第39話 悪夢に踊る狂える鏡
そこには、『悪夢』のような光景が広がっていました。
「……ぎあ! う、ああ…… ど、どうして、後ろから……ガホッゲホッ!」
「お、おい! しっかりしろ!」
「畜生! なんで攻撃が当たらないんだ!」
放たれた矢の大半は、マスターの周囲に出現した鏡に飲み込まれ、敵軍全体のあらゆる場所に『乱反射』されています。特にほとんどの『矢』は、二列目で弓矢を持った騎士ではなく、かなり後方に立つ騎士の背後から出現し、威力を増してその背中を穿っていました。
注意深く見れば、狙いそのものがマスターから外れている矢であっても、『反射』の有無には関係ないようです。それがマスターに対する攻撃であり、そこに殺意が込められているのなら、仮にマスターの命を奪う力などなくとも、その殺意は『反射』され、彼が殺意を抱く対象を死に至らしめるのです。
殺意の乗り切っていない一部の矢こそ、マスターの間近まで迫りましたが、逆にその程度の攻撃では、『リアクティブ・クロス』の反発衝撃波を突破することなどできません。マスターは依然として、一切無傷のままです。
「……しかし、マスターはつくづく異常な人ですね」
つい、そんな独り言が漏れてしまいました。マスターの特殊スキル『世界で一番醜い貴方』は、自分に向けられた殺意ある攻撃を『自分が殺意を向ける相手』に跳ね返すというものです。
誰であれ、『個人』に対して殺意を抱くことは容易でしょう。ところが一方、三千人の『軍隊』そのものに殺意を抱くということは、並大抵のことではありません。
ですが、マスターは、それをいとも簡単にやってのけているのです。
間近で自分に刃を向けてくる騎士たちに一切の個性を認めず、『軍隊』の『任意の部分』にいる騎士をスキルの対象にする。口で言うほど簡単なことではないはずですが、このことは、彼が視認できないはずの最後尾の敵部隊に対してまで、攻撃を跳ね返すことができている点からも明らかです。
弓矢による攻撃が『背後から降る矢の雨』に変わった時点で、ヴィッセンフリート家の軍勢はかなりの混乱に陥っていました。しかし、彼らが心の底から恐怖することになるのは、まさにこれからでした。
「くそ! どんな手品か知らんが弓は危険か……。ならば突撃だ! 所詮敵は一人なのだ! 数で押し包めばとるに足らん!」
指揮官らしき騎士の号令に合わせて、騎士たちは剣や槍を手に、一斉にマスターめがけて押し寄せてきます。
「……《レーザー》」
ある程度、敵を引きつけたところで、ようやくマスターは『マルチレンジ・ナイフ』を鞘から引き抜き、不可視の光線を正面から迫る騎士に放ちました。一瞬で先頭の騎士に着弾したその光線は、彼が身に着けていた鎧を赤熱させ、衣服を激しく燃え上がらせます。
「うわあ! なんだ? いきなり火が……」
「ひ、ひるむな! かかれ!」
たちまち、鎧兜に身を包む騎士たちの集団に飲み込まれていくマスター。しかし、それからいくらもしないうちに、戦場からは新たな悲鳴が上がっていました。
「うあ! やめろ! おい! 何を考えて……ぎゃあ!」
「ちくしょう! 裏切りか!」
「裏切りだと? 何を言っている? この賊めが!」
「うがああ!」
戦闘中、マスターは自分の視界に入った騎士たちのうち、隊長格にあたる者を次々と『裏切らせて』いました。『鏡の国の遍歴の騎士』──敵味方を誤認させる彼のスキルにより、五分間に一度ずつ、必ず五人の裏切り者が出現するのです。彼らの混乱は、ますます激しさを増していきます。
一方、マスター自身はと言えば、《ヒート》状態にした長剣で周囲の騎士たちを焼き切ったり、時折、《レーザー》を織り交ぜた攻撃をしかけたりはするものの、立ち位置自体はほとんど一歩も動いていません。
中でも騎士たちにとって、何よりの『悪夢』だったのはおそらく……
「うあああ! ウソだろ? し、死体が!」
「く、来るな! な、何なんだよ、これええ!」
恐怖におびえ、半狂乱の叫び声をあげる騎士たち。彼らに襲い掛かっているのは、かつては味方だったはずの『騎士たち』です。
マスターのスキル『鏡の中の間違い探し』によって蘇生させられた彼らは、蘇生前に負った傷の影響もあり、意味不明の奇行に走る者も多くいました。それだけでも騎士たちの恐怖をあおるには十分でしたが、何より恐ろしかったのは……マスターによる復活時の『意識の刷り込み』によって、いわゆる『狂戦士』と化した者たちでした。
虚ろな目をしたまま武器を掴む彼らには、リミッターなど存在しません。自分の身体への負荷をまるで無視し、異常な駆動で襲い掛かってくるのです。
「ひ、ひいっ! ば、化け物だあああ!」
全身に槍を突き立てられながら、なおも動くことをやめず、手近な仲間に切りつける『狂戦士』がいました。
「な、ななな! す、素手で!? なんて力だ……グゲホ!」
自分の手が千切れかかるのも構わず、掴んだ刀身をその持ち主となる仲間の喉元に突き込む『狂戦士』がいました。
腕が折れようが足が砕けようが、痛みも苦しみも感じることなく、ただ目の前の人間を殺戮することにのみ特化した『生ける屍』。マスターのこのスキルは、応用次第ではそんな恐ろしいものまで産み出せてしまえるのです。
「おい、法術士は何をしている! 早くあの化け物を殺せ!」
「は、はい! ……知識の泉より湧き出でし、我が法力。法の導きにより、敵を焼きつくせ。《炎の霊玉》」
ようやく前線に出てきた『法術士』たちでしたが、マスターのスキル自体は、敵に殺意さえあれば、攻撃の種類は問いません。彼らが赤い宝玉を掲げて放った炎の魔法は、これまで同様マスターの『鏡面体』に飲み込まれ、魔法を使った法術士自身の背後から噴き出して、その体を焼き尽くしてしまったのです。
「うあああ! だ、駄目だああ!」
「に、逃げ……!」
切り札と考えられていた魔法でさえ、あっさりと防がれ、返されてしまったという事実に、とうとう生き残りの騎士たちの恐怖が臨界点を超えたようです。彼らは一斉にその場を逃げ出そうと踵を返し……そして、さらなる絶望に直面します。
「『鏡の中の間違い探し』……知らなかったかい? 『間違い』なんてものはさ、大概が『取り返しがつかない』ものばかりなんだぜ?」
自分に背を向けた騎士たちに向け、冷ややかな言葉を放つマスター。
「う、うあああ……」
彼らの退路を塞ぐように、無数の『狂戦士』が立っていました。戦闘の序盤において、マスターが執拗に『世界で一番醜い貴方』によって狙い続けていた相手。それこそがこの、部隊最後尾に位置していた騎士たちだったのです。
「……殺す! 殺せ……ば、殺シて……殺……しタら? コ、コロセエエエ!」
胡乱な瞳で涎を流し、雄たけびを上げる『狂戦士』たち。人間の限界を超える力を振るうバーサーカーたちは、逃げ場を失い、抗おうとする生き残りの騎士たちを苦も無く切り捨てていきます。
「ひ、ひいっ! 嘘だ……な、なんだよこれ、なんでこんな……」
「どうして俺たちがこんな目に! た、助け……」
普段は戦闘慣れしているはずの騎士たちが、狂気に満ちた地獄の景色を目の当たりにして、半ば錯乱状態に陥っています。
そもそも……彼らの敵は、たった一人の少年でした。しかし、その少年にはどんな攻撃も通じません。それどころか攻撃すればするほど、なぜか後方の味方が死亡していき、彼に近づくだけで信頼関係にあるはずの仲間たちが同士討ちを始め、彼に殺された仲間にいたっては、狂戦士と化して襲い掛かってくるのです。
悪夢と絶望が足音高く迫りくる中、酷薄な笑みを浮かべて立つ黒髪黒目の少年は、騎士たちの目にはどんな悪魔よりも恐ろしく見えていることでしょう。こうして傍観しているだけのヒイロですら、戦慄が隠せないのですから……。
「おーい! 生き残ってる人、いたら手を上げてくれるかな? 手を上げてくれたら、お礼にトドメを刺してあげるよ?」
累々と転がる騎士たちの死体の山の中央で、周囲に向かって明るく陽気な声で呼びかけるマスター。若干の疲れはあるようですが、彼には傷一つなく、返り血ひとつ浴びていません。
結局、マスターは三千人もの軍隊に一切の抵抗を許さず、たった一人でこれを蹂躙しつくしてしまったのでした。
「……あれがキョウヤの真の力か。すさまじいな」
「……マスターの特殊スキルは、心を持った『知性体』を相手にする場合……特にこうして大量の敵を相手にすることになればなるほど、恐ろしい効果を発揮するようですね」
「ああ。だが、真に恐ろしいのは、あれだけの凶悪なスキルを持ちながら、それにまったく振り回されることなく、片手間に使いこなしてしまっているキョウヤ自身の方だろうな」
呆れたように言葉を交わしあうヒイロとアンジェリカが見つめる前で、残ったバーサーカーたちが互いに同士討ちの形で戦闘を続け、その数を減じていきます。
そして、最後に残った数人をマスターが始末したところで、文字通り、冗談でも誇張でもなく、三千人の軍隊は一人残らず全滅していたのでした。
「うーん、重たいなあ」
それからマスターは、何かをずるずると引きずりながら、こちらへと歩いてきます。
「お手伝いします」
ヒイロはマスターが引きずるモノ──心臓を一突きにされて死亡したまま、襟首を掴まれて運ばれる指揮官らしき人物の肉体に向けて、重力制御の【式】を展開しました。
「おお? だいぶ軽くなったよ。ありがとう、ヒイロ」
マスターはヒイロに礼を言いながら、軽快な足取りで歩いてきました。エレンシア嬢とリズさんの前にたどり着いた彼は、後ろ手に引きずっていた死体を自分の手元に引き寄せながら立ち止まります。
「あ、あ……わたくしの家の騎士たちが……」
エレンシア嬢は震える声で言いながら、目の前に立つマスターを見つめています。
「うん。あの連中は君を殺す気だった。だから殺した。何か問題あるかな?」
マスターはその場で死体の襟首を離すと、にこやかにエレンシア嬢に笑いかけていました。
「いえ。……何も、ありませんわ」
圧倒されたように言葉を失い、呆然とマスターを見つめ返すエレンシア嬢。すると、彼女に代わってリズさんが問いかけてきました。
「……キョウヤさん。あなたの言うことを疑うわけではないんですが……それでも、どうしても旦那様たちがお嬢様を殺そうとするなんて信じられないんです。……これは何かの間違いじゃないんでしょうか?」
「ん? まあ、あいつらが『間違って』いたことは確かだけど、そこは事実だと思うよ。いずれにしても、当事者に話を聞くのが手っ取り早いんじゃない? ……スキル『鏡の中の間違い探し』
何の脈絡もなく発言の途中でスキルを宣言するマスター。すると、マスターの背後で倒れていた指揮官らしき騎士が、ぎこちない動きでゆっくりと立ち上がります。
それからその指揮官は、マスターに促されるままに、今回の件がヴィッセンフリート卿自身による命令であることを事細かく説明してくれたのでした。
「……そ、そんな! ひどい! 旦那様がそんな人だったなんて……」
ショックのあまり声を震わせ、涙を浮かべるリズさん。
「まあ、僕がこいつに無理やりこんなセリフを言わせたんだと疑うなら、その限りじゃないけどね。……ご苦労様。そんじゃ、あとはその辺の物陰にでも行って、自害してくれる?」
またしてもマスターは、自然な会話の中に恐ろしく残酷な言葉を織り交ぜ、人形のように従順なその指揮官に死を命じました。すると、その騎士は何の躊躇もなく武器を手に持ち、そのまま近くの物陰へと入っていきました。
「まあ、あとは君たちで決めたらいい。僕のことを信じられないというなら、それでもいいよ。旦那様とやらに直談判してみるかい?」
肩をすくめて言ったマスターですが、そこでエレンシア嬢が首を振りました。
「……いえ。その必要はありませんわ。たった今、お父様の口から決定的な一言が出たのを聞いてしまいましたから」
小さく、消え入りそうな声で言うエレンシア嬢。
「え? もしかして、さっきの騎士がエレンお嬢様のお父さんだったとかいうオチ?」
驚いて聞き返したマスターに、エレンシア嬢は首を振りました。マスターが勘違いをするのも無理はありませんが、【因子観測装置】を有するヒイロにはわかりました。
彼女は確かに、自分の『耳』で父親の言葉を聞いたのでしょう。
彼女の持つスキルによって。
○エレンシアの通常スキル(個人の適性の高さに依存)
『世界に一つだけの花』 ※ランクS(EX)
活動能力スキル(感覚強化型)の派生形。任意に発動可。全世界に存在する植物を自身の目・耳・鼻として使役し、そこから得られた情報を我がものとできる力。
次回「第40話 満たされるもの」