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私には血の繋がらない兄がいる。
田舎町の冬の寒空の下、薄着一枚で親戚宅を放り出されて凍死しかけていた当時六歳の私を拾ってくれたのが、金色の髪に優しげな翠の瞳をした少年……後に私の兄となるレオニード・フォン・ヴェルトナーだった。
兄はイグナーツ王国でも五指に入る武家の名門の当主だった。十七歳の若さで既に千人の師団を預かる長であり、五年のうちに万を率いる軍団長、十年のうちに全てを担う軍総帥に上り詰めるのも難くないと、もっぱら噂されていた。
その周囲の期待を一切裏切ることなく、兄は二十七歳になったとき、イグナーツ軍総帥の重責を国王陛下より賜った。
その年のうちにかねてから国境を侵犯していた北方蛮族を蹴散らし、輝かしい戦績をおさめて、就任したばかりの地位を瞬く間に不動のものとした。
そんな出来の良すぎる兄、しかも血の繋がりのない命の恩人の兄に、妹とは名ばかりの私が惹かれてしまうのは、やむを得ない話だと思うのだ。
聡明で淑やかな女性が理想という兄のお眼鏡に叶うよう、好きでもない刺繍や詩の朗読も頑張った。ひらひらのドレスを身に纏い、舞踏会に出席し、誰よりも上手にタンゴやワルツも踊ってみせた。
教養の高さを演出するために、歯を喰いしばらなければ五分で爆睡してしまいそうな文学作品を読み漁ったり、新聞の時事ネタを必死に頭に叩き込んでサロンでそれを披露したり、それはもう涙ぐましい努力を重ねてきたのだ。
……全ては兄好みのイイ女になるために!
なのに、レオニード兄様ときたら……あの朴念仁!
「さすがアラナだ。私の自慢の妹だ」
そう。妹のままなのだ。この私の血の滲むような苦労をことごとく無に帰す呪われた一言……それこそが。
妹!
「私は! 私はぁっ! 妹としてじゃなくて、一人の女としてお兄様に見て欲しいだけなのよぉっ!」
わっと突っ伏し泣いたその先に居るのは、兄ではなく、兄の副官の青年。名をクラウスという。
イグナーツでは珍しい漆黒の髪に、やはり黒に近い藍色の瞳。母親が異国の女性であるためと聞いたが、クラウスは自分のことをあまり話したがらないので詳しくはわからない。
ヴェルトナーには劣るものの、かなり高位の貴族の次男坊だ。兄の腹心の部下であり、親友であり、そしておそらくはライバルでもある。
その深く強固な繋がりは、
「あいつがいなければ今の私は無い」
と、常々兄に言わしめるほど。
兄の妻の座に納まるために、六歳から巧みに被っていた私の猫を一目で見破ったこの男、確かに只者ではない。私も彼相手に取り繕ろうことの無意味さを知ってからは、遠慮なく地を出して喋ることにしていた。
「真昼間から騎士団棟の総帥副官室に出没し、机を叩いて唾を飛ばして叫んでいる時点で、大いに淑女失格だ。顔を洗って得意の猫をかぶり直して、おととい来い。……いや、はっきり言った方がいいな。二度と来るな」
年より若く見られがちな顔を誤魔化すための小道具、度の入っていない眼鏡を直しつつ、クラウスは言った。
こんな厭味ったらしい奴なのに、兄を上回る勢いで貴婦人方に人気があるのだから、世の中はつくづく不思議と理不尽に満ちている。
こちとら忙しい、邪魔だ帰れ鬱陶しいツラ見せるんじゃねぇよこの野郎、という、とんでもなくわかりやすい彼の無言の圧力は華麗に無視して、私はぐっと執務机の上に身を乗り出した。
「もうこうなったら、私が誰かに盗られる! 的な演出をするしかないと思うの」
「ほー……」
ナニその狐のような細い目つき。美形はそういう顔をしてはいけない。
「他の男に奪われそうになって、初めて気付く自分の気持ち! って本にも書いてあったのよ」
「愛読書は純文学、なんて嘯いておいて聞いて呆れる。その俗っぽい一文、どの純文学に書いてあったのか言ってみろ。腹の底から嘲笑してやるから」
「『真冬の組曲』よ。ただいま奥様方に絶大な人気を誇る純粋恋愛文学よ!」
「十頁ごとに扇情的なシーンが入るだけの中身のない大衆本か」
「……よく知っているわね」
「お前が影響を受けるような馬鹿馬鹿しい本、読まなくとも想像くらいつく」
「いちいち腹の立つ男ね……!」
「今に始まったことではないだろう。わかったらとっとと帰れ。手向けに塩くらいは撒いてやる」
しっしっ、と、クラウスはまるで野良犬を追い払うような仕種をした。
兄とは対照的に、癒しの欠片もない氷の美貌でそれをされると、大抵の女性は一週間は引き篭もりになるほど落ち込むものだが、この私に限ってそんなことはない。
クラウスに嫌われようが、詰られようが、何ら痛痒を感じないのである。
私の魂を揺さぶられるのは、ただお一人、愛しい兄上様のみ……!
「どうしてこんなのを拾ってしまったのか……。人生最大の失敗と言わざるを得んな」
「ふふん。後悔先立たずよ。それよりクラウス、協力して頂戴。私を攫って!」
がしっ、とクラウスの片手を両手で握り締めてみたが、
「嫌だ」
すっと手を外されて、即答された。
「なんでよ!?」
「当り前だろう。軍総帥の妹なんか誘拐したら縛り首確定だ。なぜ俺がそんな貧乏くじを引かねばならん」
「ちっちっちっ。甘いわね。誘拐じゃないわよ。私を妻に迎えたい! ってお兄様に言って欲しいの!」
「……は?」
「妹だと思っていた可愛い娘が他の男に! ……って素敵な状況を作り上げたいの」
「なぜ俺を巻き込む」
「だって、貴方なら、お兄様が剣を抜いてそこへ直れ! って言っても対抗できるでしょ。下手に弱っちいのに頼んで手打ちにされたら気の毒じゃない」
「そこへ直れ、どころか、ノシつけてくれてやろうと思っていたところだ、ありがとう、というような状況になってしまったら、どうする気だ……」
「ならないわよ」
「相変わらず根拠のない素晴らしい自信だな。お前は長生きするだろうよ」
「ありがとう。私も自分は百二十歳くらいまで生きると思うわ。子供も十人は生めるわね、健康だし。まぁそれは置いておいて」
私はいそいそと持参した紙の束を取り出した。
昨日一晩かけて考えた「お兄様に妹を女性と意識させよう作戦」の筋書きだ。
クラウスの顔が思いっきり引き攣っているような気がしないでもないが、きっと私の勘違いだろう。我ながら、このまま劇作家にでも売りつけたいくらい良い出来なのだ。
私って天才……!
「馬鹿だ馬鹿だと思っていたが……本当に真正の馬鹿だったな。お前は」
「総帥の妹にそんな口叩けるの貴方だけよ」
「俺しか叩けないから、あえて苦言を呈している。これ以上お前をのさばらせておくのは、我が国にとって害悪以外の何物でもない」
「私をのさばらせないためにも協力してよ。お兄様の妻になれば大人しくなるわ」
「……大切な友人がみすみす地獄に落ちるのを見過ごせと」
「なに言ってんのよ。私以上にお兄様に相応しい女なんていないでしょ」
「起きたまま寝言をほざけるお前の特技には心から感服する。……それはさておき」
クラウスが眼鏡を外した。二十代後半に見えた顔が、途端に二十代前半に化けた。男のくせに若作りなんて往生際の悪い奴め。
「協力してやるよ。これ以上お前を放置しておかない方が良さそうだ」
実は、兄は、これまでに私に舞い込んだ結婚の申し込みをことごとく断っている。
半端な輩に妹はやれん! が求婚者たちを跳ね除ける際の決まり文句だが、彼らのほとんどは私の目から見ても十分に優良物件と言える男性たちだった。
兄が私を特別可愛がってくれているのは間違いない。あともうひと押し、何か決め手さえあれば……。
副官であり、親友であり、ライバルでもあるクラウスが私を欲しがったら、どうにもノホホンとした兄でも闘争心に火が点くのではないかと思うのだ。
あいつに取られるなんて……、と、狙った通りの状況に持ち込めば……!
「一年ほど早まってしまったが、まぁいいか……」
妄想を逞しくしていた私の耳に、クラウスのその呟きは届かなかった。