Ⅰ 後悔したあの日
「おい、やめろ!」
果敢にも声を上げたのは、一年五組、宇治慶也だった。
髪を黄色に染めた数名の連中は、いじめの被害者を離し、侮蔑の目で慶也の方を向き直る。
「ウジ虫ちゃんじゃねぇか。いちいち目障りなんだっつーの。ボコろうぜ」徒党を組んで不良たちは向かってくる。
慶也は彼らを強い眼力で睨みつけた。体格の良い慶也なら、刃向かえるはずである。それなのに、ただ、蹴られ、殴られ、罵声を浴びせられるだけだった。
ああ、またやってしまった。
放っておけば良いものを。
だけど、許せない。
イジメを止めれない自分を、許さない。
「慶也、お前バカだ」
東山仁は言った。隣のクラスの友達である。慶也はベンチに腰かけ、顔や腕に負った打撲傷を癒していた。
「バカでいい。それでいいよ」
「本当に変わったな。中学の頃は慶也がいじめる側だっ――……!」
仁がそう言いかけたときだった。慶也は突然表情を変えて、胸ぐらに掴みかかった。
「おい!お前分かってんだろ。二度と言うんじゃねえ!!」
「わ、分かってるから……落ち着けって」
慶也は、怒りに震えながら、目を涙で潤ませているようにさえ見えた。やがてため息をついて、再び座り込んだ。
「お前は今も昔も傍観者だもんな」
「仕方ないじゃん。俺だけじゃなくて、中学の頃は慶也たちの標的になるのをみんな怖がってた」
「……」
「……ごめん」
「お前はさ、いじめられるとか思ってたの? 」
「いや、別に思っては無いけど…。まあ何かと、小学校時代からの信用っすかね」
「ふーん」
いつものように明るい仁とは対照的に、慶也はうなだれた。
「はあ。俺は何をやってんだろ。昔から真っ当に生きていれば、こんな目に遭わなくて済んだだろうにな……」
「自分でいじめられに行ってるだけなのに。慶也は」仁は腕組みして言った。
「おう、だからそうだって」
「第一印象は厳ついのにね。何もしなかったら、不良にもいじめられないのにね」
「そうだろうけどな……」
慶也は目を瞑った。
初夏、昼下がりの太陽がさんさんと輝いている。聴こえてくるのは、アブラゼミの大合唱。
あの時も、ちょうどセミの季節だった。
宇治慶也、中学二年。
「――銀河鉄道の夜に象徴されるように、宮沢賢治の作品というのは、常に――」
老齢の国語の先生の授業は耳に入らず、悪友と輪ゴム飛ばしの腕前を競っていた。的になるのはいつも決まってKという内気な生徒だった。
チャイムが鳴り、号令がかかると、Kは先生より早く慌てて教室を飛び出す。
「何あいつ。また『大』かよ」
「な。やばいな」
慶也はKを嘲笑する悪友とともに教室を出ていく。
その時の仁の哀れみの表情、気づいていたのに。
でも彼を含めた傍観者は、決して制止してはくれなかった。それが、日常のことであった。
トイレに押しかけると、掃除用具入れからバケツを取り出し、勢いよく水を貯める。そして協力して、個室の上から水を流し入れた。Kの叫び声が響きわたる。
おもしろがって、もう一回。もう一回……。
「くたばれ!!」
やがて後から来た仲間が、Kの教科書類を投げ込み始めた。その中にはKが昨日もらった表彰状もあった。鈍かったKの、初めてと言っていいほどの栄光だった。全校の前で表彰され、たくさん誉められていたのだった。
「え」
慶也は、一瞬戸惑った。だがその場の『ノリ』に逆らえず、そんなことはすぐに頭から消えた。しかし心の奥底では、気がついていた。越えてはいけない線を破ってしまったと。
繰り返し水は投げ込まれる。Kの大事な持ち物は、既にぐちゃぐちゃになっているようだった。笑って騒ぐいじめっ子たち。泣き続けるK。
慶也だけはそこに、茫然と立ち尽くしていた。
Kが自殺を計ったのはその翌日だった。
辛くも一命はとりとめたが、元のように五体満足では無いと聞いたとき、慶也は、頭の中が空白になった。
さすがに今まで見て見ぬふりをしていた先生たち、そして警察までも動き、慶也は主犯ではないとされたが、数ヵ月の登校禁止の処分を受けた。
それ以来、卒業まで学校には行かなくなった。
成績は比較的上位だったが、おかげで底辺校に行く羽目になってしまった。
これがKの、身を犠牲にした最初で最後の復讐だったのかもしれない。