第172話 デウス・エクス・マキナ
〇特殊融合スキル
『覆せない悲劇の終焉』
『知性体』と十秒以上目を合わせ、恐怖を与えた場合にのみ発動可。発動後、対象が世界に与える影響は、すべてが対象の意に沿わない『間違った結果』になる。
わたしたちを飲み込んだ『餓狼ヴァナルガンド』を対象に、このスキルが発動した時、わたしはこれまで、このスキルの効果について、大きな誤解をしていたことに気付きました。
「なぜだ! なぜ、どうやって、絶対空間たる我が体内から脱出した!」
廃墟のような石造りの壁に覆われた室内で、一人の大男が叫んでいます。全身を鋼のような筋肉で覆い、さらにその肉体をボロボロの布を巻いただけの衣服で覆う、身の丈2メートル半はあろうかという偉丈夫です。
短く刈り込んだ黒髪と落ちくぼんだ眼窩にはめ込まれた赤い瞳。その額には、メルティやプロセルピナと同じく、縦に開いた真っ赤な『隻眼』が輝いていました。
「どうやってと言われましても……あの空間、急に隙間だらけになりましたからね。解析した歪みをこじ開けて『亜空間』を利用した時空転移を行ったまでですけど……」
「そんな馬鹿な! それは我が最も警戒していたものだ! そんなミスをしでかすはずが……」
なおも納得がいかないといった顔で叫ぶヴァナルガンドですが、するとここで、マスターがなだめるように口を挟みました。
「ほらほら、少し落ち着きなよ。愚かな君にもわかるよう、僕が丁寧に説明してあげるからさ」
しかし、その言葉は、ヴァナルガンドの怒りを煽るだけだったようです。
「き、貴様! おのれ! こうなれば、空間など介さず、我自身が直接貴様を喰らいつくしてくれる!」
ヴァナルガンドは両腕を左右に広げ、天に向かって大きな声で吠えると、めきめきと音を立てながらその頭部を変化させていきます。その鼻面は前に飛び出し、口は耳元まで裂け、顔全体を獣の毛が覆いつくしていった後、最後に現れたものは、凶悪な牙を備え持つ巨大な狼の頭でした。
「おお、頭だけ変身するだなんて、まるでアンジェリカちゃんのお父さんみたいだね」
「グガルウウ!」
ヴァナルガンドは獣のような唸り声をあげ、マスターめがけて突進していきます。まさにジークフリードを思わせるような疾風迅雷のスピードですが、この身体能力の高さは、彼の【スキル】によるもののようでした。
〇ヴァナルガンドの特殊スキル
『蟲毒に生きる一匹狼』
自身の体内で『消化』した相手の身体能力・スキルを吸収できる。ただし、特殊能力については、吸収後、一週間で消滅する。
すさまじい速度でマスターの懐に飛び込んだヴァナルガンドは、そのまま伸び上がるように獣の咢を大きく開き、その首筋へと喰らいつきました。
そして、次の瞬間──見るも鮮やかな赤い血飛沫があたりに飛び散り、同時に苦痛の叫び声が室内に木霊します。
「うがあああ!」
しかし、激しい音と共に床に倒れ込んだのは、マスターではなく、ヴァナルガンドでした。『己の牙で喰い裂いた腕の傷口』をもう片方の手で押さえ、どうにか体勢を立て直した彼は、驚愕の目をマスターに向けています。
一方、彼の攻撃をかわす素振りさえ見せなかったマスターは、どうやらこの結果を予想できていたようです。
「『何が起こったのかわからない』って顔をしてるね。君はもう、僕の能力にかかっているんだよ。これから君が何を望んで何をしようと、それは君の望まぬ『間違った結果』にしかならない」
「う、嘘だ。そんな、そんなことがあり得るはずが……」
自身の身に起きた出来事が信じられないのか、呆然とつぶやくヴァナルガンド。ですが、マスターが今言ったことは、他ならぬ彼自身が最も痛感しているに違いありません。空間制御の失敗ならまだしも、噛みつく相手を敵と自分で間違えるなど、ありえるはずがないのです。
そして、さらに異変は続きました。
「血が、血が止まらない!」
決して浅くはない腕の噛み傷を手で押さえ、出血を止めようと試みていた彼は、それがまったくできていないことに気付き、顔を青ざめさせていきました。しかし、そんな彼の顔色の悪さは、貧血によるものなどではなく、マスターの言葉と自身の状況を照らし合わせ、それが意味するものに気付いたからこそのものでしょう。
永遠に出血を止めることができないのであれば、彼がいかに頑健な肉体を持っていようとも、いつかは死を免れない時が来るのです。
「大丈夫か? ヴァナルガンド!」
しかしここで、わたしたちに遅れて『絶対空間』からの脱出を果たしたプロセルピナが、思いもよらぬ動きを見せました。彼女もまた、ヴァナルガンドに喰われかけていたはずなのですが、にもかかわらず、彼のもとへと駆け寄り、腕の傷の手当てに取り掛かったのです。
「ぷーちゃんって、優しいんだね」
「そうだね。メルティも彼女のああいうところは見習ってもいいかもね」
こんな場合にもかかわらず、メルティとマスターは気の抜けた会話をしていますが、敵が回復しようとしているのであれば、本来なら止めるべきではないでしょうか。
しかし、わたしがそう言うと、マスターは大げさな仕草でこちらを振り返りました。
「え? ヒイロってば怖いなあ。あんなに美しい『同胞愛』を見せられて、とどめを刺すべきだとか、なかなか言える台詞じゃないよ?」
明らかにからかい交じりの口調ではありましたが、わたしは戸惑うこともなく、素直に思ったままの答えを返しました。
「いいえ。何と言われようとも、わたしにはマスターの安全が第一ですから」
「あ、ああ……う、うん。そっか。ありがとう。ごめんね。心配してくれたのに……ふざけるようなことを言っちゃって」
マスターは一瞬だけ呆気にとられたような顔をした後、親に叱られた子供のようにしょんぼりと俯いてしまいました。
「う……」
時折見せる彼のこの表情は、何というか……反則でしょう。何とも言えない可愛らしさに、思わず慰めの声をかけたくなってしまうほどです。
しかし、そんなわたしの葛藤をよそに、彼はすぐさま真顔に戻ると、治療を続けるプロセルピナに視線を戻し、言葉を続けました。
「でも、心配はいらないよ。むしろ、ぷーちゃんのあの行動は、彼に『現実』を思い知らせるにはちょうどいいんじゃないかな」
「どういう意味ですか?」
「見てればわかるよ」
見てれば……と言われても、わたしの目にはプロセルピナの手で彼の傷口に布がまかれ、止血されていく様子しか映っていません。
「よし、これで大丈夫だ」
血で汚れた手を気にする様子もなく、安心したように息を吐くプロセルピナ。
「あ、ああ。すまない。そ、その……」
ヴァナルガンドは自らが食い殺そうとしていた相手に助けられ、後ろめたそうに口ごもっています。
「気にするな。プロセルピナは気にしていない」
対するプロセルピナは、表情一つ変えることなくそう言うと、彼を護るようにこちらへと向き直り、槍を構えました。
「……この『聖母の間』まで敵の侵入を許すことになったのは遺憾だが、まだ終わりではない。いまここで、プロセルピナが諦めては、すべてが終わりだ」
プロセルピナは背中の四枚羽根をゆっくりと広げ、重心を低く沈めた姿勢のまま、手にした『銀の槍』を構えます。黄金色から元の色に戻っているところを見ると、この『聖母の間』という石造りの部屋は、わたしたちがいたあの平原から十キロ以上離れているか……あるいは距離の概念が通じない場所なのかもしれません。
「僕としては、もう君とは戦いたくないんだけどね。それより、後ろの彼を心配してあげた方がいいと思うよ」
「貴様がヴァナルガンドに何をしたのかはわからぬが、それも貴様を倒せば済むことだ」
「僕が死んでも、その能力は解除されない。それに『心配してあげた方がいい』というのは、もっと切実な意味だぜ?」
「なに?」
マスターがだらりと下げた腕を持ち上げるようにして指し示した先には、前にも増して蒼ざめた顔で荒く息を吐くヴァナルガンドの姿がありました。
「か、は……! ぐ、くる……し……い」
「な! おい、どうした、ヴァナルガンド! しっかりしろ!」
しかし、プロセルピナがそう声をかけた途端、それまで苦しそうに胸を押さえていたヴァナルガンドは、深く息をつくように落ち着きを取り戻していました。
「な、なんだ? いったい何が……」
「……い、息が、息ができなかったのだ」
「なんだと? ま、まさか……!」
驚愕の声を上げた直後、弾かれたようにこちらを振り返るプロセルピナ。
「そうだよ。彼は深く息をついて、酸素をしっかりと取り込みたいと『願った』んだろうね。でも、その『願い』は間違った結果になる。おおかた、二酸化炭素でも取り込んでたんじゃないのかい?」
「……意味がわからぬが、ヴァナルガンドが呼吸をしようとした結果、それが間違った呼吸につながったと言いたいのか?」
「うん。なかなか大した理解力だね」
マスターが茶化すように言うと、プロセルピナは声に怒りをにじませるようにして叫びました。
「ふざけるな! ……だが、再び元の呼吸ができるようになったのは、どういうわけだ?」
「決まっているさ。『君がそう願った』からだ」
「……な、なんだと?」
マスターは、その黒々とした鏡の瞳で二人の『愚者』をしっかりと捉え、にたりと笑って首を傾けました。
「……く」
何も映さないようでいて、その実、すべてを飲み込む底なし沼のような瞳。さすがのプロセルピナもそれに圧倒されたのか、うめくような声とともに、後ずさりしています。
「わかるかい? どうにもならない悲劇が誰かの身に降りかかろうとしたとき、それを『どうにか』できるのは、他でもないそれを見ている『他の誰か』なのさ。それこそ、すべてをひっくり返す『神様』にご登場願ってでも、悲劇を喜劇に、バッドエンドをハッピーエンドに変える。それは脚本家の仕業というより、それを見る人が望むから、その要望に応えているだけのことなんだ」
デウス・エクス・マキナ。古代ギリシアにおける演出技法。それを意識した彼の説明はおそらく、彼女には理解できないものでしょう。それでも、わかることはあります。
「……つ、つまり、餓狼は、ヴァナルガンドは……誰かに願われない限り、息をすることもできないというのか?」
「少なくとも『正しく』はできないね。『呼吸』ほど『間違い』によって命に直結することはそう多くはないだろうけど、それこそ食事だって自分一人じゃ満足に取れないだろう」
『覆せない悲劇の終焉』──このスキルの元になったスキルである『目に見えない万華鏡』は、対象と世界との断絶を強いるものでした。
対象に底知れない絶望を突きつけるその効果は、おぞましいの一言に尽きるものでしたが、ひるがえって、このスキルはどうでしょうか?
願いの結果を間違わせ、それを正すには、他者の願いが求められる。それはすなわち、対象に世界との、他人との関係性を強いるスキルです。一度このスキルに囚われたならば、誰かに無事を願われない限り、生きていくことも叶わない。
誰かの想いが誰かを救う──それはとても美しいことです。しかし、これほど残酷なスキルもまた、ないのかもしれません。
「そんな……ならば、我は今、プロセルピナに生かされているというのか? 我自身の力では生きてはいけぬと? 馬鹿な! 我は『餓狼』だ! この世界に最後に残りし『フェンリル』の生まれ変わりにして、すべてを喰らう『正しき狼』なのだ!」
「あはは。そう言えば君、相手を喰らって同化することは、愛なのだとか言っていたっけ? 随分とまあ、一方通行の愛もあったものだね。喰われる側の気持ちなんて、考えたこともなかったんだろう?」
「う、うるさい、黙れ!」
「でも、これからはそういうわけにはいかないよね。自分を思う誰かを喰らって、自分一人になってしまったら、君は今度こそ生きていけない。よかったね。仲間がいて。思ってくれる人がいて。そのおかげで、君はそうして生きていられるんだ」
「あ、う、ああ……」
「どうだい? うれしいでしょう? 誰かの『心』を、思いやりを、君はほかの誰よりも感じ取れる存在になったんだ。うらやましいなあ。僕もそんな風になりたいよ。だからせめて、ソレがどんな感じなのか、僕にも教えてくれないかい?」
「う、あ! ひいいい! い、いやだ! イヤダアアアア!」
畳みかけるように繰り返すマスターの呼びかけに、ヴァナルガンドは絶叫とともに頭を抱えてしまいました。
「よせ! もういいだろう、十分だ! クルス・キョウヤ。もう、よしてくれ!」
プロセルピナは、そんな彼をかばうように腕を広げて叫びました。
「じゃあ、プロセルピナさん。君も僕と戦おうだなんてやめることだね。君が死ねば、彼も死ぬ。彼みたいな奴に、ほかに生きてほしいと思ってくれる奴がいるとは思えないからね」
「……」
プロセルピナはマスターの言葉に、唇を噛み締めるようにして黙り込みました。
即座に否定できずにいるところを見ると、マスターの心無い発言も、あながち間違いではないようです。まさに彼の言うとおり、『餓狼の愛』はどこまでも一方通行のものだったのでしょう。
そんな『人形』を愛するかのような行為には、マスターの求める『心』はない。想い、想われて、初めてそこに『心』が生まれる。彼の新たなこのスキルには、そんな彼の『心』が反映されているのかもしれません。
しかし、わたしがそんなことを考えながらも、哀れみを込めた視線を『餓狼』に向けた、その時でした。
〈いいえ、そんなことはありませんよ。なぜなら……『わたくし』がここにいます。我が子の生を望まぬ母など、一体どこにおりましょうか?〉
優しく、染み渡るように心に直接響く声。わたしの【因子観測装置】にも一切の反応が感知できないにもかかわらず、その場にいた誰もが聞いたその声は、まさに『聖母』の名に恥じない慈愛に満ちたものでした。
「マザー?」
その声に真っ先に反応したのは、メルティです。彼女は石造りの部屋の奥──薄暗く、光の届かない空間へと、その赤い『隻眼』を向けています。
〈メルティ。貴女には、つらい運命を与えてしまったわね。本当に、ごめんなさい〉
そんな彼女にいたわるような言葉を投げかけてくる存在は、どうやらその闇の向こうにいるようです。
「大丈夫だよ、マザー。わたしはキョウヤとか、パパやママ、アンジェリカたちと一緒にいられて、すごく幸せだもん」
一方のメルティは、無邪気な顔で闇の向こうに笑いかけています。そんな彼女の後姿を眺めつつ、マスターがふと気づいたように言いました。
「あれ? そういえば、この部屋って、こんなに細長かったっけ? これじゃあ、まるで部屋というより廊下みたいだけど」
「いいえ、でも、先ほどまでは石壁に囲まれた空間だったはずです。おそらくは空間自体が操作されているのでしょう。……依然として、わたしの分身とのリンクもつながりませんし……空間的にも隔離された場所のようです」
「うーん。餓狼の腹の中から出たら、聖母の腹の中にいたって感じ?」
「貴様! 母様の御前で無礼な口を利くな!」
マスターの冗談めかした言葉に、激しく反応するプロセルピナですが、ここでさらに、奥からたしなめるような女性の声が聞こえてきました。
〈ぷーちゃん。怒ってばかりでは駄目よ。もっと寛容な心を持ちなさい〉
「か、母様まで! ぷーちゃんはやめてください!」
〈どうして? 可愛らしい呼び名じゃない〉
「……く! ま、まさか……早くも『狂える鏡』の悪影響が母様に!?」
顔を押さえ、驚愕に身を震わせるプロセルピナ。
「……なわけがなかろう。だが、いずれにせよ、我らの負けだ。我も……母上の想いに生かされるというなら、それもまた当然の摂理。受け入れるしかあるまい」
そんな彼女に突っ込みを入れたのは、それまで恐慌状態に陥っていたはずのヴァナルガンドでした。彼はなぜか、『マザー』の声が聞こえた途端、憑き物が落ちたかのように大人しくなってしまったようです。
「あはは。……さすがは『お母さん』ってだけのことはあるね。おてんば娘もドラ息子もまるで形無しだ」
マスターが楽しそうにそう言うと、二人は悔しげに歯噛みした後、睨みつけるような視線をこちらに向けてきました。するとすかさず、女性の声が響きます。
〈ほら、二人ともそんな顔をするのは、おやめなさい。『わたくし』は、彼をここに案内するように言ったはずです。なのにどうして、試すとか殺すとか食べるとか、そんな話になるのです? 元気がよいのは結構ですが、『ヒトサマ』に迷惑をかけてはいけないでしょう?〉
小さな子どもに言い諭すような『マザー』の声は、母性に満ちた優しいものではありますが、なぜか彼女の口にした『ヒトサマ』という言葉だけは、異質な響きを感じさせるものでした。
すると、そのことに気付いたためかはわかりませんが、マスターがここで初めて、『マザー』に直接、問いかけました。
「僕を案内するように言っていたって? でも、あなたみたいな『偉い人』が、僕なんかに何の用事があるのかな?」
そんな素朴な疑問に対し、『彼女』から返ってきたのは、次のような答えでした。
〈あなたたちには、元の世界へ……少なくともこの世界ではない『あるべき場所』へ、お帰りいただくべきと思います。『わたくし』になら、そのお手伝いができますわ〉
次回「第173話 世界を護る聖母」