第38話 惨劇の開幕
そのまま待つことしばらく。
すでに夜更け過ぎともいえる時間帯になってようやく、ヴィッセンフリート家の軍勢はその姿を現しました。青い月の光に照らされた平原に、整然と並ぶ鎧兜を身に着けた騎士たち。彼らは目的の建物を見つけるなり、その一部が騎乗用の生物から降りてこちらへと歩いてきます。
彼らがこれだけの兵力をそろえたのは、もちろん、『愚者』の群れの存在を考慮してのことでしょう。そのため、周囲に敵がいないことを確認した彼らは、屋敷に突入するメンバーを選抜したのかもしれません。
夜更けとはいえ空には雲一つなく、冴え冴えと輝く月の光は、彼らの行く手を塞ぐように立つマスターの姿をはっきりと浮き上がらせていました。
「む? なんだ、お前は。ここは危険だぞ。さっさと離れろ」
親切心のつもりか、厄介払いのつもりかはわかりませんが、騎士たちの一人がマスターに声をかけてきました。
「君たち、お嬢様を殺しに来たんだろ?」
単刀直入に問いかけるマスター。すると、騎士たちの間に動揺が走りました。
「な、き、貴様……どこでその情報を……!」
騎士たちは一斉に剣を抜き放ち、構えをとります。対するマスターは、『マルチレンジ・ナイフ』を抜きもせずに、両手を広げて言いました。
「よかった。今さら『助けに来たんです』なんて言われてもさ……僕としては殺す気満々だったし、困るところだったんだ」
「何を言っている? いいから答えろ! 貴様、どこの手のものだ!」
しかし、マスターはそれには答えず、ゆっくりと騎士たちの元に歩み寄っていきます。
「動くな! 動くと斬る!」
「まあまあ、いいじゃん。ところで君、ちょっとこの剣、貸してもらっていいかな?」
マスターは、威嚇の声を上げた騎士の目をのぞき込むようにして笑いました。
「え? あ、ああ、はい。すみません」
するとその男は、何を思ったかマスターに自分の長剣を差し出しました。
「お、おい! 何をしている!」
仲間の騎士が不審に思って声をかけたものの、時すでに遅し。
「ありがと。それじゃ、死んでね」
受け取るや否や、当の相手に切りつけるマスター。
「ぎゃあ! な、なんで……?」
首元から袈裟懸けに切り裂かれた騎士は、『なぜ自分がこの相手に斬られるのか理解できない』──そんな驚愕を顔に貼り付けています。
特殊スキル『鏡の国の遍歴の騎士』によって、仲間と敵を誤認したその騎士は、『信じた仲間に裏切られた』と最後まで信じたまま、絶命したのでした。
「き、貴様!」
「構わん! 殺せ!」
仲間を殺されたことで、残った十数人の騎士たちはマスターを完全に敵だと判断したのでしょう。一斉にマスターめがけて斬りかかってきました。
しかし、マスターは散歩でもするかのような気軽さで歩みを進め、自分に振り下ろされる斬撃を見つめています。
「わかってるんだか、本気なんだか、騙されてるんだか知らないけど……」
どうでもいいことのように、小さくつぶやくマスター。
マスターの周囲には、複数の鏡面体が出現していました。それはたちまち彼らの斬撃を飲み込み、その場にいた数名の騎士の背後に『合わせ鏡』を出現させます。『乱反射』する致命の刃は、攻撃してきた相手自身ではなく、その場にいた騎士たちをランダムに絶命させていました。
「どれにしたってお前たちには……『まるで心がないかのよう』だぜ?」
手に持った剣を持ち上げ、自分に斬りつけたままの姿勢で固まる騎士の一人を斬り殺すマスター。
「な、なんだ? 何が起こっている?」
「くそ! 後ろからか? だが、姿が見えない!」
たちまちパニックになる騎士たち。マスターはその間にも手近な敵に奪った騎士の剣で斬りつけ、絶命させていきます。結局、その場にいた十数名の騎士たちは、ものの数分で全滅したのでした。
明るい月明かりの下でのことです。当然、この様子は敵の本隊の目にもはっきりと見えていることでしょう。そして彼らの目には、若者が一人、騎士の小隊に素手で近づき、その武器を奪って全員を切り殺したように見えたはずです。
「……なるほど、だからあのナイフを使わなかったのか」
アンジェリカが感心したように言いました。『マルチレンジ・ナイフ』による攻撃は、強力な分、敵に『魔法』を使っているという印象を与えかねません。そうなれば敵の『法術士』に余計な警戒心を抱かれてしまう可能性があるのです。
「そう考えると、マスターはあれでも冷静なのかもしれませんね」
「……でも、なんだか怖いです」
ヒイロのつぶやきに、不安げな声で応じてきたのは、リズさんでした。
「マスターはきっと、あなたとエレンシア嬢のために戦っているのです。怖がるなとは言いませんが、それだけは理解してあげてください」
「……はい」
「……わたくしたちのため? そんな……そんなことのために、あの人は……たった一人であれだけの軍勢と戦おうとしていると?」
リズさんの返事に重なる形で新たに聞こえてきた声。ヒイロが横目で見た先には、エレンシア嬢が呆然とした顔のまま、マスターの後ろ姿に目を向けていました。
と、その時です。マスターから『早口は三億の得』による呼びかけがありました。
〈戦闘になれば距離が離れちゃうかもしれないから、先にひとつだけお願いしたいんだけど、いいかな?〉
〈なんでしょうか?〉
〈あいつら、変な生き物に乗ってるじゃん? あのままだと全滅させる前に逃げられちゃいそうな気がするんだ。足止めしておく手はないかな?〉
〈……そうですね。どうやらあの生物、マスターの世界でいう爬虫類に近いもののようです。リズさんに聞いた限りでは、このあたりは一年を通して温暖な気候のようですが……その分、寒くなれば動きが鈍くなるかもしれません〉
【因子演算式】によって、あたり一帯の気温を下げる。ヒイロがそう提案すると、マスターからは感心したような返事が戻ってきました。
〈気温を下げる? そんなことまでできるんだ? すごいね〉
〈いえ、それほどでもありません。本来はマスターの周囲を快適な環境に保つための【式】ですから、多少強化するにしても、下げられる温度には限度があります。それでも、あの大きさの爬虫類の動きを封じるには十分でしょう〉
〈じゃあ、頼んだよ〉
マスターの言葉を受けたヒイロは、敵の集まる一帯に向けて、【因子演算式】、《リフリジレイト》を展開しました。
急激に下がった気温は、生物を凍りつかせるほどのものではありませんが、温暖な気候に慣れきった彼らとその騎乗用生物の動きを鈍らせるには十分なものでした。
「あん、なんだ? 急に寒く……」
「くそ! エーガーが動かなくなりやがった!」
どうやら、あのトカゲのような騎乗用生物の名称は、『エーガー』というようです。急に膝を折るようにして座り込み、活動レベルを低下させたエーガーを叱咤する騎士たちですが、それでどうにかなるはずもありません。
「くそ! 構わん! どうせ敵は一人だけだ!」
「あの屋敷の『化け物』も、エーガーなどなくとも逃がすことはあるまい。降りて戦え!」
エーガーから降りることで、どうにか混乱を収拾した騎士たちは、陣形を改めて組みなおしています。前列に立つ騎士たちは盾を構え、二列の目騎士たちは弓を取り出してマスターに狙いを定めたようです。
〈うん。ありがとう。ヒイロ。これで確実に全滅できそうだ〉
〈いえ、大したことでは。しかし、エレンシア嬢たちを守るにあたって、敵を逃さず全滅させるというのは、どんな狙いがあってのことなのですか?〉
マスターの行動の意味を問うつもりはありませんが、『ナビゲーター』として適切なサポートを行うためには、彼の狙いをはっきりと確認しておく必要があります。しかし、ヒイロの問いに、マスターはよくわからない答えを返してきました。
〈守る? いやいや、皆の守りはヒイロにお願いするよ〉
〈え?〉
〈僕ってさ……実は結構、神経質な人間でね〉
〈神経質……ですか?〉
その言葉ほど、マスターに似つかわしくない言葉もないような気がするのですが……。
〈うん。『やる』からには、徹底的に、完膚なきまでに、粉々に破壊しなくちゃ気が済まない。ひとつでも取りこぼしがあるだなんて、『気持ちが悪い』じゃないか〉
〈…………〉
ヒイロが絶句しながら思い出したのは、かつての『たとえ話』でした。目の前の三千人の騎士たちは、彼にとって、たまたま躓いてしまっただけの『路傍の石』だというのでしょうか?
それを思えば、最初の斥候部隊との戦闘時にマスターが手の内を隠して騎士たちを殺していたのも、敵の『法術士』を警戒してというより、敵に逃亡されることを恐れてのことなのかもしれません。
しかし、マスターはこちらがそれ以上問いかけの言葉を続ける前に、『早口は三億の得』の有効範囲を飛び出して行ってしまいました。
「どうした、ヒイロ? キョウヤは何か言っていたのか?」
アンジェリカの問いかけを受けたヒイロは、無言のまま、彼女を軽く手招きします。
「ん? なんだ?」
背中の羽根をパタパタさせながら、歩いてくるアンジェリカ。
「いえ、アンジェリカさんならわかってくれそうですが……リズさんとエレンシア嬢の感動に水を差すのも悪いと思いまして」
そう前置きしたヒイロは、アンジェリカの耳元に顔をよせ、囁くように先ほどのやり取りを伝えました。
「……くくく。あははは! ああ、本当にキョウヤは楽しい奴だ。……ふふふ。このままだとわたしは本当に、あいつに惚れてしまいそうだよ」
「そんなことを言っている時点で、すでに惚れてしまっているのではないかと思いますが……」
楽しそうに笑うアンジェリカにそう言葉を返すと、彼女はぴたりと笑いを止め、意味深にヒイロを見つめてきました。
「そうかもな」
そう言ってアンジェリカは、金に輝く瞳を嬉しげに瞬かせました。
その熱のこもった視線の先には、騎士たちから放たれた矢の雨を静かに見上げるマスターの姿があります。
──しかし、この後ヒイロたちは、思い知ることになります。
『狂える鏡』こと、クルス・キョウヤと敵対するということが、どれほど恐ろしく、どれほど愚かで、そして、どれほど取り返しのつかない『間違い』なのかということを。
騎士たちとマスターの間でこれから始まる戦いは、『戦い』などと呼べるものではなく、もっと別の『何か』だったのです。
次回「第39話 悪夢に踊る狂える鏡」