第53話 修行編?:リズの場合
翌日の朝、食事をとるために宮殿内の一室に集まったところで、マスターが急に妙なことを言い出しました。
「あと一週間もあるのに、お城の中で閉じこもっていても勿体ないよね? できれば街中に観光にでも出かけないかい?」
リズさんの給仕を受けながら食事を続けていた一同は、その言葉に唖然として固まってしまいます。ちなみに、この中にはアンジェリカの姿はありません。やはり王女という立場上、朝食の席も別にされてしまったようです。
それはさておき、先ほどの問題発言について、まず口火を切ったのはエレンシア嬢でした。
「キョウヤ様? 何を言っておられますの? ご自分でこの一週間は、『修行編』だとおっしゃられていたではありませんか」
さすがにエレンシア嬢は、食事のとり方も優雅そのものです。隣で紅茶のお代りを注ぐリズさんに軽く会釈で礼をしながら、決められた作法でもあるかのように規則正しく料理に手を付けていました。
「うん。言ったけど考えてみたら僕、肉体面ではスキルのおかげでそれほど鍛える必要もないわけじゃん? 魔法については、隙を見てアンジェリカちゃんと話をするしかないし……確かエレンはまだ、魔法が使えないんだよね?」
「う……す、少しくらいでしたら使えますけど、ほとんど役には立ちませんわね」
顔を赤くしてうろたえるエレンシア嬢。
「ほら、だったら他にすることないじゃん。それなら僕としては無駄に時間を使うこともないかと……」
と、マスターが言ったその時、彼の紅茶のお代りを注いでいたリズさんが口を開きました。
「でも、キョウヤさん。やるべきことは、体を鍛えることや魔法を使えるようにすることばかりではありませんよ」
「え?」
驚いてリズさんを見上げるマスター。現在の彼女は、メイド服を身に着け、邪魔にならないよう茶色の髪を首の後ろで結っています。マスターと目が合うと、彼女は人差し指を目の前に立てて見せました。
「『敵を知れば、百戦危うからず』です。先日、お城の使用人の方にお聞きしたのですが、この城には大きな図書館があるそうです。そこには魔法関連の書籍も多いとか……」
「えっと、まさか……」
「はい。よろしければ、わたしとご一緒に、お勉強しませんか?」
嫌な予感に顔を引きつらせるマスターに、リズさんはにっこりと笑いかけて言いました。
「うそ? 修行なのに勉強? 異世界に来たのに勉強? そんなの、あんまりだ」
情けない顔でそんな言葉を口走るマスターですが、リズさんはにこやかな笑みを崩そうともせず、言葉を続けます。
「アンジェリカさんのためです。一緒に頑張りましょう」
「うう……わかったよ。頑張ろっか」
そう言われては、返す言葉もないマスターでした。
「……やるわね。リズ。でも、わたくしだって……すぐに魔法を覚えてみせますわ」
一方、エレンシア嬢はと言えば、自分の従者の少女を見つめ、何やら決意を固めているようです。
結局、リズさんの提案に乗ったヒイロたちは、朝食後の時間を使って宮殿内の図書館へと向かうことにしました。しかし、エレンシア嬢だけは自分の魔法を練習するのにちょうどいい場所を借りているとかで、別行動をとっています。
客室から図書館へは、宮殿一階の大広間へ続く扉の前を横切り、反対側の棟へ抜けていく必要があります。その際、通りかかった『サンサーラ』の衛兵にアンジェリカのことを聞いてはみたものの、何やらジークフリード王から命じられているらしく、芳しい答えは返ってきませんでした。
「うーん。あのお義父さん、意地でも僕にアンジェリカちゃんと会わせないつもりかな? まったく無駄なことをしてくれるよ」
つまらなそうにつぶやくマスター。しかし、この直後、彼はさらにげんなりとした顔で首を振りました。彼が視線を向けた先を見ると、そこには例の貴族、レニードの姿があります。実はあれ以来、彼は城内でマスターに会うたびに難癖をつけて絡んできているのです。
「……あいつ、しつこいんだよね」
酷く嫌そうな顔をするマスターですが、レニードは今回も例に漏れず、こちらへと尊大な足取りで歩み寄ってきます。
「ふん。相変わらず、女連れで行動とは、いい御身分だな」
「こんにちは。レニードさん」
「……気安く名を呼ぶな。下賤な人間が。姫の客人でなければ、この場で八つ裂きにしてやるところだ」
「だったら話しかけてこなければいいのに……」
「なんだと?」
「なんでもないよ。悪いけど僕たち、これから用事があるから行かせてもらうよ」
「そんなことより、尻尾を巻いて逃げ出したらどうだ? 貴様のような人間が陛下と模擬戦に挑もうなど、身の程知らずにもほどがある。怪我をしないうちに消えるがいい」
「はいはい」
マスターは心底面倒くさそうに手を振ると、そのままさっさと歩きだします。
「でも、リズさん。いつの間に図書館のことなんて聞いていたのですか?」
レニードの姿が見えなくなったところで、ヒイロがリズさんに尋ねました。
「昨日のうちにです。……アンジェリカさんやエレンお嬢様、それにヒイロさんたちと違って、何の力も持たないわたしには、他にお役に立てることもないですから……」
どうやらリズさんは、健気にも城内の人々に対し、いろいろと聞き込みを続けてくれていたようです。そう言えば確かに、通りがかりの使用人たちが親しげに彼女に対して会釈をしているようでした。
「……ありがとう、リズさん」
それに気づいたマスターが、彼女に礼を言いました。
「い、いえ……全然、大したことじゃありませんから……むしろ、余計なことを無理強いさせてしまったみたいで……」
「そんなことないよ。さっきはああ言ったけど、確かに僕らには知識が足りない。魔法を使えるようになるにしても、スキルの力だけじゃなく、頭で覚えることも必要だろうしね」
マスターは元の世界ではあまり勉強がお好きではなかったようですが、『魔法の勉強』となればやはり違うのでしょう。どことなく楽しそうです。
やがて、ヒイロたちは図書館へとたどり着きました。
重厚な扉を押し開ければ、そこには広大な空間と大量の書架、そして、そこにぎっしりと詰め込まれた膨大な数の書物が並んでいます。
「す、すごいです……。本なんて、一冊一冊がすごく高価なもののはずなのに、それがこんなにたくさん……」
ここに来ることを提案したリズさんも、実際に来るのは初めてのようで、この光景に圧倒されたようにつぶやいています。
「へえ、本って高価なんだ? じゃあ、何冊か頂いちゃう?」
「駄目ですよ。聞いた話では、ここの本にはすべて盗難防止用の魔法がかかっているそうです。それに、サンサーラの技術のおかげで、この国では本もそれほど高価ではないそうですから」
マスターの軽口に真面目に応じながら、中へと入っていくリズさん。一応、司書らしき人物が声をかけてきましたが、事情を簡単に話しただけで、すんなりと奥に通してくれました。どうやら、盗難防止の魔法の件は本当のようです。
「ああ、すごい! こんなにたくさんの本が読めるだなんて……」
うっとりした顔で頬に手を当てるリズさん。
「あれ? もしかしてリズさん。自分が本を読みたくてここに来たの?」
「え? い、いえ! 決してそのようなことは……」
「あはは。冗談だよ。じゃあ、魔法関連の書籍とやらを探そうか?」
「はい!」
そんなやり取りの後、二人は早速めぼしい本棚の場所へと歩いていきます。ヒイロはその後姿を見送った後、図書館全体をあらためて見渡しました。
「素晴らしいですね。これはリズさんに感謝しなければいけません」
つい、そんな独り言が漏れてしまいまいした。ヒイロはひとつ頷くと、【因子観測装置】を起動させ、早速『作業』を開始します。
「おーい、ヒイロ。ヒイロも手伝ってよ」
遠くでマスターが数冊の本を手に、歩いている姿が見えます。その隣ではリズさんも同じく、抱えきれない程の本をもって閲覧机のある場所に向かっているようでした。
「はい。ただいま」
ヒイロは、『二百十四冊目』の本の情報を『無限データベース』に収納しながら、二人のいる方へと向かっていったのでした。
──全七万三千六百十三冊。
それがこのドラッケン城大図書館に収蔵された本の総数です。現代日本の大規模な図書館の蔵書数に比べれば少ない方ですが、この世界の文明レベルを思えば、これは驚異的な数でしょう。
さすがにこれだけの数の紙媒体の書物から情報を吸収して統合整理するとなると、ヒイロの遠隔透視観測装置及び高速演算処理装置の機能をもってしても、あと三日はかかるでしょう。
「……ヒイロ、そんなことができるならもっと早く言ってくれないかな。この本、結構重かったんだけど」
閲覧机の席に腰を下ろし、頬杖をついて憮然とした顔をするマスター。
「すみません。お二人があまりにも楽しそうなので、つい……」
「いいんですよ。ヒイロさん。やっぱり本は、こうして手でページをめくるのも楽しみの一つですから。それに、ヒイロさんの『無限でーたべーす』に本の内容を残せるのだとしても、わたしたち自身が知識を得るには、やはり本を読む必要があるわけでしょう?」
リズさんはそう言いながら、早速本のページをめくり始めています。どうやら彼女、実はかなりの読書好きと見ました。メイド服姿のまま、時折耳元にかかる髪を気にしながらページをめくる彼女の姿は、実に楽しそうです。
「うーん。年上のお姉さんがこうして読書に興じている姿って、ますます大人っぽく見えていいよね。ましてやそれがメイドさんなんだから、これはもう、鬼に金棒だよ」
「……マスターは時折、意味的にはあっているのに使いどころが微妙な慣用句をお使いになりますね」
つい、そんな突込みを入れてしまうヒイロでした。
それはさておき、先ほどのリズさんの言葉については、一部を訂正させていただく必要がありそうでした。
「リズさん。非常に申しあげにくいのですが……」
「え? なんですか?」
本から顔を上げ、きょとんとした顔でこちらを見るリズさん。
「ヒイロの『無限データベース』の内容は、特定の条件さえ満たせば、対象者の記憶野に直接情報を送り込むことができるのです」
「え? その、難しくて意味がよくわかりませんが……」
やはり口頭での説明は難しいようです。やむをえません。ここはひとつ、体験していただく他はないでしょう。
「では、論より証拠といきましょう。ただその前に、リズさんには比較的高い【因子感受性】があるようですから、【因子干渉】をしてみませんか? その方がより上手くいくと思いますので」
と、ヒイロが言った瞬間です。リズさんとマスターの二人が、意外なほど大きな反応を返してきました。
「え、え……それってあの時の……ですよね?」
少し戸惑ったような、恥ずかしそうな顔をするリズさん。
「……ほんとに? リズさんにも【因子干渉】できるの?」
なぜか嬉しそうな顔で聞いてくるマスター。
二人の態度の意味がよくわかりませんが、ヒイロは頷きを返しました。
「はい。【因子干渉】は、理論上の最高値の40パーセントを超える【因子感受性】があれば可能なのです。幸いにもマスターを除くメンバーの中では、リズさんだけは42パーセントという数値を示していますから、できると思います」
ちなみに、個体登録を済ませたもう一人の人物──アンジェリカについては、信じがたいことにほぼ0パーセントという数値を記録しています。彼女の場合、【因子】ではなく、第二の情報素子たる【魔力】との親和性が高いのかもしれません。
それはさておき、ヒイロの言葉にリズさんはますます困惑したような顔になりました。
「そ、その……わたしにも才能らしきものがあるというのは、嬉しいのですが……ここでするんですか?」
するとマスターが間髪入れずに口を挟んできます。
「もちろん、そうだよね? ヒイロ。いやあ、僕、可愛い女の子が抱き合うシーンとか、微笑ましくって好きなんだよねえ」
と、ニヤニヤしながらマスターが言った時点で初めて気づきました。
「あ、そうでした……」
【因子干渉】をするには、ヒイロを抱きしめなければならない。ヒイロは以前、そんな風に皆の前で宣言してしまっていたのです。
「あ、えっと、その……」
「……わかりました。こんなわたしでも皆さんのお力になれるようになるのなら、頑張ります」
リズさんは決意に満ちた声でそう言うと、閲覧机の席から立ち上がり、ヒイロの傍まで歩いてきました。
「さあ、ヒイロさん。立ってください」
「え? はい」
思わず、反射的に椅子から立ち上がるヒイロ。するとその直後のこと。
「あ、ちょ、ちょっと待ってくださ……」
「えい!」
がばっと覆いかぶさるように、ヒイロを抱きしめてくるリズさん。
彼女の豊かな胸がヒイロの眼前を覆い尽くし、柔らかい感触と共に息苦しさを覚えてしまいます。
「うおお! これはすごい。ヒイロ……僕、人のことをこんなに羨ましいと思ったの、初めてだよ」
「ちょ、ちょっと、キョウヤさん。恥ずかしいですから……」
頭上から、リズさんの照れた声が聞こえてきます。
「いや、でも……すごい。柔らかそう! いいなあ、ヒイロ!」
「…………」
『柔らかそう』って……まったく、この人はいったい何を言っているのでしょうか?
まあ、確かに柔らかくて心地いいですけど……って、そうではありません。いくらなんでもテンション上がり過ぎです。
「うう……もう! わたしは真剣なんですからね!」
ちょっと怒ったように言うリズさん。『真剣だ』という彼女の言葉に、むしろ申し訳ない気持ちにさせられたヒイロですが、とりあえず【因子干渉】を済ませることにしました。
「それでは、始めます」
「はい! お願いします」
リズさんの身体をかすかな光が包み込み、【因子】の干渉による可能性の発現が開始されます。
「くうう! この場にカメラがないことが惜しまれるなあ」
マスターの残念そうな声は、この際聞こえないふりをするしかありませんでした。
次回「第54話 修行編?:エレンシアの場合」