ユウガオ
ーー
ユウガオ
花言葉
「儚い恋」
「夜の思い出」
「魅惑の人」
「罪」
ーー
「―じゃあ、18時にココス前で」
メッセージを打ち、送信ボタンを押す。
インスタのDMは、相変わらず使い慣れない。
「了解」
既読がつくとともに、簡潔なメッセージが返ってくる。
私が送ったメッセージは既に画面にない。
念には念をと、2人で相談し、既読がつくとメッセージが消える設定にしたからだ。
さざなみに消える文字のように見えなくなるDMを眺めながら、私は、軽い寂しさと罪悪感を抱えていた。
時計に目をやると、時刻は14:00。
あと4時間、か。
私は軽くため息をつき、早めに風呂掃除を済ませようと重い腰を上げた。
夕方、洗濯物を取り込んでいる時から空模様が怪しくなり、出かける頃には本降りの雨だった。
私は傘を差し、目的地のファミレスに向かう。
通り過ぎる人々は、周囲の人間には見向きもせず、ただひたすらに行き先を目指して歩いていた。
「…おまたせ」
店のテーブル席では、既に彼が待っていた。
大学帰りだろう。大きなリュックをソファ席の空いたスペースに置いている。
「雨、大丈夫でした?」
「うん、大丈夫だったよ」
敬語で話す若い青年と、タメ口で話すアラサーの主婦。
そんな歪な組み合わせの二人組に、周囲の客は目もくれない。
「雷なっとったから、心配してましたよ」
「え、雷?こっちでは鳴ってなかったけどな」
よかった、と、彼はほっとしたようにメガネ越しに微笑む。
関西から上京してきた彼は、東京に住んでからも、相変わらず方言が抜けないらしい。
彼の切れ長の瞳は澄んでいて、だが一重ゆえかどこかミステリアスな色もたたえていて、目が離せない。
「大学の試験はどうだった?」
「…ぼちぼちっすね笑」
言葉少なに、だが照れくさそうに笑いながら言葉を返す。
その様子はまるで控えめな大型犬のようで、思わず頬が緩む。
メニューを前にして、理人くんは指先で軽くページを押さえながら、
「どれが好きなんすか?」
と、少し遠慮がちに尋ねる。
「ハンバーグかな」と答えると、意外と子供っぽいところあるんすね、と嬉しそうに笑った。
「…じゃ、いきますか」
「…そうだね」
軽い雑談と軽食を済ませた後、私たちは席をたち、ファミレスをあとにした。
いつものホテルに向かう道中、私たちは少し距離をとって歩く。
あまり意味はないかもしれないけど、なんとなく隣に並んで歩くのは気が引ける。
理人くんは遠慮がちに、視線を落としながら少し前を歩く。
そんな私たちのことを、振り返ってジロジロみる人は1人もいない。
都会は、孤独だ。
誰もが他人に無関心で、人との繋がりが薄い。
夫の転勤で慣れ親しんだ土地を離れた私は、人付き合いが苦手なのもあり、知り合いができなかった。
転勤先でも夫は多忙で、翌朝まで家に帰ってこないこともざらだった。
夫の希望で専業主婦をしている私は、日々孤独感に苛まれた。
そんな中、1人で行ったバーで偶然出会った青年―彼もまた、1人で上京し、孤立感を抱えていた。
互いの寂しさに共鳴しあった私たちは、お酒を、夫が出張で帰ってこないのを言い訳に、関係を持ったのだった。
ホテルのフロントで鍵をもらい、部屋の扉を開ける。
安いビジネスホテルなのもあり、部屋にはベッドと簡易なテーブルセットだけの、殺伐とした空間が広がっている。
「…美織さん、」
扉が閉まり、オートロックがかかるとともに、彼が微笑みながらゆっくりと近づく。私もまた、照れ笑いを隠しながらも、そっと彼を待つ。
「―会いたかった」
そう言って彼は、華奢な体でそっと私を抱きしめる。
雨で湿ったTシャツの感触と、布越しに感じる温もりが、ほんのひとときの安心感を与える。
私もまた、彼の体に腕を回し、そっとぬくもりを分け合う。
「私も、理人くんに会いたかったよ」
私はそっと彼の首に腕を回し、つま先立ちになって唇を重ねる。
彼の息遣いから、ほんの一瞬、ためらいを感じる。
だがそれもすぐに、ゆっくりと交わされる甘いキスに変わった。
「ベッド、いこ?」
私は潤んだ瞳で彼を見上げ誘う。
彼もまた、色気をたたえた瞳で私を見つめ返し、頷いた。
狭いダブルベッドのシーツの上で、2つの体温が一つになる。
理人くんは、さっきまでの控えめな姿とは打って変わり、狼のように激しく私を求める。
私もまた、それに応えるように、何度も彼の首に手を回し、キスを重ねる。
彼の澄んだ瞳に光はなく、その妖艶さがまた、私の興奮を高める。
シーツの海が波打つとともに、私たちはほんのひとときの情熱に身を委ねていた。
ーー
「美織さん」
「何?」
「美織さんは、旦那さんと離れる気はないんですか」
明かりを落とした部屋のベッドの中。
後ろから私を抱きしめる理人くんが、ぽつりと呟く。
汗で湿った理人くんの少し低めの体温が、不意に現実を思い出させる。
「生活が成り立たなくなるし、ないかな」
「…そっか」
理人くんの声が曇る。
私はちくりと胸が痛むのを感じながらも、気付かないふりをして話題を逸らす。
「最近は何の研究をしてるの?」
「最近?アメーバの増殖についてっすね」
全然わからないや、と笑うと、これでも真面目に研究してるんすよ、と、笑いながらも真剣な返事が返ってくる。
「…大学の勉強、サボっちゃだめだからね?」
「サボってませんし!むしろ理系なんで同年代より全然遊んでませんよ」
そう言って彼は不機嫌そうに口を尖らせる。
私は笑いながら、彼のウェーブかかった髪をくしゃくしゃと撫でる。
―たった1人、東京にやってきて、真面目にひたむきに勉強に打ち込む日々。
そんな彼を罪の道に引き摺り込んだことに、深い罪悪感を覚える。
「…そろそろ帰ろうかな」
私は罪悪感から逃げるようにそっと起き上がり、服を拾い集める。
「もう帰っちゃうんですか?」
背後から、寂しげな表情を浮かべた理人くんが声をかける。
その様子はまるで捨てられた子犬のようで、そんな彼を利用する己の醜さに、胸の奥底がぎゅっと締め付けられる。
「…朝ごはんの準備、しなきゃ」
そう言って無理矢理に笑顔を作る。
家に帰る機会が少ない夫に、せめてもの罪滅ぼしも込めて、朝食は盛大なものを用意しているのだ。
「…そうですか」
ぽつりと呟き、理人くんはそっと背中を向ける。
その華奢だが広い背中に、私は孤独感を覚え、そっと胸が痛んだ。
ーー
「また、会ってくださいね」
部屋を出ようとした時、ふと振り返ると、服を着た理人くんが寂しげな笑みを浮かべながら、私の後ろに立っていた。
「…そうだね」
確約できない約束を胸に、ちくりと痛む心の内を隠す。
そっと私は微笑みを作り、返事を返す。
「…約束」
そう言って理人くんは不意に近づき、私を抱きしめる。
そしてそっと身をかがめたかと思うと、開いた私の襟元にそっとキスを残した。
「…ほんとは俺のって印、付けたいんすけどね」
そう言って理人くんは切なげな笑みを浮かべながら私を見つめる。
不意打ちのキスに高鳴る鼓動を抑えながらも、私は黙って笑みを返す。
その大人びた表情は、部屋を出て廊下を歩いている間も、ずっと私の心に残り続けていた。
フロントのドアが開くと、雨は相変わらず降り続いていた。
遠くから聞こえる稲光に、ふと私たちの未来を思う。
―この関係は、いつまで続けられるのだろうか。
一夜限りの約束を胸に、そっと温もりが残る襟元を握りしめる。
ポタポタと降り続く雨音の中、私は理人くんの寂しげな笑みを思い出しながら、入り口の屋根の下で立ち尽くしていた。