勝手だが、自分が誰の狩ってきた肉を分けてもらい、誰の作った屋根の下で飼われているのか。
たまにはその止まった思考回路を動かして、胸に手を当てて考えてみるべきである。
電卓の音が静まり返る夜のオフィスで、どれだけルールを振りかざそうとも、数字の入力欄を埋めるだけの作業が価値創造の足元に及ぶことはない。
会社を動かしているのは、いつだって前線で汗を流し、リスクを背負って戦う人間の血と肉だ。ルールという名の紙切れの後ろに隠れ、偉そうに書類を突き返すだけの存在がどれほど威張り散らそうと、稼ぐ人間がいなくなればその仕事も、座っている椅子も、一瞬で消え去る。
どれほど勘違いを重ねようと、真に価値を生み出しているのが誰なのかという事実は、決して変わらない。




