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婚約者のおつもりだったのですか?

「お父様、お仕事中に申し訳ありません。私に婚約者はまだいないという認識で合っていますでしょうか?」


バルシュミーデ王立貴族学園から帰宅したエルヴィラは、ヘルツェンベルン伯爵である父、ヴィンセントの執務室を訪ねた。困惑した様子のエルヴィラに、ヴィンセントも困惑した。


「そろそろ書類の準備を、と思ってはいたが、どのみち、この国では十五歳を過ぎねば婚約ができないだろう?相性や家同士の関係を…… ん?何かあったのか?」

いつになく思い詰めたような娘を見て、ヴィンセントは持っていた書類を机に置いた。


「あの、私の思い過ごしかも知れませんし、畏れ多いというか、勘違いだったら大変なことになると言いますか…… とにかくお父様のご判断を、と思いまして」


「エルヴィラ、そこに座ってしっかり話そう」

勧められたソファに座り、ヴィンセントが豪快に注ぎ入れた紅茶を一口飲む。


「お父様の紅茶は、いい香りがします」

エルヴィラの笑顔を見ることができて、ヴィンセントは肩の力を抜いた。知らぬ間に緊張していたようだ。


「実は、フィリップ殿下のことなのです」

「第二王子殿下か」

「毎日生きた心地がしないのです」

「どういうことだ?今現在どのような状態だ?」

ヴィンセントの目つきが鋭くなった。


「その…… 殿下は私のことを婚約者のように扱われるのです」

「は?」

「殿下はまるで私が婚約者かのように振る舞われるのです」

「いや、え。なぜ?」


「分かりません。そもそも婚約に関して、お父様がご存じないのなら私は知り得ようもありません」

「まあ、そうか。今現在、エルヴィラに婚約者はまだいないという認識で間違いない。例え二人が愛し合っていたとしても、フィリップ殿下だけはない」

「良かった!ホッとしました。『愛し合っている』などと仮の話をされただけで怖気が立ちました」


「例えば、どのようなことから婚約者のようだと思ったんだ?」

「最初は、校門から教室までのエスコートでした」

「あー。それはマズイな」


「ええ。でもお声がけ頂いたら私から断るわけにはいかないですよね。なんとか避けようと早く家を出たんですが、なぜか校門の陰で待っておられて上手く避けられなかったのです。家に内通者がいるのかもしれませんわ」


学園の正門と校門の間には馬車乗降場があり、身分に関わらず学生は必ず歩いて校門をくぐる。そこで待ち伏せをされると避けようがない。


「そういえば最近かなり早く登校していたな。確かになぜ殿下が知っていたか、疑問だな」

「はい。誰に話したわけでもありませんし」

「分かった。それはこちらで調べておく」


「ありがとうございます。正直なところ、無理をして早起きをしたものの、辛くて眠くて、毎日が地獄のようでした。ここを頑張ればなんとかなると祈るように起きたというのに、待ち伏せされていた時の絶望感。朝から言質を取られないように会話をする疲労感」


「そうだよな。我々は夜型だから、普通の時間帯に学校に通うだけでも拷問なのに、わざわざ早く起きたにもかかわらず問題が解決しないなんて、確かに生きた心地がしないな」


「もっと最悪なのが挨拶です」

「ほう!」

「おはよう、僕のエルヴィラ」

「あー、詰んだな」

「気持ち悪くて震え上がりました。さらにミランダ様のマシンガントークが加わって朝から頭が壊れそうです。ミランダ様もわざわざ私よりも早く登校して待っていらっしゃるのです」


「ミランダと言うと、確かアイクシュテット公爵家の次女だったよな?」

「そうです。ミランダ様のお話がとにかく長くて疲れてしまって」


「あぁ。公爵に似てしまったのか……。奥方とご長女は物静かな方々なんだがなぁ」

「お父様もあの強烈な、あ、いえ、あの、あのように特別な会話のご経験が?」


「あの流れるようで終わりが見えない話をエルヴィラも体験することになるとはな……。学生時代に何度か巻き込まれたことがあるよ。お父上に似て、ミランダ嬢は朝型なんだろうな。大体そういう人は朝から口がよく回る。我々のような夜型には対応が難しい時間帯だというのにな」


「ちょっとまだボーッとしている時間帯で、聞き取れないし言い返せないし」

「あぁ。同じだ。本当にお父上にそっくりなんだな。ところが、だ。最初は迷惑な言動ばかりで困惑するんだが、不思議と丸く収まるんだよ。ある意味次元の違うお方なのだろうなぁ」


ヴィンセントはうんうんと何かを思い出したのか何度も頷いた。エルヴィラは俯いたまま話し始めた。


「教室に着くと、殿下に引いていただいた椅子に座り、右側にミランダ様、左側にフィリップ様が座られます」

「なぜ?」

「そうですよね!なぜ?ですわよね?」

勢いよく顔を上げて話し始めたエルヴィラに面食らいつつ、ヴィンセントは肯定を示した。


「椅子に座る動作の途中からミランダ様の爆裂トークが始まるのです。まるで調査員を雇って私の好みを調べ上げたかのように詳細に、しかも休みなく。例えば今日はこんな感じでした。


『毎朝フルーツを欠かさず召し上がるのですって?以前はブドウがお好きだったけれど、パイナップルが定番になったすぐ後にバナナがお気に入りになられたのだとか。今は何のフルーツがお好きですの?アタクシの領の名産はメロンですのよ?今度お送りしますわね。メロンお好きでしょう?嫌いな人などいないわよね?メロンと言っても色々ございますでしょう?赤肉はダメよ?うちの領ではなぜか収穫できないの』


私、メロンアレルギーですのに延々とメロンの素晴らしさを語られてしまって……。聞き流していると質問をされて、答えられないと嫌味を言われて。お父様、なぜ、私がこのような目に遭うのでしょうか」


「端的に考えれば、既成事実、牽制、婚約の根回しあたりだろうな。ミランダ嬢に関しては考えるだけ無駄だ。我々が想像もつかない理由から話しかけているに違いない」


「私、嫌です。ミランダ様が嫌味を言っている間、私を守りもせず、隣でつまらなそうに座っている殿下と結婚するなんて。私に好意を持っているようには思えませんでした。もしそうだったなら、視線に熱がこもりますでしょう?お父様、私は権力争いか何かに巻き込まれているのでしょうか?」


「あー、その線は濃厚だ。つい先日ミランダ嬢の姉君と第一王子殿下がご婚約されただろう?第二王子殿下にはまだ婚約者がいない。どちらを王太子に指名するかは総合的に判断をすると国王陛下が通告したきりでそのままだから、早く婚約者を、と思ったのかもしれない。まあ、悪手だがな。御母上の正妃様は『真実の愛』だと言ってご結婚されたから、ご自身も政治とは関係なくお相手を選びたいのかもしれん。そうなると、エルヴィラを気に入っておられるのが前提だが、そうでもないのだろう?そもそも、ミランダ嬢は姉の義弟になる殿下に、なぜ付き纏うんだろうな。まあ、考えるだけ無駄か。姉妹仲は悪くないとは聞いたが、実際どうなのかは本人以外には分からぬものだしなぁ」


「……そうですね」

考え込むヴィンセントとため息をつくエルヴィラ。その時、部屋の扉を叩く音がした。

「ヴィンセント様、お食事の用意が整いました」

「分かった。すぐに行く。エルヴィラ、まずは食事をしよう」

「はい。考えても仕方のないことは切り替えて、美味しいお食事を楽しみますわ!あ、お兄様は今日は?」


「ああ、ヴェンツェルか?今日はルイトポルト殿と一緒だ。今日は二人とも家で夕食を摂ることになっているからちょうどよかったかもしれんな。ルイトポルト殿、荒れるだろうなぁ。あぁ、エルフリーデが夜勤だ。彼の暴走を止める者がいない」

「第三者から聞くよりは良いとは思いますが、お母様がいらっしゃらないのは少し不安ですわ」

「確かにそうだな」


ヴィンセントのエスコートで食堂へ行くと、既に二人は食事を始めていた。彼らはヴィンセントやエルヴィラの二倍は食べるので、全員の着席を待たずに食べ始めることが慣例になっていた。


「エルヴィラ、久しぶり」

ルイトポルトがエルヴィラに手を振っている。エルヴィラは嬉しそうに微笑んで軽く会釈をしてから席に座った。ヴェンツェルは好物の、パイ包みのスープに釘付けだった。


ルイトポルトは隣国からの留学生で、エルヴィラとは違う学校に通っている。ヴェンツェルとは仕事の関係で仲良くなり、二人で一緒に過ごす事が多い。ヘルツェンベルンの屋敷には彼の部屋も用意されていて、まさに第二の実家状態となっていた。


食後、ヴィンセントの提案でデザートは娯楽室で楽しむことになった。今起きている問題を共有すると、予想通りルイトポルトは不機嫌になった。

「俺の国だったなら手出しはさせないのに!くそっ!もどかしい!」


「ルイトポルト、落ち着け。まだ間に合う。とりあえずエルヴィラは登校を控えて、そもそもの接触を減らそう。単位取得状況はどうだ?」

騎士の訓練経験のあるヴェンツェルは、苛つきを隠せないルイトポルトを難なく押さえて座らせた。


「単位はほぼ取れています。あとは卒業研究のみです」

「だったら、留学すると良い」

ルイトポルトが目を輝かせてそう言った。


「その王子とやらに見舞いだなんだとこの家に押しかけられたら困る。親しさを演出されては堪らないからな。まずエルヴィラは数名の親しい友人にだけ留学の件を伝える。俺の国の学園でも友人を作っておこう。そうしておけば仮にその王子がこの家を頻繁に訪ねて親密さをアピールしたとしても、『親しくはなかった』と堂々と言える。謂わば証拠作りだな」

不機嫌は何処へやら、最良の案を思いついた、と言わんばかりの表情。


「『留学を知らされなかった』ということは『親しくなかった』ということか」

「はい」

ヴィンセントの問いかけに真面目な顔で頷いたルイトポルトの横で、エルヴィラの目も輝いていた。

「素晴らしい提案ですわ!私、ルイトポルト様のお国でやってみたかったことがありますの!」


「ほう!」

「ルイトポルト様の国、オイレンシュピーゲル王国は薬学の権威、カーディナル先生がいらっしゃるでしょう?世界中から集めたと言われているカーディナル文庫を見てみたいのです!もし、ナハトムジ語の本でまだ翻訳されていない本があったら、私もお役に立てるのではないかと思うのです。私、幼い頃からナハトムジ語との相性が良くて、検定一級を持っているんです」


「それ、完璧だ!留学の理由にもなるし、卒業研究にもちょうど良い。もし、本が出せればこの家にいなかった証明にもなる!何より、ナハトムジの医療書の翻訳本が増えるのは素晴らしいことだ!」

ルイトポルトが嬉しそうにエルヴィラの手を握る。


「んんっ。コホン!」

ヴィンセントが咳払いをすると、ルイトポルトは慌てて手を離した。エルヴィラも頬を染めはしたが、何事もなかったかのように椅子に座った。


「えー、当然ルイトポルトも国に帰っちゃうよね」

ヴェンツェルが拗ねたようにルイトポルトを見た。無情にも「なぜそんな当たり前のことを?」と言いたげな表情で頷く。

「つまんない」

ジト目でルイトポルトを見るヴェンツェル。


「あー、わたくしー、一人で留学するのが、不安だわー」

「エルヴィラの棒読み可愛いな」

「なにっ。エルヴィラが不安なんだったら、頼れる兄であるこの僕が一緒に行くよ。薬学本の翻訳という名目での留学、国費で行けるんじゃないか? それ良いな。僕も付いていきやすい。じゃあちょっと手配しに行ってくるね。さー、忙しくなるぞー!」

まだ夜だというのにあっという間に出かけて行ってしまった。


エルヴィラの兄、ヴェンツェルは王宮の人事を管理する部署で働いている。そこでの人脈を駆使してエルヴィラの国費留学とヴェンツェルの帯同、ルイトポルトの帰国の手筈を整えて翌昼帰ってきた。


王宮ってもしかして二十四時間勤務?とエルヴィラに聞かれたヴェンツェルは不敵に笑った。そこへ夜勤明けのエルフリーデが帰ってきた。あぁ、二十四時間営業だったわ、とエルヴィラは肩をすくめた。


「あらやだみんなでお出迎え?」

エルヴィラの母エルフリーデは、後宮で側妃の侍女をしている。側妃は第一王子の母である。そう。ヘルツェンベルン伯爵家は第一王子派なのだ。なぜ正妃の息子、第二王子のフィリップにロックオンされたのか、エルヴィラは不思議でならなかった。


「母上、ご機嫌麗しゅう」

慇懃無礼な態度でエルフリーデを出迎えるヴェンツェル。

「あなたが動いているなんて! 何かあったのね?」

ヴェンツェルが説明を始めると、早い段階でエルフリーデの眉間に深い皺が刻まれた。

「あのバカ」

エルフリーデは小さな声で呟いた。

(聞こえています、お母様)


「エルヴィラ、あなたの気持ちはどうなの?」

「私の気持ちはここしばらく変わっておりません」

「そう。分かったわ。あなたと離れて暮らす日が、こんなに早く来るなんて思ってもみなかったわ」

エルフリーデが両腕を広げるとエルヴィラはエルフリーデの胸に飛び込んだ。


「自分の未来のために精一杯尽くしなさい」

「はい」

母娘はお互いに抱きしめ合った。エルヴィラの自立の時がこんな風に突然来るなんて。エルフリーデは第二王子の軽率な行動に怒りを覚えた。


エルフリーデの耳にも入ったということは、思ったよりも物事が早く進みそうだと考えたエルヴィラは、早速友人に留学の件で手紙を書いた。


ヴェンツェルの仕事の関係でオイレンシュピーゲル王国へ留学すること、しばらく会えなくて寂しいこと、お土産の希望があったら伯爵家に知らせてほしいこと。


手紙を受け取った友人たちがお茶会で詳細を知りたいと伯爵家に手紙を届けた時には、既にオイレンシュピーゲル王国に向けて旅立った後だった。


今日もフィリップは学園に来なくなったエルヴィラのことを、始業準備のベルが鳴るまで待っていた。その背後にはミランダも。

「フィリップ殿下、そろそろ教室に行きませんか?」


ミランダはエスコートを促すようにフィリップに向けて手を伸ばした。フィリップはミランダを睨みつけて教室へと歩いて行く。フィリップの侍従、ラウルは申し訳なさそうにミランダにお辞儀をしてその場を去って行った。


こんな朝が三日続いた。校門の陰で誰かを待ち続けるフィリップを多くの生徒が目撃した。その度に生徒が驚く。イラついた顔で一人一人の顔を見るからだ。ある日を境にフィリップはエルヴィラを待たないで登校するようになり、学園には平穏が訪れた。


朝からフィリップに付き合わされていたラウルは、ファルケンハイン侯爵家の次男で、ミランダの幼馴染だった。


兄は第一王子の、ラウルは第二王子の侍従として忙しい日々を送っている。どちらの王子が王太子になっても対応できるようにという、歳の近い優秀な息子が二人いる貴族家だからできる荒技だ。


兄弟仲は良いという噂も悪いという噂もどちらも流れている。まるでどちらの王子にも優劣がない状態を演出しているようだ、とヴェンツェルが言っていた。


さて、オイレンシュピーゲル王国留学中のエルヴィラは、開放感と好奇心に満ち溢れた日々を過ごしていた。ありがたいことにカーディナルは夜型だった。遅くまで翻訳時の表現方法や薬学の真髄について語り合い、昼近くに起きて先生の授業に出席する生活。


ルイトポルトやヴェンツェルを交えて夕食を摂った後、また翻訳に関して侃侃諤諤。正直母国に帰らなくてもいいかも、と思う夜もあった。薬学繋がりの人脈も広がり、『充実している』と表現する以外ない日々を堪能していた。


そんなある日、エルフリーデからの手紙を読んでエルヴィラは震えた。エルヴィラとフィリップが恋仲であるという噂が流れていると言うのだ。すぐさまヴェンツェルに相談した。


「すまない。数日前から情報は掴んでいたんだが、今すぐには動けないから伝えないでいた。ランプレヒトから連絡があったんだ」

「第一王子殿下からですか?」

「ああ。母上からの手紙は恐らくエルヴィラが驚かないように、とのご配慮だ。男はこれだからとまた言われてしまうな」

「お兄様がすぐ動かれないのは勝ち筋が見えているから、ということでよろしいのでしょうか?」


ヴェンツェルはニヤリと笑った。

「さすが俺の可愛い妹だ。俺のことをよく分かっている。とにかく今、エルヴィラは翻訳作業を進めてくれ。その成果を持って初夏を祝う夜会に凱旋だ」

「分かりました。カーディナル先生にもご相談申し上げて、どの本を訳し切るか決めます。ところで、ルイトポルト様はどちらに?」


「ポルは今諸々準備中だ。エルヴィラに会えない怒りで作業スピードがエゲツないらしいぞ。お前も大変だな」

「お身体を大切になさるようにお伝えください。もちろんお兄様も」


「分かった。これからしばらくは夕食を共にできないから、念のため『侍女』を片時も傍らから離すなよ?」

「分かりました」

ヴェンツェルは安心したように微笑んでエルヴィラの頭を撫でた。ヘルツェンベルンの『侍女』の中には護衛が任務の者もいる。


怒涛のような翻訳の時間を過ごしたエルヴィラとカーディナルは、徹夜明けの朝日を浴びて大きく伸びをした。

「なんとか間に合ったな」

「私の都合に先生を付き合わせてしまって申し訳ありませんでした」

「いやいや、楽しかったよ。こんなに刺激的な時間は久しぶりだ。薬学にガムシャラに邁進した学生の頃を思い出したよ」


その数日後、カーディナルとそのお弟子さんに見送られ、エルヴィラとルイトポルトは帰国の途に就いた。ヴェンツェルは別便で直接会場へ向かう。エルヴィラは支度に時間が必要だし、ルイトポルトは書類仕事があるからだ。


オイレンシュピーゲル王国に帯同していたバルシュミーデの騎士と侍女に守られて、懐かしの我が家に向かう。予定がギリギリになってしまったので全てを巻き気味にこなしていくしかない。


帰宅するや否や、エルヴィラは待ち構えていた侍女に、ベテラン王宮侍女、エルフリーデ仕込みの凄技で磨き上げられた。移動の疲れが微塵もなくなっている上に小顔になった気がする。浮腫みとは?状態の肌。不規則な生活なんかしてました?な美ボディ。クマなどありませんでしたけど?な美フェイス。美しく編まれた美髪は流行りのリボンで飾られた。


支度が終わったエルヴィラを、隣室で待っていたルイトポルトは喜色満面で出迎えた。彼の賛美を受けて顔を真っ赤にして恥ずかしがるエルヴィラ。彼の貴族然とした姿もお気に召したようだ。微笑ましい二人の様子に、侍女軍団は目線だけでお互いを称え合った。


初夏を祝う夜会会場の入り口では、懲りもせずフィリップが待ち構えていた。室内なだけまだマシかもしれない。校門の陰から出てきた時の恐怖心を思い出してエルヴィラは身震いした。


ルイトポルトのエスコートで入場してきたエルヴィラを見て、フィリップは満面の笑みを浮かべた。


美しく、たおやかで洗練された姿。自分の横に据え置くのにピッタリだとフィリップは満足気に微笑んだ。自分がエスコートしてやろうと近づくと、目の前をエルヴィラが通り過ぎた。なんなら近づけないようにルイトポルトが邪魔をした。


「エルヴィラ!」

フィリップは怒りが滲む声で呼び止めた。

「僕が、エスコートをしてあげるよ?」

「と、言いますと?」

「は?僕がエスコートをしてあげると言っているんだ。やっと会えたのだから遠慮しなくていいんだよ?」


ルイトポルトとエルヴィラは瞬きを繰り返した。

「さあ、そこの君、エルヴィラから離れなさい」

「フィリップ殿下、こちらはオイレンシュピーゲル王国の第三王子、ルイトポルト殿下です。婚約者がいるので、フィリップ殿下が何と仰ってもご遠慮申し上げるしかないのですが」


「何を言っているのか分からないな。君の婚約者は僕だろう?」

「いいえ。ルイトポルト殿下です」

「まだ十五歳になっていないから婚約はできないはずだ」


「いいえ。私は昨日十五歳になりました。そして本日付けでルイトポルト殿下と婚約をしたのです」

「え。昨日?本日?そんなバカな」

「フィリップ殿下は私にはあまり関心がおありではないようですね。それなのに私の婚約者のおつもりだったのですか?ちなみに私の好きな食べ物をご存知ですか?」


「フルーツだ。毎朝食べるのだろう?」

「いいえ。私はフルーツにアレルギーがあるのです」

「ミランダが言っていたではないか」


「フィリップ殿下、なぜワタクシが本当のことを言っていたとお思いになったのですか?」

ラウルにエスコートされたミランダが会話の輪に加わった。


この空気感の輪に加われるのは世界広しといえどもミランダくらいしかいないに違いないと、周囲の貴族たちは視線を逸らした。もちろん聞き耳を立てたまま。


「ラウル、なぜ?」

「元々私はミランダの幼馴染です。希望する婚約相手を父に伝えようと思った矢先、家の中が第一王子派と第二王子派に分かれてしまって諦めておりました。学園でフィリップ殿下が王族であることを楯にエルヴィラ嬢を無理矢理エスコートしておられたお陰で、毎朝ミランダと登校できて僥倖でした。もう叶わぬ願いだと思っていたので」


「エルヴィラ、ここにいたのか」

「カーディナル先生!どうしてこちらに?出国前に別れを惜しんだのは何だったのですか?」

エルヴィラは驚きを隠せない。

「驚かそうと思ったんだよ。エルヴィラのそういう顔はなかなか見られないからね」


「叔父上、来賓なのですから、ちゃんと指示に従っていただかないと。バルシュミーデ側に迷惑をかけてしまいますよ」

「エルヴィラが翻訳したこの本を製本してもらったから、気が急いてな。エルヴィラ、君の初版本だ。受け取ってほしい」


カーディナルは美しい刺繍の入った布から一冊の本を取り出して、エルヴィラに手渡した。

「ありがとうございます!」


表紙に翻訳者としてエルヴィラ・ヘルツェンベルンの名がある。金で箔押しされた自分の名前を指でなぞる。

「嬉しいです。先生、ありがとうございました」

本を抱きしめてカーテシーをするエルヴィラを見て、フィリップが苛立った様子で本を奪い、床に投げ捨てた。


周囲からは悲鳴があがる。投げ捨てられた本は開いたまま、伏せられた状態で床を滑っていく。折れ曲がったページが痛々しい。ラウルが何か叫びながら本を追う。


フィリップはエルヴィラの腕を掴むと、強引に玉座に向かって引っ張って行った。恐怖と混乱でエルヴィラの顔も体も強張る。


「父上、こちらが僕の婚約者、真実の愛の相手、エルヴィラです。学園で一番愛らしかった、僕に相応しい女です。僕たちは父上と母上のように真実の愛で結ばれているので、今ここで結婚を誓います」

「公の場で父と呼ぶなと以前から言っているだろう?で?結婚だって?ちゃんと根回ししてから行動せよとあれほど言ったではないか」


「僕に愛されているんですよ?喜びこそすれ、断るわけがないのに何を言っているんですか?」

「痛い。放して」

苛立ちが増したフィリップの、エルヴィラを掴んでいる手にギリギリと力がこもっていく。痛みに耐えかねたエルヴィラは自分の腕を掴んでいる王子の手の指を曲がらない方向に剥がした。


「イタタタ」

王子の力が緩んだので、ルイトポルトの方へと駆け出すエルヴィラ。振り向いた拍子に長く結われた髪が宙を動く。その髪を鷲掴んだフィリップはエルヴィラを引き寄せた。

「きゃあっ」

エルヴィラは再びフィリップの腕の中に戻ってしまった。


ルイトポルトとカーディナルはジリジリとエルヴィラに近づいていた。フィリップはエルヴィラの腕を掴んで王へ近づいて行く。周囲の騎士は指示がないので動けない。騎士団長はエルヴィラに危険を及ぼしているのが王子なため、指示を出すタイミングを慎重に見定めていた。


「さあ、王の御前で結婚の誓いの口付けを!」

そう言ったフィリップはエルヴィラの顔に自分の顔を近づけてくる。うっとりとした顔で近づいてくるフィリップ。なんとか離れようとするが、エルヴィラは二の腕を掴まれていて逃げられない。


その時、フィリップの頭に布が被せられた。エルヴィラの本を包んでいたあの布だ。美しい刺繍が入った布。

「興奮しちゃったのかな?理性がある人間なんだから落ち着こうね」

布を外そうとしたフィリップはエルヴィラから手を離した。


その隙にエルヴィラを自分の腕の中に取り返したルイトポルトはホーッと息を吐いた。すぐには近づけないように抱きしめたまま距離を取る。カーディナルに湿布を渡されたルイトポルトはエルヴィラの腕の、指の形に色が変わった箇所にそれを貼った。


指の形に色の変わった腕を見た貴族は青褪め、フィリップに対する恐怖を口にした。とは言え、何かしようと前に出るわけにもいかず、コソコソと周囲と話し合っていただけだった。


「よーしよーし、落ち着こうね。獣ではないのだろう?君が裂いた二人が気の毒でつい肩入れしてしまったよ。あまりに健気でね。そして君がたった今投げ捨てたあの本はエルヴィラの努力の結晶だ。それを投げ捨てる君がエルヴィラの婚約者に相応しいとは到底思えないのだが」


フィリップは苛立った様子でカーディナルに布を投げつけた。

「なんなんだ、あんたは!俺にこんなことをして許されると思っているのか!」


顔を真っ赤にして怒っているフィリップ。カーディナルはくんくんと匂いを嗅いだ。途端に心配そうな顔になったカーディナルの只事ではない様子に、フィリップは少し後ずさった。


「大変だ!殿下から大陸で使用が禁止されている薬草の香りがする。とにかく早く中和剤を飲まないと精神がおかしくなるという厄介な副作用が見つかった大変に危険な薬草なんだ。私は薬学の研究者だ。ここに解毒剤と中和剤がある。今すぐここで中和剤を飲んだ方がいい!手遅れでおかしくなる前に!」


「そんな……。早く!早く薬を!」

カーディナルのあまりの迫力に不安になったのか、急に態度を変えたフィリップはカーディナルに縋った。

「どうぞ」

カーディナルは内ポケットから無色透明な液体の入った小瓶を取り出して、蓋を外し、フィリップに差し出した。


ゴクゴクゴク。


疑う様子は微塵もなく一気に飲み干した。

「どうだ?頭がスッキリしたのではないか?」

「ホントだ!スッキリした!これは、確かに誰かに薬を盛られたに違いない……。ラウル!調査を頼む!」


「申し訳ありませんが、先日付けでフィリップ殿下の侍従から外れておりまして。あちらにいるゴンゾにお声がけください。ちょうどフィリップ殿下がご多忙の際に決まったものですから、ご挨拶が遅れて申し訳ありませんでした」


「そうか。ゴンゾ!これへ」


後から思えば、これが公の場でフィリップを見た最後となった。この時、フィリップは全く気付いていなかったが、彼のこの言動は周囲で話を聞いていた貴族にはすこぶる不評だった。ラウルが実家の方針でフィリップの侍従をしていることはよく知られていた。家にも優秀な息子が二人いれば!と垂涎の的だったのだ。


その侍従との関係を「そうか」だけで終わらせ、あまつさえ辞めていたことにすら気づいていない。そんな冷たい人柄が彼への不信へと繋がった。


第二王子派だった者は目配せを始める。彼に尽くしても何の見返りも無さそうだ。ファルケンハイン侯爵家が第二王子から手を引いたという事実も重くのしかかる。尽くすだけ損。フィリップが王太子になる道は完全に閉ざされてしまった。


「先生、先程はありがとうございました。彼に何を飲ませたのですか?」

エルヴィラがカーディナルにしか聞こえないくらいの声で話しかけた。


「おめめスッキリ、ミント水だよ?」

「先生の徹夜のお供でしたか」

「あの子、思い込みが激しくて生きるのが大変そうだ。周囲の者も気苦労が絶えなかっただろうね。まあ、そこを利用して誰かに思考を誘導されたのかもしれないけどね。妙に信じやすかったのも不自然だったし」

そう言いながらラウルをチラッと見た。


「まさか。いえ、これこそが誘導?」

「ふふっ。エルヴィラは可愛いねぇ」

「叔父上!エルヴィラは私の婚約者ですよ!」

「ルイトポルトも可愛いよ?」

カーディナルの妖艶な微笑みを受け、ルイトポルトは顔を真っ赤に染めた。


「はい。こちらが本物の初版本だよ。世界にたった一冊の初版」

カーディナルは一冊の本をエルヴィラに見せた。

「たった一冊、ですか?」

「うん。急いで作らせたから一冊しかないんだ。もちろん増刷は進んでいるけどね」

「……ありがとうございます!」

エルヴィラは本を受け取るとギュッと抱きしめた。


カーディナルは投げ捨てられた方の本の表紙をエルヴィラに見せた。ラウルが拾った後、カーディナルの侍従経由で手元に戻ってきていたのだ。


「これは試し刷りなんだ。ほら、表紙のデザインがちょっと違うだろう?まあ、これはこれでお宝なんだがね」

「叔父上、バルシュミーデ王家に損害賠償請求をしましょう!試し刷りとはいえ、エルヴィラの名が冠された本へのあの仕打ち、許せません!」


「じゃあ、交渉はルイトポルトに任せるよ」

ルイトポルトはニヤリと笑った。

「では行ってまいります。エルヴィラのことを頼みます」


「では私たちはエルヴィラのご家族の所で楽しむとしようか」

そう言ってカーディナルはエルヴィラに腕を差し出した。

「ありがとうございます」

エルヴィラもにこやかにエスコートに応じた。


ルイトポルトは王家から大きめの庶民の家一軒分のお金をぶんどって帰ってきた。彼と楽しそうに話すエルヴィラを見て、両親と兄は嬉しそうに顔を見合わせた。


夜会会場の中心では、ミランダとラウルが幸せそうに踊っていた。




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― 新着の感想 ―
(ー_ー;)えーと…結局、何だったの? (ー_ー;)王子は、ひたすらキモいし、ミランダ嬢は、ひたすらウザイし… (ー_ー;)国王は、目の前で自分の息子が令嬢を手込めにしようとしているのをボケーっと傍観…
ミランダと王子の動機?が理解不能 エルヴィラにこだわる理由も読み取れなかった なんとなく権力闘争では?と話はあったが最後までどういう理由があったのか分からなかった これなら王子が単純にエルヴィラ好きで…
第二王子だけじゃなくて王家不信に思うと思うのは私だけ? そもそもストーカー時点で止めるだろうし、目の前でこの騒ぎで王家側が誰一人止めに入らないの物語とはいえありえなくない? ありえるなら、その前に仲を…
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