第55話 修行編?:アンジェリカの場合
それから二日間は、図書館でのデータの収集やマスターの新しい装備の調整・使い方の練習などに費やしました。
──そして、模擬戦まであと二日間となった日の夜のことです。
寝室でヒイロがマスターの装備品の最終調整などを行っていると、彼がふらりと立ち上がり、部屋の扉へと向かっていったのです。
「どうしましたか? マスター」
「うん。ちょっと夜風にあたってくる」
「そうですか。ではお気をつけて」
ヒイロがそう言うと、マスターは一つ頷き、そのまま部屋から出ていきました。
「…………」
静まり返った室内には、ヒイロだけが取り残されていました。
「……《スパイ・モスキート》を展開」
ポツリとつぶやくように【式】を宣言するヒイロ。
良くないこととは思いつつ、ヒイロはマスターの様子が気になり、偵察用の【式】を展開して無色透明の超小型偵察機を生み出すと、彼の後を追うことにしました。
「……なにか無茶をしなければいいのですが」
それからほどなくして、ヒイロの心配は的中することになりました。彼はほとんど迷うことなく、城内の廊下を目的の場所に向かって歩いていきます。夜とはいっても、ここは夜の種族『ニルヴァーナ』の城です。むしろ昼間よりも活発に人が動き回る中、すいすいと歩くマスターですが、とある場所でその歩みを止めることになります。
「ん? 随分と人気がないな?」
その場所は、城内でもひときわ広い廊下です。王族の居住区画に向かう通路ですので当然なのですが、気づけば彼の周囲には、人っ子一人見当たらなくなっていたのです。
そんな光景に、不思議そうにマスターが周囲を見渡そうとした、その時でした。
「《スパイラル・エッジ》」
鋭い声と同時、風を切る音を立てて、何かがマスターの元に迫ります。
「ん? うわっと!」
マスターは死角からの攻撃に対し、まるで背中に目が付いているかのような素早い反応を見せ、それを回避しました。
「……いてて」
とはいえ、完全には回避できなかったようです。小さな切り傷を負った頬を押さえつつ、マスターは体勢を立て直します。
「ふん、運だけは良いようだな」
声と共に姿を現したのは、ここ数日間、ことあるごとにマスターに絡んできていた貴族の青年、レニードでした。装飾の多い具足を身に着けていますが、剣は抜いておらず、代わりに掲げた掌の上に『空気の渦』を生み出しています。
「細かい刃物を渦の中に混ぜて飛ばしてくるなんてね。魔法と武器の合わせ技って感じ?」
マスターは頬に滲む血を手で拭い、それをぺろりと舐めとりました。
「俺の『螺旋を操る魔法』には岩をも穿つ力がある。だが、すぐに死なれてはつまらんからな。特に目障りな相手を痛めつけて遊ぶ時には、こうした玩具を使うことにしている」
邪悪な笑みを浮かべるレニード。
「……ニルヴァーナにも君みたいに『つまらない』奴がいるんだね」
吐き捨てるように言うマスター。
「無礼者が! 言っておくが、助けは来ない。人払いは済ませてある。まさか夜中堂々、城の中で襲撃されるとは思わなかっただろう?」
愉快げに笑うレニードの瞳には、爬虫類のような不気味な虹彩が輝いています。どうやら彼の『ニルヴァーナ』としての身体的特徴は、瞳に現れるようでした。
「貴様が陛下にかなうとは思えんが、あの御方は勇敢に戦う者を買い被るところがあるからな。だから貴様には、ここで『怖気づいて逃げ出して』もらう」
「……随分と執念深いんだね。そんなにアンジェリカちゃんが好きなのかい?」
「くくく! 見た目は十分に美しいからな。それになにより、貴種の血筋だ。あの王女は、貴様のような下賤な人間ごときではなく、大貴族たるこの俺──レニード・スピラ・ファフニルにこそ相応しい。……まあ、少々じゃじゃ馬女だが、それはこれから俺がしつけてやればいいわけだしな」
彼がそんな言葉を口にした、その直後のこと。
「……『規則違反の女王入城』」
なぜかマスターは、ここで対象と自分の傷を入れ替えるスキルを発動させたようです。しかし、彼の傷は頬の小さな切り傷のみです。これではほとんど意味がないのでは……とヒイロが考えたのも束の間のこと。
「ぎああ!」
レニードの頬から、鮮血が噴き出しました。見れば、彼の頬にはばっくりと裂けた深い切り傷が出現しています。
「え?」
呆気にとられた声を出すマスター。ヒイロも驚きましたが、予想外だったのは彼も同じだったようです。スキルの使用は、嫌がらせのつもりだったのでしょう。
しかし、その結果はと言えば、マスターの頬の傷が消え、レニードにはその傷とは比較にならない深い傷が出現したというものでした。
異変はさらに続きます。
「あ……あが……ひ、ひい! い、いやだ! イヤダ! イヤダ! あああ!」
頬の傷を押さえていたレニードが、突如として頭を抱え、狂ったように喚きだしたのです。かと思えば固い石床に自分の頭を叩きつけ、まるで頭の中から何かを追い払おうとしているかのようです。恐らくこの勢いでは、数分ともたずに頭蓋を砕いて絶命してしまうでしょう。
「なにこれ?」
きょとん、と不思議そうに目を瞬かせるマスター。彼の前では、依然として頭から鮮血をしたたらせ、絶叫を上げ続けるレニードの姿があります。
「い、イヤダ! ひぃいい! く、狂う! 頭が! 怖い怖い怖い怖い! いやだああああああ! げほっ! げほっ! あ、ぎゃぎゃ……」
「うーん。よくわからないけど……ま、いっか」
しかし、そんな異常な光景を目の当たりにしながら、マスターは特にどうということもない顔をして肩をすくめると、そのまま彼に背を向けて歩き出してしまったのでした。
『規則違反の女王入城』
マスターと対象の『傷』を『入れ替える』能力。
ここでようやく、ヒイロは理解しました。
このスキルで言う『傷』とは、身体の傷ではなく、『存在の傷』なのです。
つまり、肉体の病気や怪我のほか、精神の変調や欠陥に至るまで、あらゆるものが『傷』に含まれます。
しかし、何より恐ろしいのは、これが『入れ替えられる』という言葉が指す意味なのです。そもそも、存在につけられた傷の大きさは、存在の大きさそのものに依存します。
マスターにとってのかすり傷が、レニードにとっては肉が裂けるほどの深手となる。それはつまり、マスターの『存在』が、王魔最強の種族『ニルヴァーナ』の貴族に比してなお、巨大なものであるということを示しています。
精神に至っては、もっと酷いことが考えられるでしょう。レニードの精神の器をコップに例えるならば、マスターのそれは『大海』に匹敵するかもしれません。そして、『傷』を『水』に例えるなら、コップ一杯の真水と大海の塩水を『入れ替え』たならば、何が起こるのか?
微々たる真水では大海の水に変化はなく、器に収まりきらない海水は、コップをあふれて大海に戻る。そして、コップの中には、とても飲用に堪えない塩水だけが残るのです。
スキルの内容が恐ろしいのではなく、その使用者がマスターであるからこそ恐ろしい。そのことを改めて実感してしまいました。
マスターから与えられた、自らの頭を砕きたくなるほどの『狂気』。精神の致命傷とも言うべき『傷』を負った彼は、死の間際、一体何を見たのでしょうか?
──それから間もなく、マスターは王族の居住区画入り口にたどり着きました。
「ここより先は、許可を受けた者にしか通れぬ場所だ。お引き取り願おう」
そのニルヴァーナの衛兵は、マスターの顔を見て、うんざりしたように言いました。この問答も、もう何度目のことになるかわかりません。その都度、この衛兵はにべもなくマスターを追い返してきました。
現在は夜であることもあり、右手に竜の爪を生やした彼は、普段よりさらに威圧的な目でマスターを睨みつけています。
ところがです。
「やあ、お勤めご苦労だね。このまま、しっかりと警備を頼むよ」
と、マスターが言ったその時でした。
「え? あ、ああ。任せておけ」
彼はそう言って、あろうことかマスターに道を譲ってしまったのです。
どうやらこの現象、スキル『鏡の国の遍歴の騎士』の効果により、マスターのことを『追い払うべき敵』ではなく、『身内の人間』だと誤認してしまった結果のようです。
思ったよりも応用範囲の広いスキルなのかもしれません。
それはさておき、マスターはそのままアンジェリカがいると思われる部屋を目指します。途中ですれ違う使用人に同じスキルを使用して、彼女の部屋を聞き出し、ついにその扉をノックしたのでした。
「……何か用か」
不機嫌そうな少女の声。
「アンジェリカちゃん? 僕だよ」
「え? ふええ!?」
扉越しに聞こえたマスターの声に、アンジェリカが部屋の中で慌てふためき、ばたばたと暴れているような気配がします。
「突然で悪いけど、入らせてもらうよ。僕のスキルじゃ、五人以上は一度に騙せなくてね。そろそろ危険なんだ」
「ちょ、ちょっと待って!」
半ば悲鳴のような声が上がる中、マスターは構わず扉を押し開け、素早く後ろ手で閉めるようにして部屋の中へと飛び込みました。ヒイロの《スパイ・モスキート》も、その後に続きます。
部屋に入ってすぐ、目に飛び込んできたのは、荒れ放題に荒れた室内の様子でした。一瞬、これまで軟禁同然の扱いを受けていた彼女が部屋で暴れでもした結果なのかと思いましたが、そうではありません。
主に毛布や布団、衣服の類が散乱し、部屋の壁際のあちこちに投げつけられたかのような有様なのです。その割には家具などに破壊の跡はなく、この散らかりようはたった今、アンジェリカが慌てて行ったもののようでした。
「え、えっと……どうしたの?」
「う、ううー! きゅ、急に入ってくるなあ!」
アンジェリカ自身はと言えば、涙目のまま毛布を抱きかかえ、ベッドの上にぺたりと座り込んでいました。
「ごめん。でも、廊下に立ってると目立つからさ」
「も、もう……レディの部屋に入るときのマナーぐらい、わきまえてよね……」
腕の中の毛布をぎゅっと抱きしめ、紅く上気した頬のまま、ため息を吐くアンジェリカ。マスターは、その姿に不自然さを感じたようでした。
「アンジェリカちゃん。何を抱えてるの?」
「ふえ!? み、見ればわかるでしょ! 毛布よ毛布!」
「うん。だからその中身は?」
「な、中身なんてないわよ!」
するとここで、金切り声をあげて叫ぶ彼女の声を聞きつけたのか、後ろの扉が控えめにノックされる音が聞こえました。
「王女様? 何かございましたでしょうか?」
おそらくメイドだろうと思われる女性の声です。
「な、なんでもないわ! ちょっとむしゃくしゃしただけ! あっち行ってなさい!」
「は、はい! 申し訳ございませんでした!」
扉の向こうの気配は、そそくさとその場を離れていったようでした。
「ほら、アンジェリカちゃんが静かにしないから」
「うう……、ど、どうしてキョウヤがここに来るのよ。そもそも、どうやって……」
どうにか気を落ち着けたように息を吐くアンジェリカでしたが、ここで油断したのは間違いでしょう。マスターはさりげなく壁際に近寄ると、そこに投げかけられていた毛布を一気にはぎとったのです。
「ああ!」
叫ぶアンジェリカの目の前で、はぎとられた毛布の下からあらわになったもの。それは……
「ぬいぐるみ? へえ、可愛いじゃん」
猫に似た姿のぬいぐるみを手に取り、それを持ってアンジェリカへと振り返るマスター。
「あ、あう、あう……」
あまりの事態に口をぱくぱくと開閉し、声にならない声を上げるアンジェリカの腕から、毛布にくるまれた何かが、ぽろりと転がり出ました。
「おお、そっちはクマのぬいぐるみかな? それがこの部屋の中にあるぬいぐるみの中では一番大きいのかい?」
言いながら、次々と壁際の服やらタオルやら布団やらをめくっていくマスター。その下からは次々と、可愛らしい動物のぬいぐるみや綺麗な洋服を着た人形の数々が姿を現していきます。
「すごいね。これ全部、アンジェリカちゃんの? うーん、これこそまさに『女の子の部屋』って感じだね」
マスターがそんな感想を口にしたところで、とうとうアンジェリカに限界が訪れたようでした。
「うわーん! もう嫌だあ! キョウヤに見られたー! もう生きていけないよおお!」
頭から毛布をかぶり、ジタバタしながら悶え叫ぶアンジェリカ。
……ああ、そんな裾の短いネグリジェ姿でそんな恰好をしては、ますます下着が見えてしまいそう……というか、赤と白の縞模様のパンツが完全に見えてしまっているじゃないですか!
《スパイ・モスキート》では、こちらから何の働きかけもできないことが残念でなりません。マスターは少し嬉しそうにそんな彼女を眺めた後、それでもその直後には顔を引き締めて、ゆっくりと切り出しました。
「アンジェリカちゃん。僕と少し、話をしないかい?」
その言葉に、アンジェリカは身体をびくりと震わせ、黙り込みます。そのまま、ゆっくりと毛布をどかして顔を上げ、彼の顔に目を向けました。
「……そうだよね。もう、あと二日しかないもんね」
彼女は開き直ったのか、脇に転がるクマのぬいぐるみを自分の胸元に抱き寄せ、小さくため息をつきました。
「いや、そうじゃない。キスなら、しなくても大丈夫だって話をしに来たんだ」
「え?」
マスターの意外な言葉に、目を丸くするアンジェリカ。
「メンフィスさんはすごい防具を作ってくれそうだし、ヒイロも僕の装備を強化してくれてる。今はリズさんと一緒に魔法の勉強もしているところだし、うまくすれば簡単な『法術器』くらいは作ってくれるかもしれない。それに、エレンからもお守りをもらったからね。それも多分、彼女のスキルで思考速度と反射神経の強化ぐらいの効果はありそうだし……その他もろもろ考えれば、それだけで何とかなりそうなんだよ」
立て板に水の勢いで言うマスターに、アンジェリカはあっけにとられて言葉を無くしてしまいます。
「そ、そうなんだ……」
「うん。だから、僕のために無理してキスなんてする必要はない。そんなことで君が悩むのは……」
しかし、マスターはこの台詞を最後まで言うことができませんでした。なぜなら、アンジェリカが手近にあった毛布を掴み、勢いよく投げつけてきたからです。
「ぶは! ……アンジェリカちゃん?」
顔にかかった毛布をどかしたマスターの視界には、目に涙を浮かべたまま、彼を睨みつけるアンジェリカの姿があります。いつの間にかその背中には竜の羽根が生えていて、その瞳は金色に輝いていました。
「な、なんでそういうこと言うのよ! バカ!」
金色の瞳を怒りに燃えたぎらせて、アンジェリカは声を荒げます。
「なんでって……僕はアンジェリカちゃんに無理をさせないようにしようと……」
「それが馬鹿なのよ! バカ! バカ!」
「ちょ、ちょっと、アンジェリカちゃん、声が大きいって」
あわてて彼女に駆け寄り、落ち着かせるように肩を掴もうとするマスター。しかし、アンジェリカはその手を乱暴に振り払います。
彼女はそのまま力なく項垂れ、それから小さくつぶやくように言いました。
「他の皆のことは頼るのに……キョウヤは、わたしなんかいらないって言うの?」
「そうじゃないよ。ただ、僕は君の嫌がることを無理強いしたくないだけで……」
「……じゃないもん」
ぼそりと、つぶやくような声。
「え? 今、なんて言ったの?」
マスターはアンジェリカの顔を覗き込むようにして、聞き返します。
「……嫌じゃないもん!」
「アンジェリカちゃん?」
呆気にとられた顔のマスターに指を突きつけるようにして、アンジェリカはなおも、まくしたてます。
「もー! キョウヤのバカ! どこまで鈍いわけ? 前からずっと言ってるじゃない! わ、わたし……キョウヤになら何されてもいいって! なのに、なんでそんなこと言うのよー!」
金色の瞳に涙を溜めたまま、マスターを鋭く睨みつけるアンジェリカ。
「あ、い、いや……だってあんなに平然とした顔で言われたら、冗談だとしか思えないし……」
「そ、そんなの、恥ずかしいからに決まってるでしょ!? 女心くらい、ちゃんと読みなさいよね!」
とうとうベッドの上に仁王立ちになったアンジェリカは、マスターを見下ろすようにして言いました。
「えっと……はい。以後、気を付けます……」
正座でもせんばかりに身を縮こまらせながら、反省の言葉を口にするマスター。
「で、でも……その割には、随分とキスについては抵抗感があったみたいに見えたんだけど……」
「……し、仕方ないじゃない。わたしだって……す、好きな人とのキスがこんな形になるなんて思わなかったんだもん……。心の準備もできないし、全然ロマンチックな感じもしないし……」
ヒイロはここで、《スパイ・モスキート》を使っていることに、罪悪感を覚えてしまいました。本来なら言うまでもなく、ここで見るのをやめるべきなのでしょう。……でも、それもまた、ヒイロにはできそうもありません。
『マスターが誰とどんな関係を築こうと、ヒイロは彼の傍から離れるつもりはない』
その気持ちには今も変わりはありません。ですが、今のヒイロはマスターが『誰とどんな関係を築くのか』ということそのものについて、無関心ではいられないのです。だからこそ、悪いとは思いつつも、【式】の解除をためらってしまいました。
「……ロマンチックか。じゃあ、アンジェリカちゃん。僕とデートしないかい?」
「え? デ、デート?」
「うん。そこの窓から飛び出してさ。二人で星の綺麗な夜空でも見える場所に行こう。どうかな?」
マスターがそう言って笑いかけると、アンジェリカは首まで顔を赤くしてうつむき、それから小さく頷きました。
「……うん。じゃあ、準備するから少し待ってて?」
次回「第56話 夜間飛行と決戦前日」