第51話 神鉱宰相メンフィス
宮殿内の客室の一つに引き上げたヒイロたちは、呑気な顔で椅子に腰かけて紅茶をすするマスターを呆れたような目で見つめていました。
「よくもまあ……あれだけのことをしておいて、平然としていられるものだね」
しかし、ここで口を開いたのはヒイロでもアンジェリカでもなく、虹色の『鱗』を持った一人の男性でした。青い髪を長く伸ばし、整った顔立ちに細身で背の高いその男性は、とてもそうは見えませんが、すでに40歳に手が届こうかという年齢なのだそうです。
「ごめんなさい。メンフィス。面倒ばっかりかけてしまって……」
マスターの代わりに、メンフィス宰相に頭を下げたのはアンジェリカです。彼女はらしくもなく、落ち込んだ顔で力なく肩を落としているようでした。すると、メンフィス宰相は、温和な顔に柔らかな笑みを浮かべ、小さく首を振りました。
「いいんだよ。アンジェリカ。僕は君のことを自分の娘のように可愛く思っているからね。あの程度、大したことはないさ」
そうは言うものの、先ほどの謁見の間での騒動が『一応の無事』に終わったのは、彼の力によるところが大きかったのです。
──マスターがアンジェリカを抱き寄せた、あの時のこと。
ジークフリード王の怒りが臨界点に達し、爆ぜる雷光がマスター目掛けて飛来しました。
「危ない!」
アンジェリカが慌ててマスターをかばおうとしましたが、その直前、するりと歩み出た影があったのです。彼、メンフィス宰相が手をかざすと、虹色の波紋が壁のようにマスターの目前に展開され、迫る雷光のことごとくを防ぎきってしまいました。
「ジーク。君の怒りはわかるが、王たる者が娘の客人を怒りに任せて殺してしまったとあっては、己の器の小ささを喧伝するようなものだよ?」
メンフィス宰相の手の中で輝く『虹色の鱗』は、他の部位にあるものより、若干大きめの物のようです。彼は殺気だった顔で見下ろしてくる国王に対し、まったく動じた様子もなく、穏やかな顔で笑いかけていました。
すると国王も、そんな親友の言葉には多少なりとも感じるものがあったのか、どうにかその場の怒りを収めてくれたようだったのですが……
「あの場は、ああするしかなかったとはいえ、これからが大変だよ。何と言ってもジークは、国王でありながら常勝無敗にして万夫不当の戦士でもある。そんな彼と模擬戦とはいえ決闘をするだなんて、国中の人間が正気を疑う所業だぞ」
そう、『怒りを収めた』とはいっても、ただではありませんでした。マスターが「アンジェリカの『婚約者』として彼女を護ることができる男なのか、自分が直々に確かめてやる」と言って、『模擬戦』なるものを申し込んできたのです。
それに対するマスターの返答はと言えば
「そうだね。僕も『お義父さん』には、自分の娘は『所有物』とは違うんだってことをわからせてあげる必要があると思うよ」
というものでした。
危うく再び一触即発の緊張感が漂う中、それでも模擬戦の日取りを今日から一週間後に設定することができたのは、これまた間に入ってくれたメンフィス宰相のおかげでしょう。
マスターは紅茶のカップをテーブルに置き、席から立ち上がると、あらためてメンフィス宰相に頭を下げました。
「自分でまいた種ですし、何とかしますよ。それより、僕からもお礼を言わせてください。メンフィスさん。あの場を上手く収めてくれて、ありがとうございます」
「あ……いや、それほどのことでもないよ」
意外にも丁寧な言葉づかいで礼を言うマスターに、当のメンフィス宰相の方が驚いた顔をしていました。
「で、でも、キョウヤ……。娘のわたしが言うのもなんだが……お父様は正真正銘の化け物だ。模擬戦とはいえ……いや、模擬戦だからこそ、いくらキョウヤでも危険が大きすぎる。今からでもわたしがお父様に謝れば、取りやめることぐらい……」
アンジェリカが不安げな声で言いましたが、マスターはそれにも首を振り、ソファに腰掛ける彼女へと歩み寄っていきます。
「それで君は、唯々諾々と親の言うことに従って、僕らと別れ、ここに残るって言うのかい?」
アンジェリカに対するマスターとしては珍しい、相手を追い詰めるような言い回しでした。
「そ、それは……。でも、わたしの考えが足らないせいで、こんなことになってしまったんだし……」
一方のアンジェリカは、言葉をなくして黙り込んでしまいました。辛そうに唇を噛み、うつむいたまま身体を震わせています。
「キョウヤさん……アンジェリカさんはキョウヤさんのことを心配しているんです。そんな言い方はあんまりです」
見るに見かねたリズさんが声をあげると、マスターは小さく息を吐きました。
「心配なんて、必要ないよ」
冷たく言い放つマスター。その言葉に、びくりと身体を震わせるアンジェリカ。一気に気まずくなる雰囲気は、周囲の空気までもを冷え込ませたかのようでした。
「ちょ、ちょっとキョウヤ様……? アンジェリカさんの気持ちも考えてあげてください」
さすがにこれにはエレンシア嬢も黙っていられなかったのか、非難するような目でマスターを睨みつけました。しかし、それでもなお、マスターは平然とした顔で言葉を続けます。
「アンジェリカちゃんの『気持ち』とやらも関係ない」
「…………」
マスターの言葉に、唇を噛み締めるようにして下を向くアンジェリカ。
彼は言いながら、なおもアンジェリカへと近づいていきます。
「僕はね……アンジェリカちゃんと、『一緒にいたい』と思っているんだ。だから、そんな『心配』もそんな『気持ち』も必要ないよ」
「……え?」
何を言われたのかわからない──そんな面持ちで顔を上げ、マスターを見つめるアンジェリカ。マスターは既に、アンジェリカの座るソファの正面にたどり着いていました。
彼はそのままゆっくりと膝を曲げ、彼女の顔に自分の顔の高さを合わせるようにして、笑いかけます。
「君には、『君らしく』あってほしいな。ニルヴァーナは、己の欲望に正直に生きる種族なんだろう? 遠慮なんかいらない。余分な気遣いも心配も必要ない。前にも言ったと思うけど……僕はこの命をかけてでも、君を護ると決めているんだからね」
その一言で、アンジェリカの青い瞳に大粒の涙があふれていくのが分かりました。
「うう……! キョウヤ、キョウヤ……!」
そのままソファから前へと身を投げ出し、マスターの胸に飛び込むアンジェリカ。彼女は、小さな子供のように大きな声を上げて泣き始めてしまいました。
「ふふ……」
メンフィス宰相は静かに、そして優しげな瞳のまま二人の姿を見つめています。
「キョウヤさん……」
「も、もう……紛らわしい言い方をしないでほしいものですわ……」
リズさんとエレンシア嬢の二人は、少しばつが悪そうに、けれども羨ましそうな顔で、アンジェリカとマスターが抱き合う姿を見ていました。
「……どうやら君には、こうなることが分かっていたみたいだね?」
「マスターが彼女を傷つけるようなことを言うはずがありませんから」
突然話しかけてきたメンフィス宰相に、ヒイロは当然のように答えます。一番間近でマスターを見つめてきたのは、ヒイロなのです。
「……そうか。彼は、本当に面白い人物だね。よし、なら乗り掛かった舟だ。可能な限り彼がジークと『いい勝負』ができるよう、協力するよ」
「よろしいのですか? 宰相の地位にあるような方がそのような真似をして……」
ヒイロの問いかけに、今度はメンフィス宰相の方がこともなげに笑います。
「他ならぬアンジェリカのためだ。当然だよ」
彼がそう言うと、それまでマスターに抱きついたまま泣いていたアンジェリカが、勢いよく顔を起こしました。
「本当? ありがとう、メンフィス!」
「ははは。元気になったみたいで、よかったよ。謁見の間からこの部屋に戻るまで間の君と言ったら、この世の終わりみたいな顔をしていたからね。まあ、一週間あれば、彼の身の安全を少しでも守ることのできる『防具』ぐらいは提供できるんじゃないかな?」
「うん! それなら安心ね!」
さっきまでの泣き顔はどこへやら、アンジェリカは目を輝かせています。
「へえ、メンフィスさんの作る防具って、そんなにすごいんだ?」
「ええ、そうよ。なんてったって、わたしの『魔剣イグニスブレード』も『魔装シャドウドレス』もメンフィスが作ってくれたのよ。『形を力と為す魔法』を得意とするサンサーラの中でも、形そのものを変える魔法の道具を作れるのは、『ヴァリアント』と呼ばれるメンフィスの一族だけなんだから」
自分の着る黒いドレスのスカートをつまむようにして、声を弾ませるアンジェリカ。
「とはいえ、見たところキョウヤ君は人間だろう? 防具そのものの性能はともかく、サンサーラの魔法で特別な効果を付与しても、それを使いこなすのは難しそうだね」
「それでもないよりは随分ましよ!」
若干の懸念を示すメンフィス宰相の言葉に対しても、アンジェリカはあくまで前向きです。
「ははは! やっぱりアンジェリカは、笑っている方がいいね。僕まで嬉しい気持ちになるよ」
そう言って目を細めるメンフィス宰相の言葉には、娘を思う父親のような温かさが感じられました。
「じゃあ、僕は早速、材料作りに取り掛かろう。……うん。ジークの雷撃に耐性のあるものがいいだろうね」
彼はそう言い残すと、ぶつぶつとつぶやきながら、部屋を後にしたのでした。
「……それにしても、メンフィスさんって本当にいい人だね。アンジェリカちゃんのお父さんの友人だそうだけど、どうしてあんなに良くしてくれるのかな?」
メンフィス宰相がいなくなった後、マスターはアンジェリカにそんな質問を投げかけました。すると彼女は、少し悲しそうな顔でうつむきます。
「うん……十五年前、わたしが生まれた時のことらしいんだけど……集まってきた『愚者』の中に特別に強い奴がいたらしくて、運悪くその場に居合わせたメンフィスの娘がそいつに殺されてしまったらしいの。……当時、まだ三歳だったって聞いたわ。それ以来、彼も……今は病気で伏せっているアリアンヌおばさまも……わたしのことを娘みたいに可愛がってくれてたんだけど……」
「ふうん……まさに娘の代わりみたいに思ってくれているってことなのかな? アンジェリカちゃんも、メンフィスさんのことは好きかい?」
「もちろん! 聞き分けのないお父様なんかより、ずっと優しいもん! 今回だって、きっと力になってくれるわ!」
マスターの質問に、声を張り上げて言うアンジェリカ。この国に戻ってからの彼女は、普段の尊大な言葉遣いもなりを潜めているようです。
「……そうだね。だったら僕は、あの人のことを信じようと思う」
マスターは、アンジェリカに微笑ましげな視線を向けながら、そんな言葉を口にしました。
「ところで……模擬戦というのは、どんなものなのでしょう?」
ここでヒイロは、これまで気になっていたことを確認することにしました。『模擬』と言うからには、実戦とは違うはずなのですが、言葉だけではまるで要領を得ません。
「うん。要するに、練習試合みたいなものよ。武器にも魔法にも制限はないけれど、回復魔法の効果を高める特殊な結界内で行うから、大怪我をしても死ぬ危険性は高くない。とはいっても、体がバラバラになるような怪我まで回復できるわけじゃないけど……」
だからこそ、絶対の安全は保障できないのだということのようでした。ましてや、相手はこの国でも随一の強さを誇るジークフリード王なのです。アンジェリカの心配もよく分かります。
だというのに、マスターは相変わらずの調子で、
「なるほどね。……いずれにしても、一週間後の『試合』に向けて、僕も強くなるための『修行』をした方がいいかもしれないぞ。いやあ、燃えるなあ。じゃあこれからは、『修行編』の始まりだね」
などと言うものですから、アンジェリカをはじめとする女性陣に、呆れたような目を向けられてしまうのでした。
次回「第52話 修行編?:ヒイロの場合」




