序
ごくごく稀に血とかが出る残酷描写があるかもしれません。
苦手な方はお気をつけて。
「じゃあね」
そう言ってイリスはその身体に宛がった銃口、引き金を
―――― 引いた 。
起章 変態との遭遇
十五の誕生日までに、悪魔が殺しにやってくる。それは生まれた洗礼の時に予言された事。
アウラ大陸西北部の森の中にある小さな村の教会、その質素ながらも清潔で美しい講堂の祭壇には、生命の泉を現す二重の円と雫を描いた彩光硝子から光が降り注いでいた。
もうすぐ正午を告げる鐘が鳴る。
陽の光を紡いだような金の髪をうなじの辺りで一本の三つ編みにし、黒いケープに白いシャツ、黒いズボンという黒衣の聖職者見習いであるイリスは、その光景を眺め、幼さの多分に残る表情の中、大きな碧玉の瞳を髪と同色の長い睫と白皙の瞼の下にそっと隠す。
一見それば十二才程度の容姿だが、本日で間違いなく十五才。
そしてそれは自分を殺しに悪魔がやってくるという期限の日。
生まれた時からの予定。けれど逆に言えば今日さえ、乗り切れたなら。
「僕は……生きられるんだよ、ね」
ぽつりと呟いた言葉。この日の為に身につけた魔を祓う技術。
ぎゅっと手にした単発銃を握り締める。
魔を祓う為に特別に祝福を施された銀の弾丸を込めた銃は、講堂内に差し込む光を受けて鈍く輝いていた。
「嗚呼、こちらにいらしたのですね」
唐突に見知らぬ若い男の声が響き、はっとしたように講堂の入り口を振り返る。
所々跳ねたブルネットの短髪に白い肌、シンプルな白シャツとベストに黒いスラックス、腰にポーチそして黒い革靴という何の変哲も無い服装。
けれど、長方形のフレーム眼鏡の向こう眠そうに眦の下がった瞳を見て、イリスは息を呑んだ。
黄昏と夕闇の混じり合う人ならぬものの双眸。
―――― 悪魔……。
銃を構えなければと思った。
撃たなければ。
けれど、身体が硬直したように動かない。
祭壇までの通路には青い絨毯が敷かれている。
その青年悪魔はその上を静かにゆっくりとイリスに向って歩み寄って。
手を伸ばせばもう触れられる距離まで来た所で彼は立ち止まった。
自分より頭一つ分は高いようで、自然と見上げる形になる。
「探していました。君を。ずっと。さぁ……」
スッと青年が動く仕草にイリスは思わずぎゅっと目を瞑った。
殺される……。
そう、思った。のだが。
「さぁ、……このドレスを!」
「…………は?」
聞こえた言葉に思わず怪訝な声を上げ、眼を開ければそこには跪いてどこから取り出したのか真っ白な花嫁衣裳を捧げるように差し出している青年悪魔の姿があって。
「ふふふ。さぁ、この日の為に私が用意したとっておきです」
なんて、何かキラキラと輝くようなオーラ纏った笑顔で。
「…………」
「…………」
一片の曇りも無い笑顔で、ドレスを差し出していて。
ふるふると自分の身体、主に拳が震えるのをイリスは感じた。
―――― 十五……十五の男に……。
「さぁ、感動に震えるのはわかりますがまずは袖を通し……」
瞬間、ぶちっと何かが自分の中で音を立てるのをイリスはしっかりと聞き、感じ取った。
「僕は男だよっ、この変態!」
眼腐ってんじゃないの! そう先ほどまでの硬直はどこへやら、その跪いて目線が自分よりも低くなった青年の胸倉を掴む。
それに、青年は一度目を瞬かせた後、にっこり笑った。
「知ってますよ」
しれっと言いやがった。
「へぇ……。知っててドレスとか言うんだ?」
「大丈夫です。十分着れますよ。問題ありません」
「問題とか……」
「さあさあさあ! あ、試着室はございますか? ないのでしたら簡易更衣室を今すぐお作りいたしま」
その言葉を青年は最後まで言う事は出来ない。
何故ならその顔面。
掛けた眼鏡を踏み割らんばかりの勢いでイリスが蹴りつけ。
「黙れ変態っ!」
万感の思いを込めてそう叫んだから。
「……なんてことがあったのに何で今日も平然といるわけこの変態さっさと失せてよ魔界へ帰れ」
「嫌ですねぇ、そんな目くじら立てなくても良いじゃありませんか。これからは何時いかなる時もずっと二人は一緒なわけですし」
「いかがわしい言い方やめてよこの変態!」
教会の裏手に併設されている住居の居間。
そのソファに腰掛けて午後のお茶を取っているイリスと件の悪魔。
そして、
「いやー、すっげぇ仲良しだな。安心した」
「お師匠様! 違うから。全然っ、絶っ対、違うんだからね!」
紫紅の髪に蜂蜜色の瞳で整った顔立ちのイリスの師匠である二十代半ばの黒い聖職者服の青年、ロズ・ケルニワースと、
「あら……ですけれど、イリスを好いても害しはしない方のようですし……」
「セリ姉様も騙されないでっ」
腰まである亜麻色の髪に白い肌、クリーム色の足首まであるワンピースを着たおっとりとした雰囲気のセリアという女性が、光の加減で微妙に薄桃色や桃色がかった橙に見える色彩の瞳を和ませてそう言った。
「そんな。騙すなんて人聞きの悪い。短気は損気ですよ」
ばちこん、と星でも飛ばしそうなウィンクと笑顔の青年にイリスは自分の手の中で師匠お手製のジンジャークッキーが砕けるのを感じた。
嗚呼この変態の頭だか心臓だかも握りつぶして砕いてやれるならどんなに清々しいか。
「っていうか、何、当然の顔で僕の隣に腰掛けようとしてんの殺すよ変態。……なんでお師匠様も席譲ろうとしてるのっ」
イリスの隣にいたワースが青年と笑い合いながら席を交代しようとする様子に半ば悲鳴のような声を上げて、イリスはワースの上着と腕にしがみついた。
ぼろぼろに砕けたジンジャークッキーがワースの服に二次災害を引き起こしても今はそれを気にしていられない。
しがみつかれたワースはといえば、微苦笑して空いている片手でイリスの頭を撫でる。
ずっと姿と一緒で変わらない、優しい師匠の手だと、イリスは感じて不思議と心が鎮まっていく。
「大丈夫だよ。こいつはイリスを害さない。でも、まぁ……そうだな。今は俺が隣の方が良いか」
「そのようですね。少々、私もからかいが過ぎました」
やっぱりこの変態殺す。
そう青年の言葉に決意を新たにしつつ、イリスはほっとしてワースから手を離す。
ソファと膝の上に零れたクッキーの欠片を集め、勿体無いので口に運べば向かいのソファに青年と一緒に座っている女性、セリアがクスクス笑って軽くお行儀が悪いですよ? と嗜めた。
「ま、冗談はさておいてだ。契約の話を」
「こんな変態悪魔と契約なんて絶対いや」
「変態ではなく、仕立て屋です。それからルシアとお呼び下さい」
にこにこと邂逅から一度も変わらない(結局顔面を蹴りつけても変わらなかった)笑顔で変態こと青年悪魔のルシアはそう言いながら優雅な仕草でティーカップに口をつける。
「でも、こいつ結構上位の魔族だぞ?」
「でも変態だもん。大体、僕たちの仕事ってこーゆーのを祓うことでしょう」
生命の泉。それは全ての命は原初に水の中から生まれ出たという概念を元にして信仰されるもの。
主なところでは命に関わる事柄、医療などの分野で信仰するものが多い。
同時に水が全てを清め祓うとされ、洗礼や泉を信仰対象にする精霊信仰的なものでありながらも人に害なす妖魔を祓う妖魔祓い師を管轄していたりもする。 叡智の炎という人類に文明を与えた炎を信仰するものもあり、そこにも妖魔祓い師はいるのだが。
大雑把に言うと、水と炎の二大妖魔祓い師ギルドがあると考えれば良いのかもしれない。
兎にも角にも、普段は洗礼をしたり教義を説いたりと普通の教会の仕事をしつつ、要請があれば妖魔を祓いに赴くのが仕事というわけだ。
「人に『害なす』ものでしょう? 私はいたって無害。問題ありません」
「そうそう。人に害がなけりゃー平気平気」
変態ってだけで十分害がある。
むしろ僕の精神に害だよ! とルシアを睨みつけるイリスに、ワースが苦笑した。
「すっげー警戒されてるな。あんた」
「はて、何故でしょう? おかしいですねぇ」
こんなに友好的なのに。
微苦笑でそう呟くルシアに頭から熱湯をかけてやりたい衝動を抑え、イリスはぷいっとそっぽを向いた。
そんな様子を眺めていたセリアが片手を頬に添え、小首を傾げ。
「ですけれど……契約なさらないのでしたら……、またしばらくは、お外にいけません、ね」
「う……」
セリアの言葉にイリスが呻く。
ワースも紅茶を飲みながらしたり顔で何度も頷き。
「そうだな。護衛がついてなきゃ、そうそうこの村の外になんて連れていけない。もっとも……自分の身を自分で守れるようになるまでの事だし、あと数年頑張ればいいだけだからな。数年くらいすぐだ」
自分の身を自分で守る。
それは当たり前の事だが、口で言うほど簡単ではない。
人間からも。そして妖魔からも身を守る実力。
前者は普通の民間人でもどうにかなるかもしれない。だが、後者はそれ専用の対策や対応が必要となるのだから。
ここではっきり、もう自分で自分の身くらい守れるという事が出来れば何の問題も無いのだが、悲しいかな。
とてもでないが、先日の何も出来ず固まった様子では自身でもはっきり力不足を認識せざる負えない。
勿論、普通の妖魔祓いが皆そういうわけではなくイリスが妖魔に格段で狙われ易いからこその条件でもある。
「…………」
「どうする? イリス。決めるのはお前だ」
十五年。生まれてほとんどすぐこの村に、師匠によって連れて来られて以来ずっとここで育った。
だからイリスはこの村以外の世界を知らない。
―――― ずっとこのままなんて嫌。
この村が嫌いなんじゃない。
むしろ村全部が家のようにさえ思っている。
けど、ずっと守られて、自分じゃ何も出来ないままでいるなんて嫌だ。
村の外に出ればいきなり成長するわけでもないし、このままでも地道に努力すればいいのはわかっているけど。
「一見は」
「百聞にしかず。と言いますねぇ……」
「……うるさいよ。変態」
「ルシアです」
にっこりと笑うルシアの顔を睨みつけ、イリスは一度目を閉じた。
毒を喰らわば皿まで。きっと毒はあの邂逅で食べてしまったという事だろう。変態に遭遇してなつかれるなんて、毒以外のなんと言うのか。
そう思うと何となく気が重くなったが、逆に落ち着いた。
ゆっくりと瞳を開く。
「これと契約したら、お外に出ても、良いんだよね?」
「ああ。これからは、外の仕事にも連れて行く」
ワースが頷くのを確かめてから、もう一度ルシアを見た。
何故か師匠の結界が張ってあるこの村に入ってこれた悪魔。
何故か自分を探していたと、十五の男に男と知ってて花嫁衣裳を差し出してきた変態。
そして、何故か……。
「大丈夫。 私は君を守ります」
守る、と。そう言ってくる。
「胡散臭い」
「おやおや。失礼ですね」
「本当のことだもん」
「ですが、本当です。私は君をこの身、命に代えても守りましょう」
ルシアはティーカップを目の前の脚の低いテーブルの上に置いてそう言った。
眼鏡の向こうで瞳を細め相変わらずの笑顔だったけれど、その声と言葉は真っ直ぐに。
「おや。これではプロポーズのようですね……。まぁ良いのですけれど。ついでにドレスを着ませんか」
「やっぱりヤダこの変態」
「イリス。いい加減どっちにするんだ?」
漫才コンビのようなやり取りにワースがクッキーを頬張りつつそう問う。
物凄く嫌そうな顔でルシアを見ながらイリスは答えようと口を開くも、先ほどのやり取りで信頼度好感度が地に落ちたらしく口ごもる。
「……では、仮契約、になさったら……如何でしょう?」
微笑みながらそう言ったセリアに、ルシアがポンと手を叩く。
「嗚呼。その手がございましたね」
「仮、契約?」
「文字通り、仮の契約です。期間限定だったりという条件付のものですよ。いわゆるお試し契約のことですね。気に入らなければ期間満了でさよならという」
「それならいいよ」
「即答ですか……」
「決まりだな。じゃ、イリス。ルシア」
ワースの言葉にルシアがベストの内側から一枚の羊皮紙を取り出し、イリスは契約には自身の血で署名が必要だと聞かされていた為にペン先で指を突こうとしたのだが、それは横から手を押さえてきたワースによって止められる。
「仮だから普通のインクで良い」
「それでは、ここにサインを。ああ、その前に。期限はどう致しましょうか?」
「丁度依頼で俺がモネに行く。イリスも契約したら連れて行こうと思ってたし、その間で良いんじゃないか?」
ルシアとワースがイリスを見つめ確認した。
「うん。それでいい」
「では、次に契約内容と対価の確認ですね。内容は君の護衛。先ほども申し上げました通り、私の全てをもって君を守ります」
仮契約とはいえ、仕事には変わりない。
働く分の賃金は払うという規則は人間も魔族も変わらないようだ。
ルシアは対価についてちらりとイリスを見た。
「……ドレスで過ごせとかだったら殺すから」
「まさか。君の意思を契約でねじ伏せて着せても全然面白くないじゃないですか」
爽やかな笑顔を浮かべてそう言ったルシアの眉間に、この手のペンを深々と刺してやりたいとイリスは本気で思ったが、理性を総動員してなんとかそれを抑え込む。
「へぇ。それは残念だね。絶対、僕は着たいなんて思わないから」
「ふふ。それが最後までもつかどうか見物ですね」
「ありえないよこの変態」
「ルシアです。対価の一つは、私をルシアと呼ぶことにしておきましょう」
「一つ? ……ちょっと待って。まさかまだあるの?」
怪訝な顔でイリスが聞き返すと、ルシアは当然のように頷いた。
「ええ。 だって、考えても見てください。私は君に、仮契約とは言え何もかも捧げるんですよ? それを名前一つじゃ割に合わないじゃないですか」
イリスが別に全部捧げて欲しいなんて頼んでない! と言いそうになるのを察したのか、黙って聞いていたワースが口を挟む。
「気に入らなきゃやめれば良い。最後まで聞くのが作法だ。条件の交渉は相手のを聞き終わってからが基本だぞ」
「……はい」
「続けますよ。もう一つは、万が一にも私がいないところで危なくなったら、 必ず私の『名前を呼ぶ』こと」
ルシアの言う契約の対価に、聞いているワースとセリアは無言で視線を交し合う。
イリスは半ばふくれっつらで聞いているが、それは対価というにはあまりにも低価格すぎるものだと気付いていないだろう。
呼び名を決めて、ピンチになったら必ず呼ぶこと。
むしろそれらは対価とすら呼べないようなものなのだから。
「それから、最後に」
「まだあるの?」
「ええ。けれど、これだけです」
イリスの問いに頷き、口を開く。
「君が他の誰かに殺されそうになったら、私に君を殺させることで如何ですか?」
「え……」
本当にもう助からないとなるまでは全てを賭けて護りましょう。
その代わり最期に誰かに殺されそうになったなら、自分に殺されて欲しい。
「君が殺されない限り、私は君を護りましょう。だから」
ルシアと名乗った悪魔は黄昏と夕闇の混じり合う瞳を細め笑む。
「……だから私に、殺されないで下さいね?」