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春の陽もそろそろ夏の色濃くなる時期。
舗装された石畳の広場にはそこかしこに露店が開かれ、食べ物の屋台の近くには大振りで貴婦人たちが使うのとは似ても似つかぬ無骨な木と布で出来た日傘の下、五つ六つの樽を無造作に置いただけのテーブルがあった。
主に立ち食いするためのものといって差し支えないだろう。
行き交う人の声や足音。様々な物品の匂い。
全てが絶え間ない市場の一角。件の日傘のテーブルに軽く寄りかかりながら、ワースはぼんやり考えていた。
千里眼とか時々言う奴もいる自分の能力は実際そんなご大層なものじゃない。ワースは常々そう思っている。
自分の弟子として引き取った少年。その誕生時に洗礼をしたら偶然見えてしまったのが『十五までに悪魔が殺しにやってくる』というもの。
見えたのは“それだけ”なのだ。どんな悪魔がどんな風に殺しに来るかなんてのもわからない。
ただ、ふっと感じただけ。
そして、恐らく自分が守らなければこの赤子はその通り十五までに死ぬだろうということだけを漠然と感じ取っていた。
自分の子でもない、他人の子。
引き取って育てるとして、何になる。そう欠片も思わなかったわけじゃない。赤子なんて夜はやかましく泣くし、少しも目を離せないような面倒なものなのだ。
自分の子ならまだなんとか。
それでも何とか耐えられるってものなのに、無理。絶対無理。
そう、思っていた。洗礼をして、その赤子の手を離す直前までは。
―――― 『この子を、俺に預けてみませんか……』
気付いたら口を突いて出ていた言葉に一番驚いたのは、他ならぬワース自身だった。
この赤子目当てでこれからは悪魔に狙われる。
自分の自由な時間も削られて、行動だって制限される。
なのに。一度口に出してから、それを撤回する気は微塵も起こらなかった。
「つくづく、役に立つのか立たないのか」
紅紫の髪を軽く掻き揚げ、気の抜けたような笑みを浮かべてワースはルシアに猫の如く威嚇しているイリスを見遣る。
予想通り、赤子は面倒だった。
けれど、それ以上に愉しかった。
千里眼? やっぱり違う。何故ならあの時、こんなにも大切になるなんて思いもしなかったのだから。
千里眼は何もかもを見通すもの。自分の事も見通せないこれじゃあ一里だって見通せない。
肩をすくめ、イリスから視線をルシアに移す。
イリスの十五の誕生日。彼は村の入り口に立っていた。
―――― 『お願いです。どうか……』
一目でそれなりの力を持つ魔族だとわかった。滲み出る魔力を抑えることもせず、そこに立っていたから。
ワースは瞳を閉じる。
魔力を抑える“余裕”も無いほど、彼は、必死だった。
必死だったにもかかわらず、その時にもてる全てをもって、彼は“待って”いた。
片手で片腕に上着の上からでも肌に血が滲むほど爪を立て、村を囲むように張り巡らせた結界を破らぬよう自身を抑えていた。許可を得るまで。決してそれまで領域を踏みにじることなく。
「あれだけの力なら余裕だったはずなのにな」
そっと自身の脇腹に手を置く。もう大分癒えたが、そこには彼が来る前日に退けた魔族から受けた浅くは無い傷がある。
結界を破り、あの時ならワースを一蹴し、彼なら村に入れたはずだ。
元々、体調が万全であっても彼とまともにやっていたら危なかったのではないかと思いさえする。
にもかかわらず、彼が手出しをせず話をするまで止まっていた。それ以外にもあるのだが、とりあえずそのことで信用しワースは彼をイリスの所まで連れて行った。
瞳を開けて今の彼を見れば、その魔力はほとんど感じられない。
すんなりと人に混じってもわからないほどに魔力を抑えることなど造作も無いのだろう。
「お師匠様!」
「どうしたー?」
「そこのお店の氷菓子、買って良いっ?」
キラキラと瞳を輝かせ、イリスが期待のこもった眼でワースを見つめてくる。
ワースは一つ息をついて軽く片手をひらひらと振った。
「土産買えなくならないようにな」
「はーい!」
歓喜に声を弾ませ、イリスが果汁を氷らせた氷菓子の露店へと三つ編みを跳ねさせながら寄って行く。
「ルシア、頼む」
「お任せを」
くすくす笑い、ルシアはワースに軽く一礼してイリスの後に続いた。その様子を眺めながらワースはぽつりと。
「うん。娘を嫁に出す父親の気分だな」
呟いた。
イリスたちの住む森に囲まれた村から馬車で七日ほどの場所にある水光石の街、モネ。
街から北に少しの所にあるリーズ山脈からの冷たい風から街を守るように展開される六角形の外壁に、都市の証とも呼べる蒸気機関車の線路が通り、この辺りで唯一の駅がある場所でもある。
交通や物資の拠点となっており、地方の大都市と言っても過言では無いだろう。
六つの区画に分類され、空や街壁の上から眺めたならばまるで雪の結晶のような形に見えるということで、別名六花の街とも言われている。
「さてと。俺はちょっと用事があるから、一旦ここで別行動だ。ルシア、夕食までに宿に連れてきてくれ」
「畏まりました」
「イリス、好きに街見てから夕食までに戻って来いよ? 仲良くな」
「ゴメン、お師匠様。最後のだけ無理」
むすっとした表情で木のカップに入った氷菓子を匙で口に運び言うイリスに、ワースは笑って頭を撫でた。
「……僕も」
「今日はいい。そのうち連れてくけど、今日はむしろ待ってろ」
「……はい」
「んな顔するなよ」
しょんぼりとしたイリスは心なし項垂れているように見える。
「そうですよ。大体、今の君が一緒に行っても邪魔にしかなりませんし」
ピクッとイリスの肩が震えた。ワースはその言葉にルシアを見遣り、サッと二人から視線をそらした。
爽やかな笑顔でルシアは優しくイリスに声をかける。
「何が出来るわけでもない邪魔なだけならせめて街の地理を知るのに努めたほうがまだマシというものです。その方が邪魔になりませんし、猫の手くらいには役に立てる可能性も出てくるかもしれませんよ?」
「…………」
わなわなとイリスの肩と手が目に見えて震え、ルシアとは対照的な何かその黒衣よりもどす黒いオーラが滲み出ている。そのオーラの名はきっと殺意だろう。
これは、まずいか。そうワースが思い、口を開こうとした刹那。
「お師匠様……」
「お、おう」
「……いってらっしゃい」
「…………」
ふぅっと息を吐き、イリスがにっこりと微笑む。
「心配、しないで。平気だから。でも、今度は僕も一緒に行かせてね」
「約束な」
「うん」
コクンと頷いたイリスの頭をもう一度撫でて、ワースは踵を返した。
その背が道の向こうに消えて見えなくなってから、イリスは隣に佇むルシアを半眼で見遣る。相変わらずルシアはにこにこと笑っていて。
「何がしたかったわけ」
「何がですか?」
「とぼけないでよ。わざと僕を怒らせてお師匠様が僕を連れて行かなきゃいけなくしようとしてたでしょ」
「……おや」
ルシアはそう言葉を零し、ただ口元の笑みを深めた。
クスクスと微かな笑い声を零しながら先ほどちゃっかり一緒に買っていたらしい果汁氷菓子を口に運ぶ。どこか満足そうなルシアの顔にイリスの眼には剣が滲む。
「別に、何がしたかったわけでもありませんよ? ただ事実を言っただけです」
「あっそう。なら今度から言い方に気をつけるくらいの配慮してよね」
「畏まりました」
シャリシャリと削られた果汁氷を匙で掬って口に運びながら笑うルシアを眺め、イリスは確認するように問う。
「……何が目的なの」
「ですから、別に何がしたかったわけでも」
「違う。最初からだよ」
溶けた果汁氷はそのままジュースになる。少々水の割合が多くなっているそれを飲みながらイリスが問いかけると、ルシアはイリスに目を向けた。