大崎警察署刑事梅宮文太と新米羽生大也
「ちょっと、おにいさん、話だけでも」
「イイ子いますよォ~ せっかく、岡場所来たんだからさァ~」
「よぉ、旦那っ! 今日はおっパブですか、それともキャバですか?」
JR五反田駅のホームから山手線の内側へと目を向けると、「五反田有楽街」という古ぼけたガードがかろうじて認識できる。ガードの先は、もちろん、そういう場所だ。よくできたもので、当然ながら、外からは有楽街の様子はうかがい知れない。なぜか? それは、駅前ロータリーから北に広がる「三業地」への中央通りが貴殿が男性ならば、貴殿同様、右へカーブがかかっていて、わざと視界が効かないように設計されているからだ。台東区の吉原もそうだ。申し訳程度に見返り柳がガソリンスタンド前に植えられてはいるが、そこから吉原への通りはやっぱり貴殿同様、右へカーブしていて、実際に進んでいかないと表側からはどういういい場所なのか、皆目見当もつかない。よくできたものである。ひとえに、男天国だったころの名残といっていいだろう。蛇足ではあるが、拙者は左カーブである。
この夜の五反田は、呼び込みばかりが目立って、客足はさっぱりだった。東京の最高気温もそれまでの三十度台から、二十五度くらいへとようやく涼しくなったかな、と思ったら、また暑さがぶり返したりしていた二〇二一年九月下旬である。十九都道府県に出ていた新型コロナウイルスの緊急事態宣言も月末でなんとか解除する目途がついたというのに、場末はまだ景気が出ていないようである。秋篠宮家長女の婚約者小室圭氏も二十七日に帰国。自民党総裁選は岸田氏と河野氏が競っているとの動向が朝日新聞朝刊で伝えられ、大相撲の「白鳳が引退へ」と載った。そんな頃である。
その夜、有楽街の北の端にあるラブホテル「ベル・エポック」の一室では、ワイシャツ、黒のスラックス姿の働き盛りの男がベットの上で仰向けのまま死んでいた。
「あなた、朝ですよ」
「わかってますよ、もう少し寝かせてくださいよぉ、ツヤ子さん、昨日、お勤めの後のお勤め、ダブルワークしたんですから、疲れが尋常じゃないんですよ」
どこにでもありそうな朝の夫婦の寝室での一コマではあるが、どこにでもあるってわけじゃない。なんとこれがほぼ毎日のように繰り返されているのだから、梅宮文太ツヤ子夫婦は驚きだ。
「なにをおっしゃってるの、ほんとに」
「あと、五分だけ」
ツヤ子に剝がされた掛布団を必死に取り戻しては、妻に背を向けて再び布団を頭に被せて寝入ろうとする文太に、
「会社行かなくていいんですか? まだ水曜日ですよ」
「あと四分」
「もう、九時まで二十分切りましたけど」
「・・」しばし、静寂が続いた。外は快晴、雲一つない気持ちいい青空。普通なら鳥のさえずりでも聞こえてきてほしいものだが、なにせ品川区の住宅と町工場とが肩寄せあって生活しているような地区に、親の代から住む梅宮文太にとっては、家の前の西側区道を隔てたオフィスビルのさらに向こう側を南北に走る国道を渡っていく荷物を積んだトラックや営業車やバイクのタイヤがアスファルトを擦っていく音を目覚ましとして生まれてこのかた何十年と慣らされてきたから、多少の雑音騒音は日常生活いや人生の想定内。おいしい排ガスを胸の奥まで吸い込んでアラフォーに達して、未だ頭以外にガタはきていない。しかもなんていったって、職場まで近い。国道をまっすぐ北上すれば歩いてものの十分するかしないかで山手通り沿い、東急池上線大崎広小路駅すぐの仕事場に到着できるのだから。
「・・? ツヤ子さん、いまなんて言いました?」布団越しに妻に尋ねる夫ありけり。
「だから、もう、九時まで二十分切りましたけどって」
「まずいっ! なんでそれを先に言ってくれないんですか? 遅刻じゃないですか」
「だから言ってるじゃないですか、朝ですよって」
「これじゃ、朝飯なんて喰ってる時間なんかないよ、ああ、まずいまずい」ガバッと、起き出しては階段を下りて今の隣の物置兼クローゼット部屋に吊るしてあるスーツにスーパーマンよろしく瞬時に着替えると文太は、自分はまだ昨晩の余韻に浸り布団のなかでぬくぬくとしつつ、それでも布団から右手だけ申し訳程度に出して手を振って見せるツヤ子を恨めしく思いながらも、通勤かばんを右手でひっつかんで一人玄関から飛び出していった。
(また、恵の奴になんて小言を言われるかわかったもんじゃない。あの、小言幸兵衛に)