第41話 行かねばならぬ時がある
朝を迎えると、マスターがテントの中から、のそのそと顔を出しました。
「うーん。よく寝た。あ、ヒイロ。おはよう」
「おはようございます。マスター。よく眠れましたか?」
「うん。おかげさまでね。このテント、すごいよ。その辺のホテルのベッドなんかより、全然心地いいし」
「それは何よりです。腕によりをかけて作った甲斐がありましたね」
マスターのお褒めの言葉を受けて、ヒイロがそう返事をすると、彼はひどく驚いたような顔になりました。
「どうしましたか?」
「……ヒイロって、やっぱり笑った方が可愛いなって思ってね」
「え?」
思わず、自分の顔を押さえてしまうヒイロ。そんな自覚は全くありませんでしたが、笑顔になってしまっていたのでしょうか?
「今までのヒイロはさ……僕が何か言っても『それぐらい当然です』って顔で、自分の感情を押し殺しているみたいに見えたんだ。だから、さっきも余計に可愛く見えたのかもしれないね」
「……はう」
正面から『可愛い』を連発してくるマスターに、ヒイロは顔の熱さを感じてしまいました。普段の軽口なら受け流せるのですが、今のマスターはひどく真剣な顔で言ってくるから困るのです。
「うん。できれば今後も、そんなふうに可愛い姿を見せてくれると嬉しいな」
「マ、マスターに喜んでいただけるなら……」
消え入りそうな声で言うヒイロでした。
「ところで、他の皆はまだ寝てるのかな?」
「いえ、エレンシア嬢は顔を洗われるらしく、先ほどヒイロの用意した洗面器具をもって沢に下りて行かれましたよ」
マスターとは別に用意したテントには、女性陣(夜の眠りが必要ないアンジェリカを除く)に泊まってもらっています。
「じゃあ、リズさんとアンジェリカちゃんは?」
「それなのですが……」
ヒイロはここで、アンジェリカから預かっていたメモを差し出します。
「ん? アンジェリカちゃんから? 何だろう……」
マスターが目を通したメモには、こう書かれていました。
『昨日、『悪魔は嘘を吐かない』を使った反動もあって、今日のわたしは夜まで眠ったままだ。そう簡単には目覚めない、かなり深い眠りになる。つまり、わたしがこの能力を使うのは、よほど信頼のおける相手が近くにいる場合だけだ。光栄に思えよ』
「うん。まあ、光栄だね」
のんきな口調でそう言ったマスターは、まだ『追伸』の部分を読んでいないのでしょう。さらに文章を目で追うマスターですが、その顔色が徐々に変化していきます。
『追伸:繰り返すが、かなり深い眠りだ。キョウヤがこの身体に『どんなこと』をしても、目覚めることはない。さて、キョウヤ? わたしはお前になら、何をされても構わないくらいの信頼を置いているが、そんなお前は、わたしにいったい『何を』してくれるのかな?』
「……ヒイロ」
読み終えたマスターは、わずかに震える声で呼びかけてきました。
「なんでしょうか、マスター」
「これって、どういう意味だと思う?」
「言葉どおりの意味だと思いますが」
さらりと言葉を返すヒイロ。
「そんなわけないよね? 話が上手すぎ……じゃなくって、とにかく、僕には『指一本でも触れたら殺す』って読めたんだけど」
身震いするように言うマスターですが、それは深読みしすぎというものでしょう。このメモをヒイロに作らせたときの彼女は、ひどく楽しそうでした。悪戯心でやったことでしょうが、あの様子では本当に『何をされても構わない』と考えているかもしれません。
何はともあれ、マスターは女性陣のテントに目を向けると、そちらに向かってゆっくりと歩いていきました。
「……えっと、お邪魔するよ」
しかし、入った先で待ち構えていたのは、寝相の悪いアンジェリカの毛布を掛け直してあげている、リズさんの姿でした。
「……キョウヤさん。アンジェリカさんのお手紙、読みましたか?」
こちらに振り返るなり、すやすやと眠る金髪少女を背中でかばうような姿勢をとるリズさん。
「うん。読んだよ。信頼されてるって、嬉しいことだよね」
努めて明るい声でいうマスターですが、リズさんは使命感に燃える顔のまま、マスターのことを慎重に見上げています。すると、さすがのマスターも、そんな彼女の様子には気づくところがあったのでしょう。
顔の前で手を振るようにして、彼女に笑いかけました。
「いやだなあ。僕だって無抵抗なまま眠っている女の子に、何かしようなんて悪辣なことは考えてないよ。指一本、触れるつもりはないさ」
「……す、すみません。そんなつもりでは」
申し訳なさそうに頭を下げるリズさんですが、マスターの普段の言動を考えれば無理もないところです。
「ほら、ヒイロも一緒だしさ。安心してよ。リズさんもまだ、顔洗ったりとかしてないんでしょう? リズさんなら寝起きの顔も十分綺麗だけど、お肌の手入れは欠かせないんじゃないかい?」
「あ……きゃ!」
そこでようやくリズさんはそのことに思い至ったらしく、あわてて顔を伏せると、そそくさとテントを出ていきました。
「ほんとリズさんって、自分のことより人のことを優先するタイプだよね」
「はい。優しい方です」
ヒイロが同調するように言うと、マスターはにっこりと笑いかけてきてくれました。
「ふうん……ヒイロもやっと、リズさんと打ち解けてきたのかな? よかった」
そう言ってマスターは、アンジェリカの眠る寝台の横に腰を下ろしました。先ほどまでリズさんが座っていた椅子の上です。
「よく眠ってる。こうしてみると、僕と大して年が離れていないとは思えないくらい無邪気な寝顔だよね」
穏やかな顔でアンジェリカさんの寝顔を見つめるマスターの姿に、ヒイロも内心で安堵の息を吐きました。リズさんほどではないにしろ、一抹の不安を抱いていたのは確かだったのです。
しかし、そんな風に安心したのも束の間のことでした。
「うーん。むにゃむにゃ……。キョウヤ! もっとこっちに来なさいよ……。手が届かないじゃない……」
「え?」
寝言でしょう。ですが、意味深な言葉でもありました。
しかし、問題なのはその言葉ではなく、寝言と同時に足を大きく動かした彼女の身体から毛布がめくれてしまったことです。そこに現れたのは、年端もいかない少女が着るには不似合いな、薄絹でできたネグリジェです。スカートのように腰から下に広がる布地は、普段の黒いドレス以上に短いかもしれません。
少女の健康的な白い素足がむき出しとなったその寝姿は、いろいろな意味で危険を感じさせるものでした。
「マ、マスター?」
ヒイロが声をかける目の前で、マスターの手がそろそろとアンジェリカの身体へと伸びていきます。
「指一本、触れないと言っていましたよね?」
念を押すように言うと、びくりとその手が動きを止めます。しかし、彼は続けてこう言いました。
「うん。当り前じゃないか。指一本触れないさ。……身体にはね」
「え? あ、ちょっと、マスター?」
彼の狙いは明らかです。少女の身に着けた夜着のスカートにあたる部分。それを掴むことでした。
「止めてくれるな、ヒイロ。男には、行かねばならぬ時があるのさ」
一気に思い切って、その手を伸ばすマスター。
「いえ、危ないですよ」
「え?」
ヒイロの警告も時すでに遅し。彼の手には、緑の『茨』が絡みついていたのでした……・
──それから。
「ああ! もう! 信じられませんわ! よりにもよって、紳士たるべき殿方が、女性の寝こみを襲うだなんて! キョウヤ様……いったい貴方、どういう教育を受けてきましたの!?」
テントの外で正座するマスターの前で、金切り声を上げているのはエレンシア嬢です。彼女の美しい新緑の髪の先は、『動く茨』となってザワザワとマスターの周囲を取り囲むように揺れています。
「い、いや、その……」
「わたくし、見ましたのよ? 念のためにテントに置いておいた野草の鉢植えから、ぜーんぶ、見ていましたのよ? 言い逃れはできませんわ」
なるほど、彼女がヒイロに植木鉢を作るよう依頼してきたのは、そのためでしたか。彼女のスキル『世界に一つだけの花』により、あのテントには彼女の『目』があった──そういうことなのでしょう。
マスターの目の前で仁王立ちのまま、声を荒げるエレンシア嬢の怒りは、まったく収まりそうもありません。しかし、マスターは正座したまま、不思議そうに彼女の顔を見上げて言いました。
「確かに君の言うとおり、男にあるまじき真似だったよ。ごめん」
「む……ま、まあ、わかればよろしいのですわ。でも、だからといって……」
「でも、どうしてエレンがそんなに怒るのかな?」
「え? ど、どうしてって……」
突然、思わぬ問いかけを受けたエレンシア嬢は、狼狽えたように言葉を詰まらせます。
「アンジェリカちゃんとそれなりに付き合いのあるリズさんなら、まだわかる。でも、エレンは彼女とそれほど親しくもないよね? だったら、いくらなんでもそこまで怒るのは不思議だよ」
「そ、それは……その……」
「僕がアンジェリカちゃんに何かすることが、エレンにとっての不利益になるわけでもないんでしょう?」
「そ、それはそうですが……」
さすがはマスター。論点のすり替えがお上手です。しかし、言われてみれば、確かに不思議な話ではあります。もちろん、大前提として『正義感ある少女の憤り』というものを考えなければなりませんが、それにしても彼女の怒り具合は尋常ではありません。
「ねえ、なんで?」
しつこいくらいに質問を繰り返すマスター。するとエレンシア嬢は、
「な、なんとなくですわ! ……あ、貴方が、嫌らしい真似をするところなんて、見たくありませんの! 貴方には……もっと、しっかりしてもらいたくて……」
支離滅裂な声を上げたかと思えば、最後には消え入りそうな声で言ったきり、うつむいてしまったのです。
「……リズさん。エレンシア嬢は、どうされたのでしょうか?」
ヒイロはそんな彼女の行動の意味が分からず、傍らで様子を見守っているリズさんに問いかけます。すると、それまで自らの主人を微笑ましげに見つめていた彼女は、ヒイロに向かってにこやかに笑いかけながら言いました。
「ふふふ。エレンお嬢様も、ヒイロさんと同じで『素直になれないお年頃』なんですよ」
「こ、こら! リズ! 勝手に変なことを言わないで!」
顔を真っ赤にして叫ぶエレンシア嬢。
「あらあら、これは失礼しました、お嬢様。昨日、寝る前に相談されたことは、秘密でしたものね?」
「あーもう! それを言うならリズだって、同じじゃない!」
「え?」
「わたくしが気づいていないとでも思っているのかしら? うふふふ……」
なぜかここで、エレンシア嬢は形勢逆転とばかりに意地悪そうな笑みを浮かべました。
「あ、いや、その……うう、申し訳ございませんでした。お嬢様」
「わかればよろしいですわ。……あとでまた、相談に乗って……ううん、一緒に語り合ってもらいますからね」
この場にアンジェリカがいれば、何か分かったのかもしれませんが、マスターとヒイロには、二人が何を話題に話しているのか、まるで見当もつきません。
「どうしたんだろうね。二人とも」
「さあ。でも、どうにか怒りの矛先がそれてよかったですね。マスター」
ヒイロがそう言うと、マスターは悪戯がばれた子供のような顔で笑ったのでした。
次回「第42話 竜種の国へ」