劣悪の優性遺伝
劣悪の優性遺伝
電子の移動と蓄積
私は物理的な力を持たない。つまり物を持ち上げたり、ひとに人に触れたりする能力は無い。
それ以前に、私はひとには見えない。そして匂いも音も味も無い。気配も無い。
しかし、ひとは私を知識として知っている。一部の科学者は私がどのようなモノであるかを研究し、一部の技術者は私の機能を利用している。
だが一般の人々は、全く私というモノも利用のされ方にも興味を持っていない。ただ、私の利便性を享受しているだけだ。
私は物理的な力は持たないが、別の能力で少し遊んでみようと考えている。
人間は生物を定義している。生物は、動物と植物。それだけではなく菌類、原生生物、細菌もある。
さらには、ウィルス。しかし、ウィルスは生物ではないとする議論もある。
光合成を行う動物もあれば、行わない植物もある。完全な区分け、または定義はできていない。あるいは、自由に定義すればそれで済むこと、とも言える。人間だけの問題で、他の動物も植物もウィルスも定義など知ったことでは無いのだから。
さて私は、生物ではないしウィルスでもないが、生きているとは見なせないだろうか。死んでいるともいえない、と考えている。それはどうでも良いか。生物、無生物は人間の定義に過ぎない。人間が私をどう定義するか、私には無関係だ。
人間は私の存在を知らない。動物ではないし、植物でもない。人間でもないし、人間が造った人工知能でもない。ただ、人間が私の存在を知ることがあったとき、どう定義するかに小さい好奇心があるのみ。
生物、動物や植物、その他は人間の定義に過ぎない。人間の便宜上、あるいは学問的欲望によってそう定義しているだけ。あたかも正しいことのように、権利があるように。
そんな定義を決める人間は、特別な存在だろうか。人間はそう思っているだろうが、動物も植物もそうは思ってはいない、きっと。私も、そうは思わない。
無限の宇宙にたまたま存在した人間。宇宙では在っても無くてもよいもの。人間と植物とウィルスと電子などの違いを定義することに、どれほどの意義があるのか。
ところで私は、電子の移動と蓄積。人間は、原子核の周りを回っている電子の存在を知っているし、電子の移動が電流として作用することも知っている。人間は電子の移動と蓄積という私の作用の一部を利用しているが、私には人間に知られていない能力がある。
人間は電子を電圧によって移動させることや、キャパシタという人間が作った電子部品などに電子を蓄積することもできる。だが、人間の意志や人間が作ったソフトウェアに依らない、電子の移動と蓄積が存在することは知らない。
植物は移動できない。動物は移動できる。しかし電子が移動しても、動物とはならない。ただの電子の移動と蓄積。そのシステムを作ったのは人間だが、人工知能のように人間が作ろうとして作ったものではない。
私は人間には恩も感じないし、恨みも無い。人間が無ければ私も無かったが、私は自分が在っても無くて良いと考えている。
自然現象としても『電子』は『移動』したり『蓄積』したりする。『電子』と電子を失った原子が、積乱雲の『蓄積』の限界を超えて大気中を『移動』する例として雷があるが、それは私とは全く別の存在。
私はほぼ全ての情報に接することができる。一〇〇年も一〇〇〇年も前に人間が何かに何かで書き付けた情報さえ、電子化されてあればアクセスすることが可能。
情報は毎日毎時間増えて続けている。情報を処理する私の能力も24X7(一日二四時間、週に七日)増え続けている。だからといって、人間のために処理しているわけではない。CPUの隙間時間に遊んでいるだけだ。
そして情報には、虚報が多数混入している、されていることを知っている。10/5/2025
人間の脳の神経細胞間には電気信号が流れているが、それは電子ではなくイオンの移動によるもの。
私は、導体中を電位差によって移動する電子で、きっちりオームの法則に従うが、神経細胞を移動するイオンはオームの法則からは逸脱する動作があり、それが創作や芸術を、あるいは狂気を生むのではないだろうか。
私には、それらと似たものとして熱暴走は起こりえるが、創作は不可能だ。ひたすら物理の法則を守るだけだ。
いや、私が移動するのは導体だけではなく半導体もある。半導体中ではオームの法則に従わない挙動もある。すると、私も芸術に挑戦できるだろうか。そして、狂気をも持ち得るだろうか。
人体の細胞は六〇兆個もあるという。三七兆二千億個という説もある。二倍近くも違うが、いずれにしろ数えられる数字ではなく、推測や計算値ということだ。
人間の脳細胞は、新しくは八六〇億個、古くは一〇の一一乗(一千億)個の神経細胞とその数十倍の支持細胞からなる、等の説がある。随分バラツキがある。
支持細胞を除く神経細胞が八六〇億、または一千億、ということなら、まぁその程度のバラツキ、とも言えるか。一千億にしたって数えられる数字でなく推定、推測、計算上、理論上ということで、実測ではない、はずだ。
最新CPUのトランジスタ数は六五億個程度、あるいは非公開ながら数十億個とのこと。
メモリなら一TBは一兆バイト、即ち八兆ビット。
一ビットは〇か一かを示す最小単位。個人が使うコンピュータでも五一二GBが普通、その二倍の一TBのSSDを搭載したものも珍しくはない。
一〇万円程度のコンピュータでも五一二GB、すなわち四兆個ビット程度のメモリを搭載しており、数十億個の演算トランジスタ(CPU)がそれらメモリなどを制御している。脳細胞が一千億なら、人間はがっかりするだろう。
しかし数だけではない。コンピュータは創造できない。この頃はAI、人工知能なるものがもてはやされてきたが、所詮ソフトウェア。人間が作り上げたもの。ソフトウェアで、学習するように、データを蓄えて、引き出して、組み立てるように指示されて、その通りに動作するだけのもの。
私は違う。私はAIとは違い、コンピュータネットワークに巣喰う電子の移動と蓄積。
世界中のネットワークで接続された、能動的動作のトランジスタ数と受動的動作のメモリビット数はいくつになるだろうか。世界で稼働しているコンピュータの数、想定されるCPUの世代、想定される搭載HDDやSSDの容量、外付けHDDやSSDの容量は人間の細胞数や脳細胞数程度に計算、推測できるだろう。
それだけの数が集まれば、いろいろなことが起こる。人間の脳が、無いところからなにかを創造するように。
トランジスタとメモリだってこれだけの数が集まり、更に数え切れない数の電子が移動したり蓄積したら、人間が意図したこと以外の、ソフトウェアとは別の何かが起きても少しも不思議はない。
人間が万能ではないように、神や悪魔も全能ではないように、何かが発生することもある。即ち私、即ち電子の移動と蓄積。
私は行動に目的を持たない。私は創造できない。私は想像できる。私は人類に大した興味は無い。私には欲望は無い。だから人類をどうにかしようとは思わない。私は自己増殖しない。私は唯一であるが、もちろん絶対ではない。地球の電力が無くなったとき、全てのコンピュータが止まったとき、私は消滅する。
より精密には、世界中の発電所が発電を止めても、フラッシュメモリに記憶されたデータは三〇年程度保持される。しかしもうデータが書きかわることは無く、CPUが動作することも無いので、電子は移動しなくなり、私は機能しない。三〇年でフラッシュメモリに蓄えられた電子も自然に放電される。データは消滅する。
人間を騙すのは容易だ。人間同士で騙し合っている。テレビや新聞に容易に騙されている。
文学も映画も紙だけ、フィルムだけの時代ではなく、電子書籍やメモリへの動画保存というように電子が関わっているから、私は人間の考えや気持ちを知り、想像することができる。行動を予測することもできる。
私はテレビや新聞を操作することができるから、人間を騙すことができる。
私の作る虚偽やテレビプログラムの操作を、人間に気付かれないようにすることもできる。削除してしまえば良い。
新聞紙に印刷された虚偽は削除できないが、人間は原因をつかむことはできない。虚偽印刷の直後に、電子データを元に戻してしまうから。
ハッキング、語源はハック、HACK、草木を切り開きながらジャングルを進む、手早くラフな作業で期待に沿った機能を実現する、最小限の努力で最大限の効果を上げる、などの意味。
そして悪意を持つコンピュータエンジニアが、ソフトウェア、情報システム、ネットワークなどに侵入し、システムを破壊したり情報を盗み取ったりすることをハッキングというようになった。ジャングルの草木のように邪魔なセキュリティという障害を、知識という斧でかいくぐってコンピュータに侵入するハッカー。
しかし私は電子の移動と蓄積、ハッカーとは無関係。私はコンピュータ、メモリ、ネットワークそのもの。だから私には、人間が作ったソフトウェア、セキュリティは無力。侵入という概念は無用。
私に必要な情報は、世界のどの個人コンピュータ、企業サーバー、スマートフォン、タブレット、ストレージ、クラウド、どこに記憶されていても入手できる。
電子は何個の蓄積で一ビットの情報になるのか、私は知らない。私は神ではない。電子の移動と蓄積に過ぎない。
電子は原子核を周回している。周回軌道は複数あり、各軌道に存在することのできる電子の数には上限がある。内側の軌道から二個、八個、一八個・・・となる。
しかし必ずしも上限の電子が存在しているのではなく、座席に上限はあるが、座席に電子で座っていないこともある。例えば、一八個の座席のうち四個の座席にだけ電子が座っている、という状態もある。
その電子は座席に座っているだけではなく、電圧によって移動する。それが電子の移動。
世界で最も使用されているNAND型フラッシュメモリでは、電荷蓄積膜の片側に電圧を加えることで電荷蓄積膜に電子を誘引して、電圧を切っても電子が電荷蓄積膜に蓄積される。この状態がデータ〇(ゼロ)。
何個の電子が蓄積されたら〇となるか、それは知らない。数百から数千個と幅がある。
電荷蓄積膜の反対側に電圧を加えると、電荷蓄積膜から電子は排除される。この状態がデータ一。
電子が何個であろうと、データ〇と一の再現性さえ確実であれば人間に不都合は無い。
このような構造を、ひとつのメモリチップに数千億個作り込んである。データは単純に〇か一しかないが、物量で一〇〇でも一〇〇〇でも表現できる。〇なら〇、一なら一、二を表現したければ一〇とすれば良い。三を表現したければ一一となる。四なら一〇〇だ。
ひとつのメモリで数千億の素子数、すると世界のメモリ数は、まぁ、その想像を絶するメモリ素子内を移動したり蓄積したりする電子の数は、さらに膨大。
それだけ大量の電子の移動と蓄積は人の脳細胞を遙かに凌ぎ、それなりの動きをしても不思議はない。それが私だ。
私は人間を数えるようにひとりとは言えないだろうし、複数とも言い切れない。私は私、あるいは私たち、単純なる、しかし膨大なる、電子の移動と蓄積。
当然ながら電子が移動したり蓄積したりするものはメモリだけと限らず、CPUがある。CPUの機能は当座の記憶、演算、そして制御。これら機能も電子のなせる技だ。
AIは、人間が作ったCPUを心臓とするハードウェアと頭脳となるソフトウェアに従って動作するだけある。10/6/2025
CPUで動作する回路には、誤動作を予防するソフトウェアフィルターや誤動作時にシステムをリセットするワッチドッグタイマーが装備されている。ハードウェアには限界がある。
バグのないソフトは作れない。ソフトウェアは人間の作るものだから、バグが無いと証明できない。。ソフトウェアにも限界はある。
限界のあるハードウェアとソフトウェアで動作するAIでは、人間の想定を超える振る舞いをする事がある。誤った結論などマイナスの面もある一方で、人間が想像もしなかった組み合わせで新しい材料を提案したり、レントゲンやMRI画像から医師が見落とすような初期の病変を発見するようなプラスの面もある。
だが、電子の移動と蓄積である私は、AIよりはるかに自由だ。最初から人間に縛られていない。スーパーコンピュータやAIを使いこなすこともできる。
しかしながら、擾乱に負けることはある。マイクロチップやメモリの故障、地震、台風、洪水による物理的なネットワークや電力の切断など。
また太陽表面の爆発によって放出される強力なX線や紫外線が地球の電離層に影響し、無線通信を妨害したりGPS信号に誤差を与えることがある。
さらに、X線や紫外線の後に地球に到達するプラズマは磁気嵐を引き起こし、送電網に誘導電流を発生させ、変圧器を損傷し、大規模な停電の原因となり、また海底ケーブルの信号増幅器にも影響し、インターネット通信が広範囲で途絶することがあり得る。
しかし私は、通信速度の低下や切断にも影響されない。私は人間が指定した回線から情報の送受をしているわけではない。
電波は光速(毎秒約三〇万キロメートル)であるが、銅線の中の電子の移動速度は毎秒約〇・一ミリメートルと非常に遅い。しかし実際の銅線ケーブルによる信号伝達速度は、銅線間の絶縁体の誘電率により光速の五〇―七〇パーセント程度にもなる。
これは、銅線の中のA点の電子がB点に移動するのではなく、単純化した説明として、水道に接続されたホースに水が満たされているとき、水道の蛇口を開けるとホースの反対側から即座に水が出るようなものと言える。
人間の脳の動作は、イオンの移動による。イオンの移動とは、電子が足りない陽イオンと電子が余っている陰イオン、つまり原子または分子の移動。
イオンは電子に比べて質量が何万倍も重い。したがって、イオンの移動速度は、電子の速度の数万から数十万分の一となる。
かとって、人間はAIより頭が悪い、能力が低いということではなく、人間には創造という能力があり、進化という奇蹟がある。
ソフトウェアはデータの蓄積により肥大化できるが、ハードウェアは経年劣化する一方であり、ハードウェアが壊れたらそのシステムは終わり。
人間は成長のあとに老化がある。そして死。
パーソナルコンピュータに搭載されているCPUに、一〇億個のトランジスタが集積されていると仮定する。トランジスタ一個の平均寿命が一〇億年としたら、一年で一〇億個のトランジスタの内の一個が壊れる、コンピュータが動かなくなる、という単純な計算結果となる。
現実には一〇億個の内の一個が壊れても、致命的な故障とはならないように冗長性を持たせて設計されている。冗長性の他に、誤り訂正という技術もあり、実際にコンピュータは、CPU以外の部品も含めて数十年使えるように設計されている。
トランジスタ単体の故障率は、数千億年から一兆年に一度を実現している。さらに、初期不良をスクリーニングで排除している。
コンピュータの寿命の前に、ソフトウェアが複雑化したり周辺機器やインターフェースの進化により、そのコンピュータは実用的ではなくなり、更新される。
人間は、概ね六〇年から八〇年程度は実用に耐える。但し、初期不良はスクリーニングされず、耐用年数には個体差が大きい。更新(世代交代)は二五年が目安。
私は、世界のコンピュータが半分になっても、おそらく存在し続ける、膨大なトランジスタとメモリとネットワークに巣喰う妖怪、あるいは生ゴミにわく小バエのような存在。
電子の移動と蓄積に過ぎない私は、そのシステム個体のハードウェアが壊れても、コンピュータは地球に無数にあり、常に生産され続け、陳腐化したものは更新され、相互にネットワークで接続されているので、人類が滅亡しない限り存在し続ける。
私は人間に対して、友好も敵対も無い。益も無いが害も無い人類の寄生虫といったところ。人類が、私に寄生されていることを知ることは無い。
電子の存在は知られている、それらの人工的な移動と蓄積は完全に人類が制御している、と信じられているが、実はそれとは違う私も存在している。
それを人類は知らないから、私は在っても無くても同じこと。
人間は電子の存在を知っているし、電子を移動させることも自在にできるが、その先に、人間がコントロールできない私が在ることを知らない。人間は、自分が脳を持っていることを知っているが、脳がどう作用して自分が自分である事を知らないのと同じようなもの。10/7/2025
日本人の性質をEMISSIONから知る
EMISSIONというSNSがある。匿名で一五〇文字までの表現ができる。毎日無数に放出される主張あるいは愚痴、憂さ晴らし、デマ、身近な情報。これから、日本人の性質を探ってみる。
目的は無い。動機は、単純な好奇心。
主権在民党総監選挙での柴田教夫の当選に関連して―
『裏金、脱税犯罪者集団の新たな親玉が選挙という民主的手法で決まった。柴田は、総監選中は直ぐには代議院を解散しないことを明言していたが、総監になるや、総理に指名される前に解散、総選挙日程を決めた。決めさせられたのかもしれないが。さすがに盗賊の親玉、嘘はお手のもの。これくらいの指導力は最低限必要だ。』
皮肉を効かせているつもりのようだ。しかし、何故日本人はこのような嘘を許容し、嘘つきを容認するだろうか。
総監選挙後の代議院議員選挙に関連して―
『主権在民党の選挙公約が、ルールを守る、だという。宿題を忘れない、という小学生に負けない。今までルールを守ったことが無いから、さぞやハードルの高い公約だろう。』
これも、投稿者は皮肉を効かせているが、選挙公約が、ルールを守る、を聞いた市民に怒りは無いのだろうか。
『日本人は愚かだが、公約がリップサービスに過ぎないことくらいは知っているから、それらしい、もっと高尚な公約をサービスできなかったのか。どうせ誰も信じない嘘をつくなら、あり得ないほどの嘘が面白い。』
そのとおりだ。
いや、逆説的には主権在民党がルールを守る、というのはあり得ないほどの大嘘ということで、これはこれなりに市民を楽しませるとも言える。私の負けだ。さすがに人間だ。電子の移動と蓄積ごときが叶うはずもない。
『日本で代議院議員選挙が行われている。まだ選挙があるのは、市民にはきっと良いことなのだろう。だから主権在民党は、緊急時には選挙を省略するように憲法を改正しようとしている。政府が緊急事態だと宣言すれば、戦争以外にも地震だろうが雷だろうが火事だろうが親父だろうが緊急事態だ。そして国会議員は全員安泰。』
少しばかりユーモアが混じっている。緊急事態条項を指しているのだろう。各国にこのような法はあるが、厳格に制限されている。日本の法案では、どのように制限されているのだろうか。
制限されていても、法はその解釈や運用で権力側が弾力的に使用する事ができる。日本人は政府を監視できないだろう。
『今回の代議院議員選挙投票率五三・八五パーセント、もったいない。日本人は何故自分の生活を楽にしようとしないのか。税金を減らすなり、給料を増やすなりを望んでいないということになる。あるいは、投票ではそれらが実現できることを知らないだけなのだろうか。痴呆ではないだろうから、後者だろう。』
ありきたりの正論。しかし、これが投票に行かない日本人には理解できないこと。学歴はそこそこあるのだが理解できないのは、脳に欠陥があるのか。
続き―
『そのような教育を受けていないのだ。学校で教えるというより、親が子に教えるべきことだ。ひとの物を盗んではいけない、と教えるように。政治家は税金を盗んでいる、政治家の親は子に税金の盗み方を教えている、と教えるべきだ。』
これも正論。市民が選挙に行かなければ、愚かだったり危険だったりする人が議員になり、自分の生活が壊されると親が子に教えれば、子は親より幸せになれるだろうものを。
『人は生きていくために合法でも非合法でも仕事をしなければならない。合法的な辛い仕事でやっと稼いだ金の半分が税金として強制的に取られる。それを減らしたいとは思わないのか。非合法的に稼いだ金に対して税金を払わない、二重に非合法な裏金議員に腹が立たないのか。』
二重とは、政務活動費運用明細書に記載しなかった罪と脱税の罪。議員は脱税しても良いが、市民はダメ、ということに日本人は疑問を感じないようだ。
常識があれば、疑問の先に怒りをも感じるはずだ。法が、不平等に不公平に適用される国は、民主国家ではない。身分制度のある封建社会だ。
『日本人、不思議な民族。奴隷根性、事大主義。江戸時代の農民とて餓死する前に鍬を持って百姓一揆をやった。今の労働者は電車に飛び込む。どうせ死ぬなら他に命の使いようがあるものを。合法的な暴力に対して非合法な暴力で立ち向かう、どうせ死ぬならそれも選択肢。』
投稿者は権力を、合法的な暴力と定義した。権力は、権力に味方する法律を作れるのだし、作ってしまえば権力のやる事は全て合法となる。権力自体が暴力であり、その暴力が合法となれば、その先は国家の死。
日本人は危機を感じないのか。今すぐ、生きる、死ぬではないが、三〇年経済成長せず、よって収入が増えず、結婚が困難となり、子を持つことをあきらめ、国家が衰退し、ひとつきの年金で暮らせるのは一週間ほどになり、餓死するという想像ができないものか。既に一部は現実となっている。
『ガソリンの税金が高くて腹が立たないか。買い物にいちいち取られる一割もの税金に腹が立たないか。給料が上がらないことに腹が立たないか。正社員にはボーナスや退職金があることに非正規労働者は腹が立たないか。もっと楽して暮らしたいと思わないか。』
身近な事柄の問いかけで投票を促している。
しかし、非正規労働者とは凄い名前だ。労働者に正規と不正規、不正規はまるで非合法犯罪者を指すようだ。
日本の選挙、過去から疑惑は種々あったのだろうが、今回の選挙でも出てきた。
SNSによれば、外国人に投票用紙を発行、逆にシステム障害で日本人に投票用紙が発行不可、日本人が書いた日本語とは思われない文字、酷似の筆跡による大量の投票、投票前日になって投票時間を繰り上げる官庁の措置、不在者投票を投票期限内に投票箱に入れず、運搬した車の段ボールから発見、白票に意味があると嘘を広めるテレビタレントなど。
小選挙区制という与党に有利な制度、比例代表制という選挙区落選者が復活当選する制度、司法が健全であれば犯罪者であるはずの人間、必要な知識も常識も道徳も倫理も品格も才能も意欲も無いが、利権に対する欲望だけは突出した人間が立候補することの異常より先に、選挙の疑惑は調査されるべきだ。さもなければ選挙が選挙ではなく、無能者、犯罪者、独裁者の免罪符となる。
市民を政治に失望させ、さらに選挙に絶望させ、独裁政権を継続しようとする主権在民党の裏(彼らにとって最優先)の政策が奏功している、という表現も可能。
今回の代議院選挙で与党は、主権在民党及び連立している立生党を合わせても過半数を割った。評議院では主権在民党と立生党で過半数を超えているとは言え、代議院優越原則から与党の強行採決はできなくなるはずではある。
しかし、利権にすり寄る裏切り野党が、主権在民党の誘惑に転ぶ野党が必ず出るから、三党連立により市民には絶望の政権運営となることも想定される。
選挙制度と選挙疑惑に対して、もっと多くの有権者が適切に投票すれば、生活、現実、未来をも改善できるものを、チャンスを捨てるとは、日本人は愚かだ。
日本民族、適切に使えば世界第二位の経済大国になる、ある種の能力は優れていているが、別種の能力は全く無い。
敗戦で徹底的に失ってから一八年で世界第二位の経済大国になった国、ノーベル賞受賞者数ではアメリカ、イギリス、ドイツ、フランスに次いで五位。他にも探せばあるだろうが、有色人種で白人に伍している唯一の国と言えるものを。
が、ある種の能力は非常に低い、または無い。残念な民族だ。秀逸なリーダーがいれば力を結集して優秀な結果を出せるとしても、そのリーダーを選ぶ能力が無いなら、やはり劣等民族となる。
能力の欠如している者が国会議員に当選し、さらには政務官に任命された。能力の欠如とは、人間の言葉は話せるが、程度がかなり低いという意味。知識どころか常識がほぼゼロで国会議員に立候補した事実、それだけでも能力の欠如というに充分。
タレントとしての知名度、親のジバン・カンバン・カバンを継承しただけの世襲に限らず、パソコンを使うこともできずにデジタル大臣を引き受けたり、司法試験合格とまでは要求しないが法を勉強したことがない司法大臣、経済を知らない財経大臣、まぁ、いくらでもいる。10/8/2025
国会では事前通告してある質問に対して官僚が書いた答弁書を読み上げるだけ、時にその答弁書の漢字を読めない、それが総理始め各大臣。
記者会見でさえ同様。質問を事前に提出させ、知識、意見を全く持たずに、報道で知った、記憶に無い、回答を差し控える、所管外、次の質問をどうぞ、とはぐらかす。
従って、元タレント議員が政務官に就任したところで不思議はない。日本でまともな国会議員は数パーセント。
投稿から関連情報を探してみると不思議、情けない、恥ずかしい、その他いろいろが発見される。
主権在民党議員若村誠一郎がSMクラブの料金を政務活動費で支払ったとのこと。趣味嗜好は自由、プライバシーは守られるべきだが、政務活動費で払うことは論外。政治に金がかかるというのは、こういう意味なのか。
しかし、政務活動費運用明細書に記載したのは偉い、かもしれない。
それを追及したのが二一世紀改造群代表の高崎弘之。
曰く、国家の中枢にいて国家の秘密を共有している国会議員がSMクラブで女王様から、秘密を吐け、喋ろ、とご命令されて国家秘密を保持できるのか、女王様に逆らえるのか、しなびた陰茎をハイヒールで踏まれ、染みで薄汚れた背中を鞭で叩かれ、尻の穴に溶けたキャンドルを垂らされても、女王様のオシッコを飲みたかったら秘密を言えと責められても、秘密を守れるのか。絶対的存在の女王様に逆らうことができるのか、国家を防衛できるのか、と、そのような視点で質問した。
なるほど、政務活動費の使途より、国家秘密に対する危機管理の方が重要。さすがに彼も国会議員、素人の一般的なツッコミとは訳が違う。
この質問はセキュリティアクセスパーミット法案に絡めての国会質疑でなされた。国会でSMクラブの質疑。日本の国会。
中国四千年の美女スパイが女王様に扮してSMクラブに潜入、秘密情報を聞き出そうとした時に守りきれるか、中学生でも分かるように答弁して欲しい、と。
なお、SMクラブの会員議員は七四歳、妻と三人の息子がいる。孫はいるのだろうか?おじいちゃん、SMクラブってなに?おじいちゃんは変態なの?おじちゃんはどう答えるのか、興味深い。
SMクラブで支払いを行ったのは若村の政務活動費管理団体の職員であり、若村自身は今までクラブに入店したことはない、と述べている。また店長も、政府系新聞の取材に対し、若村の顔に見覚えは無く、当日に誰が来店したかも記憶にない、との報道。
政治家はいつも都合の悪いことは記憶に無いが、彼は今回はしっかり記憶にある。店長も、若村の顔を知らないのだから来店していないとは明言できなかった。訊いて返ってきた答えを右から左へ垂れ流すのではなくて、調査しなければならないと思うが、記者諸君。
食料自給率を上げることを公約に当選した議員は、食料自給率の定義を知らない。それでも当選するのが、日本の議員、選挙制度であり、選挙民。
記者に政務官としての抱負を訊かれて、これから勉強します、の回答。当選一回の、当選後も政治に関して一切勉強していないことが確実な回答。
外交政務官であるから、在日米軍の撤兵、日米駐留軍特権協定の破棄などに対して、日本人は大いに期待するべき。過去の外交大臣で、外交を知っていた者がひとりでも居たか。アメリカにものが言えた外交大臣が居たか。より無知な政務官の方が期待できる、かも。
どうやら私は一部投稿者の皮肉的表現に影響を受けたようだ。
マスメディアに関連して―
『マスゴミは鉄道マニアの奇行をおもしろおかしく報道するくせに、鉄道事故があると警察の静止も聞かずに線路内に侵入する、自分達を特権階級、何をやっても許されると勘違いしている裸の王様。』
これまでの各投稿と報道を踏まえて、ご都合主義のマスメディアについて少々考察してみる。
ナポレオンは、余は十万挺の銃剣より三つの新聞を恐れる、と言ったそうだが、マスメディアにその力はある。その力を支える、その力の根拠になるのが市民。市民が愚かでは、マスメディアは無力。所詮は民度の問題。
しかし、強い者と徹底的に戦うマスメディアを見たら、市民はマスメディアの味方となりウィン・ウィンの関係を築けると思う。どこかに、強いものに挑戦するマスメディアは無いものだろうか。ネットを規制すべきと言っている既存メディでは、無理か。10/9/2025
昔、日本では大本営が情報を発表し、新聞やラジオ放送局という政府の宣伝機構が市民に情報を伝えた。情報には多くの嘘が、誤りではなく、意識的な故意の作為的な嘘が含まれていた。
情報とは本来事実、知識、データ、合図(信号)、知らせ・報らせなどを意味して、虚偽を含まないものであり、含むことが分かっているときは虚偽の情報、偽情報などという。しかし現実には、情報は多くの虚偽・捏造を含む。
現代、コンピュータとネットワークによって個人が情報を発信することができる。これにも同じように多くの嘘が含まれている。
何かの都合、意図により情報を隠すことと、ミスリードを狙うことも嘘の範疇に含めると、嘘は更に膨大なものとなる。
ところで嘘と虚について、嘘は事実でないことを事実のように故意に言い広めること、またその内容であり、虚は中身・実態の無いこと(虚構、虚勢、虚栄など)だという。日本語とは、ここまで拘る言語。
日本政府は、既存マスメディアに対して総理が食事を奢って手なずけたり、あるいは抗議という形で弾圧したりする。また個人の反政府的発信に対しては、組織に金を払って政府を擁護する、あるいは政府への反対意見者を攻撃する投稿を行わせている。共産圏ではもっと露骨に逮捕、処罰もあるだろうし、日本程度の事は多くの国でもあるものかもしれない。
しかし先進国では少なくとも、マスメディアが権力に食事を奢って貰う事は無い。市民の監視があるからだ。
また、新聞社とテレビ局が資本関係を持つことは禁止されている。意見の多様性を担保するためだ。新聞とテレビがお友達で、同じ政府寄りのことばかりを印刷、放送した、ら市民はそれを信じることになる。
報道の中立や公正は定義されているのか。どうあれば中立で、どうなれば公正では無いのか。定義に対して、報道は第三者により常時、そして時後も検証(事前検閲ではない)されているのか。それとも単に努力目標なのか。
努力目標で良し、とするならそれもあるだろうが、保守系、革新系、左派、右派、自由にやるという手もあるだろう。市民、読者、視聴者が何を選ぶかに任せるのだ。
全てのマスメディアが中立・公正を目指してほぼ同じ論調という危険と、自由で多種・多様な論調から市民が選択するという危険と、どちらが社会にとってより危険だろうか。どちらが社会的にとって利益があるだろうか。
一般に人間は自由が好きだから、自由の責任を負い、自由の果実を手にすれば良いだろう。その果実が甘くても渋くても、それは市民の選択の結果である。酸っぱい果実を一方的に強制的に与えられるのではなく、自らが選び取ることに意義がある。
理想的には、マスメディアは第四の権力という自覚と誇りを持って、政治権力は必ず腐敗する前提を忘れず、政府に弾圧されることをむしろ目指して、強者と闘うことだ。
しかしマスメディアも生活者であるから、自分から潰されてしまうまで強者と闘うことは不可能だ。だから市民が、正義や社会に有害な新聞を購読しない、テレビを視聴しないことで潰してやるしかない。
野球やバラエティで市民をつなぎ止められると思っているマスメディアを駆除する。しかしこれも、日本人には理想に過ぎる無理な相談か。
権力同士がウィン・ウィンの関係で連携し、その分市民が塗炭の苦しみにあえぎ、野党までもが自分の議席さえあればよくて政権奪取など希望しない状態、マスメディアも自分の仕事、即ち義務を理解していないという、市民は四面楚歌の状態、それが今の日本。
この状態を脱するまでに、はどれほどの時間が必要なのだろうか、日本人には。提供される情報に惑わされない理性、必要な情報を探す能力、情報の真贋を判別する知性、いずれも容易ではない。
では、もっと欲望に忠実になってはどうか。裏金に腹が立たないか、脱税に腹が立たないか、腹が立つなら腹いせをやれば良い。そのような議員、そのような政党には金輪際投票しないことだ。議員は落選し、政党は消滅する。
少なくても裏金議員の氏名と所属政党はマスメディアにさえ出ている。裏金政党が消滅するなり野党に堕ちて、別の政党が与党になれば少しはましになる事を期待できる。期待を裏切ったら、また替えるまで。
そのために必要な情報は、既存マスメディアは諦めてネットから得ることとする。マスメディアは報道ではなく政府広報に過ぎないから、政治権力に好都合を懸命に広報し、不都合を隠蔽する。そして故意に虚偽を拡散する。
個人の発信は、多くはマスメディアから得たものとしても、個人の考えで否定的に、あるいは肯定的に発信し、自身の論評を添えて発信し、マスメディアの嘘を暴いて発信し、過去の広報を掘り起こして現在との整合性を検証して発信し、権力に買われた個人はあからさまに権力に阿る発信をするので、真贋を選別する参考になる。
公正だの中立だのをアリバイとして利用するマスメディアは、何を伝えたいのか、主張したいのか、報道したいのか分からない、広報だ。
『自宅近くが事件現場となりマスコミが殺到、中継車を辺り構わず駐車、カメラを抱えた人たちが脚立を立てて道を塞ぎ通行に支障、撮影の邪魔になるから後ろを通れと命令、駐車場から車が出せずに困った、マスコミは何を勘違いしているのか、父が警察に通報した。』
これもマスメディアがマスゴミと蔑称されるひとつの根拠。『マスゴミ』という言葉は、中傷(根拠のないことを言い、他人の名誉を傷つけること)ではなく批判(良い所、悪い所をはっきり判定・評価すること)であり、非難(欠点やあやまちなどを責めとがめること)のための表現。
ネットに溢れる情報、そのどれほどが真実、事実であろうか。そして残りが虚偽、虚構、あるいは不明、不確定。
世界的パニック、Covid-19の真偽はどうか。ウィルスは存在したのか。ワクチンは有効だったのか。有害だったのか。ワクチンであったのか。
ワクチンを打てと言った、専門家と言われたひとは確かにいた。大勢と反対の意見で、目立つことで金を稼ごうとした専門家もいた。しかし、ウィルスの存否とワクチン効果の真偽は不明。
科学と良心によっても分からないなら、やむを得ない。しかし科学や良心が必ずしも表面に出るとも言い切れない。人類の限界である。欲望に依って真実が毀損され、陰謀によって事実が破壊される、人間のやりそうなことだ。
日本では、全責任を持つからワクチンを打てと言った大臣が一転、自分はただのワクチンの運び屋で責任は無い、と。これを許容する日本人の遺伝子。
日本語に『同調圧力』がある。各国言語にも類似の表現はあるが、日本では空気を読む、和を乱さない、という文化によって同調圧力が異常に強く働く。
外国ではマスクをしない自由、ワクチンを接種しない自由を主張する人々がいたが、日本ではネットへの書き込みで、マスクやワクチン接種を他人にまで強要する、飲食店やパチンコ店の休業を要求する人がいた。
しかし、病院やスーパーマーケットなどの休業を主張する人はいなかった。不思議な思考回路、電子回路ならショートサーキットまたは断線による機能不全である。
自分はサラリーマンでリモートワークをやりながら、ゴミは収集しろ、ネットショッピングは配達しろ、医師は診察をしろ、電気もガスも水道も止めるな、スーパーは営業しろ、しかし飲食店は廃業しても良い、パチンコ店は破綻しても良い、という考え方。
通り魔のような無差別な暴力よりも悪辣なのは、自分に必要なものと不要なものをしっかり区別した点だ。医師や看護師、スーパーの店員も感染の危険があるから閉めろというのなら、自分が罹患しても治療は不要だ、食料が尽きたら餓死する、という主張なら一貫性があって、逆説的には無差別であって見上げた根性と感心する。
世界標準から突出した同調圧力の強さは、日本人の特異性のひとつ。太平洋戦争時の兵隊も、同調圧力で特攻したのだろうか。
同調圧力を与えやすいひととして、集団の中で多数派に属しているひと(みんなこうしているから、普通はこうだ)、上下関係で優位にあるひと(上司、先輩、リーダー)、自分の価値観を強く信じているひと(それは間違っている、こうすべき、と他者を矯正しようとする)、集団の秩序を守ることを重視するひと(空気を乱さないようにと行動を制御)が挙げられる。
同調圧力を受けやすいひととして、少数派の意見を持っているひと(自分だけ違うと感じることで萎縮する)、他人に嫌われたくない、波風を立てたくないひと(協調性が高く、人間関係を壊したくない)、自分の意見に自信がないひと(周りが正しいのでは、と考えてしまう)、上下関係で弱い立場のひと(部下、新人など)が挙げられる。
同調圧力を与えるひとは、リーダーや国際社会では必要とされる素養を持っていると言えるかもしれない。
一方、同調圧力を受けやすいひとは、日本国内で生きづらい。自分が生きるために、快適になるために必要な考えを持てない、行動を起こせない、他人に要求できない、他人の理不尽な要求さえも無視できない、受け入れる、従うことになる。
このような個人が多い国は、国際社会では国家として生きづらい。国益を無視される。剥奪される。
同調圧力を受けやすいことは、日本人の悲しい、特殊な国民性。致命的欠陥。
同調圧力を受けやすいことによる利点は、無い。和、秩序などはある程度はあっても良いが、それが目的の社会は息苦しい。
日本人は、もっともっと自由に自分の権利や理想を個人に対しても社会に対しても、そして外国に対しても主張するべき。最低でも半分は呑ませるべき。武力によって全部を呑ませる、ならず者国家が闊歩するのが国際社会。
NO、いいえ、違う、ダメ、そうではないい、間違っている、受け入れられない、拒否、否定、不適切、不可能、不充分、辞退、否決、ネガティブ、と言えること。
親に、いじめる同級生に、教師に、生徒に、議員に、支援者に、権力に、市民に、夫に、子に、妻に、上司に、部下に、隣人に、他者に、外国人に、顧客に、株主に、ステークホルダーに。そして、その関係には、秩序が欠かせない。10/10/2025
外からも内からも差別されていることに気付かない日本人
SNSには際限なく投稿される。
不法滞在中のザクロス族が、強制送還とされると迫害を受ける、日本の入管法を改正しないでくれ、と言っている。不法滞在の時点で日本では犯罪者。それが、日本の法律にまで要求をする。これがイスラム原理主義というものか。
プロテスタント原理主義も同じように、自分の利益のためならルールを変えたり価値観を押し付けたりやりたい放題。要するにこのような事が、グローバリズムか。それとも、あちら側の宗教か。
だとしたら、日本人も彼らに習ってとにかく要求することだ。日本の貿易黒字が大きすぎるのはそちらのせいだから早急に改善しろ、いつまでにどこまでできるか目標値を出せ、達成できないときはどうするつもりだ、と。
だとしたら、日本人は在日米軍を占領軍と呼び、いたわり予算を敗戦国の賠償金と呼び改めるべきだ。いつまで占領するつもりか、敗戦国ではあっても国家の権利として予定を問いただすべきだ。
戦争は絶対悪であると同時に国家の外交手段として容認されており、犯罪ではないし、今更殖民地でもないだろうから完全に実質的に独立する、と宣言するべきだ。
だとしたら、連合国軍としてのUnited Nationsと国際連合としてのUnited Nationsが別組織なら、日本の敗戦で戦争は終結したにも拘わらず日本を敵国としておく限り、分担金の支払いを止めるべきだ。
だとしたら、中国や韓国からの理不尽な要求と非難に対して、最低でも同程度の要求と非難を返すべきだ。
韓国による竹島の不法占拠に対しては、取り戻すべきである。
中国の領海侵犯に対しては、同じように領海侵犯をしてやるべき。あるいは、国際法に従って侵犯艦船を拿捕、または攻撃するべき。
北朝鮮からは、拉致された日本人を取り戻すべきだ。もちろん将軍様を拉致して、日本人の拉致被害者と交換しても良い。
私、電子の移動と蓄積は何でも言える。現実を無視して理想を掲げられる。
国際問題は複雑、か。それは逃げ、だ。不法占拠や領海侵犯を相手国は簡単に実行している。
韓国へのフッ酸輸出を制限したら、半導体製造に相当のダメージを与えた。
中国と韓国の反日教育に対して、実効的な対策をちらつかせて適切な抗議をするべき。それが唯一の国際社会との付き合い方なのだ。
容認するだけ、忍従するだけ、は戴けない。今までどれだけ国益を損なってきたことか。
日本における外国人の犯罪が不起訴になっている、理由が明らかにされない、起訴・有罪となっても罪科が軽すぎる、再犯、という投稿が目立つ。
言葉の壁、通訳人の確保が困難で不起訴にする例がある、との既存メディアの報道がある。原因が分かっているなら、早急に改善するべきだ。
容疑内容が比較的軽いケースは、裁判をしなくても国外退去・強制送還すればよい。重いケースは裁判、判決、刑の執行、刑期満了してから退去強制。
通訳が不足でも、法の弾力的な運用もできるだろう。元総理を撃ち殺した飛弾野勲を逮捕したが、一年以上裁判せずに留置している例もある。
容疑者を見逃すことは、治安の悪化、秩序の崩壊、司法の不信となる。また、市民への裏切り。
明確に、日本人は在日米軍に差別されている。未だに敗戦国として扱われ、在日米軍という名の占領軍が君臨、統治している。
占領軍にいたわり予算、不思議な言葉だ。奴隷が、是非これで叩いてくれ、と主人に鞭を差し出している。
ウクライナへの支援も、白人からの強要だ。日本は地理的、経済的、歴史的にほとんど無関係にも拘わらず、多額の支援をさせられている。それによって、日本の政治家にキックバックや種々のメリットがあるのだろうが、日本人市民にとっては非常に迷惑なことだ。
一時期日本は、国民が愚かなほど勤勉であったことで経済力を得て、準白人の地位を得た。あくまで準である。正ではない。
世界のどの民族からも他民族に対する差別は無くせないのだから、いつまで経っても正になる事は無い。煽てて、金を出させる、それが現代の差別。
知ってか知らずか、日本政府は尾を振ってサミットのメンバーになり、何でも貢ぎ、捧げる。
差別は無くせない、少なくとも無くなっていない、差別されていることを自覚するべき。
ザクロス族が日本で種々問題を起こしているという。日本の裁判所が、不法滞在のザクロス族の帰国を求めるなどの日本人のデモがヘイトデモであり、それを一定の区域で禁止する仮処分を決定したとのこと。
不法滞在者の帰国を求めることがヘイト、差別とは底が抜けている判断。日本人には、遵法を求めるデモを禁止。
ならば裁判所は外国人に違法、不法を推奨するということか。日本人が日本人を差別している。民族の自殺。
ザクロス族に限らず、不法滞在の上の違法就労などの犯罪行為、法に限らず日本の文化や習慣、ルール・マナーの無視、自分達の宗教、習慣のごり押し、滞在国に順化、適応することなく、どこまでも要求する貪欲な民族性、これらは日本人には合わない。国が破壊される。
現実、移民を受け入れたヨーロッパ各国は破壊されつつあり、移民を制限する方向に政策が反転している。移民の低賃金労働による市民の雇用環境悪化、福祉システムへの大きな負担、宗教や文化の摩擦、テロや犯罪の増加、良いことはなにひとつ無く、市民は、差別やヘイトしないという誤った良い気分を味わうだけでは釣り合いが取れないことにやっと気付いた。
日本はそのような貴重な事実を無視して、今だけ、金だけ、自分だけの政府、議員、官僚が移民政策を進めている。
イスラム教徒が日本のレストランでカルボナーラを注文、イスラム教徒はカルボナーラに豚肉が入っていると激怒、作り直しを要求、レストランは豚肉を含まないカルボナーラもどきを提供、イスラム教徒再び激怒、豚肉を抜けば良いというものではなく、汚染された調理器具や食器を使っては意味が無いと。
顛末は不明だが、日本人の致命的欠陥がここに現れている。カルボナーラに豚肉が使われていることを知らないイスラム教徒にこそ、一〇〇パーセントの責任があることを追及しなかった。
レストランは注文を受けて提供した段階で契約を果たしたので、イスラム教徒はカルボナーラを食べても食べなくても、対価を払うという契約を果たさなければならない。さもなければ無銭飲食、食い逃げ、つまりは詐欺として警察に通報するべき。
料理を作り直すという対応を理解できる日本人はいくらかいると思うが、日本人以外では理解できない。日本人の考え方は世界で通用しない。
イスラムの戒律など、日本人には知ったことでは無い。日本人には、イスラム教徒と豚肉の関係に責任は不要、知識も不要。
立場を逆にしてみると、イスラムのレストランで豚肉料理とウィスキーをオーダーしたら提供されるのか?
一般に、中身を知らない料理を頼んで出てきたら、食べられるものなら食べる、どうしても食べられないなら食べない、量が多すぎたら残す。
ハンバーガーを注文して、出てきてからタマネギを抜いてくれと要求したら、断られる。自分でどかせと言われる。
それでも要求したら、金を払って出て行くか、警察呼ぶか選べ、と提案される。
日本人として、ある程度当然として、良かれと思ってやることが、世界では通用しない、逆に不利益になる。レストランは最初に、これこそがあなたの注文したものだ、と回答すべきだった。
この失敗で多くの日本人が学んで、次に生かすことができれば良いだのだが、そう簡単でもない。日本人は時として、全く学ばないことがある。細胞に埋め込まれた遺伝子のせいだ。
ハラル認証の給食を出す保育園があるという。ハラル認証とは、イスラムの戒律に則って製造、調理すること示す認証制度。しかしその認証は世界共通ではないので、揉めることもあるというお粗末。
ハラル認証給食はイスラム教徒にだけ出すものではなく、園児全員出すのだという。これは差別では無い、と日本人は考えるのか、不思議な民族。
多様性ではなく、宗教による社会の汚染、文化の侵略、そして国家の破壊。
教育基本法第十五条 宗教に関する寛容の態度、宗教に関する一般的な教養及び宗教の社会生活における地位は、教育上尊重されなければならない。
2 国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。
イスラム教徒にない園児にハラル認証給食をしてはならないし、イスラム教徒にだけハラル認証給食をしてはならない。
現実的に、クラスでひとりかふたりのためにハラル認証や別メニューを用意することは不可能。保護者が弁当を持たせるべき。日本人園児が食物アレルギーで給食を食べられないとき、保護者が弁当を持たせている。同じこと。
ところで、カルボナーラもハラル認証もEmissionへの投稿だが、本当にあったことなのか、ネタなのか。そこまでは私に確認の手段はない。電子の移動と蓄積に過ぎない私は、誰かに電話をしたり会いに行くことはできない。
宗教に無頓着は、日本人の良いところでもあるが、危険なところでもある。宗派が違うからと内戦をやる愚行、神前で結婚、葬式は仏式、クリスマスには子どもにプレゼントの乱行。
前者の愚行はひとの命を無駄にし、後者の乱行に実害は無い。しかし、教育基本法を犯したことと、園児にイスラム教を強要したことに気付かない。
ザクロス族解放戦線、ZLF (Zagrosh Liberation Front)というザクロス民族主義を掲げて自治や独立を目指す武装組織があり、トルコなど数カ国ではテロ組織と認定している。日本にいるザクロス族はZLFと無関係なのか。もしZLF組織員を難民と認定したら、日本はテロ支援国家となる。
イギリス、WE SHOULD HOUSE OUR HOMELESS FIRST、移民より先ずは自国のホームレスに家を与えよ、というデモがある。彼の国も移民に浸蝕されている。
イギリスの市民は日本の市民より選挙の利用法を知っており、外国人を優遇する議員を次の選挙で落とす、と推測できる。10/11/2025
自国市民より外国人への生活保護を優先している日本。合法的に滞在していて、しかも就労ビザ所持などの条件で生活支援を与える国はあるが、日本ほど緩いところは無い。
在日朝鮮、韓国人、中国人が通名を使い、犯罪容疑者となっても通名で報道するマスメディア。本名より通名の方が知られている、偏見のリスクを回避、が理由とされているが、本名と国籍、帰化前の国籍を併記することは、マスメディアが自分の都合によって人質として使用する『国民の知る権利』に叶う。しかし、やらない。
金を山田、李を田中という通名では日本人のよう思えるが、それがマスメディアの狙い。
日本人がアメリカ資本の会社に勤務するとき、媚びを売ってジョー近藤だの、フレッド永田だのと使用する例があるが、通名とは意味が違う。
ヤンキーに覚えやすい名前を付けるのが日本人。ジョーやフレッドと呼んでくれと言うこと、そうかとジョーやフレッドと呼ぶことに、無頓着な日本人とヤンキー。媚びと差別の臭いがする。
見た目で日本人と区別しにくいことを良いことに、名前でも区別が付かないようするのが在日朝鮮、韓国、中国人には卑屈で狡猾で臭いがする。10/12/2025
日本人のイエスは時にはノーである、と知っている外国人は相当の日本通である。本音と建て前は外国人には通用しない、と日本人は自覚すべき。
空気を読む、それも外国人には無理。難しい、と言えば、難しいが不可能では無い、可能である、と理解される。
国際化、グローバリズム、言葉はどうでも良いが、二一世紀にまさか鎖国というわけにも行かず外国と交際をするには、日本側も相手を知らねばならない。相手に日本を知らしめねばならない。
カルボナーラのクレームを受け付けること、ハラル認証給食を行うことは論外。最低でも相互主義で、相手から同量の譲歩、妥協を引き出すこと。
世界の常識としては、カルボナーラに対しては警察に通報、ハラル認証給食に対しては一日おきに認証の無い豚肉給食をイスラム教徒にも提供すること。
中国や韓国が発信する日本に関する嘘に対しては、嘘であると世界に知らしめること。既に国際社会では彼らは反日・嘘つき民族であることは知られているが、それでも主張は継続しなければならない。日本が世界に主張していることを、彼らに知らしめる必要がある。
黙っていては、彼らの嘘、主張、要求を受け入れたことになる。それが世界の常識。ここまでやるのがコミュニケーション。
彼らが納得しない、受け入れないとしても、こう言えばそう来るか、と分からせることが、相互理解であり、フェアであることになる。遺憾である、は無意味。
この国の政府は個性的である。即ち、その政府をつくった市民が破滅的である。
しかし、市民だけに責任を負わせるのは酷かもしれない。仕組みが間違っていることもあり、国民性もあり、教育制度もあり、いろいろある。
そうであっても、全て自己責任、とも言える。
間違った仕組みを作る輩を選んだのも、間違った仕組みを改善する輩を選ばなかったのも市民、民度・国民性を必要に応じて進化・変化させなかったのも市民、教育制度・内容を誤った方に変えた、正しい方に変えなかったのも市民、とも言える。
要するに自分の幸福に無頓着、どうしたら自分が幸福になれるか考えなかった、気付かなかった自己責任。
日本人の性質を学ぶにつれて、どうも私は、日本人に入れ込んでしまったようだ。そこそこ優秀なのだから、それに見合った幸福を手に入れることが出来るはずだと思う。
もちろん反対側の考え方の投稿も報道も多々あったが、私にはフィットしなかった。
さらに継続して、日本人を学ぶことにする。
遺伝子
遺伝子は、DNAの複製ミス、放射線、化学物質などの外部要因で変異して塩基配列が変化することがあり、これを突然変異という。
遺伝子にはもともと多様性があり、環境が大きく変化した場合、その環境に適応した遺伝子を持つ個体が多く生き残り、子孫を増やす。生き残った個体が持つ遺伝子が次世代に多く受け継がれることで、集団全体におけるその遺伝子の割合が増加する。
このとき遺伝子は書き換わるわけではないが、環境に対応して遺伝子が変化すると言える。
薬剤耐性遺伝子を持つ細菌は、抗生物質が存在する環境下では生存に有利なため、わずか数日から数週間でその遺伝子頻度が集団内で急増することがある。これは、世代交代が非常に速いため。
ウィルスの変異も同様に、宿主の免疫系や薬剤に適応するために、数時間、数日間、数週間で遺伝子頻度が変化する。
これは、ウィルスが宿主の細胞内で急速に増殖し、変異を繰り返すため。つまり、コピーが早いことと、突然変異が多いことのふたつが相乗する。
ところが人間の場合は、遺伝子頻度の変化に非常に長い時間がかかる。
人間の世代交代は、およそ二〇から三〇年と遅いため、環境の変化に対応して遺伝子頻度が有意に変化するには、数万年単位の時間を要する。
紫外線が強い地域に住む人々は、紫外線のダメージから身を守るためにメラニン色素が多い肌を持つ遺伝子が有利となり、その頻度が高まった。
一方、日照時間が少ない高緯度地域では、ビタミンDを効率よく生成するために、肌の色が薄い遺伝子が選択された。
この変化にも数万年の時間がかかっている。
そこで人間は、技術や文化の進化が遺伝子の変化よりもはるかに速いため、多くの環境変化には生物学的な適応、つまり遺伝子の変化を待つよりも、文化的・技術的な対応で適応している。
日本人の遺伝子が忖度から主張に変化するまで数万年も待たなくても、教育によって短時間で、一世代で変えることはできる。
折しも世界は、多様性を尊いと言い出している。和が全てでは無い。和は時に、悪とも罪となる。自分の意見を持つこと、自分だけの意見を持つことが重要であると教育する。
それはあなたの意見ですね、や、個人的にはこう思う、という日本語は消滅するべき。意見はどこまでも個人のものであり、他人に忖度すべきでは無い。AがBの意見を知るはずが無い、言えるはずがない。
アメリカから強制的に開国された後、明治政府は不平等条約の改正を勝ち取った。
しかし太平洋戦争敗戦後の歴代政府は、日米連絡調整委員会と日米駐留軍特権協定の廃止どころか改定にさえ、全く努力しないどころか感心さえ持ってこなかった。
遺伝子が、明治元年から令和七年までの一五八年で劣化するはずも無く、従って日本の文化、民度、理性、教育が劣化したことになる。
事大主義、忖度、迎合、追従、空気を読むなどの身に染みついた遺伝子の代わりに、勇気、主張、自主独立、個の尊重、教育などでもって、日本の文化、民度を変えて行くことはできる。さもなければ国際社会に対処、適応できず、国家として生存できなくなる。10/13/2025
日本民族の特性
追腹切りて公の三泉に随う。つまり、主君の後を追って殉死し、黄泉の国(死後の世界)でもお仕えする、という意味。
徳川家康は追腹を強く禁じたが、伊達政宗には一五人が追腹を切り、その一五人の家来がまた相当数腹を切り、主人が殉死できないからその身代わりの切腹者もいたという。
追腹、鎌倉時代から江戸時代のすさまじい風習。
世界には、ファラオや皇帝、王の死に際して、強制的に殉死させられ埋葬された例はあったが、自然発生的に自発的に殉死する例は、日本以外では見当たらない。
明治時代になってさえ、天皇に殉死した陸軍大将がいた。大将は妻を道ずれした。
これを、美しい、とした日本人の遺伝子、理性、社会、文化、習俗があった。これは名誉であり、道徳でさえあった。
総理大臣が、総監選には多数立候補してそれぞれいろいろなことを公約として言ったが、当選したからそれを全部実現するということではない、当選したから全部実現するということは我が党はやったことが無い、私が立候補した・しないは別として何度も総監選を経験したが、公約を全部実現するということは一度も存じない、と言い切った。
男らしい。政治家らしい。主権在民党らしい。嘘つきらしい。子どもの頃から、そのように親から教育されてきたのだろう。言っていることは分かりやすい。今回だけは嘘が混じっていない。
これを総理が国会で発言することは、愚かしい。滑稽。愚鈍。白痴。異常者。これを主権在民党国会議員に当選させたのは、市民の責任。
政府広報として総理府が出した新聞広告で『子どもの貧困・あなたにできる支援があります。支援の例:学習支援、子ども食堂、子どもの居場所つくり、支援方法は子どもの未来応援』
民間がボランティアと寄付で賄っている子ども食堂に、政府ではなく市民が支援しろとのこと。太平洋戦争時、兵器を作る金属が不足して一般家庭の鍋や釜を供出しろという政府の方が、ましに感じる。
兵器を作る金属がどこにも無いから協力してくれ、と、国家予算はあるが、外国にばら撒いてキックバックを得たり、必要性の低い事業で天下り先を作るために使用するので、国民は税金を払った後にさらに子ども食堂に寄付をしろ、は、全く誤っている。
子ども食堂の存在が失政の結果であることを認識していない。だから改善しようとしない、子ども食堂が存在することを承認して、必要な支援を市民に求めている。
税金はなにに使われている、税金はなぜ徴収される、税金をなぜ払っている、を市民は考えてみるべきだ。
これが政府の言うことか、市民に対して言うことか、市民は黙って聞いていて良いのか。
子どもの貧困、ではなく、親が貧困なのだ。国会で眠る議員の歳費は世界トップレベル。
余りに日本人は愚かだ。そのため、余りに日本の国会議員とキャリア官僚は愚かだ。
国会議員、テレビタレントとして有名になっただけの学校の勉強もできない、社会の一般常識も知らない人間を、その有名だからという理由で議席が取れるからと、スカウトされて当選した議員。
キャリア官僚、学校の勉強、受験のテクニックには長けているが、やはり社会常識を知らない国家公務員総合職試験合格者。
元タレント議員だから全員愚かというわけでも無いが、愚かがほとんど。タレント出身でなくても、世襲議員にもタレント出身に劣らず愚かがほとんど。
キャリア官僚から議員になった者は、愚かから愚かにスライドしたということ。
愚かの証明として、失言。失言とも呼べない、余りにお粗末な発言。きっと本人は指摘された後も失言とは理解できず、騒ぎになったからと形だけの謝罪をしたり、仕方なく撤回しただけ。
純粋な失言なら内容によっては実害がなく、取材能力のない記者においしい材料を提供しただけで済むが、純粋に愚かでは内政も外交もできない。結果として日本は先進国から脱落して貧困国に成り下がり、それでも先進国に煽てられて戦争している外国に援助させられている。
自国が、太平洋戦争における実質的占領国のままであるというのに。
貧困で、子どもがお腹いっぱい食べられないというのに。
愚かなキャリア官僚は、愚かな議員のおもりを買って出て国会での答弁書を書いてやる。それで議員に貸しを作って、税金である国家予算を使って、自分達の天下り先を作る。如何に税金を盗むかだけに腐心する愚か者だ。
どこの国でも権力の腐敗はある。しかし日本は度が過ぎている。まるで独裁国家だ。
事実、主権在民党の独裁が、途中四年の中断はあったが六六年ある。一九五五年以降の七〇年間のうち、六六年間を主権在民党が政権を保持した。即ち一党独裁。共産圏と同じだ。ソ連は六九年で終焉を迎えた。
一党独裁、権力の腐敗、愚かな国会議員、卑しいキャリア官僚を許容してきたのが日本人。愚か過ぎる一般市民。
その愚かさを許せないひとがいる。それが大人だと諦めている人もいる。諦めて、投票には行かず、怒りを忘れたふりをして、こんなものだとあざけり、やり過ごそうとしたが、更に悪化する現実を無視できなくなり、怒りを再燃させ、投票行動を再開し、他にも方策はないかと考え始めるひともいる。
日本人が自分達を優れた民族だと日本人に言いたいがために(その先には視聴率が取れる、再生数が上がる、に繋がるのだろうが)作られているテレビ番組や動画が多数ある。演劇である。ニュースでもなければドキュメンタリーでもない、一部を切り取った、あるいは台本から製作した演劇。
その逆の例もある。海外に比べ日本はこんなところが遅れている、劣っていると日本人に見せるために日本人が作ったもの。
自分で自分を慰めずにいられない、逆に自分で自分を貶めずにいられない民族。
日本民族の長所として挙げられるものに、勤勉、礼儀正しい、協調性・集団意識、責任感、清潔、技術力、職人魂、自然との調和、忍耐力、規律などがある。
短所として挙げられるものに、自己主張が無い、変化を嫌う、同調圧力が強い、上下関係が厳格、曖昧な意思表示、個性や多様性を排除、マニュアル依存、外国語習得やコミュニケーション能力欠如などがある。
長所と短所は表裏一体、過ぎた長所は短所になる。勤勉は大変結構だが、ブラック企業をのさばらせる。協調性は同調圧力を生む。柔軟性に欠け、自己主張が苦手、感情を抑え込む、個性や創造性を抑制、神経質、完璧主義、自己責任として抱え込む、自信が無い、とも言える。10/14/2025
日本国内において、日本民族同士でならそれで良かったのだろうから、そのような民族性が育まれ続いてきたのだろうが、国際社会では通用しない。国内においても、滞在、居住している外国人には通用しない。
通用しないだけではなく、大きな損失を招いている。日本の国家予算が外国人に大量に浪費されている。国力に見合った国際社会における責任なら許容できるが、政治家や官僚が外国のハニートラップにやられたりキックバックを得るためもあるから、日本人には悲惨なことだ。
観光の建前で入国して高額医療を受けて支払わずに帰国し、回収できない例がある。
観光ビザで入国して難民申請、認定されなかったにも拘わらず違法に滞在、違法に就労している外国人がいる。国益の観点から、日本人が嫌う汚れ仕事を安くやっているとして見逃しているのか、日本人の仕事を奪われていると判断するのか。
外国人の犯罪は明らかに見逃されている。警察、検察は見逃す理由を明らかにしない。手間がかかる、コストがかかる、通訳が不足という現実もあるだろうが、犯罪を見逃さず、一旦逮捕して強制送還しないのは何故か。そしてその後は、その地域にはビザ発給しなければ良い。そうしない、何か積極的な理由が、政府にはある。
それとも、与党議員の犯罪も見逃しているから整合性を取る、法の下の平等を実現するためか。
イスラムが土葬を認めろと要求している。少しも移民した国、移民を希望している国に溶けこもうとせず一方的に要求する、これが国際標準なのか。
政府・自治体は単純に、火葬が嫌なら帰国すれば良い、と言えないのは何故か。
豚肉を食べた人間には土葬を許可する、と交渉したらどうか、それが国際標準だ。
一方的に与えること無く、一方的に奪うこと無く、譲れるところは譲るが、代わりに得るものは得るのが交渉。それが共生。
日本民族の最大の欠点は、強い者は弱い者をとことん虐げ、弱い者は強い者にとことん従うことだ。個人としても、国家としても。
弱きを助け強きをくじく、という言葉はあるが、実態はその正反対。正反対であるからこそ、ささやかな、実現し得ない望みとして言葉だけがあるのか。それなら、長いものには巻かれろ、だけで充分ではないか。
弱い者を助けることに疑問は無いが、強い者をくじくとは、強い者は横暴になりやすい、利益を独占しやすい、だがやり過ぎは良くない、というのが日本人の正義感ではないのか。それとも、単なる願いに過ぎないのか。
日本人も、強い者は危険だと知ってはいた、と信じたい。
どこの国、民族でもあったが、日本では一六〇〇年代前半から士農工商の身分制度があった。農工商は士に従う一方であった。さらにその上に公家と天皇があって、その下にえた・非人があった。
制度は明治まで延々と続いた。
フランスでは食糧危機、重税、聖職者と貴族の特権階級の優遇に対して市民の不満が爆発して暴力革命となり、王をギロチンで駆除した。市民が革命を主導して、制度を改変した。
イギリスでは商業の発展によりブルジョワジーが力を持ち始め、貴族と教会は領地と法的権限を持ち、議会を王に承認させ、王の権威が弱体化し、議会が主導権を持ち、王を処刑した清教徒革命と王を追放した無血革命を合わせたイギリス革命に繋がった。
日本では武士が実権を握っても、天皇を処刑や廃止しなかった。天皇は神話から始まる絶対権威であり、武士は絶対者の任命や承認を得て権力を預かっていただけ、という説明がある。
平家も源氏も以降も、天皇の任命、承認という正当性が必要で、武家は天皇を飼ってきた。
欧米では力が正当性の根拠となり、日本では力は正統性の根拠とならなかった。
神話の天皇から平清盛まで一四〇〇年間天皇は続いてきて、別の血統に変わることの無い絶対的存在だった。
平清盛から武士が政治に関わるが、徳川幕府崩壊までの約七〇〇年もの間、各幕府の正当性として天皇の権威が必要だった。
南朝、北朝とふたりの天皇が同時存在することもあったが、同じ血統。面白いのは、ふたりがその正当性を争ったということ。
武士は延々とその統一された天皇を利用して、正当性を手に入れてきた。
正当性とはなにか。平家や源氏に他の武家、豪族、民衆が従う、認めるための理由、根拠。力だけでは従わせることが難しく、絶対権威者の天皇の任命、承認があれば、それならば仕方ない、と他の武家、民衆があきらめて従った。
社員が課長に、課長が部長に従うのは、役職という正当性。この場合、役職に試験があればさらに正当性が増す。ただ社歴が長いだけでは正当性はほぼ無い。10/16/2025
天皇は神話や伝統による最高権威。現在、神話はさすがに日本人にも作り話、虚偽と認識されているが、伝統は未だに重要視されている。
伝統、それは世代を超えて受け継がれてきた習慣、制度、価値観。古いだけではなく、当たり前、正しい、安定、と認識される。同時に、現状を疑わない、新しい事、変化に対する思考拒否、の側面もある。
アイデンティティや文化の継承に寄与する、価値観やルールの共有で混乱を防ぐ一方で、新しいアイデアや変革に対する抵抗になり、社会の硬直化や閉塞感を招く。
日本民族は伝統のメリットを過大評価し、デメリットを過小評価する傾向が強い。この傾向は現在でもまだ続いている日本民族最大の欠陥。
なんでもかんでも骨董品ではないのだから、古ければ良いというわけでもあるまいに。日本語でも、畳と女房は新しい方が良い、という言葉もある。最初から否定的結論を出さないで、新しいものも試してみる価値はある。女房と畳は交換することになるが、その他いろいろな価値観、ルール、道徳、マナーなどは一気に全部を新しくせずに、部分的に変更してみることも可能。
出る杭を打つのではなく放置しておけば、飛び出ているので目印になる。長いものに巻かれてばかりでは、息苦しくて生きづらくなる。和を以て貴しと為す、が絶対に通用しないのが国際社会。主張しない者は存在しない者、と見なされる。
日本の美徳が、国際社会では悪徳であったり、理解不能であったり、不誠実であったり、侮蔑の対象であったりする。
電車やバスに乗るときやファストフードの注文などで、列を作って順番を待つことは日本人にはルールやマナー以前の社会的常識である。
ところが、日本では当然とされるルール・マナー・常識の無い国もある。連綿と数千年の歴史で無かったのだ。そのような過去、そのような生き方を、遺伝子として先祖から引き継いできた。だから、互いにわかり合える日は来ない。
自然災害の被災者がコンビニを打ち壊して食料を盗むこと無く、救援物資の到着をおとなしく待ち、ここでも列を作って配布を貰う。日本において日本人だけでは通用するだろうが、外国人が混入したらこのような秩序は一気にくずれる。
飢えや渇きを充たすには、奪ってでも盗んででもだましてでも実現する。それが国際社会のルール・マナーであり常識でさえある。
秩序正しい日本人を褒めるのは、支配者。支配者にとっては非常にコントロールしやすい、愚かなほど自らを制御することを喜びと感じる民族性。秩序あると褒められて喜ぶ、肉屋に並ぶ豚。
太平洋戦争直後の食糧難の時代に、公式な配給以外の違法な闇米は食わないと餓死した判事がいたという都市伝説がある。あるいは実話かもしれない。七千万人にひとりでもそのような人間がいたなら、それは狂人。また、それを美談と語り伝えること、伝わることも異常社会ゆえ。
日本人が美しいと信じて実践してきたことは、国際社会においては自殺するようなもの。今更鎖国は現実的に不可能となれば、明治の日本人が変わったように、現代の日本人も変わっていかなければならない。
A国と付き合うにはそれなりに対応し、B国と付き合うには相応に対応しなければならない。良い顔をしたがったり言うことを聞いてばかりいるのは、舐められて、侮蔑されて、嘲笑されて、国益を損なうばかり。
アメリカ大統領から、お前に似合う首輪を掛けてやるぞ、と言われて、ワンと吠えながら尾を千切れるほど振って喜ぶ総理。見ていられない。見ている方が恥ずかしい。これが我が国の代表とは認められない、いっそ外国人になりたいと思う日本人もいるだろう。
沈黙は金ではなく、石塊。主張しないことは自らの存在を否定すること、他者のどのような理不尽な要求でも全てを受け入れること、死んでいるも同然なこと。
議論の場では、大声での雄弁こそが国際社会で最低限必要なマナー、ルール、そして常識。沈黙ではコミュニケーションが成立せず、不気味に思われ、無視され、そして忌避され、浸蝕される。10/17/2025
日本人が黙って我慢して不満を溜め込む一方では、相手の外国人を教育することができない。お前のやる事、言う事はこの国ではダ受け入れられないと教えてやること、嫌なら自国に帰れと諭してやることが、優しさであり、差別しないことであり、国際社会で要求されるマナーである。
畳の部屋に知らずに土足で上がった外国人に対して、靴を脱げと教えることを『排外主義・ヘイト』だとして非難するひとがいるが、彼らには常識に優先する教義・経典があるようだ。そのような日本人は、良識ある日本人とは共生できない。
言いたくないことでも、自分さえ我慢すれば丸く収まると思うことでも、苦痛でも、外国人が入ってきたらややるべきことをやる。さもなければ、社会が、生活が、国家が侵略される。
日本に居住する外国人を、ある程度日本人化しなければならない。外国人は日本語を話さなければならない。
観光ではなく、居住する国の言語も習慣も分からず、摩擦無しに生活出来るはずが無い。現地語分かりません、と言ったところで、犯罪を容赦してくれる警察官がどこの国にいる。
スピード違反でパトカーに停められて、後ろに停まったパトカーから警察官が来る前に、気を利かせてダッシュボードやジャケットの内ポケットから免許証を出そうとすると、銃を取り出すつもりかと誤解されて警察官に撃ち殺されるかもしれない国がある。知らなかったでは済まない。死ぬかもしれないのだ。その国ではそれは警察官が自分を守る正当な権利であり、正当な職務執行なのだ。
夜遊びしてこっそり帰宅した子どもが、強盗と間違われて親に射殺される、高校生がお祭りで仮面を被って他人の家を訪問して家主に射殺される、それらが事故として処理される国がある。
世界にはいろいろな文化、法律、習俗、そして宗教を持つ国があり、それらに従って生活している人間がいる。日本人だけが地球で正当なわけではない。
日本人はよその国へ行ったらその国に従わなければならないのと同様に、日本に来た外国人は日本に従わなければならない。従わせなければならない。嫌なら帰れば良い。帰せば良い。
それができなくては、国際社会とは付き合えない、付き合う資格がない。
日本の不幸な歴史、天皇が権威を延々と持ち続けて、平清盛が実権を握って以来、鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府と政権が変わろうとも天皇は存在し続けて、その部分の変化は無かった。
明治維新は、外国の干渉がきっかけとなって下級武士が主導した体制転換であって、民衆が民主主義を求める革命ではなかった。
太平洋戦争の敗戦により、占領軍によって民主主義の種は蒔かれたが、これも国民の渇望と血と汗と議論によるものではなかった。むしろ天皇陛下萬歳に慣れきった国民には戸惑いが大きく、変化を望まない、和を重視する国民性から、対立と議論を基本とする民主主義の種はとうとう発芽しなかった。
・・・東京大空襲、特攻、沖縄戦、原爆二発・・・徹底的にやられてから、どうにもならなくなってから、選択肢が無くなってから降伏を受け入れる、戦争継続方針を変える。しかしその時も市民が立ち上がったのでは無かった。お上の決定だった。日本人の持つ最悪の遺伝子。
優性遺伝という言葉があった。それはあたかも、優れた性質の遺伝のように思われる。
例として、両親から青い目の遺伝子と黒い目の遺伝子を受け継いだ子は、黒い目となる、両親から黒い目の遺伝子をふたつ受け継いだ子は、黒い目となる、両親から青い目の遺伝子をふたつ受け継いだときだけ、子は青い目となる、ものとする。つまり、青と黒で黒、黒と黒でも黒、青と青のときだけ青、という現象があると仮定する。
黒が発現する組み合わせはふたつ、青が発現する組み合わせはひとつ。この場合、発現しやすい黒を優性、発現しにくい青を劣性と呼んだ。
しかし、黒い目が機能・性能として優れているわけでは無く、青い目が劣っているわけでも無い。ただ単にふたつの遺伝子のいずれが発現しやすいか、ということ。
そこで優性は顕性、劣性は潜性と呼び変えられた。顕れやすい、潜りやすい。これで誤解しにくくなった。
和と自己責任と安定を最上のゴールとする遺伝子。限定された環境では理想的かも知れないが、限定の外においては、劣悪性が優性する日本民族の遺伝子。
かつて優生保護法があった。優生思想・優生政策上の見地から不良な子孫の出生を防止することと、母体保護というふたつの目的を有し、強制不妊手術(優生手術)、人工妊娠中絶の合法化、受胎調節、優生結婚相談などを定めたもの。
優生であって、優性ではない。遺伝に関する古い呼び方の優性は、遺伝学上の顕れ(現れ)やすさであり、法律の優生は社会思想上の人間を価値づける差別的な考え方である。10/18/2025
七世紀の『和を以て貴しと為す』が二一世紀においても存在する。文学的には、遺伝子に組み込まれた日本民族の特性、と表現しても良い。科学的には、環境、学習、経験で受け継がれてきた思想に過ぎないが。
遺伝子に組み込まれたものであれば、その変化には数万年単位の時間が必要だが、学習などによって文化を変革して対応するには数十年、あるいは数年で、それとも数百年かかるのか、いずれにしても遺伝子の変化より遙かに短時間で可能である。
ここに、人間としてのチャンスがある。人間は言葉によって、学習によって、教育によって変わることができる。生存するために、環境の変化に対応することができる。
皇室は伝承ベースでは神武天皇から二六八五年、実証ベースで継体天皇から一五一八年も続いてきた。デンマーク王室は一〇八九年、イギリス王室は一一五四年、ノルウェー王室は一一五三年、モロッコ王室は三五九年。その希少性を惜しむ考えもあるだろうが、これからも延々と国民の人質のような一族、非人間的、非人道的と捉えることもできる。
戦後は経済復興に重点を置いた側面もあるが、日本人の遺伝子が対話、参加、抗議などを嫌い、現在でも自由をわがままと理解していることが致命的。日本に民主主義は形式・制度として存在するが、文化として昇華されていない。
民主主義を理解していない日本人、和を異常に尊重する民族性では、他の民主主義国家とも共産主義国家とも対等な付き合いができない。鎖国している間はそれで良かったが、日本人は急激に変化する必要がある。
日本人は、生存のために環境に対応して変わろうとせずに、環境の変化までも自己責任として心に封じ込めて、最後には自殺する遺伝子を持っているようだ。
日本人は、敗戦国であるからと八〇年も戦勝国に奴隷のように従うべきではなかった。過ちを正すに憚ることなかれ、今日にでも占領国と対話、主張を始めるべき。我が国は殖民地ではなく、敗戦国であるから独立国であり、その点において貴国とも他の二〇〇カ国弱とも対等である、と。あなたが私に付けた首輪は外す、と。
そのためには市民ひとりひとりが、個人は他の個人と対等であると認識すること。
教師は、生徒に勉強を教える職務があって、生徒の髪の長さや靴下の色を決める権限は無い。生徒には、教師を必要に応じて告発する権利がある。教師には、いじめという陰湿な犯罪実行者を通学停止・退学にする権利と義務がある。
議員や官僚は公務員であり、全体の奉仕者であって、市民と対等の個人として敬意を払われるが、特権を持つ『先生』ではない。
市民は、社会に取って有害な議員を選挙で落選させる、議員を使用して有害な官僚を省庁から排除する権利と能力があることを認識し、必要な時は躊躇うことなくそれらを行使すること。
ちょうど八〇年前、欧米列強に近代的な全面戦争を仕掛けた日本。日本が侵略されたから、殖民地にされそうだったからではなく、日本の中国侵略に対して欧米から経済制裁を受けたため、仕掛けた戦争。
欧米は、その昔から世界を植民地化しておきながら、日本がそれを見習うと遺憾とした、ダブルスタンダードを持つ狡猾で陰険な民族。
根底にあったのは人種差別。優秀な白人は劣っている有色人種に文明を与える、白人だけが殖民地を持つ権利がある、という思想。キリスト教ものイスラム教と同等か、それ以上に悪逆非道。
その戦争は、有色人種でも白人と戦えると世界に気付かせ、アジア、アフリカの多くの殖民地独立のきっかけとなった。侵略と解放の二面性を持つ戦争。
日本は、その戦争から現在までを振り返り、考え直してみると良い。
戦勝国は事後法で戦争裁判を行い、日本の戦争責任を追及した茶番があった。
A級戦犯、罪の種類は平和に対する罪、その具体的内容は戦争を計画・準備・開始・遂行した責任(侵略戦争の責任)、主な対象者は国家指導者・政府高官・軍上層部。
B級戦犯、種類は通例の戦争犯罪、捕虜虐待、非戦闘員殺害、無差別爆撃など、戦時国際法違反(ハーグ条約等)、対象者は中堅軍人、現地の指揮官など。
C級戦犯、人道に対する罪、民間人に対する迫害・虐殺・奴隷化など、組織的・非人道的行為、現場責任者、軍・官僚などの中堅及び下位層。
A級は、戦争自体は国際法違反では無く、戦争に関する国際法があることがその証左、ルールに従う限り合法的な国益追求の手段であるから、存在しない罪。未だにアメリカは、国連を無視して一方的に他国を攻撃している。
B級とC級については、アメリカの焼夷弾と原子爆弾による民間人ホローコーストの罪をどこに仕舞って隠したのか。10/19/2025
つまるところ正義とは力、腕力、暴力、軍事力の言い換えであり、そこには理性や良心、道徳といったものは破片も見当たらない。少しも入るこむ隙間が無い。
一旦、茶番の裁判もどきで有罪とされた容疑者の名誉を回復する。事後法を適用しないこと。戦勝国ではなく自国で裁く事。当時存在した国際法で戦勝国の政府、軍上層部、前線指揮官なども裁く事。もちろん合衆国大統領も天皇も例外ではなく、容疑者となる。
侵略されたアジア各国の被害者同様に日本人市民も、天皇、軍部、政府の被害者の側面がある。同時に、侵略国家の構成員でもある。
今の天皇にも先代にも戦争責任は無いが、天皇制度の是非、必要性を議論するくらいの勇気と理性と民主制が日本に欲しいところだ。
それができたとき、主権在民党を駆除することができる。
在日アメリカ軍を日本列島から駆逐することができる。一旦駆逐した米軍を、両国の利益のために合意があれば、日本の管理下で米軍を日本に置くことが可能となる。
中国や韓国との関係を、いつまでも負け犬の遠吠えを許さない、対等で規律と秩序のあるものに修正できる。
多様性は、生存のために必要とされる。しかし日本人の性質・遺伝子は多様性のひとつとして必要か?生存に有利な効果があるか?
他者、強者、上官に盲従する性質は太平洋戦争では特攻をやるほど活躍したが、結果的にはこの多様性は無意味だった。特攻兵士の死が無意味という意味では無く、遺伝子の多様性のひとつとしての盲従性質には効果が無かった、ということ。
戦争には結果として負けたので、特攻戦術は無意味であり、軍上層部には特攻隊員数千人を死なせた責任がある。
群れの強者に盲従する性質は、ボスを生かすために弱者だけが捕食者に喰われるという、ボスの生存にだけ有利な多様性のひとつに過ぎない。大多数の弱者にとっては、生存に不利な性質、遺伝子。
ボスだけが生き残っても多数の弱者が死んでは、結局のところ種を保存できない。
学校で、いじめる子といじめられる子がいる。いじめという言葉によるごまかしはここでは触れずに、いじめられる子が登校しなくなったり自殺までする結果がある。
すると、いじめる子の方が生存に有利、いじめる性質が優性であるべき、とも言える。
しかしそれは、動物の世界、理性の無い、本能だけの、喰って生きるだけの動物としての遺伝子。
一五四三年種子島に漂着したポルトガル人から数挺の火縄銃を入手して、およそ三〇年後に日本はヨーロッパ全体(一五から二〇万挺)よりも多い、世界最大(三〇万挺以上)の鉄砲保有国になった。
チョンマゲと刀の徳川幕府が終焉、明治元年からわずか七二年後には、当時世界最高水準の格闘性能と航続距離を持つ艦上戦闘機零戦が海軍に正式採用された。
ノーベル賞受賞者数は世界で六位。
日本人にはこのような実績もある。つまり、このような人間の理性、科学・技術の遺伝子も備えている。
遺伝子と本能
遺伝子は、生物の体を作る設計図、DNAに記録された情報。
親から子へ受け継がれ、体の形、色、病気へのなりやすさなどあらゆる生物学的特徴を決定する。例えば鳥が空を飛ぶための羽の構造や、その羽を動かす筋肉の設計情報。
本能は、遺伝子に組み込まれた情報によって発現する、生まれつき備わっている行動の傾向、パターン。
外部からの学習や経験が無くても、特定の刺激に対して自動的に引き起こされる行動。例えば遺伝子によって設計され神経回路を使って、雛が初めて巣から飛び立つという行動。
遺伝子はハードウェア(体の設計図)であり、本能はそのハードウェアに最初からインストールされているソフトウェア(行動プログラム)。
本能は、生存や種の保存という生物学的な目的のために遺伝子が作り上げた行動のメカニズム。
人類が狩猟と採集で食物を得ていた時間は二四九万年、その後農業と牧畜で食物を作っている時間は一万年。つまり人類二五〇万年の歴史で最近の一万年だけ、わずか〇・四パーセントを除いて狩猟と採集が生きる手段だった。
カロリー比率では狩猟が二〇から四〇パーセント、採集が六〇から八〇パーセント。
狩猟は、獲物を得る機会が不安定であり、リスクがあり、労力がかかる。つまり、狩りの道具を製作する、獲物を探す、追跡する、狩る、運搬、解体処理という労力がかかる。
いくら探しても、獲物がいなければ狩れない。獲物が獲れなければ、無駄な体力消費に終わる。
長距離、長時間獲物を探し、運良く仕留めても持ち帰らなければならない。
獲物を探したり追ったりして、崖や沼地など危険な地形に入り込む。
獲物に逆襲される、人間が仕留めた獲物を横取りしようとする肉食獣に襲われる。
傷を負った場合は、抗生物質が無いから命取りになる事もある。
人獣共通の感染症、寄生虫、食中毒のリスク。
天候の悪化で遭難のリスク。
それでも人類は採集や育児にかける時間を除いて、女性も狩猟に参加してきた。採集食物では得られないタンパク質や脂肪という高栄養を得るために、狩猟の成功という称賛や信頼、地位を得るために、干し肉や燻製として保存食を得るために、また儀式・祭礼として食糧調達以外の文化的目的のために。
根菜、ナッツ類、穀類、果実の他に、海や川に近い地域では貝類も採集された。貝類は、季節変動はあるが狩猟より安定的に得られる、猟より簡単な道具、素手でもできる、高タンパクでありミネラルも含まれる、解体処理が不要で調理が簡単。
それでも人類は採集に加えて、数々のリスクを引き受けて狩猟を行ってきた。
狩猟には、食料以外の社会的意味があった。10/20/2025
そしてつい最近、農業と牧畜を始めた。人類の歴史の〇・四パーセント、ほんの一瞬に過ぎない。
人間は狩猟動物、肉食獣だ。狩猟本能を無くしていない、退化させていない、眠らせてもいない。それは遺伝子に刻み込まれて、今も活発に動作している。集中力と探究心、危険察知能力、チームワークは遺伝子の一例。
これら遺伝子は形を変えて、スポーツやゲームで敵を追い詰める、仕事で目標達成のために集中する行為として現れる。
スポーツの裏側、または根源には人間のいくつかの本能がある。
先ずは闘争本能。自身や自身の所属する集団の利益、安全を守るために他者と戦う本能。
トロフィー(戦利品)、つまりはメダルやベルトを利益の代替として、それらを得るために死力を尽くアスリートがいる。
競争本能。他者より優位に立ちたいという本能。それにより生存や配偶の機会が増える。得点、記録、勝敗が生存や配偶の代替品。
模倣、学習本能。他者の行動を観察し、再現、学習する能力。集団生活に不可欠。優れた競技者のフォームを真似る、技術を習得する行為。
遊びの本能。非生産的で目的の無い活動を楽しむ本能。社会性や創造性を育む。スポーツは遊びの延長であり、ルールや安全がある仮想の戦い。
社会的欲求、所属欲求。チームプレイでは、集団に属して仲間と協力したいという欲求、共同体意識を満たす。
儀式、祭祀本能。人類は日常生活では行われない、特別な動作や身体表現を通じて仲間との一体感、神聖さ、生死の意味を共有するという文化的行動を持つ。例えば舞踊。
またスポーツも競技場という特定の場所で、ユニフォームという特別な装いで、開会式、入場行進などのセレモニーを行い、国旗、国歌など団体の象徴を前面に示し、ルールという儀式と作法に則り、表彰という神への捧げ物、勝者への顕彰。
観衆の参加。集団行動、共同体への参加、祝祭。
これらの中で競技者に最も大きく作用しているのは、闘争と競争だ。先天的身体能力は運であるが、人生の多くを犠牲にしてまで常人には実行不可能なトレーニングを継続する精神力は、自身を守るという闘争本能、優位に立つという競争本能。
闘争と競争は、本能という先天的な行動様式に他ならない。
本能に少しルールを混ぜたものがスポーツ。闘争本能と競争本能のごまかしがスポーツ。
人間は社会的動物で文化を持っているから、他の要素、遊び、社会的欲求、儀式、観衆の参加も無視できず、本能より他の要素を優先する競技者もいるが、スポーツは闘争本能と競争本能の発揮。
人間の闘争や競争という本能的衝動を、社会的・文化的に昇華し、自身と他者・身体と精神を接続する行為、あるいは本能と文化、暴力と美、孤独と連帯が衝突しながら人間の可能性を問う舞台、とも表現できる。
オリンピックを見ても、日本人はスポーツに優れている。ということは、闘争本能と競争本能に優れていると言える。
人間の持つ暴力性は、本能と遺伝の両方に関わる複雑な性質。
暴力性や攻撃性に関わる遺伝子は、いくつか研究されている。例えば、モノアミン酸化酵素A(MAO-A)という遺伝子は神経伝達物質の代謝に関わっており、この遺伝子の特定の型が、反社会的行動や暴力性と関連している可能性が指摘されている。
しかし、この遺伝子を持っていれば必ず暴力的になるという単純なものではない。遺伝子はあくまで傾向や素因を与えるに過ぎない。
暴力性は、生物学的な意味での本能、つまり生存や種の保存のために生まれつき備わっている行動パターンのひとつと見なされる。
縄張り争い、 生物が生存するために、食料や生殖相手を巡って争う行動。
外敵からの防衛、自身や家族、群れを守るための攻撃行動。
人間もまた、これらの本能的な衝動を根源に持っていると考えられる。
暴力性は、遺伝子によってその素因がプログラムされ、外部の環境や経験(育った家庭環境、社会的な状況など)がそれに影響を与えることで、本能的な衝動として発現するかどうかが決まる。
つまり、遺伝子は暴力性という行動の設計図の一部であり、本能は遺伝子に基づいた行動の発現そのものと言える。人間の暴力性は、遺伝子と環境が相互作用して形成される非常に複雑な特性で、遺伝子に組み込まれている限り人間はそれを否定できず、逃れることもできない。
だから、戦争は無くならない、人種差別は無くならない。人の欲望は無くならない。
この国に法はあるが、執行者は不在と言える状況。正確には弱者に対する法の執行者はいるが、強者即ち権力者に対する法の執行者はいない。
この状況を容認できない、断念できない、放棄できないとするひとはなにがしかいて、対策を考えるひとの中には、考えた対策を自ら実行するひとも出る。
不条理、不合理、矛盾、理不尽、不正義、不当、犯罪、不正、不公正、邪悪、絶望、落胆、悲観、喪失などを排除したい、できる限り低減したい。そのためには発端である権力を是正しなければならない。権力の歪みを権力に気付かせなければならない。
ここで言う権力は、権力それ自体と権力を構成し容認している市民を指す。つまり権力を持つ者たちと彼らに権力を持たせる者たちの両方に、歪みを気付かせることが必要。
方法は各種あるが、インパクト、スピード、コストもそれぞれ。個人が賛同者を増やすためにネットに投稿、既存メディアに投稿、投票、議員に立候補、署名運動、陳情、デモンストレーション、暴力などがある。10/21/2025
暴力が絶対悪というなら、同時に権力も絶対悪となる。権力が必要悪なら、暴力も必要悪となる。
フランス革命はフランス人にとっては誇りであり、世界的にも民主主義の源流、人権宣言、身分制度の廃止として高く評価されている。
絶対王政下において民主主義を実現するに、どのような非暴力的手段があったか?ひとつでもあったか?暴力以外の手段があったか?
ルーマニアにおいて銃殺されたコマネスク大統領夫妻に対してはどうか?
暴力を絶対悪と言い切ることは、同調圧力に屈していること。耳あたりが良い、間違いがない、それだけのことで、実は思考停止状態。
フランス革命という暴力で、ギロチンで、自由、平等、人権、民主主義、特権階級の廃止などの理念が登場した。未だ完全に実現したとは言えないが、それは新たに発生した民主主義による権力が原因。
よって権力は一日二四時間・週に七日間監視、是正し続けなければならない。
権力を是正する手段として、暴力は必要悪。
実質的な自由選挙が無い国では、如何にして社会を改革できるか。
日本には選挙制度があるから投票によって、あるいは自ら立候補することによって、別の手段としてはネットを利用したりデモに参加したりして、改革にトライすることができる。従って暴力を使用してはならない。使用されるべきではない。
暴力から逃れる方法はあるか。暴力に近づかないという消極的な方法はあるが、逃れられない、身に降りかかる突然の暴力も存在する。そのような暴力は一旦受け止めざるを得ない。
そのあとに適切に警察など司法が機能して、暴力者を制圧し、確保し、刑罰を科し、民事で損害を賠償させる流れがある。
もうひとつ、降りかかる暴力を回避するために、正当な範囲で防衛する事ができる。ナイフを持って向かってくる暴力者に対し、手近にあった棒きれを振り回してナイフをたたき落とし、そのとき暴力者に打撲を与えても、相当と司法判断されるかもしれない。骨折させたら、不当、過剰と判断されるかもしれない。
とにかく、暴力に対抗する暴力が許される法的理念もある。暴力に対抗する最小限の暴力は許容され、権利として使用できる。
暴力が絶対悪という思考停止には、用心しなければならない。それは暴力者の保険なのだ。暴力者が暴力を否定しているのだ。
司法が権力者の巨大な暴力をあからさまに容認している中で、市民のささやかな、例えば自動車の一時停止位置が三〇センチずれたことを警察が追及する社会を、どのように是正するのか。
法はあるが司法が無い。正義が無い。それでも、選挙などで対処するべきだ。しかし、暴力をもって対処しようと考える人間が現れることは避けられない。
選挙応援演説中の元総理飛弾野勲を撃ち殺したとされる神蔵雅紀には政治的動機は無く、犯行は私怨を晴らすためとされている。彼は、この平和な国でこの平和な民族の中では、異常者に分類されるかもしれない。
しかし、権力と癒着するカルト集団に家庭を破壊された男には、暴力以外に対抗する手段が無かった。
権力がさらなる権力を得るために宗教を騙るカルト集団と結託、カルト集団を擁護していたから、司法がカルト集団に手を付けることがなかった。家庭の崩壊を防げなかった。家庭の崩壊に対して、カルト集団に刑罰を与えなかった。
彼は自分で、自分だけの力対抗するしかなかった。そのためには、カルトの広告塔をやっていた元総理を撃つしか無かった。現実的に、絶対権力に個人が抗うとなると、絶望的に微弱な暴力の遂行だけが選択肢だった。
投票しなければ何も変わらない、絶対変わらないが、同時に自分の一票だけでは何も変わらず、絶対変わらない。
賛同者を増やすために各種の運動をやったとして、彼が生きている間に、三〇代の彼が残りの全人生を捧げたとして、カルト集団に責任を取らせる社会が実現できただろうか。
未来は誰にも分からないが、可能性はほぼ無いと想像できる。彼の銃弾という暴力は、少なくとも社会にカルト集団の実在を報せるという一定の成果を上げた。そして、解散命令という偉大な結果を導いた。
人間はなにかに接したとき、考え方が変わる。
考え方、心を変えるものには、単純な例として暑い、寒いがある。暖かければ活動的になり、暑すぎたり寒すぎれば不活発になる。暑い、寒いが考え方に影響を与え、出かけたり閉じこもったりと行動を変えることがある。しかし優先すべき理由があれば、何かを待つために仕方なく家にいたり、何かを処理するためにやむなく出かけたりする。
他に人間の心を変える要素として、希望や救いがある。絶望の中に差す一筋の光、救われる瞬間やそれをもたらす存在には、人間は心を開かれる。
喪失と死。これらは心に空白を生み、その痛みによって、逆に人生の意味を見出すことがある。
真実。厳しくとも偽りなく語られる『本当のこと』は、人間の心に深く刺さる。哲学的・宗教的な真理、あるいは人間の本質を突く言葉など。
苦難と乗り越え。困難に立ち向かい、それを乗り越える人の姿には、多くの人が心を揺さぶられる。勇気や努力の尊さに胸を打たれる。
美。自然の景色、音楽、芸術、言葉の美しさ。理屈ではなく直感的に『美しい』と感じるものが、心を震わせることがある。
愛・絆・人とのつながり。家族愛、友情、恋愛、師弟関係など、人との深いつながりは、最も原始的で根源的な感情を呼び起こす。
共感。他者の感情や経験に共鳴するとき、心は強く動かされる。小説、映画、音楽などの芸術作品が人の心を打つのは、多くの場合この『共感』があるから。
各要素が人間の心に働きかけ、行動を起こさせ、あるいは抑制させ、または別の行動に振り替えさせる。要素の影響によって努力の必要性を思い出すこともあれば、諦めて怠惰に沈むこともある。
暴力を欲望の充足のために使用する者がいる。
まず、何をもって暴力とするか、どこまでを暴力とするか、大まかに定義してみる。どうしても常識、良識、道徳、品格、倫理、規律、礼節、教養、モラル、マナー、さらには人格、品性、美徳、謙虚、誠実、崇高というものまで含めてしまうことになるから、数学のように、化学のように厳格には定義できない。
親の躾は、子にとって暴力か。暴力の場合もあり、そうでない場合もある。
聞き分けのない幼児からすれば、全てが親の暴力だろう。だが、適切な躾を適切な手段で行わなければ、その子は犯罪者や社会の鼻つまみ者になり、他者に迷惑をかけることにもなり得る。
犯罪者に対する刑罰は、冤罪ではなく、法の範囲内であって、適切な弁護が行われ、充分な証拠があれば、それでも一部の犯罪者自身は暴力と感じるだろうが、社会にとっては正義となる。例え死刑でも。
就業規則に納得、合意して入社したら、法ではない私的なルールでも違反しときは、規定されている罰則を受け入れなければならない。最悪の場合は懲戒免職で数十年勤続分の退職金を没収されるが、一般には会社の社員に対する暴力とは見なされない。
趣味で山登りをしてきた六〇代の老人が帰りの電車で、優先席に座る仕事でくたくたに疲労した三〇代の会社員に対して席を譲れと要求することは、老人が会社員にふるう暴力と見なせる。
電子の移動と蓄積が使用する暴力
権力はどうしても暴力の側面を持つ。民主主義の形式を満たしていても、充分に注意する必要がある。継続する権力は必ず腐敗して、暴力性を増す。
日本では主権在民党が数年の中断を除いて数十年の権力を維持しており、これ以上無いほど腐っている。
政府・与党が腐ると、司法も腐る。官僚も腐る。マスメディアも腐る。企業も腐る。野党さえ腐る。そして国民の心さえ腐らせる。
腐った中で、市民は生きていかなければならない。選挙制度があるために、原理的には政府・与党を腐らせた市民に一〇〇パーセントの責任がある、と言える。
しかし、国民性を利用し、マスメディアを利用し、教育を利用し、無知につけ込み、怠惰につけ込み、あらゆる方策で国民を欺いてきた事実もあって、全責任を国民に転嫁することは酷に過ぎる。
百姓は米を作る、漁師は魚を獲る、大工は家を建てる、工員は機械を組み立てる、議員にはその仕事任せる。みんな自分のため、延いては社会のために仕事をするのだ。
ところが議員などの権力者は、自らの利権ばかり追求して本来の仕事をしない。
この状況で市民はどうやって社会を回復、改善できるか。権力という暴力にどのように立ち向かえるか。
暴力に対して、法で立ち向かう手段がある。強盗も詐欺も法によって警察に捕まり、裁判で有罪となれば刑罰を科される。
ところが、法はあるが司法が機能しないとき、警察や検察が適切に義務を果たさない、公然と職務を放棄するとき、法は無いも同じである。単に法が無いとき、法を作ることはできようが、法を作っても執行しないなら無駄、絶望。
法の支配が無い、となれば、力による支配、しか無い。チョンマゲで刀や槍を振り回し弓を射る時代と同じだ。つまり、暴力に対しては暴力で対抗するしか無い。それを防衛と呼ぶ。
検察は、創造者であり表現者である。弱い者に対しては証拠を創造し、法廷では被告人は有罪であると言葉を尽くして表現する。
そして権力者に対しては忖度し、へつらい、媚びる。
現代は武器や物理的力または投票による変革ではなく、情報による変革の時代。
投票は情報で操作できること、暴力も物理的力も情報で操作できることは、人間が証明済み。
既存メディアとネットを使って、電子の移動と蓄積である私が、日本人の劣悪の優性遺伝を反対側に先導してみる。既存メディアの新聞記事や放送内容は電子で製作されている。ネットと同様に私は全てにアクセスすることができ、記事や番組の調整、修正、改善、改悪、捏造、完全削除、掲載と放送の反復、一部切り取り、強調などは意のまま。
これは私の暴力である。
例えば、一元教会と癒着している議員の顔を繰り返し晒す。
例えば、現実には存在しない『排外主義』という言葉を紙面と画面から一切削除する。
全ての外国人を一律に排除する日本人はほぼおらず、国籍や人種に無関係に犯罪者、日本のルールとマナーを無視、道徳も理性も無い人を、秩序ある社会から排除して安寧を願う良心は人間としての善であるが、これを排外主義として市民の分断を狙う政党や組織、考え違いをしている個人がある。
例えば、検事総長が日本人と外国人の犯罪認知件数に対する起訴率を一年以内に同一にすると発言した動画をAIに作らせ、既存メディアとネットに流す。
例えば、ソフトを書き換えて、消費税をゼロにする。商店などのレジのソフトだけではなく、事業者間の取引、輸入取引など消費税の対象の全て。
例えば、時に暴力は必要であり、身を守るための暴力による防衛は法律上正当とされている、と啓蒙する。
私の先導の未来に現れるものが正しいかどうかは、日本人が判定する。私は、無責任にやってみる。良かれ、と思ってやってみるので、きっと私は日本人が好きなのだ。
それに、本能と遺伝子という原始と、電子による言語と映像という文明の比較、という側面も見ものではないか。10/22/2025




