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第四十九話「不意」

古びた壁掛け時計が、二十一時を少し過ぎた頃。


武藤さんに解放された私は、カウンターの内側でグラスを一つずつ拭いていた。


さっき洗い終えた分も、指でなぞれば曇りひとつないほどの仕上がりだ。


「今日は、お疲れさま」


カウンター側から、穏やかな武藤さんの声。


「何のことでしょうか」


「とぼけないの。今日、真夜ちゃんのお店のお手伝いしてきたでしょ?」


「……はい」


今日一日、私は沢崎さんの実家であるお店『お弁当さゆき』を手伝った。


母である桜雪さんに終始振り回されていた沢崎さんだったけれど、とにもかくにも彼女が元気そうでよかったというのが私の感想だ。


後は……家庭の問題だ。あまりこちらが口を出すことではないだろう。


「いやあ、はるちゃんえらい! よくやった!」


「……貴重な従業員ですから」


「はいはい、そうですねー」


武藤さんは、私のセリフを流すように答えつつコーヒーを一口飲む。


「それでさ、真夜ちゃんは月曜から学校来れるの?」


「はい。しっかり別れ際に釘を刺しておきました」


「よしよし、それならひとまずは安心かな。後は、真夜ちゃんのお母さんの体調か……」


武藤さんの『安心』という一言に私ははっきり頷かなかったけれど、胸の内では同じことを思っていた。


完全に解決したわけではない。そして何もかも上手くいくとは限らないことを、私は知っている。


それでも――学校に行くという選択を沢崎さんがしたこと自体が、一つの区切りだった。


説得された部分もあるだろうけれど、最終的に決めたのは沢崎さん自身だ。


「……そうですね」


私はグラスを棚に戻し、カウンター越しに壁掛け時計を見た。


二十一時十分。


今日は、少し長い一日だった。


******


――翌朝。


珍しく、めざまし時計が鳴る前に目が覚めた私。


カーテンの隙間から、薄い陽の光が差し込んでいる。


「…………」


布団の上で仰向けのまま、しばらく薄目で天井を見つめる。起きたばかりということもあって、肉体はまだ少し重い。


……私は小さく息を吸って、嫌々ながら布団を抜け出した。


******


顔を洗い、歯を磨き、天気予報を見ながらロールパンを貪る。


平日の始まりである月曜日、週で一番憂鬱になる日だ。


やがて制服に袖を通し、髪を整える。鏡に映る自分は、いつもと変わらない。


小さな声で行ってきますと呟き、一人で家を出る。もちろん家には私以外誰もいないのだが、幼少期に防犯のため毎回言うよう養父から言われていた私は、すっかり癖になっていた。


******


学生たちの話し声と野鳥のさえずりを聴きながら、通学路である銀杏並木を歩く。


あくびを噛み殺しながら、まだまだ青々としている銀杏の木を眺める。


九月も、もうすぐ終わる。最近は月の経過があっという間な気がした。


******


――教室。


席に着くまでの間、特に誰かに話しかけられることもない私。


もちろん、挨拶も一切ない。しかしこれは通常運行である。つい最近は変な輩に絡まれたり面倒なこともあったので、むしろこの平穏は嬉しいまであった。


席で一息ついたタイミングで柏木さんから一瞬視線を感じたが、これも杞憂だろう。


ちなみに近くの席に位置する伊田さんは、偶然目が合った際ヘラヘラと笑っていた。


「……」


何というか、彼も相変わらず元気なようで。


******


授業は、いつも通り退屈だった。板書を写し、先生の声を聞き流し、ときどきノートに視線を落とす。


内容が頭に入っていないわけではない。ただ、深く考えるほどでもなかったというだけ。


『惰性』そんな言葉が、しっくりくる。


そして、退屈な授業も終わり最後のHRの時間。


「えー、じゃあ次の話」


担任の先生がプリントを配り始める。騒ぐ男子生徒を軽くあしらう様子は、さながら大家族の母のようだ。


「はーいそっちの男子も静かに! 皆が楽しみにしている、修学旅行について話を進めていくよ」


その単語を聞いた瞬間、私の視線は窓から担任へと移った。


修学旅行……?


「……そうだった」


「日程は言わなくても分かってるね? 今日は前回話したとおり班決めするよー」


教室が、ざわっとする。


誰と同じ班になるか、どこを回るか、自由行動のスケジュールは?


そんな言葉が飛び交う中、私は配られたプリントを見つめていた。


班分け……名前の書かれた枠、最大五人。


「基本は君たち自由に決めていいから。ただし、今日中に提出すること」


先生の声が少し遠く聞こえる中、私は……ゆっくりと顔を上げた。


「……はぁ」


思わず……ため息が漏れる。色んな感情が混ざった、重いため息。


周囲のざわめきの中で、自分だけが取り残されたような感覚。


だ、誰と回れば……?


胸の奥が、じわりと落胆から焦りに染まっていく。


私はプリントを握りしめたまま、小さく瞬きをする。


どうやら、修学旅行は私が思っていたより、ずっと近くまで来ていたらしい。

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