第69話 復讐の刃
その書状は、昨日の晩、アンジェリカがアリアンヌさんから託されていたものでした。
渡された書状に目を通したメンフィス宰相は、妻がわずかでも正気を取り戻したことに安堵したようです。しかし、彼女の状態がこのまま安定する保証などありません。今後に対する不安からか、メンフィス宰相は酷く複雑な面持ちでマスターを睨みつけました。
「君は……本当に残酷だな。彼女から幻想という逃げ場を奪った結果がどうなるのか……考えなかったのか?」
「うん。まあ、放っておけば、自殺することだってあるかもね。でも、それがどうかした?」
「……なんだと?」
メンフィス宰相の声に、初めて強烈な怒りが含まれました。彼の周囲で見えない何かが『形を変えて』いるような気配がします。
「……メンフィスさん。君だって見ただろう? 作り物の娘に話しかけるアリアンヌさんの姿をさ。あんなのが『生きている』って言えるのかな? 君が奥さんにアンジェリカちゃんを会わせようとしなかったのは、アンジェリカちゃんが『娘』の代わりにならなくなったからじゃなくて、奥さんのあんな姿を彼女に見せたくなかったからだろう?」
マスターがそう言うと、メンフィス宰相は怒りを収めたらしく、彼の周囲で『形を変えて』いた魔力も消失していきました。
「でも……だったら! どうすればいい? どうすればよかったんだ! あの日、あの時から、僕らの時間は今もなお、止まったままだ! 妻が見たのは、大蛇が娘を飲み込む姿だった。でも、それさえも彼女の『目の錯覚』だったのかもしれないと思ってしまうんだ! せめて……娘の死体でもあればよかった! 娘を殺した『惨禍のオロチ』の死骸でもあればよかったんだ! そうすれば僕らも、あの子の死を……受け止めることだってできたかもしれないのに……」
メンフィス宰相は、テーブルに腕を叩きつけて叫びます。いつもの温厚な彼とは打って変わったその姿に、周囲の『サンサーラ』たちも一様に驚いた顔をしていました。
「つまり、区切りをつけたい……ってわけ?」
「ああ……そうなのかもしれない。娘が死んだという……形だけでもあれば、僕らはそれで前に進めるのかもしれない。そのために一族の皆を巻き込むのは間違っている。それもわかっている。でも、それでも……僕は止まれないんだ! だから、僕はジークに止めてもらいたかった……いや、殺してほしかったのかもしれない」
だからこそ彼は、隠密に事を進めながらも、最終的にはジークフリード王に発覚するだろう形で兵士の招集をかけていたのでしょう。恐らくは自分が処刑される時点で、一族にはその邪魔をしないよう『命令』するつもりだったのかもしれません。
「……どこまで馬鹿なんだろうね、君は」
マスターはそんな彼の心情を読み取ったのか、それまでとは違った口調で言い放ちました。
「き、貴様……! 族長様に何という口を!」
あまりにも無礼な彼の言葉に、メンフィス宰相の隣にいたガルシア老は、怒りをあらわにして怒鳴りました。しかし、一方のメンフィス宰相は、それを制するように手を振ります。
「……よしてくれ、ガルシア。君の言うとおりだ。死ぬことも多分……『間違って』いるんだろう。僕には正しい答えなんて、もうわからないんだ」
彼は悲しげにつぶやくと、苦渋に満ちた顔のまま、力無くうつむいてしまいました。マスターはそんな彼に対し、いたって平坦な声で言葉を続けます。
「僕は正直、君やアリアンヌさんのことなんか、どうでもいいんだ。……アンジェリカちゃんさえいなかったらね」
「キョウヤ……」
アンジェリカはマスターの隣に立ったまま、泣きそうな顔で彼を見上げていました。
「だから、君に死なれるのは困る。『区切りをつけたい』というのが君の望みなら……僕がそれに協力する。アンジェリカちゃんのためにね。はじめから、そのつもりで来たんだ。君が僕に『盾』をくれたように……今度は僕が君の『復讐の刃』になってやる。その『惨禍のオロチ』とやらは僕が見つけ出して、八つ裂きにして持って帰ってきてあげるよ」
「ええ!?」
彼の言葉に驚きの声を上げたのは、メンフィス宰相だけではありません。ここに来るまでまったくそんな話を聞かされていなかった、わたしたちも同じことです。するとマスターは、不思議そうな顔でこちらを見ました。
「あれ? 言ってなかったっけ?」
「はい。一言たりとも聞いていません」
わたしがそう断言すると、マスターは軽く首を傾げた後、「てへ、失敗失敗」と可愛らしく言いましたが、全然可愛くありません。
「キョウヤ……そんな大事な話を黙っているだなんて、どういうつもりよ」
ああ、アンジェリカが怒っています。それも並大抵の怒り方ではありません。大声で叫んだりしないあたりが、むしろ彼女の怒りを表していました。
「いやあ、ははは……。途中でネタばらしはするつもりだったんだけど、色々とショッキングな展開もあったせいで、うっかり忘れちゃったよ」
「うっかりって何よ……」
呆れたように首を振るアンジェリカ。しかし、彼女はここで、打って変わって真剣な面持ちで言葉を続けました。
「……でも、ありがとう。メンフィスを助けてくれて。それに……アリアンヌおばさまのことも……」
アンジェリカはゆっくりとマスターに身を寄せ、その身体に両手を回して抱きつきました。
「いやいや、これからが大変だよ? まずは『アトラス』の根城に乗り込んでいって、彼らから『黒騎士』の情報を聞き出すだろ? その後、『黒騎士』を見つけ出して『オロチ』とやらの居場所を聞き出して……さらにそいつを見つけて八つ裂きにしなくちゃいけないんだから、まだ礼を言うのは早いさ」
そうやって言葉を並べられると、かなり先の長い話のように思えてしまいます。実際、情報を聞き出すことも、その情報をもとに対象を見つけ出すことも、そう簡単ではないでしょう。
ですが、マスターをはじめとする皆さんの力やわたしの【因子観測装置】の性能があれば、不可能なことではありません。やってみる価値のある話ではありました。
「でも、あまり期待はしないでほしいね。『アトラス』が黒騎士の居場所を知らなければアウトだし、黒騎士が『オロチ』を知らなければアウトなんだ。……まあ、そうなったとしても、僕は君の『復讐の刃』だ。いつかきっと、見つけ出してやるよ」
「……無茶だ。そもそも最初の相手自体、『自身の命に魔法を宿す』力を持った『アトラス』だ。それも最低でも数百人からなる部族単位で生活している連中なんだぞ? 少人数で行くのは危険すぎる」
だからこそ、メンフィス宰相は自分一人ではなく、同じ種族の仲間を巻き込もうとしたのでしょう。
しかし、マスターは平然とした顔で首を振りました。
「大丈夫だよ。今の僕には……やりようによっては、敵の数なんて関係ないからね。昨晩、ちょうどアリアンヌさんを殺し……」
「あ! マスター!」
「あ……いや、とにかく僕には、多数を同時に相手にできそうなスキルがあるからね」
「……どういう意味だ?」
首をかしげるメンフィス宰相ですが、わたしは内心で胸を撫でおろしました。一歩間違えれば、せっかくまとまりかけた話が相当まずいことになったでしょう。
それはさておき、マスターの言うとおり、昨日の晩に形の上ではアリアンヌさんを殺害することになったマスターは、新たなスキルを習得していました。
しかし、そのスキルを確認したわたしの感想は、次のようなものです。
「……最悪です。信じられません。な、なんですか? これ? よりにもよって、どうしてこんなスキルが……」
不覚にもわたしは、マスターに対してそんな悪態をついてしまいました。
そのスキルがどんなものかといえば……
○特殊スキル(個人の性質に依存)
『全てを知る裸の王様』
任意に発動可。ただし、下記3)は1日に1度まで。
1)自分を視界に入れたすべての『知性体』の記憶に、自分の姿を永遠に刻み込む。
2)記憶を刻まれた『知性体』が他者にその記憶について語った時、その記憶は伝染する。
3)対象との距離を問わず、記憶の中の姿を利用して複数同時に対象と視線を合わせ、語りかけることができる。
意味不明のスキルです。通常なら、そう考えるところでしょう。しかし、『このスキルの所有者がマスターである』という事実は、ただそれだけをもって、わたしにこのスキルを『最悪』だと言わしめるのでした。
『狂える鏡』を覗き込む者はすべて、底知れない深淵へと導かれる。
見てはいけないモノ。聞いてはいけないコト。
そして何より、関わってはならないナニカ。
具体的な使用法など、改めて考えるまでもありません。この『アビス・ゲイザー』は間違いなく、悪魔でさえ裸足で逃げ出すだろう凶悪なスキルです。そして、これまでの例から言えば、マスターはきっと、そんなわたしの想像をさらに超える『使い方』をするに違いありません。
ちなみに、新たなスキルの残りポイントについては、次のような状況になっています。
『未完成スキル7』
特殊スキル『世界で一番綺麗な私』の効果により発生。現在、460ポイント。スキル完成まで残り3040ポイント。
さすがに『サンサーラ』の族長の妻だけあって、アリアンヌさんのポイントは500ポイントを超えるものだったようです。
──それはさておき、結果としてメンフィス宰相の説得に成功したマスターですが、それからほとんど間をおかず、東の蛮族領との国境に向けて旅立つ準備を始めることとなりました。
というのも、黒騎士の目撃情報を『アトラス』から仕入れることができたとして、当の黒騎士がいつまでも同じ場所にとどまっている可能性は低いからです。実際、少し前にはエレンシア嬢のいたヴィッセンフリート領にも出没していたことを考えれば、黒騎士の行動範囲はそれなりに広いのかもしません。
「え? わ、わたしも行くんですか?」
旅支度を始めるマスターに同行するよう求められて、リズさんは驚いた顔になりました。
「うん。それなりに長旅になりそうな気もするしね。こんなところにリズさん一人を置いてはおけないよ」
マスターは、アンジェリカの故郷でもあるドラッケン城を指して、『こんなところ』と形容しました。それはすなわち、既に一か月近い時間をここで過ごしておきながら、それでもなお、マスターはこの地に特別な愛着を持っていないことを意味していました。
「そんなに心配しなくても大丈夫。リズさんは僕らで護るから」
「……いえ、そういうことでは」
少しうつむいたまま、首を振るリズさん。しかし、そんな彼女の顔を覗き込むようにしたマスターは、そこで何かに気付いたように言いました。
「僕は、リズさんを足手まといだなんて思ったことはないよ。誰だって得手・不得手があるのは当然だ。リズさんにしかできないことだって、たくさんあるんだからね」
「キョウヤさん……」
「それに、僕は知ってるんだぜ。……ここ二週間ぐらいで、また新しい『法術器』を作ってたでしょ? 今度の旅は、その成果を試す機会にもなるんじゃないかな?」
マスターがそう言ってリズさんに笑いかけると、彼女はようやく肩の力を抜き、大きく息を吐きました。
「……そうですね。ありがとうございます。わたしも、できるだけ頑張ります」
ぎゅっと握り拳を胸の前で構え、力強く宣言するリズさん。
するとマスターは、さらに付け足すようにこんなことを言い出しました。
「ああ、そうそう。リズさんに来てもらうに当たっては、一個だけ条件……というかお願いがあるんだけど」
「はい、なんでしょう?」
「この前みたいに旅装に着替えるの禁止。やっぱりリズさんは、メイド服姿が一番かわいいからね」
「え……、か、可愛いって……」
マスターのあまりにも堂々とした褒め言葉に、顔を赤くして言葉を失うリズさんでした。
次回「第70話 蛮族領へ」