ペットボトルとバスケットボール
お昼休みの旧校舎は閑散としていて、どこか寂しげな空気をまとっている。今は文化部が使う以外に使用目的が物置と化している旧校舎の四階、その一番奥の空き教室が私のホームグラウンドだ。
昼放課を迎えた二年三組の教室は、喧騒という言葉で表現するにはあまりに物足りなさを感じるほどにやかましくなる。こんな場所で弁当を食べるなんて虫唾が走ると思った私は、憩いの場所を探すことにした。そうして見つけたのが、この空き教室というわけだ。
私は経年劣化によって施錠にぐらつきのある後ろの扉を開けて中に入った。
なんて落ち着く場所なんだろう。ここを見つけた私は天才に違いない。
空中に漂う埃が日に照らされて輝いている。この光景が似合うのはこの空き教室と図書室ぐらいだろう。
誰の手入れもないこの教室はすこし埃っぽいが、そこがまた自分自身しか知らないという謎の優越感をそそる。
消し方が雑で、歴史の授業の文字がかすれかすれに残っている黒板、前方には積み上げられた椅子や机、ほつれがたくさんあり、日焼けによって変色したカーテン、喧騒からはかけ離れた静寂さ、全てが私の心を落ち着かせた。
窓際の一番後ろにある、いつもの席に私は腰を下ろした。そして購買で買ってきた菓子パンにかぶりつく。イチゴジャムの塗られた食パンは、値段が安いわりに案外美味しいから重宝している。
いつもの日常だった。この空き教室で菓子パンを食べ、日々の退屈さに悪態をつく。しかし、流れゆく時間に抗おうともせずに身をゆだねてしまう。それはまるで、川に流されていく笹舟の気分だった。
朝起きて学校に行き、受けたくもない授業を受け、バイトをして眠り、また起きての繰り返し。これは大人になっても変わることはないと思う。受けたくもない授業の部分が、したくもない仕事に変わるだけ。
こんな日常をずっと続けていくのだろうか。毎日繰り返される同じ日々を、ただただ流されるだけの生活は、言い換えれば惰性に生きているということに変わりない。
私は正直なんで生きているのか、この人生に意味なんてないんじゃないかと、不安とも恐怖とも言えない悲観のようなものを抱えていた。
とたん、かぶりついた口から、イチゴジャムがはみ出して、私の頬に傷跡をつける。
ふと我に返り、窓の外のグラウンドを見下ろせば、一体どんなスピードで弁当を食べ終えたのだろうか、もうバスケをし始めている男子生徒たちが目に止まった。
どうやら彼らは三対三形式の試合をしているらしい。声こそ聞こえないものの、手をあげたり結構激しめなプレーもあって、白熱しているのが見て取れた。そして、そのうちの一人が相手をかわしてスリーポイントシュートを放つ。
ボールは綺麗な弧を描いてゴールに吸い込まれていった。観客がいたらナイスシュートと、思わず歓声が聞こえてくるであろういいシュートだった。
私はそれを見て昨日のペットボトルのことを思い出した。
彼が決めたバスケットボールと、私が外したペットボトル。こんな、どこにでもあるような出来事に大した差異はないかもしれない。でもそこに、見落としてはならない何かがある気がした。