赤に染まれ、赤に舞え
ひらり、赤い一葉が舞い落ちる。ひらり、ひらり、二葉、三葉……。
オリバーはくたびれた山高帽のつばに掛かった一葉を撮み取る。なるほど、確かに赤ん坊の掌に似た形だ。
美しく色づいたそれを手にしたはいいが、さてどうしたものか。地に放り捨てるのは惜しいが、飾りとして山高帽に差すのも気取っている様で気恥ずかしい。
「おーい、新入り!ぼさっとするなぁー」
「あ、はい!」
少し離れた場所から、自分と同じく箒を手にした老人に叱責されてしまう。さぼってた訳じゃないのにな、と、軽く唇を尖らせる。声が聞こえた方向へと振り返れば、赤い屋根、赤煉瓦造りの見上げんばかりの立派な屋敷が目に入った。
オリバーのような新入りの下男は、仕事以外で屋敷内に足を踏み入れるのは禁じられている。だからか、ここで働き始めて一か月近く。黒檀製の扉に施された精緻な彫細工、重そうなドアノッカーを目にする度、未だに緊張を覚えてしまう。
「あ、また……」
並んだ格子窓の内、三階北側の窓に人影が映った。陽光を受けた窓枠の白さが際立つなか、カーテンの影から漆黒の長い髪が確認できる。やがて、ほっそりした手がカーテンをゆっくりと開けた。
「また、会ったね」
聞こえる筈がない、と分かっていても、自然と表情が綻んでいく。
聞こえる筈がないのに、赤い振袖を着た黒目黒髪の少女は薄く微笑んでいる。
小作りで平坦な顔立ち、楚々とした控えめな物腰は東洋女性ならではか。
ふぁさり。
葉擦れと共に赤い嵐が通り抜け、曇天の空に舞い上がる。
彼女が何者かだなんてどうでもいい。幸運の女神はまた彼女に会わせてくれた――
「何ボーっと突っ立てるんだ!!」
「うわ、すみません!」
がさり、地面に散った一面の赤絨毯から乾いた音。彼女と会えた感動に酔う暇なく、後ろから箒で尻を思いっ切り叩かれてしまった。
目尻に涙を浮かべ、やや前のめりになってひりひり痛む尻を何度か擦る間に、箒を構えた老人がオリバーの前に回り込んだ。眉尻が跳ね上がり、痩せこけた顔面が怒りで赤い。まずい。
「あ、あの……、あそこの窓際にいる、東洋人の女の子って」
ぎょろりと大きなどんぐり眼に気圧され、さりげなく後退しながらしどろもどろに例の窓を指差す。はぁん?!と更にぎょろぎょろと目を大きくさせてオリバーの指先を見上げる。
「何もないぞ??」
つい先程まで開かれていたレースのカーテンは閉め切られ、少女の姿は見る影もない。
その時間は一〇秒にも満たないというのに――
「え、うそだろ……」
「昼間っから寝惚けてんのか??あと、なにげに怖い事を言うんじゃない」
てっきり怒鳴られるかと思いきや、老人はしかめ面は変わらずもひそめた声で軽く咎めたのみだった。
「お前の言う東洋の娘はもうこの屋敷にはいない」
「でも、確かにさっき」
「いる訳ないんだよ。だってもう、死んでるんだから」
「は??」
「ワシもメイド連中の噂でしか知らんが、何でも、娼館みたいな場所で働かされていた身寄りのない娘を、領主さまが連れて帰ってきたとか。でも、この国の風土が合わなくてすぐに病気で死んだとか何とか……」
「じゃ、じゃあ、ぼくが見たのは――」
「だから!怖いことを言うんじゃない!!」
今度はボカッと一発、頭を叩かれた。弾みで山高帽が赤絨毯の上へと落ちる。
「ほら、いい加減仕事に戻れ戻れ!」
いちいち殴らなくたっていいのに。ムッとしながら山高帽を拾い上げる。
そう言えば、さっき撮み取った赤い一葉はどこかへいってしまった。
やれやれと帽子をかぶり直した直後、オリバーは悲鳴を上げそうになった。
落葉する楓が長く美しい黒髪にこの上なく映えている。
吸い込まれそうなつぶらな双眸、小さな鼻。濡れた薄い唇の口角は僅かに上がっている。
三階の窓際にいた筈の少女が僅か数分後に、すぐ目の前に佇んでいる。
箒を握る手の力が緩む。箒は赤絨毯の上にばたり、倒れていくが構うどころではない。
今すぐ逃げ出したいのに――、潤んだ視線に捕われ、指一本動かすどころか声一つ上げることすらままならない。
オリバーを一身に見つめる少女の笑みは少しずつ拡がり――、開いた唇の隙間から小さな歯と舌が覗き、一頭の蝶が飛び出した。
血のように真っ赤な翅を拡げ、楓の葉と共に蝶はくるくる空に舞う。
どちらが楓か蝶か、オリバーにはもう見分けがつかない。ただただ、呆然とするより他がない。
少女の唇からは血の色の蝶が二頭、三頭……と続けざまに飛び出していく。
密かに心で流し続けた血を、一滴残らず吐き出すかのように。