第91話 神聖なる純白の雪花
『……な、なにを?』
全身を硬直させ、ウルバンはうめくように言いました。対するグラキエルの方はと言えば、ソファにふんぞり返ったままニヤニヤとした笑みを浮かべています。
『どうだ? 身体が動くまい。いつもながら、俺の「支配音波」は素晴らしい出来だな』
『ま、まさか……せ、精神支配?』
『精神支配? ふん、何を言っているのかわからんが……種明かしぐらいはしてやろう。俺が魔力を込めた「支配音波」は、貴様らの聴覚や平衡感覚、ひいては運動神経に至るまでを「音の振動」によって拘束するものだ。この部屋の音響装置と相まって絶対の支配力を有するこの魔法は、奴隷どもの「調教」にも随分と役立っているのだぞ』
首の周りに生えた竜のたてがみを撫でながら、自慢げに語るグラキエル。
『こ、こんなことが! こ、これが誠意をもって商談にきた相手に対する仕打ちなのか! それでよく、誇り高き「ニルヴァーナ」だなどと名乗っていられるものだ!』
『聞こえんなあ。むしろ、誇り高き「ニルヴァーナ」であるこの俺様が、人間風情に対等に接するふりをしてやっただけでも、ありがたいと思うがいい。……くくく、とはいえ、下等なる貴様にも一つだけ褒めてやるべき点がある』
『な、なんだと?』
『ほれ、そこの娘だ。これは俺が見る限り、素晴らしい「原石」だぞ? その褒美として、お前に俺の「調教」の仕方を見せてやろうと思ってな』
そう言って舌なめずりしつつ、グラキエルが目を向けた先には、ウルバンと同じく身体を硬直させ、恐怖の表情を浮かべた使用人の少女がいます。
『たまらんなあ……。成熟した女も悪くはないが、調教し甲斐があるのは、こういう慣れていなさそうな少女だ。胸が少しばかり足りないが、よく見れば顔も悪くない。……いや、薄汚れた顔を洗って化粧でもすれば、かなりまともに見えそうだぞ。楽しみだな』
『それでは……わたくしは外で控えておりますので』
こうしたことは日常茶飯事なのか、執事のベルクマンは当然のように一礼すると、部屋の出口へと歩き出しました。
『おう、この部屋はしばらく立ち入り禁止だ。部屋の防音は完璧だが、一応、部屋の外で見張りをしておけ』
『かしこまりました』
後に残されたのは、依然として身体を硬直させた二人の来客者とグラキエルの三人だけでした。
『ひひひ! 恋人の目の前で……という方が楽しめるのだろうが、主人の前で使用人をヤルというも、悪くはなさそうだ』
涎を垂らさんばかりの顔で、使用人の少女に近づいていこうとするグラキエル。
〈ヒイロ。どうする? このままだとあの女の子、えっちな目に遭っちゃいそうだよ? アンジェリカちゃんとかには刺激的すぎないかな?〉
マスターが高速思考伝達でこっそり話しかけてきました。
〈では、見るのをやめますか?〉
〈え? い、いや……でも、何が起こるかわからないし……〉
どうやらマスターは、今後の展開に興味津々の御様子です。
『さて、それでは俺が、「原石」をしっかりと味見してやろう』
醜く太った商人の腕が、吹けば飛びそうな小柄な少女の顔に向かって、ゆっくりと伸ばされていきます。すると、ここでウルバンが悔しそうに声を荒げました。
『くそ! この卑劣漢めが! こうなっては予定を変更せざるをえまい! 下準備が足りない以上、うまく成功するかはわからんが……多少強引にでも「精神支配」を仕掛けるしか……!』
しかし、彼はそこまで叫んだところで、何かに気付いたように血相を変えました。
『……あ、ま、まさか? な、なぜだ? なぜ今まで……ま、待て! それは、駄目だ。そ、その女に触れるのはよせ!』
『なんだ? やっぱりお前の「お気に入り」だったのか? だが、心配するな。この女は、俺が責任を持って飼ってやろう。すぐにお前のことなど忘れるだろうさ。ぐははは!』
『う、あ、あ……』
恐怖にかすれた声が、室内に虚しく響きます。ですがそれは、今にもグラキエルに襲われようとしている少女の口から発せられたものではなく、驚愕に目を丸くしているウルバンのものでした。
『ふむ。若いだけあって張りのある肌だ……』
そんなことにはまるで構わず、にやにやと笑いながら少女の頬に触れるグラキエル。
しかし、その直後のこと。
──キィン。
甲高く、澄んだ音があたりに響いたような気がしました。
そして気づいたときには、先ほどまで室内に澱んでいた欲望に満ちた空気が一掃され、この部屋自体があたかも教会の礼拝堂に取って代わられたかのような、神聖で荘厳な気配があたりを包み込んでいます。
そして、静寂が支配する空間の中、鈴の鳴るような声で笑う少女が一人。
『くふふふ……駄目ではないか、『旦那様』よ。せっかくお手並みを拝見させてもらおうと思っておったのに、逆に支配されてしまうとはな。無能にも程があるというものじゃ』
しかし、その姿は既に、先ほどまでの垢抜けない使用人のものではありません。
茶色だった三つ編みの髪は純白──というより白銀色に染まり、薄汚れた顔や手の肌は白くつやつやとした健康的なものに変わり、色素の薄い水色だった瞳までもが薄紫の輝きに変化しています。
しかし、どこの誰であっても、この少女を見て最初に抱く感想は同じでしょう。
神々しい──その一言に尽きます。
誰よりも清らかで、誰よりも汚れなく、誰よりも気高い存在。
『う、うあ……ベ、ベアトリーチェ。き、貴様……いつの間に……』
『汚らわしい……うぬごときが高貴なるわらわの名を気安く呼ぶでない。ウルバン……いや、ウルバヌス司教』
ゆっくりとウルバヌス司教に向き直ったベアトリーチェは、天より舞い降りた女神のように超然とした気配を全身から滲ませています。
『お、おのれ……い、いつからだ! いつからこんな……』
『さあな?』
彼女は悪戯っぽく笑いながら、小さく肩をすくめます。神々しい聖女が浮かべる悪女めいたその笑みは、見る者にそこはかとない背徳感を呼び起こさせるものでした。
一方、そんな二人の会話に取り残された形となったグラキエルですが、ここでようやく硬直状態を脱したようです。
『あ、あああああ! お、俺の、腕がああああ!』
彼は純白に変わった自分の右腕を見下ろしたまま、震える声で叫びました。
するとベアトリーチェは、たった今、彼の変化に気付いたかのように、彼の方へと振り向きます。
『ああ、すまぬな。わらわときたら、うぬのことを今の今まで、うっかりすっかり、完膚なきまでに忘れておったわ。だが、心配せずともよい。わらわの能力「神聖なる純白の雪花」の効果は、対象が死なない限り、およそ丸1日で切れる。たかが腕一本が石化した程度では、死ぬことはあるまいよ……くふふふ!』
『白い石』と化したグラキエルの腕を見つめた後、彼に向かってにこやかに笑いかけるベアトリーチェ。
『身体に触れた男の肉体を石化する呪い……か。おぞましい』
『呪い? 何を言っておるのじゃ? どう考えてもこれは「祝福」じゃろう? 何と言ってもこの能力のおかげで、わらわは汚らわしい男どもに触れずに済むのじゃからな』
『……何が目的だ。どうして、こんな真似をした』
グラキエルの『支配音波』は、現在もこの部屋で効力を発揮しているのでしょう。依然として身動きできないままソファに腰掛けたウルバヌス司教は、苦々しい顔つきで彼女を睨みつけています。
『四人目の枢機卿──その座を得るのに邪魔な者を排除するためじゃ。どいつもこいつも功を焦って「王魔狩り」に精を出しているようじゃが、ほれ、この方法が一番シンプルじゃろう? ……ああ、そういえば「新入り」のパウエル司教は、わらわが「そそのかした」のだったな。あれから音沙汰がないが、どうなっていることやら……』
『こ、この……薄汚い野良犬風情が! 聖女だなどと巷で騒がれているようだが、俺は知っているぞ。貴様が忌むべき同性愛者であるということをな!』
これまでベアトリーチェに圧倒されっぱなしだったウルバヌス司教でしたが、ここで決定的な事実を思い出したとばかりに、糾弾の声を上げました。
『おやおや、人聞きの悪いことを言わないでもらいたいものじゃな。男と触れられないわらわが「他人のぬくもり」を感じるには、女の子に傍にいてもらうしかないだけのことじゃよ。うぬのほうこそ、心が汚れているからそんな邪推が働くのではないか?』
そこまで言ってから、ベアトリーチェはくるりと振り返り、自分の傍で痙攣を続けるグラキエルを見つめました。
『ああ、そうそう……さすがに腕が一本まるごと石になってしまったのでは、重くて仕方があるまい。よかったら、その身体、わらわが「軽く」してやるぞ?』
優しくかけられた気遣いの声は、まさに聖女そのものの慈愛が込められているようにも感じられます。しかし、当のグラキエルは恐ろしい物でも見るかのように、顔を青ざめさせて震えていました。
『や、やめろ! く、来るな! ま、待て……くそ! ベルクマン! 何をやっている! 早く来い!』
『無駄じゃよ。うぬが言ったのじゃろう? この部屋の防音は完璧だと。まあ、そうでなくとも、いまやこの部屋全体がわらわの「侵食する禁断の領域」の中じゃ。この空間内では、うぬの声も「外」には決して届きはせぬ』
そして、白銀の髪を二つの三つ編みにまとめた乙女は、女神のように慈悲深い笑みを浮かべると、可愛らしく小首を傾げて言いました。
『くふふ! ……この超低級下等生物のブタ野郎が。わらわの顔をクソにまみれた汚らわしき指で触れた罪、たかだか石化する程度で許されるとは思っておるまいなあ? まずは手始めに、うぬの身体の肉を端から寸刻みに削り取ってやろう。……とはいえ、わらわも鬼ではない。当然のことじゃが、うぬが簡単には死なぬよう調整してやるゆえ、安心して泣き叫ぶがよい』
次回「第92話 女神の拷問具」