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異世界ナビゲーション  作者: NewWorld
第2章 世話焼きメイドと箱入り娘
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第36話 多面鏡

 動きがあったのは、その直後のことです。


 マスターは周囲のバラが姿を消したのを確認すると、倒れた姿勢から一気に体を起こし、片手に長剣をぶらさげたまま、エレンシア嬢へと駆け寄っていきました。


「え? うそ!」


 マスターが死んだものと思っていた彼女は、完全に虚を突かれていました。彼の放った横薙ぎの剣閃は、驚愕に固まる彼女の肩から首元近くを横一文字に切り裂き、真っ赤な鮮血を散らします。


「きゃああ!」


 叫びながら、大きく後退するエレンシア嬢。しかし、その傷はほとんど瞬時に塞がってしまい、全くダメージになっていないようです。マスターが《ヒート》を使わずに切ったせいで、自分の身体から上がった血しぶきに驚いただけのようでした。


「く……あなた、息を止めていたのね? でも、無駄よ。永遠に呼吸をしないでいられる生物なんて、いるわけがないのだから」


 どうにか落ち着きを取り戻したらしいエレンシア嬢ですが、それも束の間のこと。


「ひっ……! な、な……そ、その顔……!」


 顔を青くして、怯えたように両手を口元に当てるエレンシア嬢。どうやら彼女は、マスターの顔を見て悲鳴を上げたようでした。


「ま、まさか! そ、そんなの……」


「なんだい? 僕の男前な顔にでも見とれているのかな?」


 マスターは『鼻声』のまま、軽い調子でエレンシア嬢に笑いかけています。


「く、狂ってるわ! じ、自分で……は、鼻を焼くなんて!」


 エレンシア嬢の声は、激しい動揺のためか、かなり上擦ったものになっています。しかし、無理もないことでしょう。


 ヒイロが倒れたマスターの生体反応を分析した際、彼の体内に『毒』の作用による身体機能の低下等は見られませんでした。代わりに確認できたのは、倒れた彼が『自分の剣で自分の鼻を焼いている』という事実だったのです。


 これを知った時、ヒイロは思わず悲鳴を上げそうになりました。

 確かに、焼くことによって鼻腔を塞ぎ、高熱によって一時的に嗅覚の働きを麻痺させるやり方は、手で鼻を押さえたり、呼吸を止めたりするよりは有効な手段ではあるでしょう。


 ですが……たとえスキル『痛い痛いも隙のうちフーリッシュ・マスター』の効果で痛覚が十分の一になっているとしても、あるいはその後の治療が容易であることが明らかだったとしても、……自身の鼻を焼け爛れるまで焼くなど、正気の沙汰ではありません。


「う、うああ……」


 エレンシア嬢は、間近に迫るマスターの顔を見ていられず、身体を震わせながら顔を横にそむけています。

 戦闘中にそんな隙を見せるのは自殺行為もいいところですが、マスターはそれ以上攻撃を仕掛けようとはしませんでした。


「うーん。箱入り娘のお嬢様には、刺激的だったかな? でもさ、エレンシアさん。君だって、人のことは言えないぜ?」


「え?」


「僕としては、そういう刺激的な恰好は大歓迎なんだけど、お嬢様としてはどうなのかな?」


 マスターに言われて、エレンシア嬢はそこで初めて気づいたとでもいうように、自分の身体を見下ろしました。

 戦闘開始直後からマスターの《レーザー》を受け続け、虫食いのように無数の焼け焦げた穴が開いたドレス。さらに先ほどのマスターの斬撃は、そのドレスとその下の肌着ごと首の近くを横一文字に切り裂いているのです。その結果、胸元の布地が大きく垂れ下がり、かなりギリギリのところまで彼女の胸があらわになってしまっていました。


「あ! きゃ、きゃああああ!」


 一瞬で顔を真っ赤に染め、両腕で胸を抱くようにしゃがみこむエレンシア嬢。彼女の身体の動きに合わせ、波打つ新緑の髪がふわりと揺れています。一方のマスターはといえば、そんな彼女から片時も目を離すことなく、ゆっくりと語りかけました。


「……ほら、わかっただろう?」


「あ、ああ……え?」


 腕で胸を隠したまま、マスターを見上げたエレンシア嬢ですが、その顔に残された凄惨な火傷を目にして、あわてて顔をそむけています。


「君の『外見』は、どこからどう見ても、とっても綺麗な女の子だ。じゃあ『中身』の方はどうかと言えば……自分の血しぶきに驚いたり、他人の酷い傷が怖くて見ていられなかったり、裸を見られて恥ずかしがったり……それが『女の子』でなかったら、何なんだろうね?」


「あ、あ、うう……」


 マスターの言葉を聞いて、エレンシア嬢の目からは、大粒の涙が溢れ出してきました。自分の身体を抱きしめたまま、彼女は小さく首を振っています。


「あ、当たり前じゃない。いきなり身体が化け物になったからって……心まで化け物になんて、なれないわよ……」


 先ほどまでとはうってかわった、か細い声でつぶやくエレンシア嬢。しかし、マスターは呆れたように首を振り、肩をすくめてみせました。


「おいおい、おとぎ話じゃないんだからさ。『身体が変わっても、心は変わらないわ』だなんて、子供じみた妄想はやめておきなよ」


「え?」


 彼女は、驚きで目を丸くしました。てっきり「君は化け物じゃない」と説得しようとしているのかと思われたマスターですが、それにしてはあまりにも意外な言葉です。


「僕が言いたいのは、そんなことじゃない。君の身体に付きまとう事実は、確実に君の心にだって影響を与えているんだからね」


「…………」


 マスターの言うとおりでした。今の彼女は、既に自身に武器を向けられることに対して何の恐れも抱いていないのです。それは決して、元の『貴族令嬢の心』ではありえないものでしょう。


「そもそも君という存在は、ただ一つの言葉だけをもって定義されるような……そんな薄っぺらいものなのかい?」


「う、薄っぺらい……?」


「そうさ。まあ、リズさんほどじゃないにせよ、胸の大きな女の子に向かって言う台詞じゃないんだろうけどね」


「な……何を言って……」


「言い方を変えようか。君は化け物で、だから……『化け物以外の何者でもない』のかな?」


 マスターは一言一言ゆっくりと、相手の心に沁みこませるように問いかけの言葉を口にします。


「そんな!……そんなわけ、ないじゃない! わ、わたくしは……今だって『女の子』だし……リズの主人……いえ、彼女のお友達だわ!」


 激しく首を振って叫ぶエレンシア嬢。


「そうかい。で、それだけ?」


 マスターは、少しだけ満足げな笑みを浮かべ、ちらりと背後にいるリズさんに目を向けたようでした。


「いいえ、それだけじゃないわ。こんな体になっても、心が元のままじゃなくても、わたくしは今もなお、誇り高きヴィッセンフリート家の令嬢なのよ!」


 力強く声を張り上げるエレンシア嬢。しかし、マスターはなおも、首を振ります。そして、優しく語り掛けるように言葉を続けました。


「エレンシアさん。まだ足りないよ。君のその言葉には……『まるで心がないかのよう』だぜ?」


「う、う、ああ……で、でも!」


 目に涙をため、大きく首を振るエレンシア嬢。けれどマスターは、容赦をしません。


「色々言ったけどさ……僕としては、君が『それ』を認めるのを待っているんだよ。……でなきゃ、他の何を君が認めても、意味がない」


「わ、わたくしは……」


「うん」


「……たとえ『いないもの』扱いされたとしても、うとまれて、恐れられて、閉じ込められても……、それでもわたくしは……わたくしを愛し、育ててくれた……お父様とお母様の……『娘』だわ。だから、もう一度、二人に会いたい! 会って、お話がしたい! お父様とお母様と笑いあえた……あの幸せな日々に、戻りたいの!」


 エレンシア嬢はとうとう、堤防が決壊したように泣き叫びました。


「そうだね。だったら君は……何も『間違って』いないよ」


 マスターはここで、ようやく満足げに頷きを返したのでした。


「あ……ああ! エレンお嬢様!」


 ヒイロはここで、リズさんの衣服にかけていた拘束を解きました。すると次の瞬間、リズさんは勢いよくエレンシア嬢の元まで駆けていきます。そしてそのまま、うずくまったまま泣き続ける彼女の身体を、力いっぱい抱きしめました。


「お嬢様! お嬢様!」


「ああ、リズ! ごめんなさい! 酷いことを言って、本当にごめんなさい! 本当は……怖かったの! こんな化け物になってしまったわたくしの身体を見て、あなたも……お父様やお母様みたいになってしまったらどうしようって……だから、あなたを遠ざけて……」


「いいんです。もう、いいんです! どんな姿でも、お嬢様がお嬢様でいてくださる限り、お嬢様はわたしにとって、唯一無二の大切な御方です。……そ、それに旦那様も奥方様も……時間さえかければきっと、わかってくださいます!」


「ええ、そうね。あなたがいてくれるなら……わたくしは……それをもう一度信じてみようと思う」


「……エレンお嬢様」


 青い月の光が降り注ぐバラ園の中央で、抱きしめあったまま泣きじゃくる二人の少女。マスターはそんな二人の姿を満足そうに見下ろしていましたが、やがて、ぐらりと身体を傾け、その場に倒れこみそうになりました。


「マスター!」


 ヒイロはとっさに【因子演算式アルカマギカ】でその身体を支えると、彼の元まで駆け寄っていきました。後ろからはアンジェリカもついてきているようです。


「ヒイロ! やっぱり、キョウヤの奴、エレンシアのスキルを受けたのか?」


 心配そうな顔で問いかけてくるアンジェリカに、ヒイロは首を振りました。


「いえ、これは……『痛い痛いも隙のうちフーリッシュ・マスター』が効果切れしたことを受けて、痛みと熱で気絶しただけでしょう」


 傷の治癒を促進するだけでなく、焼け爛れた組織を直接修復する【因子演算式アルカマギカ】を展開します。


「……自分で顔を焼いたのか? まったく、信じられないことをするな、キョウヤは……」


 ようやく状況を把握したアンジェリカは、呆れたように首を振っています。そういえば、アンジェリカにも身体を麻痺させる『毒』が作用していたはずですが……


 ヒイロが疑問の声を投げかけると、アンジェリカはきょとんとした顔で答えてくれました。


「ん? ああ、エレンシアのスキルだとか言っていた『毒』の話か? だが、そもそも『夜のニルヴァーナ』には、毒など効かん。むしろ、ほんの一時でもそんなわたしに効果を発揮した『ユグドラシルの毒』こそ大したものだと思うぞ」


「……生態として毒が効かないというわけですか? 『毒劇物耐性強化』のスキルもなしに? どんな身体構造をしているのか、一度改めて調べさせてもらいたいですね」


「わたしには、女に身体をまさぐられて喜ぶ趣味はないぞ?」


 的外れなことを口にするアンジェリカですが、ここで倒れていたマスターが勢いよく起き上がって言いました。


「だったら、男ならいいの?」


 まったく、なんという耳聡さでしょうか。いくら治療が終わったからと言って、この速度で起き上がって叫ぶなんて、つい先ほどまで気絶していた人とは思えません。しかし、対するアンジェリカの答えはと言えば……


「キョウヤなら考えてやらないではないが……」


「え? まじで?」


「それでわたしを満足させられなかったら、ただでは済まないぞ?」


「あはは……自信ないかも」


 なんとも危うい二人の会話に、ヒイロはなぜか耳を塞ぎたくなってしまいました。


「さてと……どうかな? リズさん。お嬢様を助けてあげるって約束、一応はこれで守れたことになるかい?」


 衣服に付いた土を払うようにして立ち上がり、エレンシア嬢と抱きしめあったままのリズさんに声をかけるマスター。それに気づいたリズさんは、そこでようやくエレンシア嬢から身体を離して立ち上がり、深々とマスターにお辞儀をしました。


「はい! 本当に……本当に、ありがとうございます! なんとお礼を言ったらいいのか……いえ、そもそもこの恩をどうやってお返しすればいいのか……」


「恩になんて感じなくていいんだよ。だって僕としては、メイドさんとここ数日、一緒に過ごせただけでもかなり幸せだったんだしね」


 ……前から気になっていましたが、どうしてマスターはこんなにも『女性の使用人』に対して奇妙な執着を抱いているのでしょう?


「ヒイロ、それはわたしも感じている疑問だが、……男というものは『そういうもの』なのかもしれないぞ」


「え、ええ……」


 意味が分かるような、わからないような言葉をかけてくるアンジェリカに、とりあえず頷きを返すしかないヒイロでした。


 それからマスターは、どうにか服を繕って体裁を整えたエレンシア嬢に視線を向けました。地面にぺたりと座り込んだままの彼女は、泣きはらした目のままでも十分に美しく、むしろ儚げに潤んだ新緑の瞳は、この世のどんな宝石にも例えようのない輝きを放っています。


「さっきは、うっかり心臓を撃ち貫いちゃってごめんね」


 そんな彼女にマスターが伝えた謝罪の言葉は、聞きようによってはとんでもない内容のものです。しかし、それを聞いた彼女の方はと言えば……


「……べ、別に、気にしてませんわ。あなたのしたことは……わたくしに、このことを気づかせるためだったのでしょう?」


 軽く頬を赤らめ、あらためて傷の治療を終えたマスターの顔を上目づかいに見上げていました。


「何のことかな? 僕としてはただ、君があんまり自分を卑下しているものだから、君がいかに魅力的で綺麗なお嬢様なのかってことを、教えてあげようと思っただけだよ」


 そう言って、にっこりと笑いかけるマスター。


「……そうですの。わかりました。そういうことに……しておいてあげますわ」


 エレンシア嬢は、頬を赤くして呆れたように首を振りました。


──それは、すべてを映す『多面鏡』


『女の子』としての彼女。

『化け物』としての彼女。

『リズさんの親友』としての彼女。

『誇り高き貴族令嬢』としての彼女。

そして、父親と母親に愛された『娘』としての彼女。


 結局マスターは、『彼女のすべて』を肯定することで、『彼女の悲劇』を否定してしまったのでした。

次回「第37話 届かぬ愛」

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