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第四十八話「婦人」



店内にある古びた壁掛け時計が十九時半を示す頃。私はグラスを拭きながら物思いに耽る。


店内には、貴婦人のような佇まいの白髪の女性が一人。年齢は養父と変わらないくらいだろうか。ホットコーヒーをあじわいながら、文庫本を嗜んでいる。


未だに武藤さんが来る気配はない。あれ? 今日は来ない?


「…………」


やることがなくて、全部のグラスを完璧に磨き終えた私。手持ち無沙汰になり、渋々店内のテーブルを拭き始める。


ふと、カレンダーに目を向ける。あ……そうか、今日は土曜日だ。


あの残念なOLは、基本平日の夜にしか来ないんだった。


来ないとわかった途端、少しテンションが下がる。ポニーテールを揺らしながら黙々とテーブルを磨いていると、偶然婦人と目が合った。


「ご、ごゆっくりどうぞ」


持ち前の営業スマイルで乗り切ろうとしたところで、婦人が小さく微笑んだ。


「今日はあの人、来ないのかしらね?」


「へ? あ、えっと……あの人、とは?」


予想外の台詞に、張り付けていた営業スマイルが崩れる。


「ほら、いつも貴女と楽しそうに話している美人さん」


文庫本を閉じ、コーヒーカップの横にそっと置く。


「とっても楽しそうにお話しているから、ついつい聞き耳立てちゃうのよね」


「す……すみません、いつもお騒がせして」


恥ずかしさに顔を赤らめつつ、私は頭を下げる。


「いいのいいの、謝る必要なんてないのよ。むしろ、嬉しいくらいなんだから」


「そ、そういうものでしょうか」


普段ろくな話をしていないことを思い出し、つい顔が赤くなる。


「これくらいの年になるとね、毎日が退屈でしょうがないの。だから、とてもありがたいわ。若者のパワーを貰える感じがしてね」


「……お恥ずかしい限りです」


「それにしても、時が経つのは早いものね……ねえ、まなぶさんは元気?」


ホットコーヒーを味わいながら、婦人が優しい表情で問いかけた。


「店主のこと、ご存知なんですか?」


久しぶりに他人の口から養父の名前を聞いて、妙に気が引き締まる。


「もちろん。この辺では結構有名人なのよ、彼。コーヒーも確かに美味しいんだけど、あの頃の人は皆彼目当てで来ていたわね」


「失礼ですけど、そこまでの魅力はないような……?」


「何言ってるの、それはもう男前で当時若い女性に大人気だったんだから。私も、よく友人と通ったものだわ」


コーヒーカップを見つめながら思い出に浸り、懐かしむように語る婦人。


「へ、へぇ……全然知りませんでした」


まさか養父の過去の話が聞けるとは思わず、つい前のめりに聞いてしまう。非常に新鮮な気分だ。


「もちろん、孫娘の貴女のことだって知っているわよ。春風ちゃん」


「あ、ありがとうございます」


孫娘……孫娘か。確かに、傍から見ればそれくらいの年齢差かもしれない。


顎に手を当てながら、つい思考して黙り込む。決して、父親と娘に見えていないことを気にしているわけではない。……決して。


「私はね、貴女が赤ちゃんの時に、おしめだって代えたことあるんだから」


微笑みながら語る婦人の台詞に、私は疑念を覚える。


いや、私がここに来たのは物心ついた時だ。養父に養子として迎えられ、香笛の姓をもらった時は……既に四、五歳くらいの年齢だったと記憶している。


もし、婦人が嘘を言っていないのだとしたら、それはきっと養父の身内……本当の孫娘の話……かもしれない。


――少しだけ、心の内側がチクりと痛んだ。


「ねえねえ、いくつになったの?」


「もうすぐで十七歳になります。十月が誕生日なので」


「随分大きくなったのね……! あの頃も充分桜子さんの面影があったけど、大きくなってますます似てきたんじゃない?」


「そ、そうですか?」


聞いたことのない名前に若干の疑問を感じつつも、私は平静を装い適当に相槌を打つ。


『桜子』……聞いたことのない名前だ。なのに、あまり違和感がない……養父の身内の人間だろうか。


婦人が色々と勘違いしている可能性は大いにある、しかし私には、嘘を言っているようにも見えなかった。


そして、養父に身内話を聞いても濁されるのがオチだ。あの人は本当に自身の話をしたがらない。ならばここはあえて、色々詮索してみるのも手かもしれない。


「もしよかったら、このお店のことについてとか色々聞いても良いですか?」


「あら、良いわよ。そんな大層な話はできないけど――」


婦人が言い終えるタイミングとほぼ同時に、入店を知らせるベルが店内に響く。


「やっほー! はるちゃーん! って、あれーお出迎えはー!?」


開幕早々テンションの高い快活な声、考える余地もなく正体は残念なOLだろう。


「常々思っていたんですけど、武藤さんってここを夜のお店か何かと勘違いしていません? 喫茶店に、お出迎えなんてシステムはありません」


呆れ気味にため息をつきながら、仕方なしに入口まで向かう。来ると思っていなかったこともあって、正直嬉しかったのは内緒である。


武藤さんがひょっこりと角から顔を出し、私を見つけては勢いよく抱きついてくる。


「あーはるちゃん! 私のオアシス! 荒んだ私の心を癒やしてー!」


「ちょ、ちょっと! 他のお客さんがいる前で止めてください」


「へ?」


私の背後から顔を出し、端の席に佇む婦人に気がついた武藤さんが、名惜しそうに離れる。うやうやしく会釈する婦人に、武藤さんが照れながら会釈を返す。


「し、失礼いたしました……」


「いいのいいの、おばさんのことなんて空気と思ってちょうだい。ふふふ」


「……だってさ、はるちゃん。じゃあ良いね!」


再度飛びついて来ようとする武藤さんを両手で拒否しながら、私は抗議する。


「良いわけ……ないでしょうっ……!」


頬をくっつけようとしてくる武藤さんを抑えつつ、私は婦人に視線を向ける。


「あ、もしかして私お邪魔かしら。あらやだ、じゃあ今日はこの辺で失礼するわね」


いそいそと身支度を始める婦人に、私はすぐさま否定の意を示す。


「そ、そうではなくて……!」


「お会計、チェキ代と合わせて五千円で足りるかしら。それじゃあ、学さんによろしくね」


テーブルに五千円札を置いてから、素早い手つきで私の写真を撮って颯爽と退店する婦人。おい待て、チェキ代って何だ?


猫を愛でるように頬を擦り合わせてくる武藤さんと、虚ろな目でそんな虐待を耐える様子の私。


こんな光景を写真に収めて、一体どうするというんだ……。


「……あの、重いのでそろそろ解放してくれませんか」


後ろから覆い被さるような態勢のため、割と重い。何より、背中に感じる二つの脂肪が鬱陶しかった。


「えー。もう少しはるちゃん成分を摂取させてー」


珍しい、普段ならここで離れるというのに。よっぽど疲れる何かがあったのだろうか。


「それにしても、珍しいですね。土曜日にいらっしゃるなんて」


基本、仕事終わりの平日にしか来ない武藤さん。そして今日の格好はワイシャツと黒のスラックススタイル。これはもしかしなくても……。


「……はるちゃん、わかってくれたみたいだね」


「仕方ないですね。武藤さんの頑張りに免じて、今日だけは不問としますか」


以前、社会人において休日出勤というものは非常に過酷だと武藤さんから教わった。


やれやれ、今日くらいは頑張り抜いた武藤さんを労うとしよう。これくらいで癒やされるなら安いものだろう。


「まったく……ミニドリップの裏メニューとして、今度追加しておきますか」


あらためて武藤さんの膝に座り直した私は、しばらく従順に背後から抱きしめられるのだった。







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