第2話 彼の観察記録
最初に彼を見たとき、ヒイロは彼のことを、『生まれてきた世界を間違えた人間』だと思いました。
未だに【因子】の存在さえ発見できない程度の文明世界。そんな場所に、これまでヒイロが見たこともないほど【因子感受性】が高い人間が生まれてしまったのですから。
けれど、観察を続けるうち、ヒイロは気付きました。
彼は、ヒイロが初めに考えていたより、遥かに『異常』な存在だったのです。
──その日の朝、彼は自分で作った朝食を食べ終えた後、いつもと同じ時間に家を出ました。
日本と呼ばれるこの国では、ごく一般的なブレザータイプの学生服。それを特に着崩しもせずに正規のスタイルで着こなす彼は、通学路の途中で一人の老婆が信号待ちをしていることに気付きます。
老婆の足元には、重そうな荷物。
その目の前には、長い横断歩道。
「おばあさん。向こうまで行くのなら、荷物をお持ちしましょうか?」
彼は全くためらう素振りを見せず、にこやかに善意をもって老婆に申し出をします。
しかし、彼女はそうした気遣いを侮辱と感じるタイプの人間だったようです。
「結構ですよ! この程度、重くもなんともありゃしない」
ぷいと横を向く老婆。気まずい空気がその場に漂いました。
この世界、この国の人間たちの行動傾向から考えれば、こうした場面では、ばつの悪い思いを感じつつも諦めて立ち去るのが標準的な態度だと思われます。
しかし、彼は傷ついた様子もなくその場に残り、信号が青になった瞬間──
「よいしょ」
と軽い掛け声とともに老婆の荷物を掴み、そして……交差点を一気に駆け抜けたのです。
「ああ! ど、泥棒!」
慌てた老婆は、横断歩道を走って彼を追いかけます。しかし、彼は横断歩道を渡りきったところで、何事もなかったようにその場に荷物を置きました。
「うう……はあ、はあ、はあ……」
激しい息切れに胸を押さえつつ、荷物に手を置く老婆。この老婆の加齢の状況や体力から分析する限り、今の出来事で彼女の心身にかかった負担は並々ならぬものがあるはずです。しかし、そんな老婆に対し、彼はにこやかに笑って言いました。
「大丈夫ですか? 歳も歳なんですから、急に走ったりしたら危ないですよ」
「な、なな……!」
愕然とする老婆を尻目に、彼は鼻歌でも歌い出しそうな軽い足どりで歩き出します。
後には、明らかに自分で荷物を持って渡るより、余計に疲労したに違いない老婆の姿が残されていました。
一歩間違えれば窃盗犯として逮捕されかねない行動をとった挙句、老婆の体力を余計に消耗させる結果をもたらした彼の行動。その意味が、ヒイロにはわかりません。
これが自分の親切を断られたことへの『意趣返し』だというのならば、まだわかります。しかし、彼が老婆にかけた言葉には、皮肉やからかいの気配は微塵もなく、本心から彼女の身を労わっているようにしか見えませんでした。
当人にとっては心からの善意でありながら、それが対象にとっての害悪となることなど、人の社会では珍しくもないでしょう。しかし、なぜかヒイロは、この取るに足らない日常の出来事の中に底知れない『深淵』を見たような気がしたのでした。
そして、ヒイロが彼の異常性に気付いた、最たるものが……。
「おはよう」
彼は学校の教室に入るなり、大きな声であいさつをしました。
しかし、返事はありません。皆、薄気味悪いものでも見るような目で彼に振り向き、そして気まずそうに視線を逸らします
「おや? 倉崎君。元気なさそうじゃん。どうかした?」
彼はそんな教室内の反応など気にも留めず、歩きながら手近な席に座る男子生徒に声をかけます。
「……べ、別に何でもないよ」
眼鏡をかけた大人しそうな男子生徒は、びくびくしながら小さい声で答えました。
「そう? まあ、『嫌な役目』を皆から押し付けられれば、さわやかな気分ではいられないだろうけど……」
気の毒そうな顔で彼が言ったその瞬間、室内に不可視の波紋が広がりました。教室中の生徒たちが、揃って動揺の気配を見せたのです。
「……う、うああ」
一方、『倉崎君』は顔面を蒼白にして震えています。『倉崎君』が怯えた瞳を向けた先には、にこやかに笑う黒髪の少年の姿がありました。しかし、彼の恐怖の対象は、少年の人形のように整った顔そのものではなく、そこにはめ込まれた感情の見えない双眸──底なしの沼のようでありながら、すべてを映す鏡のような黒々とした瞳でした。
『倉崎君』はその瞳の深奥に、何か恐ろしいものでも見たかのように激しく首を振っています。
「な、なんで!?」
「なんでって……そんなに怯えた顔をしてれば誰だってわかるさ。ちなみに自覚があるか知らないけどさ……君、皆の『実験台』にされているんだぜ?」
彼は楽しげに笑って『倉崎君』の肩を軽く叩いた後、最後列にある自分の席に向かいます。
椅子の上にテープで張り付けられたカッターの刃を剥がし、机をひっくり返して裏についていた同じものを取り除き、引き出しの中身を床にぶちまけ、中に入っていたガラスの破片を避けるようにしてその他の物を拾い上げ、引き出しの中に戻す。
その一連の作業をまったくためらうことなく、当然のようにこなしていく彼。
「ああ、そうそう。皆も心配しなくていいよ。ここにいる倉崎君は……三浦君のように自殺することもないし、萩原君のように交通事故に遭うこともないし、秋山さんみたいに精神病院に入院することもない。これからも元気に、長寿を全うするんじゃないかな?」
わざとらしく言いながら彼が見渡す教室には、空席が三つあります。そのうち二つには、花瓶が置かれていました。
「う、うああああ! 来栖君! ご、ごめん! ごめんなさい! 許してください! 僕が、僕が悪かったんです!」
悲鳴を上げて立ち上がり、彼に向かって土下座を始めたのは、先ほどの『倉崎君』でした。
「おいおい、何を謝っているんだい? いや、何を誤っているのかな? 言っておくけれど、あの三人が『どうにかなった』のは、別に僕のせいなんかじゃあ……ないんだぜ?」
笑いながら語る彼──クルス・キョウヤは、殺人者です。当然、この世界では、『殺人』は極めて重大な犯罪行為であり、彼は捕縛され、罰せられるべき立場にありました。
ヒイロはこの数か月間、気配隠蔽用の【因子演算式】、《ステルス・チャフ》を使用して彼の行動を監視し続けていました。だからこそ、ヒイロはここに断言します。
一言で言えば、彼は頭がおかしい。少なくとも、この世界、この時代に生きるべき思考回路の持ち主ではありません。一人目の自殺(頭蓋骨の粉砕骨折による死)、二人目の事故(不自然な姿勢による轢死)のほか、三人目の精神の病(恐怖による錯乱状態)についても、彼のやり口は異常で、それでいて無謀でした。
殺人の理由。それもまた、ヒイロにはわかりません。
執拗に繰り返される暴力。恐喝による金銭の収奪。集団心理を利用した辱め。いわゆる『いじめ』と呼ばれる行い。クラスの生徒たちは、それこそが彼ら三人が『どうにかなった』ことの理由だと思っています。
けれど多分、それは『誤り』……否、『間違い』でしょう。
──ヒイロの記憶では、その日も『三浦君』は校舎の裏に彼を呼び出し、殴る蹴るの暴行を加えていました。
『萩原君』は殴られて倒れた彼に石を投げつけ、『秋山さん』はその様子を動画に撮影しながら楽しそうに笑っています。
「くそが! てめえ、むかつくんだよ! 殴られてんだから、もっと泣きわめくとかしろよ! 無表情でクールでも気取ってるつもりか。ええ?」
「殴られても声一つ上げない僕、かっこいい! ってか? なあなあ、美香ちゃん、あいつ、かっこいいと思う?」
「えー? きもーい! きゃはは!」
いつもと変わらぬ、そんな光景。
「いてて……。痛いなあ。……もう、やめてくれないか? 僕だって痛いんだ」
唇の端に血を滲ませながら、彼は無表情につぶやきます。
「うわあ……。今の聞いたか? 僕だって痛いんだ、だとさ! 気取ってんじゃねえよ、バーカ!」
『萩原君』は、尻餅をついた彼に石を投げつけました。
「うあ! ……ったいなあ。僕には正直、何が楽しくて君たちがこんなことをするのか、さっぱりわからないな」
投げつけられた石をかろうじて腕で防ぎ、どこか呆れたようにつぶやく彼。しかし、彼のそんな言動は、ますます少年たちを苛立たせます。……いえ、よく見れば、彼らは『苛立って』いるのではなく、『怯えて』いるのでした。
彼らの恐怖の対象は──何の感情も見てとれない漆黒の瞳。
「だ、だから、……そういうスカした態度を止めろって言ってんだよ! 気持ちわりい目でこっち見んな! ぶっ殺すぞ、てめえ!」
果てない闇のような瞳を向けられ、わけのわからない不安に駆られた『三浦君』は、自分の命運を左右する一言を口にしました。
「……殺す? 君が僕を? ……ふうん」
驚いたように目を丸くする彼。いつもと違う彼の反応に気を良くした『三浦君』は、ますます致命的な状況に自らを追い込んでいきます。
「その陰気くさいツラを見るのも飽きたしな。マジで殺っちまうか?」
「はは! いいんじゃねえの? 三浦君が手加減抜きでワンパン顔面にぶちこんでやれば、そいつ、死ぬかもよ?」
『萩原君』は腕力自慢の『三浦君』に取り入ることで、自らの学院内での『安全』を確保しているつもりのようです。それ自体は生存戦略としては賢いものだけれど、この時の選択としては完全に『間違って』いました。
彼はこの学校で……否、この世界で『最も敵として向かい合ってはいけない存在』を相手にしていることに、気付いていなかったのです。
「……萩原君も、僕の死を望むのかな?」
「ああ? 当たり前だろうが。お前みたいなクズ、死んだ方が世のためだぜ」
「死んだ方が世のため……ね」
何かを考えるような仕草をする彼。
「じゃあ、秋山さんは?」
「きもいから話しかけんなって言ってんでしょ? 知らないわよ。あんたなんか、生きてる価値、無いんじゃない?」
自分が撮った動画を携帯端末で再生しながら、適当に返事する『秋山さん』。結果的には、彼女の言葉の『表現』は、彼女自身の首の皮を一枚つなげるものとなりました。
「……心無い『殺意』って奴は、なんとも気味が悪いものだね」
そのつぶやきは、ヒイロ以外には聞き取ることのできないものでした。
次回「第3話 美少女転校生」