第五十話「賢明」
「はーい、それじゃあ班決めスタート。時間は二十分くらいね」
教室という平穏な空間が、担任の一言によって喧騒溢れる戦場へと変貌した。
「ねえねえ! 一緒に回ろうよ!」
「もちろん俺ら五人で行くよな!」
「えー、どうする? あと一人足りなくない?」
男女を問わず、教室のあちこちから歓声と話し声が爆発的に湧き上がる。
机を移動させる音、笑い声、誘い合う声。
そんな中――自席で不動の私。
「…………」
机の上に置かれたプリントを、私はただじっと見つめていた。
『班員名簿』と書かれた空白の欄。一番上に自分の名前を書いただけで、ペンが止まっている。
自由行動の班決め。それは私のような人間からすれば、ただの処刑宣告に他ならない。
どうにか勘弁してくれないだろうか。心の中で、私は静かに白旗を振る。
学校内における人間関係の希薄さが、こんな形で牙を剥くとは。いや、これは分かりきっていた未来か。
普段なら、一人で過ごしていても何の問題もない。昼食も一人で食べるし、教室移動も一人だ。それは私が望んだ孤独であり、気楽な時間だったから何も後悔はない。
けれど、修学旅行は違う。集団行動という絶対的なルールが明確に存在する。
「せめて、沢崎さんが同じクラスなら……」
ふと、頼れる不良少女が脳裏に浮かんだ。
しかし残念ながら、彼女は別のクラスのため気軽に誘えない。別クラスとの混合も認められているが、わざわざ沢崎さんのクラスに行って彼女を誘えるほど、私の精神は強くない。
「伊田さん……は」
ちらりと、視線を斜め前方の席に向ける。そこには、谷村と天野に囲まれて苦笑いしている伊田さんの姿があった。
「俊樹! もちろんお前は俺らと一緒だよな?」
「え、あー、うん……まあ……」
一瞬、偶然なのか伊田さんと視線が合う。
無難な案があるとすれば、伊田さんと同じ班……なんて少しばかり思ったが、彼は男女問わず人気者だ。私のような日陰者が入り込む余地なんて、僅かばかりも存在しない。
もし私からあの輪に入ろうものなら、クラス中の女子から敵意を向けられることは容易に想像できる。それは、波風を立てたくない私にとって避けたい事態だ。
「……どうすれば」
周囲の喧騒が、私には何の関係もない遠くの出来事のように感じられる。
『あと一人誰にする?』『あの子誘ってみる?』なんて声が聞こえるたびに、心臓が嫌な音を立てて跳ねる。
当然ではあるが、誰も私を見ない。誰も私を誘わない。
至極当然というのはまさにこのこと。私は入学してから今まで、クラスメイトと壁を作り続けてきたのだから。
コミュニケーションを避けてきたツケが、今まさに回ってきている。
――そうして、時間は無慈悲に過ぎていく。
クラスのあちこちで『決まったー!』『先生、提出します!』という声が上がり始める。
空白のプリントを前に、冷たい汗が頬を伝う。
余りもの同士で、無理矢理組まされる……それがこの後待っている未来として、一番現実的だろうか。
……諦めよう。
どうせ修学旅行なんて、適当に観光名所を回って、適当にお土産を買うだけのイベントだ。
仮に知らない人と組まされても、空気のように振る舞っていればやり過ごせるはず。私はそう自分に言い聞かせ、心を『無』にしようと試みた。
……しかし、みっともないという感情だけはどうしても拭えない。
まさに今、一人でポツンと座っている自分を周りがどう見ているのか。
どこからか哀れみの幻聴が聞こえてきそうで、私は思わず唇を噛み締め、窓の外へ視線を移した。
――その時だった。
「……ねえ」
唐突に、不機嫌そうな声が降ってきた。私はビクリと肩を震わせ、恐る恐る顔を上げる。
「……あ」
そこに立っていたのは、腕を組みながら私を悠然と見下ろしている女子生徒。
肩まで伸びた茶髪にカールがかった毛先、おでこを広く出した前髪、意志の強い瞳。
つい先日、沢崎さんのお店でお弁当を買うために一時間並び、彼女と何度も握手をして帰っていったお嬢様――柏木さんだった。
「か、柏木さん……?」
「何よその顔、ポカンと口なんて開けて。まるで幽霊でも見たみたいな」
「いえ、幽霊の方がまだマシと言いますか……」
「んなっ!」
柏木さんは眉を吊り上げると、そのまま私の机の上に視線を落とした。
プリントの真っ白なメンバー表を見て、ふんと鼻を鳴らす。
「やっぱりね。あんた、まだ決まってないんでしょ?」
「……見ての通りです」
図星を突かれ、私は目を逸らす。もしかして私を嘲笑いに来たのだろうか。だとしたらだいぶ暇人である。
……それとも、以前の揉めごとの件だろうか。
「……これ」
柏木さんは大げさにため息をつくと、持っていた自分のプリントを私の机に置いた。
「え?」
そこには既に、彼女と取り巻きの女子二人の名前が書かれている。そして、四人目の欄に――私の名前が勝手に書き込まれていた。
「……あの、これは?」
「察しが悪いわね。あんた、私たちの班に入りなさい」
「……はい?」
予想外すぎる展開に思考が追いつかない。以前、この教室で沢崎さんに胸ぐらを掴まれ、お弁当屋では私に淡々とあしらわれた彼女が、なぜ?
「誤解しないでよ? 人数合わせよ、人数合わせ」
柏木さんはバッと顔を背け、髪を指でいじりながら早口でまくし立てる。
「私たちの班、あと二人足りないのよ。誰でも良かったんだけど、変な子が入ってくるよりは、まあ……あんたの方がマシかと思って」
「は……はぁ」
「だから黙って私の班に入りなさい、あの不良と一緒にね」
柏木さんはちらりと私を見る。その瞳にはどこか計算高い光と、ほんの少し――期待のような色が込められていた。
……なるほど、そういうことか。
「なるほど、沢崎さんを班に入れたかったと」
「べっ! 別にそういうわけじゃ……!」
顔を赤くして叫ぶ柏木さん。どうやら彼女は目の敵である沢崎さんに対し、修学旅行中に何か仕掛けるつもりなのかもしれない。
ともかく、私は柏木さんの真意を読み取ることができて安心した。彼女の目的は、私ではなく、私の背後にいる沢崎さんだったのだ。
以前の握手会といい、このお嬢様……相当沢崎さんに執着しているな。
「私としても、沢崎さんを誘いたかったので問題ありません」
「う、うるさいわね!」
私は改めて目の前のプリントと、不機嫌そうだがどこか期待した様子の柏木さんを見比べた。
余りものの適当な班と、沢崎さん目当てのお嬢様班、どちらがマシか。どっちも地獄な気はするが、沢崎さんがいる分後者の方がマシだろう。
「……では、よろしくお願いします」
「ふん、賢明な判断ね」
柏木さんは満足げに笑うと、私の机からプリントを回収した。
「じゃあ放課後、詳細を決めるから残ってなさいよ。……逃げたら承知しないから」
捨て台詞を残し、彼女は自分の席へと戻っていく。嵐が去った後のような静けさの中で、私は大きく息を吐き出した。
「……はぁ」
とりあえず、最悪の事態は免れた。しかし柏木さんの加入によって、私の修学旅行は波乱の予感しかしないものへと変わってしまった。
遠くの席で、伊田さんが心配そうにこちらを気にしている。様子からして、彼はどうやら男子メンバーで班を構成したようだ。
「……ま、いいか」
色々と不安な気持ちを抱えながら、私は再び窓の外に視線を移すのだった。




