雨漏り
僕が城本のアパートを訪れたのは、城本が死んで3週間くらい経ってからだった。
彼とは同郷で、高校くらいまではよく互いの家を行き来して遊んでいた。実家を出て大学に入ってからは疎遠になっていたが、この春に就職した会社がたまたま近くてお互いの住まいも近いことがわかってからは一緒に飲みに行くことも何度かあった。
そんなに頻繁に会っていたわけじゃないが、近況報告をしあってくだらない話をしてると、学生の頃に戻ったような気持ちで楽しかった。
そんな城本が死んだのだ。
本当はもっと早く来るべきだったのかもしれない。
ついさっき一階で大家さんに借りた鍵を握りしめてアパートの階段を上る。
四階建てのこの建物にはエレベーターはついていなかった。
古い建物だが最近リフォームしたばかりで綺麗で明るい。……以前、城本が言っていた通りの印象だ。
僕は四階にある城本の部屋の前までたどり着き、軽く息を吸い込んでから、鍵を廻してドアを開ける。
城本が死んだ部屋。
嫌なイメージを持っていたが、外観と同じく中も綺麗で、当然だが人が死ぬなんてこととは全く無縁に見える。快適に住めそうな部屋だよな、と僕は思った。
そんなに前のことじゃない。
ほんの数ヶ月前だ。
二人で話している時になんとなく家賃の話題になり、僕は彼のアパートの家賃の金額を聞いてその安さに驚いた。曰く付きなんじゃないか、なんて聞いたりしてみたのだ。城本はちょっと笑ってから、実はそんな大した話じゃないんだけどな、と教えてくれたのがそのことだった。
「雨漏りするらしいんだよ、俺の部屋」
僕はただ訝しげな表情を返したと思う。
そんな僕の顔を見て彼は説明を続けた。
「ちょっと前まではボロいアパートでそれこそ雨漏りしても不思議じゃない建物だったらしいんだけどさ、最近リフォームしたんだって。で、俺も部屋借りる時にいくつかの物件見に行って、このアパートも候補には入ってたんだ。でも家賃がちょっと高くて無理っぽいかなー、って言ってたらこの一室だけは安いし、今ちょうど空いてるって勧められてさ」
「雨漏りするから家賃が安いのか?」
「その通り」
リフォームしたてで雨漏りなんて有り得るんだろうか?
「それこそリフォームの時に一番に直すべきとこなんじゃないのか?」
「あー。よくわかんないんだけど、修繕しても直らなくて困ってるみたいなこと言ってたかなぁ……」
城本らしいと言うか、肝心なところが適当だ。
「ひどい雨漏りとか?」
「いいや。一ヶ所だけちょっと水滴が落ちてくるかも、って程度らしいぜ。実はまだこの部屋に引っ越してから雨降ったことがなくて、実際どのくらいかはわかんないんだけどな」
城本はあっけらかんとそう言った。昔からそういうところは無頓着な奴だ。
「僕はそういう訳あり物件はやだなぁ」
「あはは。そういう奴が多いから家賃を安くしてあるんだろうな。でも逆に安いから人気物件だとも言ってたぜ。まぁ、そのうち遊びに来いよ」
僕は城本の部屋に入り、結局彼の生きている間にここに来ることはなかったな、と今さら感傷的に思う。
心臓麻痺だったらしい。
城本が死んでいたのは玄関を入ってすぐの廊下だったと聞いた。
それならここだな、と床を見て思うがあまりピンとこなかった。
中は綺麗に片付けられていて、ゴミや物が散らかっているようなことはない。
城本本人がこんなにきちんと整理整頓して暮らしていたとは思えないので、死後ご両親がここにきた時に掃除をしたのだろう。
家具は全部そのままになっているそうだ。後は業者に頼んですべて処分する予定らしい。
僕は彼の実家で行われた葬式に参列した時に、彼の母に声をかけた。城本に貸していたものがあるのでそれを取りに行ってもいいだろうか、と聞いてみたのだ。
別にそれほど返してほしいわけじゃないDVDとかのことだったが、僕は彼の家の雨漏りの染みを確認しなくちゃいけない、という気持ちが強くなっていた。
城本の母はアパートの大家さんに連絡を取ってくれた。他人の僕が部屋に入るのは少し渋られたみたいだが、結局は了承してもらえたようだ。
そして、辛くなるだけだから自分は立ち合わないけれど部屋の中を探してくれていい、と言ってくれたのだ。
「この前雨降っただろ? やっぱ言ってた通り、雨漏りしたんだ」
家賃の話をしてしばらくたってから、また城本と居酒屋で話していた。
僕は、正直そんなことは忘れかけていたが雨漏りというワードで、ああ、と思い至った。
「どうだった?」
「まぁ、たいしたことはないかな。ただ雨漏りの場所が畳の部屋だからさ、畳の上に黒っぽい染みが出来ちゃったんだよ」
僕は、ほら見ろという気持ちだった。やっぱりそういうトラブルは抱えたくない。
「でも、事前に雨漏りの場所はわかってたんだろ? 洗面器とかバケツとか置いとかなかったのか?」
城本のことだ。そんなところまで気が回らなかったのかもしれない。
「いやそれがさ。事情を知ってる大家さんがバケツ置いといてくださいって最初に渡してくれてて、その通りに置いてあったんだよ。別に邪魔になる位置でもなかったし。でもバケツに水は溜まってなくて、その下に染みができてたんだよなー。バケツに穴空いてたりはしないのに、おかしいよなぁ」
城本は首を傾げてそう言っていた。
「へー」
その時僕はそんなに気にならなかった。目に見えるような穴が空いてなくてもどこかにヒビがあって水が漏れることもあるんじゃないかな、くらいに思って聞いていた。
「……そういや、大家さんもバケツ渡してくれる時に、これで防げることもあるんで、みたいな言い方してたな」
「なんだよそれ。多分、大家さんがもう使わない、水漏れするかもしれない古いバケツを押し付けられただけだよ」
「そうかもしれない」
そのいい加減さに、なんだか可笑しくなって二人で一緒に笑ってしまった。
今思い返しても、日常のヒトコマという印象しかない。
でもそれ以降、城本の様子がなんだかおかしくなっていった。
僕は、洋風のリビングをチラリと見ながら横手にある畳の部屋をのぞいてみた。
あれか……。
確かに部屋の端の方の畳の上に染みがあった。今はバケツは置いてはいない。
しかし、僕の想像していた不気味な印象はなく、ただ変色しているなぁ、くらいの感想しか出てこなかった。
手の平くらいの大きさの染み。
拍子抜けした気分でそれに近寄ってみる。
触る気にはならなかった。
城本は染みのことを「黒くて人の髪の毛のように見える」と言っていた。だが、今僕の目の前にある染みは、髪の毛に見えるほど黒くはない。
僕は天井を見上げる。
城本との話の中では話題に出なかったが、雨漏りなら天井にも染みが出来るはずだ。
しかしそのような形跡は見当たらない。天井はきれいなままだった。
「雨も降ってないのにどんどん染みの色が濃くなってるみたいなんだ」
そんな風に城本は切り出した。
僕は、やっぱり城本だって家賃が安くても雨漏りする部屋は嫌になったのかな、というくらいでその言葉を聞いた。
「もともとそういう物件なんだから、別にお前が修理費払わされたりしないだろ? 畳だって大家さんに申し出たら向こうが替えてくれる約束になってるって言ってなかったか?」
だから、雨漏りなんてそんなに気にならないって、言ってたはずだ。
「そうなんだけどさ。なんか、……染みがどんどん膨らんできてるみたいに見えるんだよ」
「ん?」
水を吸って、腐ってきてる……とか?
「ちょうど人間の頭くらいでさ。畳の目がそう見えるだけだと思うんだけど髪の毛っぽいんだよな。このまま迫り上ってくると人が出てきそうに見えて、気持ち悪いんだ……」
「なんだよ、それ。早く畳替えてもらえよ。確かに最近雨は降ってないけど、きっと天井のどっかに雨水が溜まっててそれが落ちてきてるんじゃないのか?」
僕はもっともらしいことを言ったが、理由をつけて安心したかったのは多分僕自身だった。
僕はリビングの方へ向かう。
このアパートに来れば城本が急に死んでしまった理由がわかるかもしれない、なんて思っていたのだが。
特別な理由なんてないのかもしれない。
広くはないリビングに入って、部屋のこもった空気が気になってきた。
しばらく空気の入れ替えをしてないのだろう。
窓を開けようかと思ったが、さっき鍵を借りる時に大家さんが、いかにも早く済ませて早く帰って欲しそうだったのを思い返して、余計な時間を食いそうなことはやめておいた。
あの日の城本は何かにおびえているようだった。
心なしか青い顔をしていた。
「どうかしたのか?」
「染みのことだよ」
「まだ畳替えてもらってないのか?」
「ああ。多分、……目蓋じゃないかと思うんだ」
「まぶた……?」
染みの話と関係があると思えない単語が突然出てきたので、僕は確認の意味を込めて繰り返した。
「もう少しで目が開くんじゃないかと思うんだ」
何を言ってるのかわからなかった。
僕が返す言葉が見つからないうちに、城本は言葉を続ける。僕に話すというよりは、独り言のようだった。
「黒いのは髪の毛じゃなかったんだ。多分、ヤツは全身が真っ黒なんだよ」
……訳のわからないことを言って僕をからかうことが昔からよくあったのだ。今回だってそうなんだろう。そうじゃなきゃおかしいだろう? なんだよ『ヤツ』って。
「もういつでも自由に出て来れるのかもしれない。そういう印象なんだ。額の辺りまでは出てくるのに時間がかかったけど、あと一息で目が開くことろまで出てくる。そうしたら後はもう自由に出てこれるんじゃないかと思うんだ」
染みが膨らんで、そこから人間のような生き物でも出てくるってのか?
「おい。どうしたんだよ。そんな馬鹿げたこと本気で思ってるわけじゃないだろ?」
僕は 思わず城本の腕を掴んだ。それでようやく、彼は僕が側に居ることを思い出したようだ。
「あ……ああ」
城本は僕を見ていなかった。その目は何も映していないように見えた。
そんなやばそうな家にはもう帰らない方がいい、と忠告出来なかった。
僕が一緒に部屋まで行って確認しようか、と言い出す勇気がなかった。
僕の家にしばらく来ないか、とも言わなかったのだ。
その時の僕は、理解の出来ない奇妙なことを言う城本のことを、心のどこかで関わりたくないと拒否していた。
なのに友達面するのもやめられなかった。
「きっと、変な先入観があるからそんな風に見えるだけだって。もしおかしな事が起こるようなら家族にも相談してみろよ。まぁ、僕だっているんだし」
そんな会話をしたその日の夜に城本は部屋で死んでしまったのだ。
実家は気軽に行けるような距離じゃないことも知ってたし、近所には泊めてほしいと言える間柄の友達がいないことも知っていた。僕以外には。
いや。おびえるほどの家なら、引っ越せばいいだけだ。安いホテルに泊まって過ごすことだって出来るんじゃないか?
それを城本はしなかったんだから、死んだ原因が家の中にあったとしても自業自得なんじゃないだろうか?
僕のせいじゃない。
……城本のことを思い出しながら少しぼんやりしていたが、外から聞こえる雨の音でふと我にかえった。
さっきまで晴れていたはずなのにいつのまにか太陽は雲に覆われて暗くなっていた。激しい雨の音が聞こえる。
染みを見ると、さっきより色が濃くなった気がする。
いや、それだけじゃなく影のようだったそれが盛り上がっているように見える。
城本の言っていたことが思い出される。
逃げなくては。
黒い影はもう額くらいのところまでせり出てきていた。
静かなものだった。
「それ」、が何なのかは僕にはわからなかったが、こんな状況なのに、城本がおびえながらも引っ越さずにこの家に帰って来ていた理由がわかった気がした。
得体の知れないものではあるのに、自分の心の暗いところを写し取ったような。
負の感情を固めたような。
目を逸してはいけない気がした。
触れてはいけないだろうに。
しかし、黒い影がさらに出てきて腕を僕の方へ伸ばしてきたのを見て、逃げなくては、と改めて頭の中で警鐘が鳴った。
恐怖からか、力の抜けてしまった足をなんとか動かして玄関に近づく。鍵はかけてないので、もうそこまで行けば外に出られる。なんとなく、外までは、「それ」は追って来れないんじゃないかと思った。
もう少しで玄関に手が届くというところで、思いがけず向こう側からドアが開けられた。
「ああ」
と、ドアを開けた相手は驚いたように僕を見る。
それはさっきこの部屋の鍵を借してくれた大家さんだった。
良かった。様子を見に来たのだろう。こんな訳のわからない現象、大家さんだってどうしようもないだろうが、自分以外の人がこの場に来てくれただけで助かる。
後は僕が外に出て、素早く二人でドアを閉めれば逃げ切れるんじゃないだろうか。
……だが、すぐに気付いた。彼の見ているのは僕ではなく僕のすぐ後ろ。
「あんまり頻繁だと怪しまれるからダメだって言ったのに」
大家さんのその言葉に僕は後ろを振り向く。
そこには僕のすぐ後ろに迫った黒い影。
そして、目蓋のような切れ込みが開き、目が合った…………。
僕がすがりつこうとした大家さんは、フイと後ろに下がる。
僕を部屋の中に残して、玄関のドアが乱暴に閉められる音が響いた。