九話
愁いを帯びた眼差しで美貌の紅蓮を見つめる朱里。BLっぽいシチュエーションに興奮する玖路に香子は苦笑い。
「こらこら、玖路ちゃん。あまり近づきすぎるとバレちゃうよ」
「あ、そうでしたわ。もう少し後ろにいなくてはいけませんわね」
数歩後ろに下がり、物陰からジッと覗く。
「っても、朱前と赤神ってさ、仲悪かったと思うよ。出来の良い赤神と同い年の朱前。必然的に比べられるからね」
どうやら一方的に朱里が紅蓮を嫌っているらしい。確かに紅蓮ほどの天才と比べられると劣等感を刺激される。玖路の予想は間違っていなかったようだ。
「テストの成績も一位で戦闘能力も高く、吸血鬼の格も高く、心酔する者が多発するほどのカリスマにあの固有能力。私もあれが親戚だったらと考えるだけでも嫌だなぁ。赤神って朱前のこと歯牙にもかけてないでしょ。そこもさぁ、朱前からしたら嫌だと思うよ」
香子が紅蓮のスペックを上げていき、表情を歪めながら舌を出す。
対抗心バリバリ向ける朱里に対し、紅蓮は無関心を貫いている。朱里の存在には気にも留めていなくて朱里の空回り。もっとも、紅蓮は朱里以外の者に対しても態度は変わらないのだが、朱里には慰めにもならないだろう。
完璧超人×キャンキャン噛みつく負け犬。無駄に突っかかる朱里にいい加減面倒になり、手を出して面白がっていたら惚れてしまう紅蓮。躾と称してあんなことやこんなことをして、想像するだけでも楽しくなる。妄想に目を輝かせていると香子が変に気を利かせようとした。
「朱前に声かけてみる?」
「え? 滅相もありませんわ。絶対に駄目です。お止しになってくださいませ」
慌てて阻止しようと香子の腕を引くが、言い合っていれば隠れていても分かるもの。朱里がこちらを振り向き、玖路へと視線を向けて赤い目が大きく見開かれる。口を開き何か言葉を発しようとしたのか犬歯が覗いたところで玖路の意識が薄れかける。
トラウマが刺激されたのだ。
玖路が朱里と出会ったのは中等部の夏。玖路は弱い自分にコンプレックスを抱いていた。今では自分の弱さを受け入れ諦められたが、中等部の初めのころは踏ん切りがつけられなかったのだ。
皆が寝静まった夜に、こっそりと寮を抜け出し山の中で修業をしていた。初等部から気付いてはいたが、玖路は自身が思っていた以上に弱い。もしかしたら獣人なのに人にさえ負けるかもしれない。己の考えを振り切るように特訓を繰り返す。
中等部から獣人系の授業が鬼ごっこやかくれんぼといった遊びから、一対一で戦い相手を打ち負かす対決や人数を半分に分けての集団戦などといった戦闘訓練の時間が増えていった。出来の悪い玖路にとっては苦痛で堪らない。元々前世からして争いというものが苦手で、獣人の癖に卓越した戦闘技能がない今世でも変わらない。
同じ獣人である母が言っていた。戦闘が苦手といっても玖路は獣人の中では弱すぎるかもしれない。憐みが浮かんだ目は、玖路の心を突き刺した。魔女とは言えないけどせめて普通の獣人並の能力を与えられなかった母を許してねと言われるたびに惨めな思いをした。
魔女の兄達は玖路がいくら弱くても自分達の妹だから守ってあげると言われたし、従兄の嵐も自分のほうが強いから守ってあげると言うし、父も我が家のお姫様と呼び小さいころは危ないからと家から出してもらえなかったし、親戚達も獣人として戦闘能力のない玖路を小猫の姿が愛くるしいのでペットのように可愛がり、学園に通い始めるも同族の獣人達は自分達と玖路の実力差を感じ取り、出来の悪い妹を守る様に過保護に付き合ってくれた。
でも、やっぱり他種族は違う。初等部では同族だけで過ごしたが、中等部からは他種族も一緒になり、出来の悪い獣人であることがバレてしまった玖路は狩られる存在の吸血鬼に嘲笑され、使い魔として使役する立場にある魔女には使えない奴と言うレッテルを張られた。
前世とは価値観が違う今世の世界は苦しくて仕方がなかった。前世の経験から今世ではもっと有能な人物になり幸せに暮らせたはずなのに、どうして人生はままならないのだろうか。努力が足りないからか。それならば、体を酷使して血反吐を吐き体が動かないくらいに努力をしてみせよう。誰も見ていない夜の森の中、無我夢中になりながら前世の漫画などを参考にした修業を繰り返す。
一向に強くならないことへの焦りで注意力が散漫になり、足を縺れさせ無様に転び涙が滲み出てくる。八つ当たりするように地べたに寝ながら手足をばたつかせると、ツキンとした痛みに無言で立ち上がる。足を見れば膝を擦りむき血が滲み出ていた。
自覚した途端、痛みが増していく。季節のせいもあり、汗が衣服に張り付き気持ちが悪い。痛くて暑くて気持ちが悪い。不快感に鼻を利かす。確か近くに水辺があったはずだ。水浴びをしよう。回らない頭で泉を目指した。
泉は近くにあった。足を庇いながらでも、すぐに到着できたのは僥倖だ。Tシャツと短パンを脱ぎ、畳んで下着をその上に置く。靴を脱ぐと中へ靴下を入れて服の傍に置く。誰もいないことを良いことに、産まれたままの姿になる。
裸になってみればよく分かる。細かい傷が体のあちこちにある。努力の対価と言いたいところだが、ちっとも強くなれた気がしない。悔しさをごまかすように地を蹴り、勢いよく泉に飛び込んだ。
「はっ、気持ち良いですわ」
冷たい水の感触が体の熱を冷ます。擦り傷が傷口に沁みて熱を持って痛いが、無視して泳ぐ。火照っていた体が冷えていき、汗による不快感も消えていく。
十分に泳ぎ、体が冷えてきたので泉から上がる。タオルがないがすぐに乾くだろう。髪を絞り、水を弾くように体を震わせてから草の上へと仰向けで寝転ぶ。土がついて汚れるかもしれないが構わない。どうせ、寮に戻ったら風呂に入るのだ。
寝転んだ先で目に映るのは、満天の星空と淡く輝く月。綺麗だ。前世ではこんな星空見たことがない。今なら星に手を伸ばしたら掴めるだろうか。馬鹿な考えが浮かび、空に手を掲げ握りしめるが星を掴めるはずもない。分かっていたはずなのに、何だか無性に泣きたくなった。
どれくらい空を見上げていたのか。草を踏む音で急激に現実に引き戻される。ヤバい、今の玖路の姿は裸だ。痴女に間違われたらどうしよう。いや、そんなことよりも、誰かに裸を見られるのは嫌だ。早急に服を着なくては恥ずかし死する。
起き上がった玖路の目に少年の姿が映った。
墨のように深い黒い髪と血のように赤い目を持つ獣人が遊び半分で狩る吸血鬼なのだが、どこか様子がおかしくて不気味な印象を抱く。よく見ると赤い目は焦点が合っていない。どこを見ているのかと少年を見つめていると、宙を彷徨っていた目がゆるりと玖路へと向けられる。
途端、言いようのない悪寒に襲われ、本能的に逃げようとしたが遅かった。
「ぃあっ!」
玖路の両手両足が何かに貫かれ地面へと貼り付けられる。
痛い、痛い、痛い。頭に浮かぶのはそれだけだ。涙は止まることもなく流れ、口からは呻き声が漏れる。鼻水もちょっぴり出たかもしれない。
近づいてくる足音に死の恐怖を味わう。この若さで死ぬのかもしれない。助かると言う希望は欠片も見いだせなかった。絶望に震える玖路の髪に吸血鬼が触れ、晒された首筋を撫でる。
この吸血鬼が玖路の生死を握っている。
仰向けに張り付けられているので、見たくもない吸血鬼の表情が見える。目を細め、暗い笑みを浮かべていた。身じろぐが赤黒い槍のような何かで固定された手足はピクリとも動かない。吸血鬼が鋭い牙を見せつけながら玖路の首筋に噛みつく。
痛いよりも前に熱いがくる。わざとらしく音を立てて血を飲む吸血鬼のせいで体が熱くて、ジワジワと何かに浸食されていくような怖さに体の震えが止まらない。おかしい。突き刺さったはずの両手両足に痛い以外の感情が芽生えてくる。
はぁっと口から吐息が漏れる。
気持ちが良いなんて嘘だ。嘘、だよね。自分が信じられない。口から痛み以外の声が上がりそうで、切なくて太腿をすり合わせたい。
混乱する中、噛みついた吸血鬼は玖路に覆いかぶさるように倒れ込む。同時に磔が解除されたので、契機を逃がさぬよう痛む手足を無視して半獣化しながら逃げだした。後ろを振り返らず、服も置き去りにしてでも吸血鬼から遠ざかりたかった。
――それ以来、玖路は朱里のことが苦手になり、朱里の目に自分の姿が見えないように気を使っていた。あの赤い目に自分の姿が映ったらと考えると、体の震えが止まらなくなる。
朱里に見つけられたら困るので観察していたが、どうやら朱里は夢を見ていたと勘違いしているようだった。玖路には知ったこっちゃないので、これ幸いと放置していた。
中等部で獣人としての授業を受けていくにつれ大分マシになったが、朱里を見ると震えはしないものの治ったはずの手足がジクジク痛む。顔が整っていてBL観察対象となった今も痛みに耐えながらストーキングしている。腐女子の玖路にとって痛みよりも萌えが勝つ。
「玖路ちゃん、顔色が真っ青だよ。大丈夫?」
香子の声に過去から引き戻される。
「え、ええ。ですが、部屋に戻らせていただきますわ」
「そうしたほうが良いよ。さぁ、掴まって。帰ろう」
見なくても感じた。朱里様の赤い目に玖路の姿が映っている。口元が開かれ吸血鬼の牙が見え、玖路の姿を認識したのだろう。香子が呼んだ玖路の名を噛みしめるように呟いた。
怖い。怖い。怖い。
恐怖に耐え切れず縋りつくように香子に抱きつく。体調が悪いと勘違いしてくれた香子が玖路の膝裏を抱えお姫様抱っこをしてくれる。
「落とさないけど、しっかり抱きついていてね」
香子が玖路を抱えたまま大地を蹴ると空高く舞い上がる。香子が半獣化したようで背には翼が見える。
まだ、赤い目は逸らされない。ずっと追いかけているようで、怖くて目を閉じて拒絶する。眠ってしまえればいい。香子に抱かれているのなら、悪夢などきっと見ないはずだ。