六話
学園の敷地は広い。森があり山まであるなんて、どこの漫画や小説の世界だろうか。そう言えばBLゲームの世界だったなと玖路は腐った笑いを浮かべる。
玖路は今、猫の姿になって優雅に森の中を散歩している。休日にBL場面に遭遇しないかと歩いていると、森へ入っていく紅蓮を見つけたのだ。これは追わずにはいられないと気合を入れてストーキングを決行した。
相変わらず言葉に尽くせないくらい美しい姿にうっとりしながらも、感知されない程度の距離を保ってつけていく。
それにしても、森で何をしているのだろうか。聞いてみたいが玖路程度の者が気軽に声をかけるだなんて恐れ多い。何よりも目立ちたくないので、できる立場でも遠慮したい。
しばらくすると開けた場所に出る。花冠を作れそうな花畑があり、これはゲームでのイベントやスチルに出てきそうだと脳内メモを取る。
紅蓮は花畑に腰を下ろし、目を閉じているので瞑想でもしているのか。しばらく移動しなさそうだから猫から人の姿に戻る。森に来る予定ではなかったから、こ洒落た感じのワンピースが場違いに見えるが誰も見ていないので良しとする。土につけないようにしゃがみ、足元に目をやると薬草がいっぱいある。ここには始めて来たが薬草の宝庫だ。珍しい物もあるので嵐も喜びそう。
夢中になって採取していると、木の根にうっかり引っ掛かり転んでしまう。
「っきゃ!」
痛たと体を起こすと、膝が擦りむいてしまった。やっちまったと魔法薬を出そうと手を上にやり、持ち上げた手を強い力で掴まれる。誰何しなくても分かる。相手は先ほどまで観察していた相手、紅蓮だ。
冷や汗がドッと出る。硬直した体で恐る恐る目を向けようとして、体が宙に浮き背中から木に叩きつけられた。一瞬息が詰まったがそれよりも恐怖が先立つ。感知できない位置にいたはずなのに、まさか玖路の擦り傷の血に惹かれ見つかったのだろうか。それとも、反射的に出てしまった小さい悲鳴のほうか。本当は始めから気付かれていて、玖路が知らないうちに紅蓮の気に障ることでもして、だからこそ暴力に訴えたのではないか。分からない。
血にしても玖路は魔力の低い獣人だから、紅蓮のような高位吸血鬼を惹きつけるわけはない。痛みに細めた目に映る紅蓮の目は玖路の切り傷から動いていない。いや、段々と顔が近づいていき、赤い舌が切り傷を抉る。
「あ、止めて下さいませ!」
制止する声すら届かず、ざらつく舌に舐められてしまう。痛いのと熱いのとがごちゃ混ぜになって苦しい。
しつこく舐め続けられ、ようやく解放されたころには玖路の呼吸は乱れきっていた。体が熱くて助けてほしい。いくつか吸血鬼が出てきた物語などでは、唾液に催淫の効果があるだとかいう設定があった。もしかして、こちらの吸血鬼もそのような設定があるのだろう。おかしいくらい体は熱を持っていた。
いつの間にか玖路の足は大きく露出されていた。紅蓮が玖路の片方の足首を掴み、折り曲げて膝を突き出させる格好を強いているせいだ。神が丹精を込めて作った麗しい顔が、玖路の顔へと近づく。まるで口付けができそうなほど近い距離にあり、赤くなったり青くなったりと玖路の表情は忙しい。
「貴様の名は何と言う?」
甘い囁きに頭がジンと痺れ、腹の下辺りがキュンと疼く。
獣人は吸血鬼を遊び半分で狩ると言うのに、吸血鬼に言いようにされるなど獣人の名折れ。もっとも、玖路は獣人の中でも下位に属し、紅蓮は逆に吸血鬼の中で上位に属する。通常の理が用いられなくても仕方がないが、ただただ恥ずかしくて体が熱くて美貌の男に見つめられるのが耐えられなかった。
質問に答えようと口を開いてしまえば、恥知らずにも強者に媚びるみたいに甘い声を上げそうでできない。違うのに、自分は男じゃない。紅蓮に似合うような相手は、BLゲームの攻略相手か、まだ見ぬ主人公なのよと必死で自分を律する。
貝のようにだんまりを決め込んだ玖路に紅蓮は微笑む。それだけで、天にも昇るような幸せな気分に浸れる。
「つれないな。月の妖精よ」
玖路の頬を撫でる。それだけで鼻にかかったような甘い吐息が漏れ、羞恥に死にそうなほど玖路の頬は赤くなる。
そもそも吸血鬼にとって月がつく言葉は褒め言葉であり、月の妖精とは可愛いや美しい、好ましいなどと言った意味がある。この世の者とも思えないほどの美形に甘い言葉を囁かれたって……嬉しくて床にゴロゴロしたくなるじゃないか。
「愛い奴だな。我の月の女神にしてやろうか? ははっ、面白い。光栄に思えよ」
金の目が細められ、その目に玖路の姿だけが映る。背筋が震え唇は弧を描いていく。一瞬だけでも、紅蓮の目に映ったのが玖路には嬉しくて堪らなかった。
「貴様の血は我を満たしてくれる。さあ、我に名を言え」
頷き名前を話してしまいたいが、理性が駄目だと玖路を叱りつける。
月の女神、月の神は吸血鬼によって伴侶や恋人のことを差す。紅蓮の相手は攻略相手や主人公じゃなきゃ許されない。玖路では駄目なのだ。
首を振り拒否する玖路に、紅蓮は笑みを深めていく。どうにも面白いものを見つけたと言わんばかりだ。
「ふむ、一つゲームをしてやろう。我が卒業するまでに、必ず貴様の名を当ててやる。他人の力など借りず、我自身が探し出してやろう。そこで、我が貴様の名を当てれば勝ちだ。その場合、貴様の全ては我のものにしてやる」
まあ、この我に当てられぬはずなどないがとククッと悪役面で笑う。
「逆に当てられなければ貴様の勝ちだ。貴様が勝ったのなら、我は貴様のものになってやろう」
「え? あの、それって……」
同じことではないかと尋ねようとして、開きかけた口は紅蓮の口に塞がれた。舌まで入れられお互いの舌が絡み合い、唾液を飲まされ呆然とする玖路。ファーストキスが奪われたばかりか舌まで入れられた。
「名残惜しいが、また会おう、我が月の女神よ」
唇の端から交じり合った唾液が零れ落ちる。よく分からないが紅蓮の興味を引いてしまったらしい。何故だ、紅蓮と誰か男の妄想をしようと思っただけなのに、これから紅蓮をストーキングするときは完全獣化をして距離をとって気取られないよう気をつけたほうが良いかもしれない。
腐った考えしかしない玖路は知らなかった。一人でいるときにちょくちょく紅蓮が玖路の元を訪れ、名前を探るためにあんなことやこんなこと、人に言えないようなことをしでかしてくるなど、腰が砕けて立ち上がれない未来など想像もしなかった。