第173話 世界を護る聖母
あるべき場所へ帰る手伝いができる──『マザー』の言葉の意味するところは、彼女には、この世界からの世界間移動を実現する力があるということです。
「よかったね、ヒイロ。これで僕らの懸案事項がひとつ、解決したんじゃないかい?」
「ですが、マスター。彼女の話を鵜呑みにするわけにはいきません」
実のところ、この世界の特殊性ゆえか、どれだけわたしが超時空転移装置を作動させようとしても、そもそもの亜空間内における現在座標さえ把握できないのです。彼女の言葉に従って、うかつに世界移動などを試みようものなら、無限の亜空間内で永久に漂流させられる恐れさえありました。
「まあ、そうだね。ってことで、彼女の話をもっとよく聞いてみようか」
マスターはそう言って、石造りの通路の奥──何も見えない闇の先へと視線を向けました。
〈ヒイロさんの心配ももっともですが、『わたくし』は、いわばこの世界そのもの。なまじ『女神』と同化していた時期があったが故に不完全な知識しか持ちえなかった『法王』とは違います。わたくしは真の意味で、この世界のすべてを知るものなのです〉
「残念ながら、そういうことを言っているわけではありません。わたしは次の2点から、あなたの提案には問題があると言っているのです」
なおも友好的な声音で語り掛けてくる『マザー』に対し、わたしは撥ねつけるように言い返しました。
〈……その2点とは?〉
「ひとつは、貴女がいかに『この世界』のことを知っていようと、【超時空転移】による世界間移動技術に精通しているわけではありません。はっきり言ってしまえば、ド素人もいいところでしょう」
「貴様! 母様に向かって何という口を!」
〈ぷーちゃん。いいから黙っていてください〉
「うう……」
あらためて『マザー』にたしなめられ、うなだれるプロセルピナ。どうやら本当に彼女の呼称は、『ぷーちゃん』で定着してしまいそうでした。
〈……それでも、貴女の知りたいことを教えることはできると思いますよ〉
「残念ですが、わたしは既に、自らの力で知りたいことを知る力を得ています。たとえ時間がかかっても、わたしはそれを独力でなしえるでしょう」
〈……だとしても、効率的に知識を得られるなら、それに越したことはないでしょう? わざわざ無駄に時間をかける必要もありません〉
「ですから、ふたつめです。……そもそも、わたしたちが貴女の言うことを信じる理由がありません。貴女が口で何を言おうと、貴女の部下がわたしたちを攻撃してきていた事実は変わらないのですから」
〈なるほど〉
「……うう、母様、申し訳ない」
納得したような『マザー』の声と消え入るようなプロセルピナの声。マザーは特に彼女を責めるような様子を見せてはいませんが、それでも彼女は自身の独断専行を恥じるように身を縮こまらせていました。
〈ならば……まずは、あなたたちに『わたくし』を信じていただく必要があるということですか〉
「それもいいけど、その前に教えてもらえないかな、マザーさん」
〈……なんでしょう? キョウヤさん〉
マスターの問いかけられた途端、声に警戒の色をにじませる『マザー』。自身を指して『世界そのもの』だと言ってしまえるようなモノにとってさえ、クルス・キョウヤという存在は、油断ならない相手ということなのでしょうか。
「さっきあなたは、僕たちは元の世界へ、ううん……『あるべき場所』へ帰るべきだって言ったよね?」
〈そうですね。あらゆる『知性体』は本来、自らが生まれた世界で生きるべきなのです。それが叶わないにしても、あなたたちにとってあまりにも『異質』なこの世界に、あなたたちが留まり続けることは、世界とあなたたち、双方にとって良いことではありません〉
「なら、『女神』や『法王』、『王魔』たちはどうなの?」
〈彼らはすでに手遅れです。『法王』は既に滅びましたが、罪深き『女神』は、これから『わたくし』が滅ぼすしかないでしょう。……故郷を失った哀れな『王魔』たちも、いずれは『わたくし』が正しく生み直してあげます〉
「……もし、僕らが帰りたくないと言ったら?」
マスターがそう言った瞬間、周囲の空間が劇的な変化を見せました。
「あ、う!」
プロセルピナとヴァナルガンド、そしてメルティの三人は、闇の奥から放たれる圧倒的なプレッシャーを受け、顔を青くしてその場にうずくまってしまいました。
「メルティ? しっかりしてください」
わたしは、苦しそうに胸を押さえる彼女の元に駆け寄ろうとしました。しかし、その直前、わたしは、『愚者の聖地』にはありえないはずの濃密な【魔力】の存在に気づきました。
「これはまさか……大法学院で『女神の亡霊』が出現したときと同じ?」
「どうやら三人は、【魔力】の無効化が追いつかなくて苦しそうにしているみたいだね」
マスターはそう言いながら、今もひたすら通路の闇の奥を見据えています。おそらく、この通路は見せかけのものでしょう。たとえ声のする闇の方へと歩いて行ったとしても、延々と同じ景色が続くだけであり、どこかに『通じている路』ではありません。
〈クルス・キョウヤ。歪んだ魂を持つものよ。あなたの歪みは、本来、一面的にしか捉えられないはずの『世界』というモノを、多面的に映し出している。無限の鏡像を生み出し、あらゆるものを飲み込み、それでいて、何一つ正しいものを映し出さない。残念ながらその性質は……『ひとつの世界』が受け止めきれるものではないの〉
どこからともなく響く『マザー』の声は、それまでの友好的な響きが消え、悲しみの感情を色濃くたたえたものになっていました。
「まわりくどい言い方はよしなよ。だからあなたは、僕を排除したい。そういうことだろう?」
マスターは既に『マルチレンジ・ナイフ』を構え、闇の奥へとその刃を突きつけていました。
「マスター。彼女と戦うおつもりですか?」
「彼女があくまで僕を排除するつもりならね。……ヒイロは反対かい?」
戸惑い気味に問いかけるわたしに対し、マスターはこちらを振り向きもしないままに尋ね返してきました。……しかし、わたしの答えなど最初かから決まっています。
「いいえ、マスターの御心のままに」
「うん」
予想通りだと言わんばかりに、満足げにうなずくマスター。
「それと……わたしもこいつのことは気に入りませんでした」
「え?」
予想外だとばかりに驚きをあらわにし、こちらを振り向くマスター。
わたしは彼に、にっこりと微笑み返します。
「わたしは、マスターの【ナビゲーター】なんですよ?」
「……あはは。そうだね。そのとおりだ。聞くまでもなかったよ」
マスターはとても楽しそうに肩を揺すって笑いました。
〈『わたくし』は、この世界を護りたいだけ。どうして、それがわからないのですか?〉
「僕は自分の好きな人たちがいる、この世界にいたいだけだ。どうして、それがわからないのかな?」
意趣返しのように、同じ調子で言葉を返すマスター。
〈ですから、それは……〉
「僕らが君の何が気に喰わないのか、教えてあげようか?」
〈え?〉
「君のその『上から目線』だよ──《レーザー》」
言葉と同時、マスターは『マルチレンジ・ナイフ』のレーザーを闇に向かって発射します。当然、何の手応えもなく、不可視の熱線は闇の中へと消えていったようでした。
しかし、攻撃としての手応えはなくとも、行動としての意味は大きかったようです。『マザー』が激しく動揺する気配が伝わってきました。
〈これだけ『わたくし』の【魔力】の濃度を上げたというのに、どうしてそんな真似が……?〉
「語るに落ちたね、『マザー』さん」
〈え?〉
「そもそも、最初からやり方がまずいでしょ。僕らは『法王』とも接触しているんだぜ? 君がさっき、ヒイロに《知識の天秤》を仕掛けようとしていたことぐらい、わからないはずがないじゃないか、ねえ、ヒイロ?」
「ですね」
わたしに対し、しきりに『知識』を教えようと持ち掛けてきた彼女の言動。そして、ここに来る前にマスターが推測していたとおり、『絶禍の愚者』たちで構成される『七人の御使い』の七番目が『法王』と『女神』の鏡像であるとするならば、それは当然考えられてしかるべき可能性でした。
「決定的だったのは、コレだけどね。ヒイロには《知識の天秤》が効かないし、僕は僕で早々に拒絶の意思を示してくるしで、大分焦ったんだろうけど……自分の娘・息子であるはずの三人まで巻き添えにして、『女神』の【魔力】でこちらの動きを封じようなんて、やりすぎってもんだぜ」
〈……何を言われようと、『わたくし』は世界を護る聖母。世界が滅びるかもしれないというのに、この世界に居座ろうとするなら、あなたたちは紛れもなく、世界の敵です〉
『マザー』はそう言うと、『女神の亡霊』とは比較にならない凶悪な濃度の【魔力】を叩きつけてきました。炎や電撃のような物理現象を引き起こすような『魔法』ではないものの、その分だけ精神への作用は甚大なものがあり、まともに受ければ心を壊され、廃人にされること必至だったでしょう。
が、しかし──
〈……なぜです? なぜ、『わたくし』の【魔力】が……〉
驚愕に声を震わせる『マザー』。そんな彼女に、マスターは両手を広げ、肩をすくめて語り掛けます。
「僕を相手にするつもりなら、僕の【スキル】のことぐらい、把握しておかなきゃね。ミズキさんも完全ではなかったけど、そうしていたはずなんだけどな」
〈……あなたの能力は、『わたくし』も承知しています。だからこそ、単純な攻撃ではない【魔力】による精神支配を選んだはずなのに……〉
「じゃあ、聞くけど……【魔力】ってさ。『鏡』に映らないと思うかい?」
〈え?〉
もし、彼女に目があるのなら、その視界には、宙を舞う無数にきらめく『鏡』の欠片が見えていたことでしょう。
〇特殊スキル
『合わせ鏡の一兵卒』
任意に発動可。視界に存在する鏡に映った対象の『存在』を劣化させる。劣化の程度は映る鏡の枚数・面積が多ければ多いほど激しくなる。ただし、生体そのものには無効。
あたりの空間を埋め尽くす『鏡の欠片』はもちろん、わたしが【因子演算式】で生成したものです。
〈【魔力】が鏡に映る? あなたは何を言って……〉
まともに理解させるつもりもないのか、マスターの言葉は、ほとんど説明らしい説明になっていません。
仮にここで、『鏡に映る魔力』が何を意味するのかを解説するならば、『概念的な解釈』ということになるでしょう。つまり、マスターの『瞳』に映るものであるなら、たとえそれが光を反射しないものであっても、『彼の視界の鏡』には映っているということになるのです。
一方、マスターはメルティに目を向け、申し訳なさそうに声をかけていました。
「メルティ、大丈夫かい? すぐに助けてあげられなくてごめんね」
「ううん。大丈夫。キョウヤのおかげで楽になったし、二人も大分、回復したみたいだよ?」
場に満ちた高濃度の『魔力』に苦しんでいたメルティですが、彼女は既に立ち上がり、プロセルピナとヴァナルガンドに光り輝く両手の『隻眼』を向けています。
〇メルティの特殊スキル
『艶やかなる魔性の瞳』
曇りなき瞳で鏡の奥を覗き見る心の形。自分と視界内に存在する『愚者』が持つ『愚かなる隻眼』に、『魔力』を吸収して生命力に変換する能力を付与する。
「力が……みなぎってくる?」
「なんだ? これはいったい……」
よく見れば、メルティを含む三人の『愚かなる隻眼』はその輝きを赤から青に、微妙に明滅を繰り返しているようでした。
「無効化するのは大変だけど、吸収して自分の力にできるなら、少しくらい量が多くても何とかなるよね?」
自身の身体の変化に驚く妖精騎士と餓狼の戦士の傍に寄り添い、二人が立ち上がるのを助ける世界蛇の少女。
「……母様。どういうことです? なぜ、あなたが……『魔力』などを? あなたは、我ら『愚者』の母ではなかったのですか?」
メルティに助けられて立ち上がりながら、呆然とした顔でつぶやくのは、プロセルピナでした。
「プロセルピナ。お前もわかっていたはずだろう。彼女は『女神』と『法王』を元にして生まれた『御使い』だ。元が世界に匹敵する知的生命体である分だけ、もっとも我らが母に近い性質を持ってはいるが、それでも単体では『母上』そのものではない。ゆえに、彼女自身はその気になれば……『女神』の力も行使できるのだろう」
「馬鹿なことを言うな! ヴァナルガンド。『使える』ということと、『使う』ということは、大きく違う! 彼女はこれまで、その『一線』だけは超えていなかった。だからこそ! わたしは彼女を母様だと……」
諦めたようなヴァナルガンドの発言に、プロセルピナは激しく反発しますが、自身の言葉のむなしさに気付いたのでしょう。彼女の言葉も最後までは続きませんでした。
〈ヴァナルガンド、プロセルピナ。『わたくし』は世界を護る聖母です。『わたくし』はあなたたちを愛しています。だからこそ、『わたくし』は……この世界のため、クルス・キョウヤをこの世界から排斥するため、今ここで、『わたくし』の持ちうるすべての力を使うのです〉
「壊れたラジオみたいに、同じ言葉を繰り返すのはよせよ。それじゃあ……まるで『心がないかのよう』だぜ?」
そう言うと、マスターは手にした『マルチレンジ・ナイフ』を脇のホルスターにしまい、素手のままでゆっくりと歩き出しました。向かう先は、通路の奥にわだかまる黒い闇。空間が操作されているならば、いくら歩いてもその先にたどり着くことなどできないはずなのですが、マスターはお構いなしに歩を進めます。
すると、『マザー』もまた、いらだちと警戒の念をにじませた声を投げかけてきました。
〈あなたたちは、この世界を滅ぼしたいのですか? この世界が好きだというのなら、なぜ『わたくし』の言葉を拒否するのか、理解できません〉
「それはさっき、ヒイロが言ったはずだろ? 僕らには君を信じる理由がない。僕らが居座ればこの世界が滅びる? 君にとって都合の悪い事実を『世界の滅び』と呼んでいるだけのことじゃないかい? かつての『法王』の人形──ミズキさんがそうだったように」
〈愚問です。『わたくし』こそが世界。だからこそ、『わたくし』の意思は、世界を救う。異物を滅ぼし、取り込み、調和し、循環させ、再び新たな命を生み出す。その営みの成果こそがここにいる『七人の御使い』なのですから〉
「世界だろうと鏡像だろうと関係ない。いつまでもそんなところに隠れていないで、出ておいでよ。僕に言うことを聞かせたいなら、互いにしっかり向き合って、胸襟を開いて腹を割って、目と目を合わせて話をしようぜ?」
マスターは、目の前にたたずむ闇よりなお深い、禍々しいまでの『暗黒』を右手に宿し、ゆっくりとそれを前へと掲げました。
次回「第174話 綺麗な水鏡」