第63話 正しく異常な少年
マスターからの『デート』の誘いに、鼻歌でも歌いそうな様子で着替えに戻るエレンシア嬢を見送りながら、マスターはわたしに声を掛けてきました。
「ヒイロはどうする? 一緒に来るかい?」
「え?」
一瞬、わたしは返答に迷ってしまいましたが、エレンシア嬢としては二人きりのデートの方が嬉しいでしょう。ここは遠慮するべき場面でした。
「いえ、マスターに異常があれば、わたしにはすぐわかります。どうぞお二人で楽しんで来てください」
少し複雑な思いを抱きながらもそう言えば、マスターは軽く首をかしげて笑います。
「そうだね。ヒイロなら僕のことを、『いつでもどこでも』見守ってくれていそうだし、安心して楽しんでくることにするよ」
どこか引っかかるような言い回しです。
「マ、マスター?」
「ん? なんだい?」
しかし、マスターの様子には、いつもと変わったところはありません。わたしの気のせいだったのでしょうか。
「い、いえ……なんでもありません」
しかし、わたしがそう言った時でした。
「じゃあ、アンジェリカちゃんの時みたいに……『見守り』よろしくね」
「え?」
そのまま、すたすたと歩き去っていくマスターの背中を見つめながら、わたしはあることに気づきました。そういえば……マスターの部屋で彼とキスをする直前のことです。わたしは勢いあまって、彼とアンジェリカがキスした時のことをまるで『見守っていた』かのような発言をしてしまったのです。
「ま、まさか、それに気づいて……」
血の気が引くような思いとともに、わたしの頭は混乱してしまいました。だとするなら、どうしてマスターはあんなことを言い残していったのでしょうか?
普通ならこの状況は、遠まわしに自分が気付いていることをこちらに伝え、釘を刺していったのだと考えるのが妥当なところですが、マスターの場合、常人の思考回路と同じく考えるわけにはいきません。
「……『見守っているように』とのご命令であれば、そうせざるを得ませんね」
結局、わたしは彼の言葉を額面通りに受け取ったふりをしながら、《スパイ・モスキート》の【因子演算式】を展開したのでした。
ただ、この時のわたしは、これがマスターの思うつぼであることに気付いてはいなかったのです。
──ドラグーン王国の首都ドラッケンは、これまでに見てきたこの世界の他の街とは比較にならないほど栄えています。サンサーラによる高い建築技術は、文字通り碁盤目状の美しい街並みを作り出しており、青みがかった『ベルガモンブルー』を含む建材は、街全体に統一感のあるすっきりとした印象を与えていました。
三日に一度は昼間の睡眠を必要とする『ニルヴァーナ』ですが、それぞれにその周期は異なるらしく、大通りは昼間でもそれなりの賑わいを見せています。
「エレンは、この街を見てどう思う? やっぱり他とは違うかな?」
城門から街へと続く道を歩きながら、傍らにいるエレンシア嬢へと問いかけるマスター。
「え、ええ……そ、そうですわね。すごく、綺麗な街だと思いますわ」
一方のエレンシア嬢は、彼と二人きりという状況に緊張しているらしく、いつもと違ってオドオドした調子で答えを返しています。
「大丈夫? やっぱり、調子でも悪いのかい?」
「い、いえ! そんなことはありませんわ! ほら、こんなに元気ですから!」
心配そうな目を向けられたエレンシア嬢は、デートが中止となることを恐れてか、新緑の髪の先から生まれた『動く茨』をわさわさと動かしてみせました。
「ははは。確かに、元気そうだね」
それを見て、安心したように笑うマスター。しかし、この二人、町中の人間から注目されてしまっていることに気付いているのでしょうか?
ただでさえ現在のマスターは、アンジェリカ姫の婚約者だと認知されているというのに、全く別の美しい女性を侍らせて街を歩いているとあっては、それだけで彼らの非難の目にさらされそうです。
その懸念はエレンシア嬢も抱いたようで、周囲を見渡しながら恐る恐るマスターに問いかけました。
「あ、あの、キョウヤ様? やっぱり、まずいのでは? このままだと『浮気』をしているように受け取られかねませんけれど……」
言いながらも、自分の言葉で自分の頬を赤くしてしまうエレンシア嬢。ところがマスターは、平然とした顔で首を振ります。
「大丈夫だよ。浮気も何も……アンジェリカちゃんにも聞いたんだけど、この国ではそれこそ『一夫多妻制』も『一妻多夫制』も当たり前なんだそうだよ」
「い、一夫多妻制……」
絶句してしまうエレンシア嬢。恐らく彼女の国でも『正妻と愛妾』という関係性はあったはずですが、『ニルヴァーナ』の場合はどうも違うようです。そもそも彼らには『正と副』のような考え方はありません。
愛する者が複数いれば同時に愛し、そこにあえて順位を付ける意味などない。
それはある意味、徹底した『快楽主義』です。
わたしも最初は勘違いをしていましたが、『快楽』とは言っても、どちらかといえば『精神的なもの』を重視しているのが『ニルヴァーナ』なのです。
「まあ、それは置いておくとしても……そもそも、こうして他の女の子と一緒に歩いているくらいのことで、いちいち非難されるいわれはないさ」
「で、でも……その、先ほどから周囲の皆さんからかなり注目されているみたいですし……」
エレンシア嬢が言うとおり、道を歩く人々はおろか、道路わきに店を構える者たちまでもが通りに出てきています。
「ああ、なんだ。それなら気にすることはないよ。要するに彼らは嫉妬しているだけだからね」
「嫉妬、ですか?」
「うん。だってほら、エレンみたいな美人と一緒に歩いていれば、羨ましがられても当然じゃないか」
「そう……でしょうか」
マスターに褒められたのにも関わらず、エレンシア嬢は悲しげな顔でうつむいてしまいます。
「エレン?」
しかし、マスターがそんな彼女を心配して、その顔を覗き込もうとした、その時でした。
「……嫉妬だと? 黙って聞いてりゃ、いい気になりやがって!」
「どんなインチキを使った知らないが、人間の分際で陛下に勝つことなんてできるわけがねえ。おまけに俺らの姫様にまで取り入りやがって……気に入らねえんだよ、てめえ」
明らかに『ならず者』といった風情のだらしのない恰好で歩いてくる男たち。恐らくは『ニルヴァーナ』なのでしょう。とはいえ、昼間のこの時間では、ただの人間のチンピラにしか見えません。
「キョウヤ様……」
元がお嬢様のエレンシア嬢は、『王魔』になったとはいえ、男たちの乱暴な態度には怯えの色が隠せないようです。
すると、彼女の怯えた姿に嗜虐心でも刺激されたのか、無精ひげを生やした大柄な男が嫌らしい笑みを浮かべ、彼女に近づいてきました。
「へへへ……」
「うう……」
「お嬢ちゃんって確か、『ユグドラシル』なんだっけ? 珍しい種族だって聞いてたんだけどな。こうしてみると、随分と可愛らしい女じゃねえか」
にやにやと笑いながら、物珍しげに彼女の顔を覗き込む男。一方、ざわざわと彼女自身の身を護るように動く『茨』を見て、さらに他の男が馬鹿にしたように言いました。
「なんだこれ、触手かよ? うへえ、気持ち悪い。せっかくの上玉なのに、この髪じゃあなあ」
「伝説じゃあ『ユグドラシル』ってのは植物の祖って話だが、イカだかタコだかの間違いだろ?」
「そ、そんなこと……」
三人組の男たちそれぞれに冷やかしの言葉をかけられ、エレンシア嬢は恐怖と屈辱に身を震わせていました。そんな彼女の姿に、ニルヴァーナのならず者たちは、ますます嬉しそうな顔になります。
ニルヴァーナ特有の快楽主義が嗜虐的な性質となって現れているのか、彼らは美しい少女を精神的に辱めることそのものに、暗い喜びを感じているようです。
「暴走姫の婿に取り入るとは、うまいことやったもんだぜ。『ユグドラシル』ってのは世渡り上手……ってか、夜伽上手ってわけか?」
「そりゃあいい! 俺らもその触手で楽しませてくれよ。ぎゃははは!」
聞くに堪えない言葉です。エレンシア嬢は屈辱のあまり顔を真っ赤にして震えており、目に涙を溜めていました。
しかし、その時でした。
「えーっと、もしもーし?」
間の抜けた声とともに、一人の男の肩がぽんぽんと軽い調子で叩かれます。
「ああ? なんだよ、てめえ。まだいたのか。俺らはこの女で遊んでんだよ。てめえはさっさと帰って暴走姫のお守りでもしてやがれ」
うるさげに肩のあたりを手で払いつつ、男は声の主へと振り返りました。
「え?」
振り向いた男が目にしたモノ。それは、にこやかに笑うマスターの顔でした。しかし、男の肩を叩いているのは、マスターの手ではありません。彼に背後から手首をつかまれた、別の男の手でした。
「あ、うあああああ! ひ、ひいいい!」
彼より『頭ひとつ分』だけ身長が低い男の身体。その向こう側に立つマスターの笑顔。肩を叩かれた男はそれを見て、悲鳴を上げながら尻餅をついてしまいました。
「あはは。びっくりした?」
マスターは笑いながら、掴んでいた男の身体を突き飛ばします。
「う、うあああ……な、なんだよ、なんでこんな……ひいい!」
ドサリと、自分の上に覆いかぶさるように倒れてくるモノ。
男は『首の無い仲間の身体』を受けとめ、それを慌てて脇に押しやりながら、恐怖のあまりガタガタと震えているようです。
「あ、ああ……」
「う、嘘だろ……なんだよ、今の……」
遠巻きにこちらを見守っていた野次馬たちからも、驚愕のうめき声が上がっています。エレンシア嬢に至っては声を上げることもできないまま、自分の口元に両手をあてて震えていました。
「ごめんね、エレン。僕が君を街に連れ出したばっかりに、随分と不快な思いをさせちゃったみたいだ」
「キョウヤ様……」
顔色を青ざめさせながらも、エレンシア嬢は自分に向けられる優しい眼差しに、少し安心したような表情を見せました。
一方のマスターは、自分が首から上を斬り飛ばした男はもとより、目の前で尻餅をついて震えている男のことも、同じくその隣で蒼い顔をして腰が引けている男のことも、まったく眼中にないようです。
「とりあえず、近くの飲食店でお昼にしようか」
「あ、は、はい……」
マスターに手招きされ、彼の傍に歩み寄るエレンシア嬢。すると、その時でした。
「ふ、ふざけやがって! よ、よくも俺のダチを! イカれてんのか、てめえ!」
立ったまま顔を蒼くしていた男は、ようやく恐怖が収まってきたところで、友人を殺されたことへの怒りがわいてきたようです。掌に魔力を集中させながら、マスターに強い殺気を向けてきています。
しかし、マスターは
「ん? 何か言った?」
エレンシア嬢を彼らから遠ざけるようにしつつ、何気ない仕草で振り返りました。しかし、その手には、いつの間にか《ランス》形態に変化した『マルチレンジ・ナイフ』が握られており、叫んだ男の胸を刺し貫いていました。
「うあああ!」
最後の一人──ひげ面の大男は、それを見て慌てて立ち上がると、先ほど死んだ男と同様、掌に魔力を集め始めました。
「な、何なんだよ! お前……あ、頭がおかしいんじゃねえのか? くそ! なんでこんなことぐらいで……こ、殺しなんかしやがって!」
ところがマスターは、《ソード》形態にした『マルチレンジ・ナイフ』を肩に担ぎ、嫌そうに顔をしかめています。
「息が臭いね」
「え?」
「もう少し、エチケットを心がけるべきだと思うよ」
「な、何を言って……?」
意味不明な言葉を語るマスターに、男はあっけにとられているようです。手に込めた魔力もまた、彼の戸惑いを表すようにゆらゆらと揺れていました。
しかし、そんな風に戸惑っている余裕があるのなら、彼は手の中の魔力を使うべきだったでしょう。……もちろん、攻撃のためではなく『逃走』のために。
「まあ、どのみち……手遅れなんだけどさ」
友達にでも声をかけるような気軽さで足を踏み出し、電光石火の一閃を振り抜くマスター。
「え? ……ぎゃあっ!」
その斬撃で男の身体は袈裟懸けに斬り裂かれたものの、《ヒート》状態の刀身は傷口そのものを焼き焦がし、血飛沫さえ上がりません。
結局、マスターは身体能力の強化は別としても、ほとんどスキルを使用しないままに彼らを殺害しました。音もなく一人目の首を斬った時も、正面から二人目を刺し貫いた時も、あっさりと三人目を斬り捨てた時も、ただ何気なく間合いを詰め、武器を振るっただけです。
しかし、その『何気なく』が、何より恐ろしいのです。
呼吸するように人を殺す──殺気など微塵も感じさせず、どころか敵意さえ見せぬまま、ごく当たり前の会話や行動の中に『殺人行為』を埋没させてしまう『何気なさ』。
思い出してみれば、かつて彼が元の世界で同級生を撲殺した時も、まさにこれと同じことが起こっていました。
さらに異常なのは、街中で殺人が行われたというのに、周囲の野次馬たちからそれを咎める声や官憲に通報しようという動きがないことです。
同行する少女を怖がらせた代償に相手の命を奪うという、明らかに常軌を逸した行動。けれど、それが異常であることがわかっていてもなお、誰一人それに異議を唱えることができない──今や彼らは完全に、マスターの存在そのものに飲み込まれているようでした。
「う、ああ……」
聞こえてくるのはただ、人々の喉から洩れる小さなうめき声のみ。
在り方そのものがあまりにも『違いすぎる存在』を前にした時、人はそれを『異常』だと指摘することすらできなくなるのかもしれません。存在するだけで世界を歪める存在は、周囲の事象を自身の鏡に映し込み、逆さまに、あべこべに、けれど、ありのままであるかのように照らし出し、何が正しくて何が『間違って』いるのかさえ判断できなくさせてしまう。
異常が極まり過ぎた結果、他の何よりも正しくなってしまった少年。
彼らはそのことを理屈ではなく、肌で感じたのでしょう。ただ唖然としたまま、動くこともできずに息をのんでいます。マスターは、そんな彼らを見渡して言いました。
「何か文句ある?」
「…………」
その一言には、その場の全員が無言のまま、一斉に首を振ったのでした。
次回「第64話 お嬢様の宣戦布告」