第32話 お嬢様の真実
「あー! 逃げられたー!」
アンジェリカは遠ざかっていく黒騎士の後ろ姿を見送りながら、悔しげに叫んでいます。
「まあまあ、アンジェリカちゃん。僕らの本来の目的を忘れちゃ駄目だよ。リズさんのお嬢様を助けに来たんでしょ?」
「う、ま、まあ、それもそうだが……」
もともとエレンシア嬢を助けることに関しては、マスターに乞われて仕方なく手伝うことになっていたはずです。しかし、リズさんに対してはアンジェリカも情が移っているのでしょう。彼女の名前を出されただけで、意外なほどすんなりと諦めたようでした。
ここでヒイロは、先ほどの戦いについて気になった点を一つだけ、マスターに聞いてみることにしました。
「ところで、マスター」
「なに?」
「あの黒騎士のことですが……」
しかし、ヒイロが最後まで言うのを待たず、マスターは頷きながら返事をしてきました。
「ああ、ヒイロもわかった? うん。僕もびっくりしたけど、たぶんあれ、女の子だよね」
「なんだと!? あれが、女なのか? それにしては随分な馬鹿力だったが……」
自分のことを棚に上げたアンジェリカが驚いて声をあげていますが、そのこと自体は声の違和感などから、ヒイロにもわかっていたことです。わからなかったのは、別のことでした。
「あの時、どうして《ナイフ》ではなく、素手で攻撃したのですか? あの間合いであれだけ隙だらけな相手なら、鎧の隙間でも狙えたのではないかと思いますが……」
「ああ、そうそう。それはわたしも気になったな。どれだけ肉体が頑健だろうと、鎧の内部から焼かれればダメージは免れないと思ったのだが……まさか、女だとわかって手加減したのか?」
ヒイロとアンジェリカから相次いで問いかけられ、マスターは軽く頷きました。
「そうだね。一言でいうなら……」
「はい」
「なんだ?」
彼の答えを待つように相槌をうったヒイロたちでしたが、返ってきた言葉は想像の斜め上を行くものでした。
「鎧の上からでも、『いける』かもと思ったんだ」
「え? 行ける、ですか?」
呆けたように言葉を返すヒイロ。
「うん。でもさすがに無理だった。さすがにあんなの、柔らかくもなんともないね」
「……柔らかく?」
おうむ返しに繰り返しながら、ヒイロは思い出します。マスターの掌底の一撃は、鎧騎士の『胸』に向かって繰り出されていたのです。
ちらりと横を見れば、同じことに思い当たったのか、アンジェリカの額に青筋らしきものが浮いて見えるようでした。
「う、ああああ! キョウヤのばか! わたしを差し置いて戦いを楽しんでただけならまだしも、そのさなかに敵の女の胸を触ろうとするとか……どこまで想像を絶するレベルの変態なわけ!?」
顔を真っ赤にして叫ぶアンジェリカ。ヒイロはそんな彼女の肩をいたわるように軽く叩き、振り向いた彼女に静かに首を振って見せました。
「アンジェリカさん。もういい加減、慣れましょう」
「あんたはあんたで、なにを早々と諦めてんのよー!」
キーキーと興奮気味に叫ぶアンジェリカは置いておくとして、ヒイロは改めてマスターに声をかけました。
「それではマスター。リズさんをお連れいたします」
「うん。よろしく」
ヒイロは《レビテーション》を使い、手早くリズさんを屋敷の近くまで連れてきました。
「そ、そんな……まさか、屋敷がこんなことになっているだなんて……」
アンジェリカの魔法によって焼け野原と化した平原に立ち、リズさんは衝撃のあまり身体を大きく震わせていました。
「い、いや、リズ? わ、わたしとしてはその……もう少し手加減しようと思ってたんだが……」
アンジェリカがしどろもどろに言い訳を始めましたが、リズさんがショックを受けたのは、周囲の平野が焼け野原と化したことではなかったようです
「まさか、あの『動く茨』が……こんなに成長しているなんて!」
屋敷全体を覆う緑の茨。棘の生えた茎と血のように紅いバラに覆われた屋敷の周囲では、ゆらゆらと『動く茨』がこちらの行く手を遮っていました。
「この茨、リズさんがここを出発する前はこんな風になっていなかったんですか?」
「は、はい……。確かに以前も茨そのものは屋敷全体を覆っていましたが、少なくとも『動く茨』はお嬢様の部屋の周りにしかなかったはずです」
「ふむ。『愚者』たちの来訪が、目覚めたばかりの『力』を活性化させたといったところかな」
マスターとリズさんの会話に、するりと言葉を挟み込むアンジェリカ。
「どういう意味だい?」
「ん? ああ、今まで迷ってはいたのだが、さすがにこれを見ては言わざるを得ないだろう。おそらく、リズの主人だというエレンシア嬢は……『王魔』だ」
「え? な、何を言っているんですか、アンジェリカさん。……お、お嬢様が『王魔』?」
呆けたような顔で、アンジェリカを見つめるリズさん。しかし、その顔は突拍子もないことを言われたことに対する驚きではなく、『言われたくない言葉』を言われてしまったことによる動揺に染められていました。
「認めたくない気持ちはわかるが、彼女自身も何か言っていたのではないか?」
「……そ、それは」
顔を悲しげに歪め、うつむくリズさん。すると今度はマスターが代わりに口を開きます。
「でも、アンジェリカちゃん。お嬢様は半年くらい前から『呪い』にかかったって言ってたじゃん。つまり、それまで普通の人間だったってことだよね?」
「ああ。しかし、だからこそだ。……六種の『王魔』の中には、まさにそれに該当しそうな特殊な種族がいる」
「特殊?」
「ああ。我ら『ニルヴァーナ』が天より落ちた貪欲なる『竜種』の末裔であるのに対し、『ソレ』は世界におけるすべての植物の祖『界種』を源流としている。だが、彼らは『末裔』なのではなく、後天的に『なる』存在らしい」
「すべての植物の祖、ね。なんだかスケールの大きな話になってきたけど……」
「難しい話ではない。簡単に言えば、ごくまれにだが……『植物に愛された人間』だけが、『ニルヴァーナ』にも匹敵しかねない力を持つ新たなる『王魔』──『ユグドラシル』に至る。……つまり、『そういうこと』だ」
アンジェリカは、リズさんに気遣うような目を向けながら言いました。
「……お、お嬢様」
声を震わせ、茨に覆われた屋敷を見つめるリズさん。絶望的な表情で涙を浮かべる彼女を前にして、アンジェリカもヒイロもかける言葉が見つけられませんでした。
しかし、ここでマスターは、そんな彼女に気軽な口調で声をかけたのです。
「じゃあ、どうします? お嬢様は人間じゃなくなっちゃったみたいだし、このまま帰りましょうか?」
「え?」
「ほら、今もおっかない『茨』が屋敷の周りをうようよ動いてるし、今さら『化け物』なんて助けても仕方がないでしょう? 大丈夫ですよ。リズさんのことなら、僕らがちゃんと養ってあげますから」
「な! キョウヤ! お前、何を言って……」
ここで声を荒げかけたのは、アンジェリカです。
しかし、その言葉が終わるより早く──バシン、とあたりに乾いた音が響き渡りました。
驚いて目を丸くするヒイロとアンジェリカ。二人の目には、涙を流したまま栗色の髪を振り乱し、右手を振り切った状態でマスターをにらみつけるリズさんの姿と、頬を赤くして顔を横に向け、それでもなお、嬉しそうに笑うマスターの姿が映っていました。
「い、いくらキョウヤさんでも、言っていいことと悪いことがあります! お、お嬢様は、お嬢様は、化け物なんかじゃありません! エレンお嬢様は……わたしの、大切な人なんです! 小さいころからいつも一緒で、優しくて、面白くて、うう……わ、わたしの大好きな人なんです!」
激情を吐き出すように叫ぶリズさん。マスターは横に向けていた顔を正面に戻すと、赤くなった頬を軽くさすりながら、彼女に向かって笑いかけました。
「じゃあ、やることなんて決まってるじゃないか。お嬢様が『王魔』だろうが何だろうが、関係ない。彼女の両親が彼女を化け物扱いして屋敷に閉じ込めようと、彼女自身が自分を化け物だと言って君を遠ざけるような言葉を吐こうと……君は彼女にその気持ちを伝えるべきだ。そんなの、簡単なことだろ?」
これまで、常にリズさんに対して使っていた敬語をやめ、マスターは幼い子供に言い聞かせるように語りかけています。これに対し、リズさんは驚愕に目を丸くしてマスターを見つめていました。
「……ど、どうして? どうして、それを?」
驚きのあまり、それ以上言葉にできない。そんな様子でリズさんは、マスターの顔を穴が開くほど見つめ続けています。
「リズさんの話を聞いてれば、大体のことはわかったよ。たかが半年で病気の娘を屋敷に閉じ込めて見なかったことにする親なんて、普通はいないでしょう? そんな状況になったからと言って、リズさんみたいに優しい人がお嬢様を屋敷に残して旅に出るなんて、おかしな話でしょう? だから、きっとそうなんじゃないかって思ったのさ」
「あ、ああ……う、うあああ!」
マスターの言葉を受けて、堤防が決壊したかのように泣き崩れるリズさん。
どうやら、マスターが言ったことはすべて真実のようでした。娘が化け物になったことを隠すため、離れの屋敷に閉じ込めた両親。自分の主人の変貌ぶりに恐怖しつつ、それでもなお彼女に尽くそうとした使用人の少女。親に見放され、自身の変貌に戸惑い、苦しみ、ついには無二の親友だった彼女さえも拒絶してしまった貴族の少女。
そしてリズさんは、そうした事実を受け入れられず、すべてを『呪い』のせいにして、目の前の現実から逃げ出した……。
「ハイラム様が見つかったところで、どうにもならないだろうことぐらい、わかっていたんです。……でも、それでも、わたしは……自分を騙してでも、お嬢様のために何かができると思いたかった! 愚かで、浅はかなわたしは、そんな理由をつけて、お嬢様の前から逃げ出してしまったんです!」
なおも泣き続けるリズさんの傍に、マスターはそっと屈みこみ、囁くように言いました。
「リズさんは、愚かでも浅はかでもないよ。だって、こうやって僕たちを連れてきてくれたんだから。だから……あとはもう、大船に乗ったつもりで任せてもらいたいな」
「キョ、キョウヤさん……。まさか、さっきの言葉は……わざと……?」
リズさんは泣くのをやめ、驚いたようにマスターの顔を見上げました。マスターは、涙に濡れた彼女の瞳を見つめ返し、軽く首をかしげます。
「ん? なんのこと?」
「……も、申し訳ありません! わたし、キョウヤさんにとんでもないことを!」
あわてて立ち上がり、必死に頭を下げるリズさん。
「いや、それこそわざとなんだから、気にすることないよ」
「そういうわけにはいきません。そんなに頬が赤くなって……。この償いは、絶対にさせていただきますから!」
「うーん。償いって言ってもねえ。……あ、そうだ。実は僕、リズさんにやってほしいことがあったんだ」
「なんでしょう? わたしにできることなら、何でもいたします!」
その言葉に、ヒイロとアンジェリカは顔を見合わせます。
「リズ! 駄目だぞ! その男にそんなことを言ったら、どんなセクハラまがいなことをされるか……」
「失敬だなあ、アンジェリカちゃんは。僕だって良識ぐらいあるさ。相手の弱みに付け込んで、そんな真似はしないよ。ただ……一度どうしてもメイドさんにやってもらいたかったことがあるんだ」
意味ありげにそういうと、マスターはリズさんの耳元にその『リクエスト』を囁きます。すると、それを聞いたリズさんが少し恥ずかしそうに頬を赤く染めたため、ますますヒイロとアンジェリカの不信感は増していったのでした。
次回「第33話 薔薇屋敷」