Ⅱ 一人という強さ《京都編》
「ただいま」慶也はカラガラと戸を開け、元気無く言った。一週間分の疲れが込み上げてくる。
「おかえり。絆創膏貼ってどうしたの、また喧嘩?」
「……怪我しただけ」台所に向かい、慶也は急須に茶葉を入れ、湯を汲む。新しい葉は香りが良い。
「お爺ちゃんの所から新茶が届いたよ」母は言った。
「あのさ、明日京都行く」
「お爺ちゃん家?」
「そう」
「じゃあお小遣いあげる」
「要らない」
「いやあげるから、いいの」
「お節介」
「お節介じゃなくてあげるんだから受け取りなさいよ」
「しつこい」慶也はやかましく感じて、気分を悪くして部屋に行ってしまった。些細なことでいらつくとは、やはり疲れが溜まっているのだろう。
慶也は茶を注いだ。そして、茶の香りを楽しむ。この一時こそ、精神が落ち着くのである。
「……もしもし、ばあちゃん?慶也です。爺ちゃんいる?」
『……おー慶也か、爺さんな、道場やから今はおらへんな』久しぶりに聞く、生粋の京言葉だった。
「あーそうなんだ。それでさ、明日、そっち行ってもいい?」
『ええけど、今年はえらい夏休みの早いことやな』
「……。爺ちゃんに剣道教えてもらいたいと思って」
『そうか、爺さん喜ぶやろな。待ってるから気をつけて来なさいな』
「はーい」
『京都駅まで迎えに行こうか』
「いや、いいよ」
『ならええ。ほな明日』
「うん、じゃあね」
『あ、爺さん横須賀の海軍カレー好きやから、買うていったらええよ。あれな、横須賀にいた頃休みが出ると……』
「待って、横須賀まで行かないといけないじゃん」
『嫌ならええけど』
「分かったよ、買ってく!じゃあね」
結局ばあちゃんに敗北し、一時間近い道のりを横須賀まで行かなければいけなくなった。
『そう言えば慶也、』
話しは終わらない。
「何?」
『四月やったかなあ、河原町の大丸がな……』
「分かった、また明日聞くよ」
『ほな明日な』
やや強引ながら、電話をそっと切った。慶也は横になって、小さい頃のことを思い出していた。
生まれは京都である。
小学校に入るのと同時に、自衛官である父の仕事の都合で神奈川に引っ越して来たのだった。それまでは爺ちゃん、ばあちゃんと三世代で暮らしていた。
京都という都市が、生活が、懐かしかった。
そこには、人と人との温かいつながりが、残っていた。伝統も大切にしていた。近所の人々に助けられ、時に叱られ、育てられたものだ。
そういう所で生まれ育ったと記憶していた。
『次は、京都。お乗り換えのご案内を致します。……』
新幹線は東山のトンネルを抜け、京都駅に停車した。
駅前からは、バスに揺られながら、烏丸を北へ北へと上がり、途中でチャイムを押した。
ここを訪れたのはおよそ一年振りだった。
がらがらと、戸を開ける。
「こんにちはー。」玄関には、花瓶が雅やかに一つ置いてあるのみだ。ばあちゃんの趣味である。
「おー慶也、よう来たね。上がりなさい」ばあちゃんが顔を出した。
「この前お茶が届いたやろ。伴さんの頂きもんやけど、ぎょーさんもろたから、こな飲めへん飲めへん思てな」
「そうなんだ。爺ちゃんに海軍カレー持ってきたよ」慶也は数箱取り出した。
「ほんまに買うてきたんか、あれな、本気やないで」
「え」
「まあ有難く頂戴しますわ。ははは」
苦労賃を頂きたい気分だった。
「ほな、爺さんは道場におるから行ったらええ」
「……そうか、それはえらいことやな」
道場の生徒に混じっての稽古が一段落し、汗を拭いながら爺ちゃんと話していた。この道場の師範であり、関西の武道界で知らない者はいないと言われるほどの実力者でもある。
「それで、不良にいじめられとる奴は助かるんやろか?」
「その時は助けた」
「その後はもういじめられへんの?」
「……られると思う」
「なぜやろ?」
「弱いから。弱かったら勝てない」
慶也の言葉には熱が入っていた。トレーニングは毎日欠かしていない。心身が弱ければ何も出来ないことは、よく分かっていた。
「ほんまに根性がのうて弱い奴は、いじめられる強さも無いのや。人を寄って集っていじめる奴ほど弱いもんよ。ほんまに強い奴は、一人でいじめるのやけど、そんな奴はおらへんやろ?自分の弱さを隠すために、不安で、必死になって自分より弱いやつを探しておるのや。それから、一人をいじめると、妙な連帯感ゆうもんが生まれてくるんやな」
「うん、俺もそう感じてる。そういう奴は、本当に多い。俺も、そうだった」慶也は顔を上げた。
「いじめっ子は、集団になると強いんやけどな。一人になると何もできへん。剣道を教えとってもそうやわ」
「でもいじめられっ子が強かったら……」
「例のその子は、なぜそこまでいじめられたんやろ?」
「心は強くても、体が強くなかったってことか」慶也は、自分自身で、ついにそう合点した。
「そういうことや。そやから慶也は体は強いのやから、いじめを止めたいだけやったら、力で勝負をつければええやろ。やけどそれをせえへんのは……」
罪の償いをしたいのだ
あの時の状況では、慶也は加害者であり、傍観者でもあった。しかし止めようとすれば、次の被害者になってしまう。
自分はなんて利己的なのだろう。
心の傷となった強迫観念が、苦しい。
「自分のやりたいことをやったらええ。そこで何かつかめてくるやろ。わたしもね、戦後に自衛隊に入る時は随分悩んだんやわ。自分のやりたいこと何もできのうなるって。そやけど、わたしにとっては国を守る仕事が一番やりたいことやったってわけよ」