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「こっち。 早く」
短くそう告げ腕を引かれるまま、 イリスは腕を引いた者について更に細い横道へと逃げるように駆け込んだ。 背後でルシアが何か叫んでいたような気がするが、 そんなことを気にしている余裕は無い。
幾つかの細い路地を曲がり駆け抜け、 先ほどの表通りよりは狭いけれど横路よりは広いくらいの通りへと出る。
陽の高さの関係か建物の影で薄暗く人通りのあまりない路だと思ったのは息を整えて辺りを見回したときだった。
「大丈夫?」
「う、 うん。 ありがとう」
小さな声に声の主を改めて見遣る。 それは自分と年の変わらない少女だった。 前髪が長くぼさっとした黒髪に青ざめて見えるほど白い肌、 灰色の膝丈ワンピースで足元は茶色の皮のサンダル。
身長はイリスよりも若干高かったのだが。
少女は掴んでいたイリスの腕を放し、 頷く。
「災難だった、 わね。 今度は、 気をつけて。 ……あなた、 教会の、 人?」
「え。 あ、 うん。 そうだよ」
「そう……」
少女がそれきり黙りこむ。
そんな少女にイリスは一度服装を整えると深々と礼をした。
「助けてくれて、 ありがとう。 僕はイリスィール。 貴女のお名前、 聞いても良い?」
「イリ……スィー…ル?」
「うん。 でも、 呼びにくかったらイリスとかでも良いよ。 僕の村のお姉様たちやおじ様たちも皆そう呼ぶし」
「わかった。 イリス。 …………私は、 メム」
「メム。 そうっ、 可愛いね」
えへっと笑顔でそう言ったイリスにメムは少しだけ押し黙り、 やがて苦笑のようなものを口元に浮かべた。
「視力、 悪いのね」
「何で? 良いよ?」
「……ねぇ、 あなた宿は? 送ってあげる」
ちょっと心配だし。 そう言って踵を返したメムの背を慌てて追い、 隣に並んで歩き出す。
「大丈夫だよ。 それに、 メムちゃんの方が帰り道が暗くなったら危ないもん」
「メム……ちゃん?」
「あ。 嫌だった? 僕のお師匠様がね、 女の子は呼び捨てにしちゃだめだって」
「そう、 なの。 ……嫌じゃ、 ないんだけど……恥ずかしい、 かな。 呼び捨てにしてくれると、 楽」
わかったー。 と無邪気な笑顔で頷いたイリスに、 メムも釣られて口許をほころばせた。
黄昏の金色が街を染める。 大通りに出ると帰り支度を始める露店、 西陽に眩しそうに眼を細めたり帽子のつばを深く被りなおす紳士淑女。 晩餐へ出発するのだろう貴婦人の乗り込む馬車。 食べ物の屋台だけはメニューを切り替えて再び稼ぎ時を迎える。
「うわぁ……。 やっぱり、 昼間より人通り減っても、 村とは比べ物にならないね」
「そう、 なの?」
「うん。 村だとね、 仕事片付けて食事して、 次の日の為にすぐ寝ちゃうから、 すっごい夜は静かだし、 誰も出歩かないの」
イリスの住んでいる村は特に小さくて年配のものが多かった。 多かったというより、 少年少女というのはイリスしかいなかったから余計にそうなっていて。
「へぇ……。 でも、 静かなのは、 良いと思うわ」
「まーねー。 お星様とか綺麗だし、 虫の声なんかも聞こえるんだよ」
星空なんかこーんなに、 と両手を広げて話しているとその耳に街の生活音とは違う賑やかな音が飛び込んできた。
「あれ?」
「広場の方、 みたい」
「アコーディオンかな……スケルツォ」
陽気でまるで音が笑って踊るような曲が広場の方から流れてくる。
吸い寄せられるように二人がそちらに向うと、 広場の中央にある時計塔の下で白髪に褐色の肌をした青年がアコーディオンを演奏していた。
真っ白な雪のような短い髪に、 対照的な褐色の肌の高身長の痩躯を黒いツナギに包んだその青年の周りには、 音に引き寄せられて結構な数の人が集まっている。
演奏は幾つかの明るく陽気な曲をどこか懐かしい音で繰り返し、 終わると同時に周囲から拍手が降り注いだ。
イリスとメムもその例外ではなく、 二人で瞳を輝かせながら青年に拍手を送った。
「すごーい……すごく、 良かったよね!」
「うん。 楽しかった……」
そう言うイリスにメムが頷いていると、 スッと影が落ちる。 何だろうと思って二人が見上げると件の青年が二人のすぐ傍に立っていた。
「よぉ。 そんだけ喜んでもらえたら、 オレも嬉しいぜ?」
鳩血色の紅玉のような瞳が面白いものを見つけたように輝いている。
近くで見れば見るほど、 青年は派手な色彩だった。
肌とツナギが黒いから、 髪の白と瞳の赤が際立つのだろう。 その眦と唇には同じ紫のシャドウとルージュが施されている。
「わ」
「え?」
ツナギのポケットから青年が何かを弾いて二人は反射的にそれを受取った。
それは包み紙に包まれたキャンディ。
ニッと青年が笑う。
「やるよ。 おすそわけ」
「あ、 ありがとう」
「ありがとう」
カラカラと笑った後、 青年も飴玉を口の放り込む。
「あれ? お兄様、 アコーディオンは?」
「ああ。 借り物。 ほれ、 そこのひょろい兄ちゃんが持ってるだろ」
「ほんとだ」
イリスの言葉に青年が親指を立てて示した先には、 先ほどの演奏で使われたアコーディオンを持ち、 緊張したような面持ちの別の青年が周囲の人々にからかわれている場面があった。
「ちょっと貸してもらったんだよ」
「なるほど」
「……災難ね」
メムがぽつりと呟く。 あれだけ盛り上がった後だ。
飛び入りのものに本職が負けられない。
「でも、 とっても素敵だったよ!」
「はは。 サンキュー」
すっごーい、 とキラキラ瞳を輝かせるイリスにメムもそこは素直に頷いていた。
「けど、 坊主も教会でオルガンくらい弾くんじゃねーの?」
「ううん。 僕はお歌だけ……って。 え?」
なんでわかるの?
イリスが瞳を丸くして青年を見遣れば、 おかしそうに青年が笑う。
スッと青年が片手を伸ばし、 その首元に(正確にはそこに掛けられているペンダントの鎖に)触れようとした瞬間。
「触るんじゃありません」
青年の手を叩き払いのけ、 ぐいっと抱き締めるようにしてイリスを引き寄せながらそんな言葉を発したものがいた。
「さっきの」
「放せ触るなこの変態!」
「よぉ。 ルッシー」
これは自分のものだというようにイリスの頭と肩を抱き寄せたルシアに青年はくつくつ笑い声を零し、 メムは思わずそこからイリスを引き剥がそうとしていた動きを止める。
「気安く私のものに触らないで下さい」
「変態が触るな!」
「うっわ。 心せっまー。 てか、 むしろルッシーのが拒否られてねー?」
「拒否されようがされまいが関係ありません。 私は良いんです」
「良いわけないでしょ! この変態っ」