第28話 災禍の田園
それからヒイロたちは、立て続けに複数回の《転移の扉》での移動を行い、ようやくヴィッセンフリート家の屋敷にほど近い街へとたどり着きました。
ちなみに、あれほど《転移の扉》での移動を楽しみにしていたマスターですが、実際には《扉》をくぐっても向こう側に同じ施設があるだけでしたので、あまり嬉しくはなさそうでした。
「ああ、僕は、何て不幸なんだ。《扉》はつまらないし、リズさんにも嫌われちゃうし……」
『法学院』の施設を出て街を歩きながら、マスターはがっくりと頭を垂れています。
「い、いえ、キョウヤさん。そんな、わたし、別に嫌ってなんか……」
マスターのあまりの落ち込みようを見て、気の毒に思ったのでしょう。リズさんは慰めるように声を掛けています。しかし、その背後からアンジェリカが忍び寄り、マスターの身体を軽くリズさんの方に押しやった、その途端でした。
「きゃ!」
大げさに声を上げ、大きく距離を取るリズさん。マスターはますます傷ついたような顔になりました。
「や、やっぱり……前は『偶然』身体がぶつかったくらいで、そんなに嫌がられたりしなかったのに」
「す、すみません。その、つい……」
申し訳なさそうに言いながら、マスターに頭を下げるリズさん。
ところが、その直後には……
「でも、そうやって恥ずかしがるリズさんも可愛くて魅力的だし、これはこれでありかなあ……」
……ああ、せっかく彼女が同情してくれていたというのに、どうして自分からそれをぶち壊しにするのでしょうか、この人は。
などと、ヒイロは頭を抱えそうになりましたが、ここでリズさんは思わぬ反応を見せました。
「う……も、もう! キョウヤさんって、誰にでもそういう事を言うんですか?」
と、顔を赤くして問いかけたのです。
「嫌だなあ。そんなわけないですよ。今のところ、僕が魅力的だなと思う女性は、ヒイロとアンジェリカちゃんとリズさんの三人だけですからね」
女性にだらしがない男が言いそうな台詞ですが、困ったことにマスターの場合、これが掛け値なく本心らしいのですから始末に負えません。
「う……そ、そんなことを言われても、騙されませんからね……」
どうやら、リズさんは思った以上に男性に免疫がないようです。これまではお嬢様のことが心配でそれどころではなかったのでしょうが、屋敷に近づいたことで、多少は気が緩んできたのかもしれません。
「……デリアの件を見る限り、女に見境が無いわけではなさそうだが、なんとなく釈然としないな」
そんなつぶやきが、隣を歩く金髪の少女から聞こえてきます。もちろん、あの状況で色仕掛けに引っかかるようでは論外ですが、それは別にしても、あの時のマスターはあまりにも相手の美貌や性的魅力に無関心を貫き、無慈悲にあっさり彼女を殺害していました。
最初から『鏡の中の間違い探し』を使う気だったのだとしても、ためらいなく相手の心臓に短剣を刺すことは、それほど簡単な話ではありません。
「本当に、不思議な人ですね」
「そうだな。でも、面白いぞ」
そんな会話を交わしつつ街を歩いていると、突然、リズさんの名前を呼ぶ声が聞こえてきました。
「リズ! こんなところにいたのですか!」
走り寄ってきたのは、白髪が混じり始めた金髪の女性でした。恐らく五十代にはなっているでしょうが、その動作は機敏であり、体力的にも大きな衰えはなさそうです。
「メイド長?」
リズさんの返事の声を聞いて、ヒイロはとっさに過去のシミュレーションを想起しました。彼女は確か、屋敷の財産に手を付けて旅に出ていたはずです。そこにメイド長のような人物が現れたとなれば、状況は少し不味いかもしれません。このメイド長を無力化するのは簡単ですが、それが現在における最善手かは判断が難しいところです。
が、しかし──事態はヒイロのシミュレーションの想定範囲を遥かに超えるところにありました。
「す、すみません。メイド長。わたし……」
「と、とにかく、貴女が無事でよかったわ! てっきり、あの屋敷に取り残されているかと思って……」
「え?」
謝罪の言葉を口にしようとしたリズさんは、メイド長の思いもよらぬ言葉に、意味が分からず絶句しているようです。そのため、代わりにマスターがメイド長に問いかけます。
「屋敷に取り残される? いったい、何があったんですか?」
「え? あなたは……?」
怪訝な顔をするメイド長ですが、リズさんがヒイロたちは自分の恩人なのだと説明すると、深々と頭を下げてお礼を言ってくれました。
「いえ、大したことじゃないですから。それより、一体何があったんですか?」
「は、はい。実は……」
改めて繰り返すマスターの問いに、メイド長から返ってきた答えは……
──ヴィッセンフリート家が別荘の1つとして所有する屋敷は、現在、大きな異変に襲われていました。
かつては瀟洒な出窓や純白の板壁、朱塗りの屋根などが日に映えて美しい佇まいを見せていたに違いないその建物は、今やびっしりと緑の茨に覆われています。さらによく見れば、ところどころに真っ赤なバラも咲き乱れているようです。
「ああ……お嬢様!」
離れた丘の上から屋敷の様子を見つめ、泣き崩れそうになるリズさん。その身体をアンジェリカが支えてあげています。
「すごいことになってるね。こんなの、事前に聞いてた話からは想像できないよ」
呆れたようにつぶやくマスター。もちろん、リズさんからは、緑の茨に覆われた屋敷の話は聞かされていました。だから、それだけであれば、ヒイロたちも驚くことは無かったに違いありません。
ですが──その周囲を無数の『愚者』たちが取り囲んでいるとなれば、話は別でした。
「や、やっぱり……『愚者』の呪いだったんだわ。うう……エレンお嬢様……」
屋敷の周囲には、かなりの広範囲にわたって田園が広がっています。季節が外れているせいか、作物の実りこそないものの、今やその田園を蹂躙するように数百・数千の赤い一つ目の怪物たちが埋め尽くしているのです。
「……この状況、まさかとは思うが」
「アンジェリカさん? 何か心当たりでもおありですか?」
「わからない。だが、『愚者』どもがここまで大量に集まる理由があるとすれば……」
アンジェリカは、何かを思案するように顎に手を当てていましたが、結局は何も言わず、首を振って黙ってしまいます。
「よくわからないけど……『愚者』たちが屋敷を狙ってるのなら、エレンお嬢様を助けるには、こいつらをどうにかしなくちゃいけないよね」
マスターは、『マルチレンジ・ナイフ』を鞘から引き抜きました。
「まあ、不愉快極まる『愚者』どもを捻り潰すのに、理由など必要ないがな」
アンジェリカは懐から紅い宝石を取り出すと、『魔剣イグニスブレード』を出現させました。
「どうやら、『愚者』たちも『動く茨』のせいか、中々屋敷には近づけないでいるようですね」
ヒイロの各種センサーは、目の前の状況を正確に観測しています。
まず、集まっている『愚者』たちの姿ですが、これは大きく分けて三通りありました。
最も数が多いのは、子供ぐらいの背丈をした人型の化け物です。真っ黒な皮膚。顔の中央には、巨大な真紅の瞳。生理的嫌悪感を催すような不気味な外見をしています。彼らの手には、捻じ曲がった黒い鉤爪のようなものが生えていました。アンジェリカいわく『禍ツ餓鬼』という種だそうです。
その数、およそ二千匹。最前線にいる彼らは、動く茨に黒い鉤爪を叩きつけていますが、次々に再生する茨に絡みつかれたり、殴り飛ばされたりを繰り返しており、屋敷の中へと侵入することはできずにいるようです。
次に多いのは、六本足の巨大な獣です。全身が黒い剛毛に覆われたその化け物の背中からは、二本のトゲ付き触手が生えており、ゆらゆらと揺れています。巨大な隻眼の下に付いた口からは、だらだらとよだれが垂れていますが、地面に落ちるなり、シュウシュウと音を立てています。どうやら、強酸性の体液のようでした。アンジェリカいわく『災禍ノ獣』と呼ばれる、これまでの連中より一ランク上の『愚者』だそうです。
その数、およそ百体。ぎょろぎょろとした真紅の隻眼を輝かせ、不気味なうなり声を上げています。
そして、最後にたった一体だけですが、特にヒイロの目を引いたのは、大群の中央にある『人影』です。『災禍ノ獣』のうちの一体の背の上に立つその人影は、これまでの化け物とは違い、少なくとも外見的には人間と区別がつきません。
背中には禍々しく歪んだ形の巨大な大剣を背負い、特に何をするでもなく、腕を組んで魔獣の上に立つ鎧騎士。しかし、黒い鎧には金の縁取りが施されてこそいますが、どことなく使い古したもののようでもあり、背中の大剣ほどの不気味さは感じません。
「……ですが、あの騎士にも『愚かなる隻眼』があるようです。兜の下から、他の『愚者』たちが放っているのと同じスペクトルの光が洩れているようですから」
「じゃあ、あの『禍ツ餓鬼』って奴と同じで、たまたま人間によく似た姿をしてるだけなんだ?」
「その可能性は高いでしょうね」
言いながらも、ヒイロの心には一抹の不安がありました。距離があるせいもありますが、あの『黒騎士』の立ち姿からは、他に何の情報も読み取れなかったのです。
「アンジェリカちゃんは、あいつの名前とか知らないかい?」
「いや、知らん。……だが、あやつは別格だな。雰囲気がまるで違う」
「別格ね。っていうか、『愚者』って動物みたいなもんだと思ってたけど、鎧とか着るものなんだね」
「さあな。『愚者』の生態には不明な点が多い」
投げやりな言葉で肩をすくめるアンジェリカ。しかし、その直後に続けた言葉は、驚くべきものでした。
「ただ、わかることがあるとすれば……『王魔』が生まれる時には、奴らはこうして、意味もなく群れをなして集まってくる習性があると言うことぐらいだな」
……王魔が生まれる?
ヒイロはその言葉を聞いて、自分の耳(集音センサー)を疑ってしまったのでした。
次回「第29話 大事な身体」