いじめら令嬢は王子に愛される
私は鏡に映る自分の姿を見て、「夢ならさめて」と頭を振った。
鏡の向こうからこちらを見ているのは、アメジストのような紫色の瞳を持つ、リッカ・シルエット。男爵家の一人娘だ。
彼女は目尻に涙を溜めていた。
その髪型は普段のものとは違っている。自慢の長い銀髪が、肩口くらいでバラバラになっている。
どうやら私は乙女ゲームのいじめられ役──いじめら令嬢に転生してしまったらしい。
前世の記憶が戻ったのは、貴族の令嬢たちに囲まれ、机でひとり震えていた時だった。
どうやら私は、王子の婚約者候補となる令嬢を集めた学園の生徒らしい。でも今はその座を追われ、毎日陰湿ないじめを受けている。
「あらぁ、リッカ様、そのようなお召し物でよくお茶会に顔を出せましたね」
「私なら恥ずかしくて無理だわぁ」
「その安物の髪飾り。本当に貴族の持ち物なのかしら」
嘲笑う声が私を包み込む。
その光景はまるで昔読んだ少女漫画のよう。
でも、私は知っている。この世界は物語のような優しい世界ではないんだって。
物語はいじめられっ子が最後に幸せになるけれど、現実のいじめられっ子は、ただひたすらに、いじめられ続けるだけ。
私が心を閉ざしたのは、いつからだったのだろう。
たぶんこのいじめが始まってすぐのことだったはず。
心の奥底に前世の記憶と、今世の辛い現実が混ざり合って、まるで泥沼のようになっていた。
私は、誰も信じない。
誰も、私のことなど助けてくれない。
そう、わかっていた。
だからただひたすらに、心を無にすることに徹した。
笑う時は、口元だけを動かし、
悲しい時は、涙を流さず、
怒りを感じた時は、ただひたすらに、胸の中でそれを押し殺した。
そうすれば感情を持たない人形のように、いじめられても何も感じないで済む。
そうすれば、私は、壊れずに済む。
そう、思っていた。
あの人に出会ったのは、庭園の隅にある……誰も使わない古い小屋の中だった。
そこは私の、唯一の隠れ家だった。
いじめに耐えきれずに一人で泣く。いや、泣ける。誰も知らない場所。
「君は、どうして、そんなに悲しい顔をしているんだ?」
突然の声に振り返る。そこに立っていたのは、一人の青年だった。
彼の髪は、太陽の光のような明るい金色で、瞳は、深い空の色をしていた。
彼の顔は知っていた。
「エル……王子」
私は息をのんだ。
エル王子は王国にいる三人の王子のひとり。冷酷で、誰に対しても感情を表に出さないと噂されていた。
だから彼が私に声をかけるなんて、思ってもいなかった。
「……別に、悲しくなんかありません」
私はいつものように、感情を押し殺して答えた。
王子は私の言葉に、少しだけ首を傾げた。
「でも、その瞳は嘘をついていない。まるで世界中の悲しみを、その瞳の中に閉じ込めているようだ」
彼の言葉は私の心を鋭く突き刺した。
私は、何も言い返すことができなかった。
王子は、私の隣に座った。
そして何も言わずに、ただ静かに、私の隣にいるだけだった。
その静けさが、私にはとても心地よかった。
まるで私という存在を、静かに受け入れてくれているようだった。
私はいつの間にか、泣き止んでいた。
その日を境に、王子は毎日、小屋に現れるようになった。
私と王子は、何も話さなかった。
ただ隣に座り、静かに、時が流れるのを待つだけだった。
「どうして、私の隣に座るのですか?」
ある日、私はとうとう、彼に尋ねた。
王子は少しだけ、微笑んだ。
「君が、一人で泣いているのが、嫌だったからだ」
彼の言葉はあまりにもシンプルで、それでも私の心に、温かい光を灯した。
私は生まれて初めて、誰かの優しさに触れた気がした。
「あなたは私のことを……哀れんでいるのですか?」
私は彼の優しさが怖かった。
どうせいつか、この優しさも、消えてしまうのだろう。
そうわかっていた。
「いいや、違う」
王子は私の目をまっすぐに見つめた。
その瞳は真剣で、嘘偽りなど一切なかった。
「僕は君に、恋をしたんだ」
彼の言葉に私の心は凍りついた。
恋?
私に?
そんな、馬鹿な。
私は、ただのいじめられっ子。
もう自慢だった髪もこんな有り様だ。
王子に恋をされるような、特別な存在ではない。
「……冗談はやめてください」
私は無理に笑って見せた。
しかし王子は真剣な顔のまま、私の手を握った。
「これは冗談ではない。君の、その澄んだ瞳に、僕は心を奪われた。君の、その寂しげな横顔に、僕はどうしようもなく惹かれてしまったんだ」
彼の言葉は、私の心を、溶かしていく。
まるで氷の塊が太陽の光を浴びて、ゆっくりと、溶けていくように。
「信じられません」
私は震える声で言った。
王子は私の手を、優しく握りしめた。
「信じなくてもいい。いつか君が、僕を信じてくれる時が来るまで、僕は、君の隣にいる」
彼の言葉は私に勇気をくれた。
私はこの時、初めてこの世界で生きていく希望を見出した。
翌日、私はお茶会に向かった。
いつものように、嘲笑う声が私を包み込む。
しかし、私はもう怖くなかった。
「リッカ様、本当に、相変わらずね」
侯爵令嬢の一人が、私に、冷たい言葉を投げかけた。
私は彼女の言葉に何も言い返さなかった。
ただ静かに、紅茶を一口飲んだ。
「まあいいじゃない。どうせ、婚約者には選ばれないのだから」
彼女たちは勝利を確信したかのように、私に笑いかけた。
その時、お茶会をしている部屋の扉が、ゆっくりと開いた。
そこに立っていたのは、エル王子だった。
会場に静けさが広がる。
王子はまっすぐに、私の元へと歩いてきた。
そして私の目の前で……膝をついた。
「リッカ・シルエット。どうか僕の妻になってほしい」
彼の言葉が静まり返った会場に響く。周囲がざわめきに包まれた。
侯爵令嬢たちは、驚きと混乱の表情を浮かべていた。
私は何も言えずに、ただ、王子を見つめた。
「君は僕の光だ。君なしでは、僕は生きていけない」
彼の言葉は、私の心を、温かく包み込んだ。
私は震える手で彼の差し出した手を取った。
「はい」
私の声は小さく震えていた。
しかし、私の心は、この上なく幸せに満ちていた。
私は、もう一人ではない。
私は、もういじめられっ子ではない。
私は、この世でただ一人、エル王子に愛される存在なのだ。
この物語はハッピーエンドで終わる。
私はそう信じている。
だって、この物語は私と王子が二人で紡いでいく物語なのだから。
いじめられ令嬢だった私が、王子と結ばれるなんて。
夢のような話だった。
でもこれは、夢なんかではない。
これは現実。
私と王子が、二人で歩んでいく、新しい人生の始まり。
「リッカ、愛している」
王子は私の額に、優しく口づけをした。
その瞬間、私の心は世界で一番幸せな音を奏でた。
もう、何も怖くない。
この世界は、私にとって、もう悲しいだけの場所ではない。
王子と、そして私自身が、これからたくさんの幸せをこの世界で見つけていく。
そう確信した。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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