第4話 異世界への誘い
刑事のあの様子では、あまり時間はないでしょう。
ヒイロが人気のない場所に行きたいと伝えると、彼は意外にも素直に頷き、校舎の屋上へと案内してくれました。……しかし、その途中、明らかに鍵のかかった扉を前に小さな工具を取り出し、ほとんどドアノブを破壊する勢いでそれをこじ開けていたような気もしますが、ここは見なかったことにしましょう。
人気のない屋上。ハムカツサンドと牛乳は、そこで食べることにします。ヒイロの素体は食事を必要としませんが、嗜好品としてたしなむことは可能です。ナビゲート対象と五感を共有できなければ、適切なナビは困難であり、これもまた当然の機能でした。
「緊張するなあ。まさか、出会ったばかりの転校生──それも君みたいな可愛い女の子と二人きりで、こんな場所で食事をするなんて……」
少し距離を置くようにして座った彼は、ヒイロに探るような目を向けてきました。
もちろん、あまり自然とは言い難い状況であり、彼が警戒するのもやむを得ません。実際、彼と二人で屋上に向かう道すがら、他の生徒たちには奇異の目で見られていました。
とはいえ、あまり時間がかけられない以上、そうも言ってはいられません。
「最初に言っておくと、何も企んだりはしていませんから」
「企む? ああ……いやいや、そんなことは考えてないよ。ただ、少しばかり珍しいなと思っただけでさ」
「珍しい?」
「うん。まあ、こっちの話だよ。気にしなくていい」
曖昧で意味不明瞭な彼の言葉はともかく、早速本題に入ることにします。
「……いくつか、聞きたいことがあります。答えていただけますか?」
「うん。いいよ。なに?」
彼は何のためらいもなく、あっさりと返事します。
なのでヒイロは、直球で言葉を投げつけました。
「どうして、あの二人を殺したのですか?」
その言葉に、彼は少しだけ驚いたように目を丸くしました。
「驚いたな。クラスの連中から聞いたの? そんなの、根も葉もない噂だよ」
「違います。現場を見ていたのです。それに、咎めるつもりもありません。ただ、理解できないから知りたいだけです」
ヒイロはハムカツサンドを一息に食べきると、牛乳を使ってそれを喉の奥に流し込みました。
「……見ていた? ふうん。まあ、目撃者なんて大して気にもしていなかったし、そういうこともあるか」
自分の犯罪を目撃したとの告白を受けてなお、彼は普段の調子を保っています。誤魔化そうとか、目撃者の口封じをしようとかいった意図は、まるで感じられませんでした。
「でも、何が理解できないの?」
「この世界では……少なくともこの国では、人が人を殺すことは極めて非日常の出来事で、重大犯罪にあたる行為でもあるはずです」
「にもかかわらず、どうして殺したのかって? そんなの……」
ここで、ヒイロは彼の言葉を遮るように首を振りました。
「違います。原因と考えられる会話があったことも知っています。推測するに、あなたは彼らが自分に対し、殺意を抱いていると判断したのでしょう。つまりは『自衛』のため──それなら殺人の理由として、わからなくはありません」
ヒイロが言うと、彼は今度こそ驚愕に目を見開きました。
「殺人の理由がわかる? すごいことを言うね。いったい君は、何を知っているんだ?」
「それは後でお話しします。そもそも、彼らが自分を『殺す』と言ったところで、この国の社会環境の下で彼らが学生であることも踏まえて考えれば、ただの冗談である可能性が極めて高いはず。なのに、どうしてそう判断しなかったのかがわかりません」
ヒイロがそう訊くと、彼は何かを考えるように顎に手を当てました。
「……そうだね。一言で言うのは難しいんだけど……強いて言うなら『なんとなく』かな?」
「え?」
今度はヒイロが目を丸くする番でした。意味が分かりません。
「あいつらは僕を殺すと言った。死んだ方がいいと言った。生きてる価値が無いと言った」
「だから、殺した? 繰り返しになりますが、それが本気ではない可能性は……」
しかし、今度は彼がヒイロの言葉を遮るように首を振ります。
「違うよ。真意なんて関係ない。むしろ、関係ないから問題なんだ。だって……彼らのその言葉には、『まるで心が無いかのよう』じゃないか」
「心が無い? それはいったい……。いえ、それより『自衛』が目的でないのなら、やはり『復讐』が動機なのですか?」
「復讐? 別に僕は、彼らに恨みなんか抱いちゃいないよ。いや、違うか。……恨みで人を殺すほど、僕は『人間ができて』いないんだ」
「ヒイロには、意味が分かりません」
正直にそう言うと、彼は面白そうに目を丸くします
「へえ、君って自分のことを愛称で呼ぶんだ? なんだかそういうのって、アニメかなんかで見たけど、君みたいに可愛い子じゃないと似合わないんだろうな」
でも、口にしたのは関係のない言葉。やむなくヒイロは、質問を変えることにしました。
「他にもあなたは……自分の保身を重視していないように見えます。証拠も目撃者も無視した、無謀ともいえる殺害方法。刑事に対する反応も、怪しんでくれと言わんばかりのものでした」
「ああ、あの刑事たちか。……そうだね。いっそのこと、行方でもくらました方がいいかな?」
「それも無謀です。ヒイロが観察した限り、少なくとも今のあなたの能力は、標準的な学生の域を出ていません。ましてや、あなたは個人です。魔法でも使えない限り、組織には敵わないでしょう」
そして世界には、『魔法』など存在しません。世界の在り方のすべては、【因子】によって説明できるのですから。
「かもね。でも実のところ、僕は自分がどうなったっていいし、やりたいようにやるだけさ」
自暴自棄とも取れる言葉。
「殺人がやりたいことなのですか?」
「別に、僕は人殺しが好きなわけじゃない。それこそ、あの時までは、そんなことは思いもつかなかった。好き好んでやりたいってわけでもない」
「それにしては、随分楽しそうに撲殺していましたが……」
最初の犠牲者は、人気のない場所に呼び出された後、数十回にわたって執拗に鈍器のようなもので殴られていたはずです。
「そりゃあ、殴ってる最中は楽しかったさ。『三浦君』は僕がいくら止めて欲しいと言っても、笑いながら殴り続けてくるような奴なんだから」
彼は、そこで言葉を切ります。それからヒイロを見つめ、軽く肩をすくめてみせました。
「道を歩いてて、石につまずくことって……あるじゃん?」
「え? つまずく……ですか?」
意味が分からず、問い返すヒイロ。
「転んだら、痛いよね? でも、そこにある石には、心が無い。僕が勝手に転んだだけだ」
「……それが何か?」
「僕はね。そういうのが、いっとう嫌いなんだ。だからそんな時、僕はその石を──徹底的に粉々になるまで破壊する」
「…………」
それは、おぞましいまでの『例え話』でした。あの二人の命は、彼にとって『路傍の石』と同じだと言うのでしょうか。
彼は、自身の歪んだ言葉とは裏腹に、朗らかな笑みを浮かべています。
殺人に対する忌避感の欠落。それは人間性としては明らかな問題点です。
ヒイロは判断に迷いました。彼の存在は極めて貴重です。これだけの高い【因子感受性】なら、ヒイロの【因子干渉】によってどれだけの『可能性』が生まれるのか、想像もできません。
けれど、単なる狂人では不適格です。社会適応性が皆無であれば、ナビゲートする意味がない。ヒイロの『存在意義』には、対象に異世界で文化的な生活を営ませることも含まれているのです。
「それで君は、どうするつもりかな? 警察に話す? まあ、好きにしたらいい。どうせいつかは捕まるだろうし……こんなつまらない世界なら、学校も刑務所も似たような物でしょ」
無感情に言葉を続ける彼。ヒイロはその言葉に、反射的に首を振ります。
「ヒイロは、あなたを助けようと思っていました」
ヒイロの口を突いて出たのは、過去形での言葉。
しかし、その言葉を聞いた彼は、態度を急変させました。
「……僕を助ける? 君が?」
「え? はい」
念を押すような問いかけに、ヒイロは頷きます。すると彼は、幽鬼のようにゆっくりと、こちらに向かって距離を詰めてきました。
「なんで?」
それは、酷く冷たい声でした。ヒイロは、返答に窮してしまいます。助けると言っても、それは彼がマスターに相応しかった場合の話です。
ヒイロが沈黙を続けていると、彼は無表情のまま、軽く首を傾げました。意志の光さえ見えない黒々とした鏡のような瞳が、ヒイロを射殺さんばかりにまっすぐ捉えています。
「助けようと思って『いた』ってことは、今は助ける気が無いってこと?」
その言葉には、責めるような響きはありませんでしたが、何とも言い難い圧迫感を伴っています。
「……わかりません」
判断を下すには、何かが足りない。ヒイロはそんな思いから、曖昧な答えを返してしまいました。
「わからない……ね」
彼は、ぼそりと呟くようにこちらの言葉を繰り返し、小さく息を吐きました。
「……ありがとう。嬉しいよ。君は、僕のことを真剣に『考えて』くれているんだね」
その言葉と同時、彼はそれまでの無表情が嘘のように、満面の笑顔になりました。そしてそのまま、ヒイロの両手を掴みとり、真剣な目でこちらを見つめてきます。そんな彼に、ヒイロは戸惑い気味に言葉を返しました。
「で、でも、助けると決まったわけじゃ……」
「ううん。そんな必要はない。その気持ちだけで十分だよ。こんなにも優しい君を、危険や面倒事に巻き込むわけにはいかない。気持ちだけを受け取って、僕は警察に自首しよう」
「え?」
彼の口から飛び出したのは、信じられない言葉でした。
「ほら、犯罪者と二人きりで話していたなんて知られたら、君にも迷惑がかかるだろう? でも、僕が君に説得されて自首したことにすれば、そんな問題もなくなるわけだしね」
「な……」
思わず、絶句してしまいました。ヒイロには、あらゆる事象を解析する能力がありますが、それでも、人の『心』だけは解析できません。
ましてや先程まで殺した人間の命を軽んじる発言をしていた人物が、会ったばかりの他人のことを思いやり、そのために自分自身さえ犠牲にするような言葉を発したとなれば、これはもう……お手上げもいいところです。
支離滅裂にも程があるでしょう。大体、助けるも何もヒイロはその手段は愚か、それが真実であるという傍証さえ示していないのです。
「ど、どうして、そこまでヒイロのことを……?」
「そこまで?……何言ってるんだよ。こんなの、全然大したことじゃないさ」
「大したことじゃ……ない?」
ヒイロは……唖然とせざるを得ませんでした。彼の異常性、その根本にあるモノは、依然として理解できません。しかし、それでも見えてきたものはありました。
彼は、一言で言うなら『鏡』のような人間なのでしょう。それも、ただの鏡ではありません。
心無き者を映さず、他者の悪性を醜く歪めてさらけ出し、自己に向けられた善性を激しく過剰に反射する──奇想にして天外なる魔の鏡。
狂える鏡。震える魂。極端に大きく揺れる天秤。
あまりにも危ういバランスに生きる異常な少年。
「ああ……」
そんな彼を見て、ヒイロは全身が打ち震えるのを感じました。彼は恐らく、神にも悪魔にもなれるだけの素質を秘めています。けれど、ヒイロのサポートが無ければ、例えどこの世界にいたとしても、そう長くは生きられないでしょう。彼には、ヒイロが必要なのです。
ああ、ヒイロの『存在意義』が満たされる。この少年を導きたい。サポートしたい。付き添いたい。彼と一緒なら、何処までだっていけそうな気がする。
だから、ヒイロは問いかけました。
「あなたは……異世界に行ってみたくはないですか?」
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