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キャット・オン・ザ・ルーフ

作者: 海野 広雄

 僕が屋根の上に登ったのは、ほんの偶然のことだった。

 毎日夢遊病者のようにして、そっと工場の仕事を勤め上げる。終業の鐘の中、一目散にそこから逃げ出す。地下鉄で四つ目の駅の、くたびれたホームへと降り立つ。下ばかり見て歩く人々の群れを足早に抜け、一番遠くの階段を上る。鍋をひっくり返したような何かを叩き、不思議な音色を奏でる男のそばを通り過ぎると、角に小さな店がある。もはや何屋さんとは一言では語れない雑多な品揃えのその店で、僕はいつもバドワイザーを買う。安っぽいそいつの缶からこの国を濃厚に感じながらつつましい晩酌を、とついでにオイルサーディンの缶詰も求め、店を出る。そうして2ブロックほど歩くと、ごちゃごちゃアパートが立ち並ぶ薄暗い通りに出る。

 その中の一つ。親の親のそのまた親の時代。町中が空を、空を目指して貧乏な中めったやたらに建てられた、墓石のように古ぼけて、それでいて雰囲気と風格だけは妙にある建物の外階段を、僕はゆっくりと登っていく。一週間分の買い物をまとめてすると、その荷物を持って上るだけでも息が上がるような、ひどく急な階段の先。一番上の端の家。窓辺に置いた植木鉢を落としたりすれば、人の頭くらい簡単に割れそうなほどの高さにある、小さな部屋。帰りついた僕は、殺風景な部屋の真ん中でやたらと存在感を放つテーブルに、今日の晩餐を並べる。凝り固まった身体をため息とともにどさっと床に下ろし、ささやかな一日を締めくくりにかかることにした。

 その時、ふと気がついた。

 天井の片隅にある、小さな隙間に。

 ベッドの反対側であるために今まで気がつかなかったが、それがその晩急に目に入ったのだ。

 一度気がついてしまうと、忘れるわけにはもういかない。好奇心に負け、僕は調べてみることにした。ビールの気が抜けるまでのぎりぎりの間だけ。

 部屋の隅で埃をかぶっていたイーゼルを、邪魔にならないところに移す。そうしてできた空間にテーブルを寄せ、その上にそっと足をのせる。バランスを保ちながら、小さな自分の背を目いっぱい伸ばす。そうすると、ようやくお目当ての天井に手が届く。

 格子状の天井板。その一枚が、ほんの少しずれていた。端が隣の板の上に乗っている。僕はぐっと、その一枚に力を込めて、隙間を広げる。

 僕は部屋を見回し、うまいこと台座になりそうな古ぼけたトランクを引っ張り出すと、テーブルに乗せた。そして、それを足場に、今度は隙間からそっと天井裏へと、上半身を持っていく。

 …そこには、ぽっかりとした空間があった。異界への隙間のような、暗闇。最上階の住人であった僕には、なんだかその空間の存在が、とても不思議に感じられた。

 手を伸ばす。()()()()()()。頭がコン、とぶつかる。幅もあまりない。

 ギッ。何かが手に当たる。

 首を縮めてもう少し、空間へと乗り込む。屋根の裏にあたるのか、少し斜めになったところに、小さな取っ手のようなものの感触。僕は力を込めてそれを回してみる。気圧が変わる。凝り固まった空気が破れるような音がして、四角い光が外から射し込む。色からして、夕焼けの光だ。

 なけなしの腕力でもって、僕は身体をさらに持ち上げる。そして、思い切り力を込めて、その取っ手のついた扉(というより()())を外へと押す。

 光が、こぼれんばかりに飛び込んできた。

 一瞬、目がくらむ。圧倒されながら、ゆっくり目を開く。

 …そうやって、僕は出逢ったのだ。

 この街に来る前。夢見ていた本当のこの街の姿に。

 赤い屋根も、くすんだ壁も、窮屈に立ち並ぶこの街のモノリスたちも。薄汚れて、疲れ切ったこの街のすべてが、その光の中で一つの色になる、そんな風景。どんなに力を尽くしても、とても描くことのできない、圧倒的な世界。

 口元が、思わず緩む。視界がほんの少しぼやける。

 僕はもう、夢中だった。

 そうしてその晩、そこは僕の愛しの場所になった。

 

 ★


 春の清々しい、それでいて夜の冷気をはらんだ風が、火照った頬に心地いい。

 僕はその日二本目のバドワイザーを空にすると、落とさないようにそっと足元に置いた。

 魔法の扉を開いた先の、別世界。自分の部屋よりも広い、ぽっかりとした空間。もとよりどこからもたどり着けないはずの、都会の幻。あの扉を作った前の住人は、ひょっとしたらそんな場所にあこがれていたのではないだろうか。

 そんな世界の片隅に、小さなキャンプ用の椅子を広げ、西向きに腰掛ける。

 その日も、そうして夕陽が沈んでいくのを眺めていた。

 赤や青や様々な色した屋根たちが、みな同じ色へと溶けていく。それぞれ思い思いに活動していた今日という日を、同じ顔した夜が順に迎え入れていく。そうやって街が眠りにつくのを、僕は特等席からこっそりと眺める。

 顔なじみのどら猫が「俺の時間が来た」とばかりにあくびをしながら、屋根伝いにそばへとやってきた。その姿は、まるで自分がこの世界の主だと言っているようにも見える。

 僕がとっておいたツナ缶を、彼はぶすっとした顔で頬張りだす。そんなどら猫の頭を撫でつつ、僕は再び街へと視線を戻す。

 双眼鏡がいらない、心地よい距離。

 屋根の上から見える街は、ちょうどそんな感じだ。

 目を凝らすと南の方に、街のシンボルタワーの澄ました姿がうかがえる。

 反対側には、グリーンサラダのバイキングのような、長方形で横に広がる公園。

 どちらの側も、手前にはただひたすら、屋根、屋根、屋根。

 何ブロックも何ブロックも、都市計画なんて知ったことかとばかりに生えていった建物たちが続く。

 特にこの辺りは、七階建てから八階建てくらいの、気の向くまま上に伸ばしたような、しまりのない建物が肩を寄せ合って並んでいる。その隙間のなさ、空の狭さに住民はいつも息苦しくしているし、時にはラジオの音がうるさいと喧嘩の罵声が聞こえたりもする。まして、てっぺんともなれば室外機や物置、鳥小屋やら何やらで混沌としている。もちろん、ベランダなんて洒落たものをくっつけたものなんてありはしない。せいぜいが、階段の踊り場だ。昔、トニーとマリアがデュエットしてたところと言えばわかるだろう。

 そんな場所。そんな世界。だから当然、夕焼けなんて大層なものを、窓から拝みようがない。

 見たければ、何ブロックも離れたあのだだっぴろい公園までわざわざ出向くか、なけなしの金を払って街一番のビルの展望台に上るしかない。いずれにしても、永遠ではない。

 だから、縁がないと思ってた。

 でも、この空へと手が届く小さな広場は、僕を待ち、迎え入れてくれた。

 それだけではない。

 そこは名誉なんてドレスコードを必要としない。

 同じような建物が立ち並ぶ。裏を返せばそれは、ほとんど皆同じ高さだということ。

 狭い路地から仰ぎ見るだけでは気づかなかったけど、いざ上に登ってみるとよくわかる。

 もちろん多少の凸凹はある、けど、同じ年ごろの人たちをランダムに並べた時、背の高い低いで凸凹する、せいぜいそれくらいの違いだ。

 だから、一度一番上まで登ってしまうと、僕と太陽との仲を邪魔するものはいなくなる。

 道端で繰り広げられる口喧嘩や井戸端会議も、ここまでは登ってこない。

 部屋にいると薄い壁越しに聞こえる、隣家のカップルの声も、ここじゃ遠い彼方へと消え去る。

 どんな号数のキャンバスを用意したって、その小ささに嫌気がさして絵筆を投げ捨てたくなるような、そんな大パノラマが広がっている。僕はそれを、贅沢に堪能する。

 あの日から、ここは僕のお気に入りの場所。

 僕は、屋根の上(オン・ザ・ルーフ)の住人になったのだ。

 …三本目のビールを飲み終える頃、世界から光は失われ、あたりが闇へと包まれる。それは、映写機からフィルムが途切れ、灯りがつくまでのしばしの暗闇にも通じる気がする。

 気がつくと、どら猫もどこかに行っていた。常連周りにでも戻ったのだろう。ツナ缶はしっかり空になっていた。

 風が冷気を帯び始める。僕はビクッと小さく震える。さて、店じまいの準備かな。

 空には金星が輝き始める。遠く、教会の鐘が聞こえる。

 今日も空は澄んでいる。

 夜が始まる。

 おやすみ。


 ★


 雲が踊っている。

 エイトビートの風にのせて、雲が優雅にその身を揺らす。

 二週間が経った。

 毎日(雨さえ降らなければ)ゆっくりと過ごす、秘密の時間。

 僕だけが知る…なんて自惚れていたが、そんなことはないとわかったのは、その夕暮れ時だった。

 雨上がりの、少し靄がかかるような、優しい世界。そういう場所で。

 僕だっていい具合にアルコールが回れば、お気に入りの歌を口ずさんだりする時がある。

 その日は、いうなればそんな調子。僕は、いつもとは違う方向を向いて、誰もいないのをいいことに、古いロックをシング・ア・ロング。

 …ちょうどそんな時だった。

 はっきりとわかる。

 生涯忘れない、永遠の時をゆく調べが、ちっぽけな僕に届いたのは。

 かけすの口ずさむ季節の誘いにも似た、その甘い、優しい歌声。

 それが聴こえた時。僕はそっと自らの醜い口を閉じ、声のする方にひかれていった。

 その先に…彼女はいた。

 複雑に入り組んだ屋根の上の世界。真っ白な煉瓦によく映える、ブルーの少し煤けた屋根の上。小さなトランジスタラジオを足元に置き、沈みゆく夕陽を眺めながら、歌を紡ぐ彼女が。

 オレンジの君からはいくらか北寄りに立つ彼女は、後ろ姿だけが見えた。

 さわやかな印象を残す白いブラウスに、膝下までざっくり切り落としたブルーのタイトなジーンズ。これから始まる長い夜の闇に似た漆黒のまっすぐに伸びた髪は、ブラウスと相まって、オレンジに染まりゆく世界の中で、不思議とモノクロームの印象を強く与えた。

 いつになく幻想的な風景の中で、今日という日は終わりを迎えようとしていた。一瞬の緑の光が、僕の愛する街を、果てしなき宵闇へと誘いこむ。そして、ゆっくりと瞼を閉じるように、夕陽が姿を消す。示し合わせたかのようなタイミングで、曲が緩やかにフェードアウトし、番組を持っているのが信じられないようなだみ声のDJが、ふわふわと浮かんでいた心をざらついた現実へと戻そうとする。しかし、まるでそれを拒むかのように彼女はすっとかがみこむと、魔法のようにトランジスタのスイッチを切った。

 かがんだままの姿勢で、なぜか少しとどまる彼女。ようやく立ち上がろうとしたとき、すっと左手が口元へ伸びる。宵闇を行く蝶を照らすかのような、赤い火が揺れている。僕は、じっとそれを見つめていた。

 僕のいる場所から遠い向こうへ。彼女は立ち去ろうとした。しかし、その浮世離れした雰囲気に誘われたのか、僕は思わず、声をかけようとした。普段の自分から考えればおよそ信じられない行為。その時は、でもそうするのが自然に思えたのだ。

 が、しかし。

 僕のなけなしの勇気が口元で形になる直前。あちこちから、拍手の音が響いた。それどころか、気分の良さを示すところの景気のいい口笛すら聞こえてきた。

 僕は驚き、周りを見回す。すると、いつの間に現れたのか、あちこちの建物に、笑顔を浮かべた人たちがいた。とっさのことに僕は全然理解が追い付かない。が、彼女は少し恥ずかし気に俯くと、軽く膝を曲げ、オーディエンスに応えていた。

 その時。世界が、また少し姿を変えた。僕の口元もまた、静かな微笑みへと姿を変えた。

 その不思議な雰囲気に、ぼくはすっかりやられてしまっていたのだ。

 この街にやってきた時に一度だけ見たオペラ。そこで目にした、この世のものとは思えないような舞台美術。無機物と人が、音楽という魔法の中で一つに混ざり合う、およそ現実的でない時間。…あの衝撃が、彩度を上げて、僕の前に現れたのだ。 

 僕はそこに混ざらんと、手を叩きながら。もう一度、旋律を思い出し、目を閉じて、そっと胸に刻み込む。

 …気がつくと、夜の帳がすっかり世界を覆っていた。

 楽園の住人達も、もう誰も残っていない。

 どこかの屋根でもらってきたのか、いつものどら猫がなにやらむしゃむしゃ食べながらこちらへ歩いてくるのが見えた。僕は缶の底に残ったわずかばかりのぬるいバドワイザーを一気に飲み干す。身体が少し震える。

 今宵のプリマドンナの方へ視線を向けると、もうその姿はなかった。

 何をするわけでもないけれど、なんだか拍子抜けした僕は、どさっとその場に腰を下ろした。

 もう宴は終わっているのに。なんだか離れがたくて。

 ここにいればまだ、柔らかい世界にとどまることができる気がして。

 どら猫が僕の横にやってくる。我が物顔で座り込む。

 今日はもうあげるものないよ。それより彼女のこと、知ってたら教えてくれよ。彼に、僕はそっとつぶやいてみる。

 しかし、彼は僕の話を聞いているのかいないのか、あくびを一つすると首をフリフリ。そして、すぐにどこかへとまた旅立っていった。

 僕はため息をつく。遠く、教会の鐘が聞こえる。

 引き上げることにした。


 ★


 どうやら、彼女は時々現れるらしい。それがわかったのは、僕がもうすっかり屋根の上(オン・ザ・ルーフ)の住人になり、そこでの新しい友人ができた頃だった。

 すぐ隣のアパートの屋根の上(オン・ザ・ルーフ)。小さなその国の当主は、ボブと名乗った。

 バリカンで短く刈り上げた頭に、いつもサングラスを載せている。黒人特有の陽に映える輝かしい肌とは裏腹に、どちらかというと映画青年といった方がしっくりくるような容貌の持ち主だった。ヒップホップよりかはジャズ、それもセロニアス・モンクやチック・コリアあたりを好んで聴きそうな、そんな印象だった。

 その日も僕は仕事を終え、帰り際に買ったバドワイザーと、お気に入りのチーズソーセージを手に、屋根に上った。

 太陽の自己主張が日に日に強くなっていた。それでも工場が繁忙期なのもあり、上ったのはもうだいぶ遅い時間だった。今日という日のタイムカードが押されるのももう間もなく。

 僕はいつもの場所につき、袋からごそごそとバドを取り出すと、勢いよく蓋を開ける。おめでとう、とでも言われているような心地よい音がする。ありがとうとばかりに口をつけようとすると、左の方から唐突に

乾杯!

という声が聞こえた。

 驚いた僕は、慌ててそちらの方に目をやる。そこには、僕に向かってにこやかにハイネケンを掲げる彼の姿があった。僕は一瞬ぽかんとしてしまったが、慌てて乾杯を返す。すると彼は微笑み、ハイネケンをぐっとあおった。僕もつられて飲み始める。

 そこからはなんとなく、世間話を交わす流れになった。人見知りの僕には、とても珍しいことだった。

アルコールのおかげかもしれないけど、バーでだって一人で静かに飲んでいたいくらいだから、おそらくは屋根上マジックが働いたのだろう。

 半年前にこの街にやってきた彼は、時々こうして屋根の上(オン・ザ・ルーフ)の住人になるらしい。

 最近はとんとご無沙汰だったけど、と照れ気味に笑う。彼もまた、ひょんなことからこの世界の入り口を発見したらしい。

 空が橙から紫へと変わる。遠くに、渡り鳥だろうか、優雅な鳥の群れのシルエットが見える。

 どこか故郷の夕焼けに似ているんだ、と彼は語る。

 それが彼にとってどういうことなのかはわからないし、教えてもくれなかったが、僕は黙って彼の話に耳を傾ける。

 君は、どうしてこの街に?彼はそれとなくそんなことを問いかけた。僕は、小さく笑って、話題を変える。

 一日が終わりへと向かう中で、僕たちはそんなとりとめのない話をした。

 同じ街で暮らし、同じことに同じ意見を持っていることを知った僕らは、当たり前のように意気投合した。

 訥々と、この街での物語を話す彼。職場での居場所がなく、週に一度、休みの日にここに上がるのが楽しみ。僕が気がついていなかっただけで、何度かは隣の屋根の上にいたらしい。その時は「あぁ、また仲間が増えたな」と思ったそうだ。

 仲間?僕が問い返すと、彼は笑って応える。そうさ、屋根(キャッツ・)の上の住人(オン・ザ・ルーフ)だよ、と。

 キャッツ?耳慣れない言葉に、僕は問い返す。

 屋根(キャッツ・)の上の住人(オン・ザ・ルーフ)、そう言って、急に彼はハイネケンをスチールドラムへと変える。裏拍で、四拍。驚いた僕に、彼はほら、という調子で、僕の足元の空き缶を指し示す。

 慌てて僕も、そのビートを追いかける。…すると、どうだろう。また別のアパートの上からも、ビートが響きだした。

 僕は驚き、立ち上がってそちらに目を向ける。そこには僕らと同じように、夕陽を眺めながら、タバコを吸っている男が見えた。

 いつも僕が座っているところからだと、ちょうど死角になって見えないあたり。馬鹿でかく存在感を放っているエアコンの室外機の陰。

 ドレッドヘアにラスタカラーのヘアバンドといういかにもすぎるスタイルで、くたびれ色あせたTシャツを着ている。見るからに南国の陽気さを感じさせる彼も、ビールでリズム、変わりない。

 僕は驚き、ボブの方を見やる。すると彼は僕にウインクを投げかけ、リズムに変化を加える。するとドレッドもそれに合わせて変えてくる。世界の空気がジャズになる。音楽的素養におよそ欠ける僕は、そんなアドリブに対応できず、それまでと同じリズムを必死に保つだけでせいいっぱい。それでも二人はしっかりと、僕をグルーブに混ぜ続けてくれる。

 嘘みたいに、雲が僕らのリズムに合わせて流れていく。

 まるで西の空に沈みゆく夕陽に、僕らが伴奏しているように思える。

 …やがて、つかの間の黄昏は終わりを迎えた。自然と僕たちの手もフェードアウトしていく。

 僕は慌てて屋根の上(オン・ザ・ルーフ)を歩き、ドレッドの彼に声をかけようとした。

 が、横から、僕を止めるように二拍、手を叩く音。

 音の主に目を向けると、やめとけやめとけ、という顔をしていた。

 僕は悩んだ末、もう一度向こうへと目をやる。けれど、もうそこに彼の姿はなかった。

 すべては気まぐれ、自由気まま。それが、この世界の心意気さ。

 ボブがつぶやく。僕が再び顔を向けると彼は微笑み、おやすみという言葉と共に現実へと下りていった。

 僕は、すっかりぬるくなっていたバドを飲み干す。

 教会の鐘の音が、澄んだ音を響かせる。

 今日はどら猫は来なかった。

 世界のビートは、もう聞こえない。


 ★


 それからは時折、ボブと話をした。

 週に一度の休みとのことだったが、どうやらそれが何曜日なのかは特に決まっていないらしい。

 僕がこの世界にやってくるのも気まぐれ。だから、僕らが顔を合わせるのは、偶然が手を取り合った時だけ。

 でも、ここはそれくらいがちょうどいいのだ。

 あの日出逢ったプリマドンナは、あれ以来会えていない。

 そういうものさ。

 一方で、いろんな住人に出逢うようになった。

 ドレッドの彼と同じように、みんな初めは何かにこっそりと隠れている。見渡して自分だけかなと思っていたら、何かの拍子に、いつの間にか現れている。まるで、目を凝らすと隠れた図柄が浮き上がる絵画のような、どこか秘密めいた出逢い。

 彼らは皆、夕陽の方を向いていた。挨拶を交わすというよりは、去っていく今日との別れを惜しんでいるようだった。その惜しみ方もそれぞれ。遊びに来る鳥を、肩にのせている人がいる。ギターをかき鳴らし恋を憂う人がいる。ヨガに興じる人もいれば、太極拳と戯れる人もいる。思っていたよりも、屋根の上の世界は広いみたいだ。そのうち、狭いスペースで踊るアイドルが現れるかもしれない。でも、そのどれもがきっと、その人にとって一番大切な行為なんだろう、そんな気がした。

 彼らはそこはかとなく、互いの存在に気がついている。さりとて邪魔しない関係。ことばを交わさなくても、共にいるような。そんな優しさ。

 屋根の上は、他のどこにもない居心地の良さにあふれていた。

 やがて夕陽が影を落とし、薄いヴェールをかけたように 屋根(キャッツ・)の上の猫たち(オン・ザ・ルーフ)の顔を隠す。

 すると、心が解放されたのか、みな少しだけ輝きを増す。

 僕はいつしか夕陽だけでなく、そんな彼らの営みを眺めるのが楽しくなっていた。…けれど一方で、不思議と彼らが誰なのか、「下界」ではどんな風に生きているのか、そんなことには興味が湧かなかった。それは多分、心がそう望んでいたのだろう。彼らも、また。

 そのたびに顔ぶれは変わる。時には同じ場所に、違う人がいることもある。

 仲間意識があるようで、それでいて互いに自由のままでいて。

 もちろん、話したければ話しかけて。みなが相手を察し、驚かせ傷つけない範囲で関わる。

 人が長い歴史の中で作ろうと思い、作り上げることができなかった静かな関係が、ここに。

 取り立てて何ができるわけでもない。むしろ得意なことなどない。せいぜいよく言って平凡な僕。共に過ごす人なんているわけもなく、ただ目の前に現れる日々を消化するだけの存在。

 けれど、ここを見つけてからは、楽しみというものができた。

 夕陽にこんな思い入れを持つようになるなんて…ティーンエイジャーの頃の自分に聞かせたい。

 僕は、自分を透明にする。視線が、本能に従って動く。

 両手の親指と人差し指で、空中に小さな窓を作る。

 そこから、世界を切り取る。

 留めたい、美しい瞬間を探すその行為を、久しぶりにやっていた僕。

 ずきっ。

 工場で殴られた頬が今更痛みを訴えてくる。

 「下界」での記憶がぶり返す。

 無意識に、心が、あのメロディを求める。

 僕は目を閉じ、現実を丁寧に追い出す。

 …その時、隣のアパートの上で、かたり、と音がした。

 目を向けると、ボブが登ってくるところだった。外側にかろうじてくっついている非常階段を、リズミカルに上る足音。頂上にたどりつくと、そこに置きっぱなしになっている小さな木製の丸椅子を手に取り、鮮やかな色に切り取られた光の部屋の中に腰かける。

 久しぶりに会う彼に、僕は声をかける。そして、おかえりの言葉の代わりに、僕はちょうど持って上がっていたキャンベルスープの缶を投げる。

 スープ缶をどうするの、と彼は笑って答える。

 そのまま食べるのさ。僕は答える。ビシソワーズとビール、最近の僕の流行りだ。

 ほんとかい?彼は笑う。

 彼がいつものハイネケンを開ける。どちらともなく乾杯の声を掛け合う。

 改めて夕陽と戯れる時間が始まる。いつの間に空けたのか、足元に空き缶がもう二つ並ぶ。

 ゆっくりと、オレンジに紫が混じりだす。闇の帳が落ち始める。

 地上を行く人たちの姿が、世界にそっと呑み込まれていく。

 屋根(キャッツ・)の上の猫たち(オン・ザ・ルーフ)は徐々に姿を消していたが、隣のボブは立ち去る様子もなく、ゆっくりとハイネケンを傾けていた。

 ふと、僕は思った。彼ならあるいは知っているかもしれない…

 声をかけると、彼は少し驚いて、ん?と返事をする。

 彼らのこと、知っているかい?

 遠慮気味に尋ねる僕の声に、彼は軽く空を仰ぎ見、考える。

 そしてハイネケンをくいっと傾け、口を開いた。

 よくは知らない、少なくとも君と僕のように名乗りあい、おしゃべりを楽しむほどには。

 じゃあ逆に、何を知ってるの?僕は問い返す。

 何が好きで、何を楽しみにしているかかな。彼は笑って答える。

 邪魔せず、幸せを分かち合う。言うなれば、ここはそういうところなんじゃないか、って僕は勝手に思ってる。そう言って彼は僕にチーズを投げる。なんとか落とさずに掴んだそれを、僕は口に放る。濃厚な味。塩気が少し。

 ひょっとして、こうして言葉を交わすのは迷惑?僕はおずおずと彼に尋ねる。

 とんでもない、それも自由さ。ボブは笑って答える。

 僕も君と話をしたいから。それは僕の自由。…あの夕陽を見ていると、なんだか世の中はもっと自由でいいんじゃないか、って思えてくるよ。そう言って、彼は笑う。みんな、あの夕陽が好きなんだよ。

 そうだね。僕らは微笑みあい、改めてビールを掲げあう。

 遠くの方から、ブルースハープの音色が訪ねてきた。知らないメロディ。郷愁を誘う。ボブも同じ感覚のよう。心地よさそうに体を動かしている。

 空が濃くなっていく。世界はますます一つに溶けだす。

 ゆっくりと、ゆっくりと、消えていく懐かしさ。そうして、苦しみも、喜びも、思い出へと姿を変える。

 静かになると、あちこちから拍手が響く。

 僕もそっと、手を叩く。こんな時僕にできることは、ただそれだけ。

 粋なリフが、観客に応える。そして、しっとりと闇の中へと消えていく。

 何ていう曲?ボブが聞いてくる。

 僕は知らないと首を振る。すると、いいんだよ、君が思った名前をつければ。と、無茶なことばが返ってくる。

 笑って流そうとしたけれど、彼はじっとこっちを見つめている。

 二人静の宵の詩、かな。

 そりゃあいい、文学的だ。彼が笑う。

 小説家に失礼だよ。僕は弁解気味に、答える。

 いいじゃないか、彼は答える。君はきっと、そう聞きたかったのさ。

 そうかもしれない…僕は思った。明日こそは…

 歌が欲しかった?

 唐突に、ボブが聞いてくる。僕はその質問に驚き、彼を見る。

 いやなに、じっとそっちの方を見つめていたから。そう言って、彼は笑う。

 僕はなんだか照れ臭くなり、彼から顔を背ける。

 あれから彼女を見た?

 彼は笑うのをやめ、静かに聞いてくる。僕は首を振る。

 そうか…最近はめったに姿を見せないから。出逢えたら次の日は幸運だ、そう思うようにしているよ、と彼はつぶやく。

 幸運の女神ってところかな、彼のそのことばに僕は肩を落とす。思ったよりも沈む自分の心に、僕は驚きを隠せなかった。

 すっかり、暗闇になった。遠くに、世界中から人々を迎えるため、光たちが躍るのが見える。

 屋根(キャッツ・)の上の猫たち(オン・ザ・ルーフ)は、僕らを除いて姿を消していた。

 毎日ほんのわずかな時間だけ生きられる者たち。

 その時にだけ、存在を認められる中で。彼女は、歌う蝶のよう。

 彼女の姿が夕陽と重なる絵画のような風景に、僕はきっと、虜になっていたのだ。

 だから僕は、小さな声でボブに尋ねた。また会えるかな…?

 彼は応える。そう願いたいね、と。

 僕らは微笑みあい、一日を終えた。


 ★


 あれからどれくらい、屋根に上っただろうか。

 日々の暮らしから色がなくなっていく中で、そこだけが変わることのない確かなものだった。

 ジャムセッションは時々開かれた。ブルースハープだけでなく、ギターやフルート、どこかの民族楽器、はては鍋を裏返してドラムにしている猛者までいた。だけど決まってみな、他の猫たち(キャッツ)を邪魔しないようにささやかに。穏やかに。間違っても大騒ぎするなんて無粋なやつはいない。誰かが言わなくても、ちゃんと守られている静かなルール。

 澱んだ下界からそこへ上がる時、その静かな優しさが僕を包み込む。一日がほとんど終わるそんな時、僕はようやく人間になれるような気さえしていた。

 夏が近づくにつれて、夕陽の始まりは遅くなっていった。毎日定点観測をしていると、まるで世界にやる気を出すよう迫られているようで、なんだか憂鬱だった。

 世界だけではない。街も、また。少しずつ、屋根(キャッツ・)の上の猫たち(オン・ザ・ルーフ)の顔ぶれは変わっていた。皆、気づかれないようにひっそりと、姿を消していた。

 人の流れの早いこの街では、それが当然なのかもしれない。ずっと姿を見ないというのは、つまりそういうことなのだと、僕は頭でなんとか理解しようとしていた。

 ボブだけは、それでも時折姿を見せた。やりたかった仕事につけたようで、会うたびに疲れた顔をしてはいたものの、どこか幸せそうだった。それは、僕が「下界」で見ることのない輝き。…少しずつ、彼とことばを交わすのにアジャストが必要になっていた。


 ★


 陽が傾いても依然汗ばみ、ビールもすぐにぬるくなってしまう頃。冷たいビールを飲むために、缶が空くたびに下へ降りるか、はたまた汗をかかないよう一度腰掛けたらじっと動かないか、そんなちっぽけなことばかりで、ほかに刺激なんてなくなっていた、そんな頃。

 夕立が続き、しばらく屋根(キャッツ・)の上の猫たち(オン・ザ・ルーフ)は鳴りを潜めていた。その日もさっきまで通り雨が降っていたので、僕は屋根の上に出るか迷っていた。座るのは少しためらわれるし、かといって立ったままでは落ち着かない。諦めて部屋でペーパーバックでも開こうかとしていた、そんな時だった。

 歌声が、聞こえてきた。

 僕は、慌てて屋根の上へと登る。何も手に持たず、ただそのままで。

 濡れた足元に、盛大に足を取られそうになる。手を伸ばして、なんとか惨事から逃れる。

 顔を上げると、目の前にどら猫がいた。どこで食べ物をもらっているのか、久しぶりに見るその姿は、まるで買ったばかりの毛糸玉のようだった。何の用だとばかりにこちらをにらむそいつを無視して、僕は歌声の主を探す。世界は少し靄に包まれていて、まろやかに語りかけてくる。空は、あまり見かけない色。夏の訪れを告げる細長い雲が伸び上がっている。全体が逆光となって、うまく視界が定まらない。

 じっと、目を凝らす。すると、羽化したばかりの蝶のように不安定な姿をして、こちらに背を向け、歌を紡ぐ彼女が現れた。

 沈みかけの夕陽の息吹が、彼女の金色の髪に反射し、キラキラと光る。その粒の一つ一つが、すっかり暗くなった眼下の街へと降り注いでいるかのよう。幻のような世界に咲く、幻のような花。空の色と相まって、この世界と幻想の中の桃源郷の狭間を、あたかも覗き込んだかのようだった。

 讃美歌だろうか。およそ信仰心のかけらもない僕には、その歌がいったいなんなのかわからない。けれど、その澄んだ歌声は、まっすぐに僕の頭の中に飛び込んで、記憶の奥底の一番美しいところを舞い、鮮やかに色を付けて甦らせることすらできそうだった。僕は微かな香りさえ逃さないように、五感のすべてでそれを捉える。

 彼女はこちらに気がついてはいないようだった。いや、ともすればこちらなんか気にしてもいないのかもしれなかった。ただ去りゆくあの夕陽だけに歌声を捧げる、睦みごとのような...

 

 遠い国より来たりし 白き衣の天使たち

 愛のあたたかさを 探しもとめて

 儚いその燈火を 茜色の火が永遠の絵に刻む

 この声よ 願いよ どうか共に君のもとへ


 歌が静かに消えていく。夜がやってくる。

 周りを見回すと、僕と同じくそっと耳を澄ましている猫たち(キャッツ)の群れ。僕らは訪れた静寂を破るかのように、あらん限りの気持ちを込めて拍手を送る。

 彼女は広げていた手をゆっくりと閉じると、暗闇の中で拍手に応える。それに合わせて、彼女の白いワンピースが、役割を終えた花びらのように閉じていく。

 足元がくいくいと引っ張られる。目を向けると、どら猫のやつが、俺の女はすごいだろ、とばかりにこちらをどや顔で見ている。…静かにしていたところを見ると、こいつも黙って歌に聴き惚れていたんだろうか。そう思うと、僕はとても微笑ましくなった。

 夜風がふっ、と吹き抜けていく。南国の温かい空気を運んでくる。一年のほとんどが寒いこの街に訪れる、短い夏の息吹。彼女のワンピースがふわりと揺れる。

 三々五々散り始めていた観客たちの中で、僕はまだ、動けないでいた。なんとなく、突き崩すのが、恐ろしかった。

 彼女は、深まりゆく暗闇に包まれながら、そっと舞台裏への一歩を踏み出していた。優雅さが人の形をしたようなその姿は、どこかこの世界に似つかわしくない、触れてはいけないような雰囲気に包まれていた。

 けれど。このままじゃ。

 …僕は、変化を求めていたのだろうか?

 何を求めていたのだろうか?

 人は、天使の羽に、なぜ手を伸ばそうとするのだろうか?

 僕は緊張のあまり乾ききっていた喉を、むりやりに震わせようとした。しかし、うまく音を紡げない。まるで彼女の前では、醜い音を響かせてはならないと、世界によって封じられているような気さえした。踏みつぶされそうになる僕の前から、その姿が消えようとしている。…押し寄せる無力さに負け、僕はゆっくりと瞳を閉じ


 にゃあ。


 その瞬間、どら猫の奴が信じられないほど場違いな大声を出した。僕は息が止まる。なんてことをする。力を失った喉を奮い立たせ、僕はどら猫のやつを叱ろうとする。

 しかし、そんな僕の努力を無視して、どら猫の奴は走り出す。そして、それ以上近づくのは無理なほどぎりぎりの淵までゆくと、もう一度鳴いた。

 あぁ、だめだ。最低だ…なんてことをしてくれたんだ。

 

 え?

 

 声が、小さな声が上がる。

 僕は驚き、瞳を開く。

 すると、視線の先。彼女が驚いたように、どら猫を見ていた。

 僕には、気づいていない。

 彼女が、こちら側へと少し、歩みを進める。

 その時。

 沈みゆく空から闇に包まれつつあるここへと、一条の光が飛び込んできた。

 彼女の表情が、一瞬あらわになる。瞳のそばで、光が小さく屈折しているのが見える。不意をつくその光の眩しさに、彼女は思わず手をかざそうとする、と…

 どら猫のさらに先で固まる僕と、彼女の視線が重なった。

 運命なんてものが、もしあるのならば。

 まさにそこで、その時が、最高の音楽が流れるべき瞬間。…が、現実は冷酷だ。その瞬間、僕はきっかけを逃した俳優のように、ただじっと、動けずにいた。勇気よ、さぁ。ほんのわずかでも、そんなものが僕の中にあるのなら。どうか、今。

 あの…

 紡ぎだされたのは、半端な声。魅力というものが排除された、平凡で、つまらない声。ことば。生み出したそばから消し去りたくなるような、醜怪な意思。

 己の押しつぶされそうになった僕は、目を背けようとした。

 しかし。

 その声の一体何に惹かれたのか。続きを期待するように、彼女がわずかに首をかしげる。瞳の色は、感情の彩は、光の中にあってうかがうことができない。

 一瞬が何時間にも感じられる。僕は必死に思考を巡らせる。こんな時紡いだら美しかろうことば、想像の中でストックしておいたはずの麗句は、何一つ出てこない。

 あなた…前にも聴いていた…

 …予想もしなかったことに、ことばに、僕は息が止まる。やがて思い出したかのように、ぎこちなく首を縦に振る。

 すると…彼女が、微笑んだ。

 …今だ。今しかない。僕はなけなしの勇気を、乾ききった喉へと叩きこむ。

 とても、素敵だった…また聴けて…嬉しかった。

 まるで年上のお姉さんに答える子供みたいな口調。

 しかし、そんなことばにさえ、彼女はありがとう、と応えてくれた。

 嬉しさでいっぱいになる。…しかしもう続きのことばを発するには限界だった。不自然な間。絶望的な違和感が生まれようとする、まさにぎりぎりの瞬間だった。

 にゃー。

 僕らに挟まれていたどら猫がつぶやいた。すると、彼女はそちらを見やる。彼に合わせてかがみこみ、あなたも。いつもありがとう、と微笑んだ。

 光が、すっと消えていく。夜が、また一つ、深みを増す。

 それが合図かのように、彼女はどら猫にまたね、と告げ、ゆっくりと立ち上がった。そして、再び僕の方を向く。待って。僕の奥底の愚かな心が、理性のブレーキを振りきって、叫びをあげようとする。

 あの、あなたの名前は

 愚者の小唄のように、暗緑色の空へと混じっていく平凡なことば。

 応えを求めるような力はそこにはなく。ただ消えさる運命であったはずの音。

 「アリー」

 けれど、信じられないことに、声が届く。彼女が少しだけ、ほんの少しだけ躊躇い気味に、僕に大切なものを届けてくれる。

 アリー…僕は戸惑いながら繰り返す。彼女は、視線をそらし、小さくうなずく。そして、もう一度だけ僕に微笑むと、ゆっくりと、去っていった。

 闇が、辺りをしっとりと包み込む。気がつくと、靄はもうほとんど晴れていた。

 教会の鐘。音が輪をなして、空に広がる。

 そこにただ留まったままの僕の足を、どら猫がつつく。腹が減ったと、言下に主張しているようだった。


 ★


 それからの毎日。

 僕の頭は、彼女のことでいっぱいだった。まるで、ティーンエイジに戻ったかのようだった。しかし当然、そんなことは理解されるはずがない。ぼうっとしてばかりの僕に、社会のストレスは容赦なく向けられ続けた。あちこちがばかになっていく自分がいた。

 それでも毎日屋根に上っては、彼女がやってくるのを待ち続けた。じっと、その姿を一瞬たりとも見逃さないように、同じ方向を見続ける。いつの間にか、夕陽ではなく、彼女が目的に代わっていた。

 しかし、あれ以来彼女は一度も姿を現さなかった。

 毎日、失望を胸に、屋根から部屋へと戻る。そこから眠るまでの時間、僕は久しぶりに絵筆を握って過ごした。いったい、どんな気の迷いだったのだろう。イーゼルから埃を丁寧に払い、手を付けぬままだった真っ白のキャンバスを、オレンジに染め抜こうと、果てのない戦いに挑み始めた。

 

 ★


 変化をもたらすのは、いつも音だった。それが、どんな形であれ。

 盛夏を迎え、いよいよ屋根の上にいるのが厳しくなってきた頃。

 ほんの数ブロック先で、大規模な工事が始まった。この街の未来を高らかに歌い上げるかのような気取った青写真に従うそれは、もっとも空に近い劇場の音楽を容赦なくかき消した。まるで、静かな時を過ごすことを、街に禁じられているかのようだった。

 その日、僕はいつものようにバドを買って帰るというルーチンワークから離れ、戯れにどこかのパブにでも寄ってみようという気分になっていた。あの騒音から、離れたくなっていたのかもしれない。そうして、歩き慣れた道から一つ薄暗い路地へと迷い込むことにした。

 初めて訪れる路地。すぐに小さな看板が目に飛び込んできた。読まれることを放棄したようなデザインの文字。どうやら小さなライブハウスのようだった。扉の隙間からは、気怠いブルージーなジャズが染み出してくる。いかにもこの街らしいな、と思ったが、ジャズという気分でもなかった僕は、すぐに興味を失い、また歩き出そうとした。しかし、その瞬間。光を浴びることを拒否するようなその路地に、細く鋭いオレンジ色の矢が射し込んだ。その光の先端が、今僕が離れたばかりの扉を突き刺す。

 それは、まさに天啓のように。その先に、彼女がきっと…

 もう、その考えの虜だった。僕は、光に導かれるかのように、その店の重い扉に手を伸ばし、薄暗い店の中に足を踏み入れた。中までは西陽は届かず、ぼやついてほとんど見渡すことができない。ゆっくりと目を慣らす。さっきまでは聴こえなかったウッドベースの音に気がつく。僕はきょろきょろと薄暗い店内を見渡し、濃いオレンジ色に照らされたカウンターへとたどり着く。音楽を邪魔しないほどの声量で、バーテンに、彼女がここで歌っていないかを尋ねる。しかしどうにも的を射ない様子だった。容姿をも説明したが、なしのつぶて。僕は礼を言い、そっと店を後にした。

 それからの毎日。僕はこの街のあちこちのライブハウスを、手当たり次第に訪ね歩いた。…それは、僕の知ることのなかった世界だった。ほとんどの店は、路地から地下へと降りる階段の先、建物のいわば見えない底に存在していて、気にかけなければ永遠に視界に飛び込んでこないような、そんなところばかりだった。それだけでもう、屋根の上から来た僕のような人間には、場違いなこと甚だしかった。

 それでも僕は、彼女の姿を、手がかりを探し続けた。

 けれど…何も掴むことはできなかった。

 どの店のオーナーも、この街の歌手なら皆知っていると答える。にもかかわらず、彼女のことを知る人となると、実際誰一人いなかった。

 場違いな世界を覗き続けたせいか、次第に僕は体調を崩していった。やがて、僕はライブハウスを回るのをやめることにした。すべての店を回ったわけではなかったが、なんとなく、どこに行っても彼女には会えない。そんな気がしていたからだ。確たる理由はなかった。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()陽の当たる健康的な場所で生きる、正々堂々とした人々の街。それがこの街のイメージなら。確かにこういうところは、そこから弾かれた人たち、違和感を覚えている人たちの寄り集まるところだった。そういう意味では、屋根の上とも似ていた。しかし、それでも、どこか違うのだ。決定的に。そのことに気づいてから、僕は元の生活に、元の世界に戻った。

 それならば、彼女の家を探してみればいいと思うかもしれない。実際、何度もその考えは僕の頭をよぎった。けれど、それは違うのだ。それは、歌のない世界の彼女。そこに飛び込もうとすることは、心が、許さなかったのだ。


 ★


 さらにひと月が経った。

 彼女の姿を見ないことが日常となり、当たり前となり。ただ太陽だけが、日に日に存在感を増していた。

 変わったことといえば、ビールの量と、アパートの下の住人くらいだろうか。新しい住人は音楽が趣味なのか、時折部屋でけたたましい騒音を響かせていた。個人の静寂を尊重しようという意思がまるで感じられないこのアパートでは、彼の表現は否応なしに僕の部屋にも届く。その振動で、机の上の筆が揺れていた。すっかり固くなった筆の先が、硬質な音を奏でる。詰られているかのような気がした。文句を言うべきだったかもしれないが、情熱だけは溢れんばかりのそれを、どこか咎められない自分がいることは確かだった。

 描きかけのキャンバスが目に入る。僕はそいつを大きな布で覆うと、屋根の上へと逃げ出した。

 まだだいぶ、終演までは時間がある。屋根の上(オン・ザ・ルーフ)には誰の姿もない。どら猫すら、最近はすっかり姿を見せていない。工事の音が響いている。僕は肩を落とし、その日五本目のビールを飲み干す。

 世界が一瞬、ぐにゃりと歪む。僕は、がくりと足を取られる。

 …気がつくと、色が変わっていた。オレンジはぐっと色濃くなり、哀しい色味を帯びていた。

 階下から世界を呪うことばを並び立てる歌が響いてくる。道の向こうから、世界の秩序を作り直すかのような掘削音が響く。がつん、がつん。僕を裁く裁判長の小槌の音だろうか。リズムにすらなっていない不快な騒音に、僕は強く耳を塞ぐ。暗闇へと飛び込もうとする。

 しかし、瞼の裏側に、ゆらゆらと、炎のような太陽が飛び込んでくる。全てを美しい思い出色に染め上げようとする。僕は絵の具を塗りたくり、必死に空色に染めようとするが、正しい色がどんなものか、思い出すことができない。

 遠く、遠く。この街のはるか果て。想像もつかないところで、猫たちが太陽に別れを告げる。いつものように。

 違う、違うよ。あれは、いつもの太陽じゃない。似てるけど、違う。

 だってほら、あんなに、陽炎みたいに、ゆらゆらと…

 街が。屋根の上が。ぼんやりと。どどどど、どどどど。崩れ去る。幻へと戻りゆく。

 そう告げる僕の声すら、騒音の中に消えていく。

 頬の痛みがリズムにのせて、この全身に広がっていく。

 記憶を、思い出を、砕いていく。

 気がつくと、僕はまた、闇に包まれている。


 ★


 街の緑が、夕陽の色に染まりゆく季節。

 アパートの、取り壊しを告げられた。僕は驚きも落胆もせず、ただ淡々と、大家の話を聞き流していた。

 片付けは、あっという間に終わった。これからも必要になるものは、僅かだった。一方で、溢れかえるゴミ袋。最後まで整理できずに残ったのは、薄暗い匂いの染みついたつなぎと、足取りを重くするだけの穴だらけのスニーカー…そして、描きかけのキャンバス。どれもみな、この街に来た時に新しく連れてきた。…結局、僕はこのキャンバスを、絵にすることはできなかった。

 窓からはもう、ずいぶんと傾いた西陽が射し込んでいた。カーテンすら今はなく、部屋がオレンジに染まる。…そうだね。

 僕はキャンバスたちをまとめて抱えると、屋根の上(オン・ザ・ルーフ)へと登った。

 久しぶりの世界は、やわらかい景色に包まれていた。あちこちに、沈みゆく陽を愛でる人たちがいる。思い思いの手段で、去りゆく一日にレクイエムを捧げている。工事の音は、もう聴こえなかった。一方で、まるで虫歯の治療痕のように、街のあちこちに穴が開いていた。ぽっかりと、何か大切なものが失われてしまったかのように。見慣れた景色とはどこか違うそれ。

 そっと、僕は視線を動かす。彼女が、いた場所へ。

 しかし、当たり前のように、そこには誰もいない。

 僕は静かに目を瞑った。そして、そこにいる記憶の彼女に拍手を贈る。

 再び目を開くと、ポケットからマッチを取り出した。そして、抱えていたこの街の残滓に、火をつけた。

 あっという間に、火は広がっていく。すべてが灰に帰す。そこには、あの夕陽のように郷愁を誘う鮮やかな色は微塵もなかった。

 なんとなく、もの哀しくて。僕はもう一度、マッチを擦る。小さな火が燃える。炎と夕陽が、一瞬溶け合う。同じ色になり、世界を優しさと哀しみの色に染める。

 見慣れた街の景色が、炎の中で燃えていく。

 あぁ、そうか。あれは、そうやって皆が、何かを燃やした色なのかもしれない。

 一日の哀しみのすべて。こうして、忘れるために。置いていくために。

 だから、あんなにも深い色をして、燃え続けているんだ。

 渡り鳥たちがすうっと空を通り過ぎていく。雲一つない。雨が降る様子もない。

 やがてゆっくりと、夜がやってくる。

 オレンジから紫へと、変わりゆく世界。まるで最終楽章のように、静かに盛り上がりを見せる。

 背中の方から、ほんの少し冷たい空気をはらんだ風が吹いてくる。誰かが、僕の背中を見て吹かせたのだろう。

 風が、黒い燃えかすを、紫の空へと運んでいく。記憶はそうして、意味を失う。この街の一番澱んだ部分が染み込んだ澱を、過去へと変える。

 おい、聞こえるか、この街よ。これが、この僕の、音楽だったんだ。

 そして世界は、夜を迎えていく。

 人と街とは、永遠に片思いの関係だ。包まれながら、寄り添いながら、そばにいて、思い、あこがれ続ける。同じ恋心を重ねたもの同士が、小さく、やさしく、肩を寄せ合う。

 いつかまた戻る時が来るかもしれない。けれどその時、向こうは僕の顔を、はたして覚えているだろうか。

 さよなら。僕は闇の中、最後のビールを飲んだ。


 ★


 この街に暮らしたちっぽけな証である鍵を大家に返すと、僕は地下鉄への道を歩き出した。路地のあちこちで工事が行われていて、騒がしいことこの上ない。地面もあちこちがめくれていて、コンクリートとその下の土が無秩序に咲き乱れている。この街は整形手術の最中だ。

 僕は手元の飛行機のチケットをもう一度確認し、あとどれくらいあるのかと腕時計に目をやった。…その時。

 まさに僕の目の前を、あのどら猫の奴が通り過ぎた。

 奴は僕に気づいていないのか、すまし顔で歩いて、角へと消える。このまま別れるのも嫌だった僕は、慌てて後を追った。すると、曲がった先の道の真ん中、ぶすっとした顔で彼は待っていた。驚いた僕と目を合わせると、ついてこいとばかりに歩き始める。幸いまだ時間には余裕があったので、僕はついていくことにした。まったく、間抜けなアリスもいいところである。

 猫のやつは、短い距離で何度も何度も角を曲がる。おかげで僕は、近くだというのに、どこを歩いているのかわからなくなってきた。それどころか、やがて平衡感覚まで狂いだした。呼吸が荒くなる。さすがに辛くなってきた僕は、猫に声をかけ、止めようとする。…が、その前に猫の方が立ち止まった。どうやら目的地に着いたらしい。 

 そこは、瀟洒な建物だった。周りを囲むくたびれた陰気なアパートとは、醸し出す雰囲気すら違う。異世界から突然やってきたと言われたら信じたくなるくらいだった。

 こんな建物があったなんて、僕は少しも知らなかった。もっとも、自分のアパートからどっちの方角にあるのかさえもはやわからなかったが。

 僕の驚きをよそに、どら猫はその建物に向かって、ずんずんと進む。追いかけようとする僕。その時、視界に何か見覚えのあるものが飛び込んできた。それは建物を織りなす真っ白い煉瓦。なんとなく、上へと視線が移る。よく映えるブルーの煤けた屋根が少しだけ覗いている。…そこまで見て僕は、ようやく気付いたのだった。

 足元でどら猫がどや顔をしている。君は、ここに上れというのか?僕はどら猫に問いかける。それは、それだけは。躊躇う僕の心を、どら猫は呆れたように見ている。まるで、こう言っているかのようだった。いいのか?と。

 意を決して、僕は歩を進めた。どら猫が、小さく笑っているように見えた。

 入り口は、ファザードに覆われた趣のあるものだった。よく見るとところどころ朽ちていたり、隅の方に埃がたまっていたりしたが、これでもこの街のアパートとしては美しい方だろう。こんな洒落たものが建てられていたということに僕は驚いた。

 僕は導かれるようにそのまま奥へと進む。すると、突き当りにこれまた年月を感じさせるエレベーターがあった。近寄るとちょうど扉が開き、一人の女性が出てきた。ふわりとしたブロンドの髪をストレートに下ろし、真っ赤なコートに身を固めたいかにもな姿。ヒールの足音をこつこつと鳴らしながら歩き出した。

 立ち去ろうとする彼女に、僕は声をかけた。振り向いた相手に、矢継ぎ早に質問を浴びせる。不審者呼ばわりされても仕方ない状況ではあったが、親切にも彼女は丁寧に僕の質問に答えてくれた。僕は彼女に必死にアリーの特徴を説明したが、何年もここに住んでいるが、見たこともないし、そんな歌を聞いた覚えもないという。…()()()()鹿()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 足元で、どら猫が駆け出す。目で追うと、非常階段への入り口が見える。追いかける僕。白い階段を勢いよく突き進む。後ろからさっきの女性の声がする。息つかせながら一気に上まで駆け抜ける。すると、覆うもののない開かれた空間へと出る。そこは、屋上へと通じるポーチ。急く気持ちを削ぐかのように、そこは行き止まりで、柵で塞がれていた。扉には、錆が目立つ安っぽいその柵とは不釣り合いなほどの大きな錠。開けられないかと埃でいっぱいのそれをいじくってみたが、びくともしない。ここから先に行くには、どうやら鍵が必要なようだった。

 けれど、そんなものではもはや僕を止められない。上へと目をやると、地面から二メートル五十くらいのところで途切れていた。それより上は、空しかない。僕は一度柵から離れ、ポーチの幅いっぱい距離をとると、端から一気に駆け、飛び上がった。

 目いっぱい手を伸ばす。うまく柵の上端に手がかかる。そこから勢いで一気に身体を柵の上へと持ち上げる。皮肉にも、日々の仕事で太くなった腕が役に立つ。想定外の重さがかかり、ギシギシと軋む柵。不安になるほど前後に揺れる。今僕がバランスを崩せば、僕の落下を止めるものはない。万が一横方向に落ちれば、大地までまっしぐら。だが、それすらも僕を止めることはできない。腕に力を込め、身体全体を持ち上げる。足を柵の上に乗せると、一気に反対側へと飛び降りた。慣れない行動に、足が不満を訴えてくる。それでも僕はまた駆け出した。息はもうすっかり上がっていた。目の前に伸びる螺旋階段。もうほとんどまともに踏みしめていない。飛ぶような感覚で、駆け、そしてたどり着く、屋上へと。

 視界が、一気に広がる。

 なんとも、不思議な光景。例えるなら、よく知っている人の、知らなかった一面に突然触れてしまったかのような。

 西の空へと目を向ける。まだ太陽は反対側にあるけれど、沈みゆく先は知っている。想像の中で、視線の先に、恥ずかし気な顔をした西陽がそっと沈んでいく。

 …その時。耳の奥で、あの歌が響き始めた。

 アリーがいた場所。彼女に見えていた景色。足元に根のように広がる路地から聞こえる哀しみの声と、向こう側に広がる悪魔のような街並みが、手を取り合って僕に迫ってくる。頭が、悲鳴でいっぱいになる。心の奥の何かが、怯えたように震えだす。あの巨大な、未来へと進み続ける街が飲み込んでしまった悲鳴、嘆き、夢といった沢山のものを、ここは痛いほどそれを受け止めている。

 それは…彼女の歌そのものだった。あの歌は、この思いを、彼女なりに形にしたものだったのだ。あぁ、なんという…

 その時僕は涙を流していることに気がついた。でもそれで、なぜだか急に、すべてをあきらめることができたのだった。

 足元を何かがつついている。ふと見やると、なんとどら猫のやつがいた。…ついてきてくれたのか。僕はかがみこみ、どら猫を持ち上げると、腕に抱く。なんとなく、そうしたい気分だった。

 すると、階段の方から誰かが上ってくる音が聞こえた。錠を開く、これ以上ないほど現実的な音がする。その音をきっかけに、世界が元へと戻っていく。

 ぜいぜいという苦しそうな息と、反対にじゃらじゃらと生きのいい鍵束の音。それをお供に現れたのは、大家だろうか。心赴くままに毎日の食事を楽しんでいそうな身体をした女性。せいいっぱいこちらに敵愾心を向けてくるが、しかし根がいい人なのだろう、まるで怖くない。どら猫も呑気な顔をしている。がしかし、後ろ暗いことをしているのは事実だった。僕はとっさにどら猫のやつを掴み上げると、すいません、こいつが迷い込んでしまってと嘘をつく。猫のやつが形容しがたい顔をする。しかし向こうはといえば、あらそうなの、と一も二もなく納得した様子。さすがお猫様。

 「そういう時はまず声をかけてね。」

 そう言って僕を連れて戻ろうとする彼女。しかしなおもそこを動こうとしない僕に再び怪訝な顔をする。

 「あの…お兄さん?」

 僕は景色の美しさを彼女に告げる。

 「あら…いつの間にかすっきりしちゃったのね。」

 僕に言われてようやく周囲を見る彼女。しかし、すぐに興味を失くしていた。

 どうして鍵をかけてるんです?僕が尋ねと、彼女は渋い顔をした。

 「いえね…前にここから飛び降りた人がいて…それ以来入れないようにしてるのよ。もっとも、あなたみたいに無茶して入る人がいるのなら…」

 え?なんだって…?

 喉が、急に渇く。彼女のことばが、きちんと理解できない。問い返そうとしても、うまく、ことばを紡げない。音を出すことができない...

 鐘が、響く。昼間だというのに、鐘が。それは、教会の。工事の音は遠のいて、ただ、鐘の音だけが染み込んでくる。音と共に、視界から色が失せていく。夕陽色に染まっていく。まるでトンネルの中のように。

 あなた、大丈夫?

 耳の奥で声がこだまする。その声を頼りに、何とか僕は口を動かす。いつ…?そうね、三年くらい前かしら?不安げな顔の彼女が僕の正面にやってくる。さらに僕は問いかける。それ以来、ここには誰も…?うなずく彼女。それは、確かだろう。あの埃が証拠だ。だとすれば…

 飛び降りた?

 その先をうまくことばにできない。()()()()()()()()()|。けれど、聞かずにはいられなかった。聞かなければ、知らなければこの街を去ることができない。そんな気がしたから。だから、僕は、彼女に伝える。アリーの、姿の、歌の特徴を。すると、みるみる彼女の表情が曇った。それどころか、こちらを見つめる目が余計険しくなる。

 …あなた、どうして知ってるの?ひょっとして、私をからかっているとか?

 ぐるぐると、気持ち悪いものが回りだす。抑えきれない感情が声の圧になる。どうして…?その言葉に、彼女が反応し、答える。よせ、聞きたくはない。そんなものは。

 私もよく知らないけど…いつも一人みたいだったし、私が声をかけても笑うばかりで…友達がいなかったんじゃないかしら…あなた、アリーとはいったい

 アリー。

 飛び込んできたその名前が、紛うことなき真実の証。

 その瞬間。

 再び、彼女の歌が響きだした。

 ここから見えていた、彼女が見たあの景色の中に、歌声がいっぱいに溢れる。

 何度も聴いた、あの歌。でも、いつもとは少しだけ違う。

 その歌声は、不安定で、かすれていて。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 ふっと、肩に重さがかかる。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 哀しいの?

 …ううん、違う。嬉しいの。

 嬉しい?

 そう…

 どうして?

 届けることが、できたから。

 …この場所が、好き?

 …えぇ。だから、いつか、届くと、信じてた。

 あの空を、愛する人に。

 ありがとう。

 こちらこそ。

 今はまだ、太陽は僕の真上で輝いている。けれど、世界はオンステージのように光に包まれて。あの夕陽色で満たされて。僕が忘れまいとした、大都会のはずれの、翳りゆく輝き。

 肩の重さが、ふっと消えていく。

 その永遠の伴奏を深く、記憶の中の円盤に、僕はそっと刻みこむ。

 

 歌が少しずつ消えていく。

 もう行くぞ、とばかりにどら猫が帰り道に向かい始める。

 僕も、そっと歩き出す。

 さよなら。


 魔法は、そうやって解けていく。

 僕は、また、大地へと足を下ろした。地下鉄の駅へと向かう。ちょうどいい時間。あの店で、パストラミサンドでも買って食べよう。そう決めると、僕は彼に別れを告げようとした。けれど、どら猫の姿はもうなかった。…きっと、街へと戻ったのだろう。

 人々の働く音が、街を埋め尽くしている。そこに、あの音楽の欠片はもうない。

 僕は、歩きながらリズムを取ろうとする。

 けれど、人ごみと自動車に、すぐにそれをさえぎられてしまう。

 ふと、空を見上げる。

 そこには、想像の世界で見た、あの醜い怪物が、顎をいっぱいに開いていた。

 道の反対側には、トラックの荷台で引っ越しの荷物を解く、若い男の姿が見えた。


  おわり



 

 

 

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