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 クラウスとの腐れた縁は、遡ること五年前、私が十二歳のときに端を発する。

 拾われっ子の私は、まさに拾われたその日から、兄や兄の周りにいる人々に気に入られようと必死だった。

 オイオイ計算高くて嫌な子供だな、というもっともな意見は、この際脇に退けておこう。やっぱりお前なんかいらん、と放り出されないためにも、とにかく私は「いい子」になりたかったわけである。

 勉強は勿論のこと、歌、楽器演奏、ダンス、令嬢の嗜みとされることは全て寝る間も惜しんで取り組んだ。

 目に見えない部分だけの鍛錬だけでは飽き足らず、見た目にもより一層の磨きをかけるべく、鏡の前ではにかみ顔や笑顔、泣き顔の果てまで練習していたのだから、猫っかぶりもここまで来ると病的である。


 が、人間、努力の合間には息抜きが必要だ。


 緊張感は永遠には続かない。使用人どころか飼い猫にまで好かれようと気を配っていたこの私、ついに耐え切れなくなって屋敷を飛び出した。

 家出ではない。半日だけ、人知れず羽目を外して、すぐに戻るつもりだった。

 兄には心配しないでと手紙をしたためた。供を二人も付けていますと嘘も吐いた。

 抜かりなく後続の憂いを絶ち、私はヴェルトナーの普段使用していない別荘へと赴いた。


 ここは自然がいっぱいだ。遊ぶものでいっぱいだ。


 川に入って魚を捕まえ、木に登って怪しげな実を頬張った。野兎を追いかけ、野犬に逆に追い回された。

 蛇も出てきたが、毒もないし小さかったので、首根っこを掴まえてぶんぶんと振り回して撃退した。雨が降れば外に飛び出し、雷の光を浴びながら泥だらけになってひたすら駆けた。


 そう。認めよう。

 私は野性児だったのだ。


 一通り暴れるだけ暴れて、満足した私は、意気揚々と泥水を滴らせながら別荘へと戻った。

 明日からまた品行方正なお嬢様の仮面を被らなければならない。……いやもう、考えただけで疲れるわー。

 などと思っていたところに、私を探しに来たらしいクラウスと出くわした。


「アラナ……?」


 クラウスは兄の親友なので、もちろん私は彼のことを以前から知っていた。

 ただ、全く関わったことのない人物だった。彼にとっては十歳も年下の少女は視界に入れる対象ですらなく、私は子供ながらに冷たく鋭い雰囲気の彼が苦手だったのだ。


 ねじれの位置の二線のように、今までも、これからも、交わることなどない私たちのはずなのに……運命とは因果なもの。


「その恰好は……」

 顔面にありありと不審の色を張り付けたクラウスに、私はすかさず花の笑顔を取り繕った。

 小首を傾げながら、

「転んでしまったの」

 ところが、この男、私の天使の作り笑いに騙されなかった。

「素手で魚を獲り、木登りをし、兎を追いかけ犬に追われ、蛇を投げつけ、雨に打たれながら信じられない速さで森を疾走する……よく怪我もなく済んだな。お前が只者でないということはよくわかった」


 全部見ていたんかい。


「あーあ」

 私は誤魔化すのをやめた。

 汚れた両足を投げ出して、どすんと地面に座り込んだ。

「ばれちゃったかぁ。仕方ないね」

 あの立派な屋敷を無一文で叩き出されても、まぁ、きっと、何とか生きていけるだろう。常人よりは図太く逞しいとの自覚はある。


「よくもまぁ……見事に猫を被っていたものだな。自分の目で全てを目撃した今でも、ヴェルトナー邸でのお前と、今のお前の姿が重ならん……」

「そりゃあ。頑張っていたもの」


 私は肩を竦めた。

 両手を地面につき、大きく天を振り仰いだ。相変わらず糸のように細い雨が降り注いでくる。


「上手くいっていたんだけどな……」


 瞬きを繰り返した。

 頬を、生温かい滴が伝い落ちてゆく。

 舐めたらしょっぱいに違いないので、それを認めたくなくて、私は上を向き続けた。雨が全部洗い流してくれるのを……ただ待った。


「なぜ、無理して優等生など演じていた。野生児を通り越して原始人が」

「だって、いい子にしてないとまた捨てられちゃうじゃない」

「……レオニードは途中で責任を放棄したりはしない」

「だって、いい子じゃない私を責任感だけで面倒見るなんて、お兄様が可哀そうじゃない」


 こんな下賤な子供は拾わなければ良かったと、兄が後ろ指をさされないように。

 孤児ではあるが、これは優秀な娘を引き取ったと、兄が一目置かれるように。


 私は、絶対に、何があっても、ヴェルトナーの名を穢してはいけないのだ……!


「猫が何よ。それを被ってどこが悪いの。誰にも迷惑かけてないじゃない」


 クラウスはそれ以上何も言わなかった。

 風邪をひく前に帰るぞ、とだけ呟いて、何事も無かったかのように家まで送ってくれた。

 その後、クラウスの口から、私の正体が兄や屋敷の皆に知れることはなかった。

 意外にお転婆娘のようだ、と、少しばかり余計な報告をしてくれたみたいだが……、それだけだった。


 その代わり、何かにつけ、私をからかうようになっていた。……他の誰の目もないところで。


 そっちがその気なら、私が殊勝に振る舞う理由もない。私は連日クラウスのもとに押しかけた。

 彼の執務室の椅子の背に兄と私の相合傘の落書きをし、ソファの上に寝転がって純文学ではなく冒険小説を読んだ。お菓子をぽろぽろ零しながら部屋中を行ったり来たりし、机の引き出しに愛の手紙の代わりにビックリ箱を仕込んでおいた。

 クラウスは当然その度に烈火のごとく怒ったが、怒りつつも、本気で私を締め出すつもりはないようだった。

 やろうと思えば、執務室前の衛兵に言いつけて私の立ち入りを拒否することも出来たはずなのに。見張りの兵士はいつでもにこやかに私を通してくれた。


 クラウスのいる空間が、いつの間にか、私が一番私らしくいられる場所になっていた。


「クラウス! 今度ね、面白そうなお芝居がくるの。連れて行って! これパンフレットね」

「『一人の女を巡って、三人の男たちの骨肉の争い。勝利するのは騎士か、傭兵か、はたまた貴族の青年か』……壮絶にくだらん劇だな。俺よりはまだ愛しの兄上殿の方が耐性がありそうだ。誘うならレオにしとけ」

「こんな恥ずかしい芝居にお兄様を連れて行けるわけないでしょ!」

「本当にいちいち腹の立つ小娘だな……! 俺を巻き込むことに関しては一片の良心の呵責も感じないのか」

「感じないわよ。だってクラウスだもの」

「今からでも遅くないから、もう一度拾った場所に捨ててくるか……」

「遅いわよ! もう時効よ!」


 ああ……気を使う必要がないって素晴らしい。


 私は、私がお兄様の恋人(できれば妻)になっても、クラウスが他の誰かと結婚しても、この関係だけは崩れないと信じていたのだ。

 これは切っても切れない腐れ縁だと。


 まさか、そのクラウスと、神様の前で「死が二人を分かつまで」の誓いを立てる羽目になろうとは。

 人生こそがこの世で最も謎と不可解に満ちた物語であると、つくづく思い知らされた瞬間だった。




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