第68話 父親の苦痛
しばらくアリアンヌさんと会話を交わした後、わたしたちはアンジェリカだけを残して、彼女の部屋を辞することにしました。
「さて、後は戻ってリズさんのお茶でも飲んで、ゆっくり休もうか?」
《レビテーション》で夜空を城へと向かう道すがら、マスターはいたって明るい調子で笑います。
「……キョウヤ様。先ほどは少し、辛そうにしていたように見えましたけれど……」
エレンシア嬢は、気遣わしげな声で彼に問いかけました。アリアンヌさんと会話を続けている間も、時折マスターは何かを思い出したかのように顔色を悪くしていたのですが、彼女もそれに気づいていたようです。
「……うん。まあ、ちょっとばかり僕にも『トラウマ』ってものがあってね。思い出したくないから、あまり話したくないんだけど……知りたければ後でヒイロからでも聞いてよ」
「え? マスター? そんなことをしてよろしいのですか?」
「うん。隠したいことなんてないからね。……ただ、どうしても自分の口で話すのは嫌なだけでさ」
そう言うと、マスターはそのまま黙り込んでしまいました。
とはいえ、無理もありません。
わたしが知る限り、マスターの『トラウマ』は壮絶の一言に尽きるからです。肉体的な虐待を受け続けたわけでもなく、貧困にあえぎ苦しんだわけでもない生育環境。けれど、彼の過ごした『あの家』は、それでもなお、あまりにも異常な場所なのです。
「わたくしも無理に知りたいとは思いませんわ。どんなことがあったにせよ、キョウヤ様はキョウヤ様です。わたくしには、それで十分ですから」
「……エレン。うん。ありがとう。そう言ってくれて、嬉しいよ」
マスターは、遠い目をしたまま星々の輝く夜空を見上げ、エレンシア嬢に感謝の言葉を口にしたのでした。
──そして、翌日。
「さあ、御主人様。起きてください。今日の正午までには外出するんですから、そろそろ起きないと……」
「うーん。むにゃむにゃ……リズさん。あともう少し……」
相変わらず、リズさんに優しく揺り起こされているマスターは、幸せそうな顔で寝ぼけています。とはいえ、ああもはっきりと「むにゃむにゃ」などと口にしている時点で、起きているのは間違いありません。
「……リズ。この人、毎日がこの調子ですの?」
マスターの部屋に置かれた椅子に腰かけ、半眼でその様子を見つめているのは、エレンシア嬢です。彼女は、こうしてマスターがリズさんに起こされているところを見るのは、今日が初めてのようでした。
「はい……こうなると、なかなか起きてくださらなくて……って、きゃあ!」
「うーん。あったかい……」
寝ぼけたふりをしてリズさんの腕を掴み、布団と間違えたような体で自分の身体に抱き寄せるマスター。
「ちょ、ちょっとご御主人さ……キョウヤさん! エレンお嬢様も見ているんですから……おやめください」
顔を赤くしつつ、どうにかマスターから身体を離すリズさん。
「見ているんですからって……、見ていなければいいのかしら?」
エレンシア嬢はなおも半眼のまま、呆れたようにつぶやいています。
「むー! 羨ましいな。今度、わたしもキョウヤのこと、起こしに来ようかな?」
一方、頬を膨らませながらそんな言葉を口にしたのは、アンジェリカです。
昨日の晩、アリアンヌさんの部屋に残ったアンジェリカは、彼女と一晩を語り明かしたのだそうです。母親思いで優しく、素直で頭の良かったメルティという名の少女の話。アンジェリカが生まれてから、アリアンヌさんがアンジェリカを可愛がってくれていた頃の話。そして、アリアンヌさんが『娘の幻覚』を見始め、それをアンジェリカと『人形』に重ねてしまうようになった経緯……。
彼女はそうした諸々のことを包み隠さず、時間をかけてゆっくり話してくれたのだそうです。そのことについて、アンジェリカは久しぶりに楽しい時間を過ごせたと喜んでいましたが、アリアンヌさんの心の病は治ったわけではありません。
むしろ、彼女の見ていた『幻覚』は、いわば彼女を護るための自己防衛機能でもあったはずです。しかし、マスターがしたことはと言えば、その機能に『間違い』を起こすことで彼女の心の逃げ場を奪い、悲しみに満ちた現実を直視させるものでした。
現在、かろうじて彼女が平静を保てているのは、昨晩、久しぶりにアンジェリカと語り合うことができたおかげでしかなく、いずれまた彼女の心に異常が起きないとは限らないのです。
しかし、マスターはそれがわかっていてもなお、彼女をそのままにしておきたくはなかったのかもしれません。
──と、それはさておき、先ほどのアンジェリカの言葉には、エレンシア嬢が眉をひそめているようでした。
「……ちょ、ちょっと、アンジェリカさん? 何を言っているのですか。はしたないですわ」
「ん? それこそ何を言っているんだ。わたしはキョウヤの婚約者だぞ? その程度のこと、はしたなくもなんともあるまい」
「そ、それはそうかもしれませんけど……」
「ふふふ。エレンも羨ましければ、たまにはリズに言って、キョウヤを起こす役目を変わってもらったらどうだ?」
「う……」
悪戯っぽく笑って言うアンジェリカの言葉に、頬を赤く染めて黙り込んでしまうエレンシア嬢でした。
──そして、その日の正午前。わたしたちは隠れもせずに堂々と、メンフィスさんが兵を集め始めた『サンサーラ』の集会用施設に足を運んでいました。
ドラッケン城の広大な敷地を囲む城壁のすぐ脇に、その施設はありました。二階建ての本棟をさらに壁で囲うように造られたその施設は、建材として使われている鉱物のせいか、淡い緑色に発光しています。
その外壁に設けられた扉には、当然のように槍を持った『サンサーラ』の兵士が立っており、姿を現したマスターとその同行者たちの行く手をやんわりとさえぎりました。
「申し訳ございませんが、今は『サンサーラ』の重要な会議中です。いかに婿殿といえど、お通しするわけにはまいりません」
「わたしでもダメか? この国の王女だぞ」
「……申し訳ございません。ですが、これは国の問題ではなく、種族の問題ですから」
アンジェリカの問いかけに対しても、兵士たちは済まなそうに謝りつつ、頑として道を譲ろうとはしませんでした。
「ふうん。じゃあ、同じ種族のアリアンヌさんからの書状がある……といったらどうかな?」
マスターがそう言った瞬間、二人の兵士は激しい動揺を見せ、「どうしてそのことを」とでも言いたげな顔になりました。
つまり、『サンサーラ』の兵士たちは、すでに末端までもが今回の『挙兵』の理由を知っているということになりそうです。
「……しょ、少々お待ちを」
自分では判断ができなくなったのか、彼らはそう言って引き下がりました。
しかし、それからほどなくして……
「……メンフィス宰相閣下は、そんな書状の存在など聞いていないとおっしゃっています。どうか、お引き取りを」
これまで以上に頑なな態度で、こちらの行く手に槍を交差させる二人。しかし、既に彼らは、敵ではありません。
「まあ、そうなるだろうとは思っていたんだ。悪いけど、このまま通らせてもらうよ」
マスターはそう言うと、目の前に交差された槍を軽く押しのけて先に進みます。すると、何故か兵士たちはそれに抵抗できず、むしろ勢いに押されて無様に倒れ込んでしまいました。
マスターとアンジェリカによる適当な問答は、ただの時間稼ぎです。彼らがその対応に右往左往している間に『サンサーラ』の集会施設は、ほぼ全体が『植物』によって埋め尽くされていました。
「……繁殖力を限界にまで高めた植物。ただし、生育可能範囲は、この施設周辺のみですわ」
エレンシア嬢による『命を生み出す魔法』は、こうして特定の条件を指定した命を発生させることさえも可能としていました。
「メンフィスさんに危害を加えないこと以外は約束の範囲外だけど、できるだけ穏便に済ませてあげたいのも確かだからね」
マスターは身体を麻痺させて倒れ込んだ兵士たちを尻目に、門をくぐって施設の敷地内に侵入を果たしました。ざわざわと成長を続ける緑のツタからは、植物特有のさわやかな『芳香』が立ち昇っています。
「『開かれた愛の箱庭』……キョウヤ様の道を塞ぐ相手は、ためらいなく『敵』と判断いたしますわ」
このスキルの効果により、エレンシア嬢が敵と認識する相手は、体内に発生した麻痺毒によって動きを封じられてしまいます。結果として、わたしたちはほとんど誰の邪魔も受けることなく、メンフィス宰相の元にたどり着くことができたのでした。
施設の廊下を抜けると、開け放たれたままの大きな扉の向こう側に広い会議室が設けられていました。マスターはまったく躊躇なく、その部屋に足を踏み入れます。
「やあ、メンフィスさん。元気?」
親しい友人に話しかけるような足取りで歩くマスター。
「……君か。この植物も、身体の自由が思うように効かないのも……君たちの仕業だな?」
会議場の上座の席に座ったまま、メンフィス宰相は苦々しげな目をこちらに向けてきました。
「でも、さすがだね。兵士たちと違って、この会議室にいる皆は動けるみたいじゃないか」
『サンサーラ』の中でも強力なメンバーが集まっているのでしょう。エレンシア嬢の麻痺毒も完全には有効となっていないようです。
「……君らが何をしに来たのかは、推測がつくよ。アリアンヌの書状だなんて、でたらめを言ってきた時点でね。……どうせジークの差し金だろう?」
メンフィス宰相に至っては、ほとんど不自由を感じていないのか、平然と椅子から立ち上がりました。
「うん。王様の依頼であなたを止めに来た。……処刑するのは嫌なんだってさ」
マスターがそう言うと、会議室に集まった『サンサーラ』たちがざわざわと騒ぎ出しました。
「陛下が何と言おうと、我らは族長様に従うのみだ。十五年前の無念。族長様の娘御を護れなかった責は、我らにもあるのだから……」
沈痛の面持ちでそう言ったのは、あの会食の場にも同席していた『サンサーラ』のナンバー2、ガルシア老です。
「そうとも! 族長様を処刑しようというのなら、我らは一丸となって抵抗する!」
「我らの夢、『至高の錬成』に最も近い場所にいらっしゃる族長様を、むざむざ死なせてたまるものか!」
さらに口々に叫ぶ幹部たちに、マスターはうるさいと言いたげな顔を向けました。
「とりあえず、黙っててくれるかな? ……《フリーズ・ウォール》」
言葉と同時、マスターは彼らの一部に目を向けると、その周囲数メートルの範囲を囲うように膜状の空間を範囲指定し、『空間冷却』の魔法を発動させました。すると、室内の気温が急激に低下し、彼らを閉じ込める形で『氷の壁』が出現していきます。
「な! 何をする!」
色めき立つ『サンサーラ』たちの中には、複雑な形をした魔法具の類を構える者たちもいました。『形を力とする魔法使い』である彼らは、自らが形に意味を与えた道具を使用した魔法を使うのです。
「動くな。魔法の使用も不可だ。もし、下手な真似をすれば、わたしが貴様らを焼き尽くしてやるぞ?」
しかし、それより早く、アンジェリカが『魔剣イグニスブレード』に炎を宿して彼らを威嚇しています。
「エレンの麻痺毒も全く効いてないわけじゃないだろうし、そもそもこれだけ動きの制限される室内で、僕の『空間の範囲指定』から逃れる暇はないと思うよ」
「く……!」
この国でも有数の力を持つ『ニルヴァーナ』の王女とその婚約者たるマスターを前にして、サンサーラたちは次の行動が選択できず、族長であるメンフィスに指示を仰ぐような目を向けました。
「みんな、抵抗はよそう。ここまで見事に奇襲されては諦めるしかないさ。……いずれにしても、アンジェリカに向ける刃など、僕は持ち合わせていないからね」
メンフィス宰相は、あっさりと負けを認めました。この場の誰よりも、全身を『オリハルコン』で覆った彼こそが一番の難敵となるはずだったのですが、これは意外な展開です。
しかし、彼はそのまま言葉を続けました。
「でも、僕は復讐を止めることはできない。娘が死んだのも、妻がああなったのも、すべては『愚者』のせいだ。『惨禍のオロチ』の身体を僕自身が引き裂くまでは、僕の心は止まらない。ジークが僕を処刑しないというのなら、何度でも同じことが起きるよ」
「そんな! メンフィス! どうして? どうしてなの? わたし、メンフィスがいなくなっちゃうなんて、嫌よ!」
あまりにも破滅的な彼の言葉に、アンジェリカは先ほどまでの冷厳な態度をかなぐり捨てて叫んでいます。
「ごめん、アンジェリカ。アリアンヌほどじゃないにせよ、僕もまた、君の中にメルティを見ていたんだ。娘の代わりに幸せになってほしいと願いながら、幸せそうな君の姿に……身を裂かれるほどの苦痛を感じていたんだ」
だから、もう限界なのだと彼は言いました。家出していた彼女が帰還し、父親と仲直りする姿を目の当たりにしたことで、彼の『苦痛』は臨界点を超えてしまったのかもしれません。
「僕に言わせれば、こんなことをしている暇があるなら、改めて奥さんと『正面から向かい合う』べきだと思うけどね」
言いながら、マスターはゆっくりとメンフィスに歩み寄っていきます。他の『サンサーラ』が固唾を飲んで見守る中、彼が懐から取り出したのは……一枚の書状でした。
「それは?」
「最初に言ったでしょ? アリアンヌさんからのお手紙だよ」
「な……ま、まさか、本当に?」
信じられないといった顔で固まるメンフィス宰相の手に、マスターはその書状を押し付けるように渡したのでした。
次回「第69話 復讐の刃」