第170話 母なる世界
「な!?」
プロセルピナは、『マザーの正体』を理解したというマスターの言葉に、驚愕の声を上げました。ここまでのわずかなやり取りだけで、彼女が最も隠したかったであろう事実を看破されたというのです。驚くのも無理はないでしょう。
「やっとわかったよ。ミズキさんが僕のことを指して、この世界にとって最悪な存在だと言った理由がね」
一方のマスターは、特に得意げな顔をすることもなく、足元に突き刺した『パンデミック・ブレイド』を手に取ると、太陽に透かすように掲げました。
「前にも言ったと思うけど……本来、世界に意思なんてない。ましてや、感情をもって、誰かに同情したりできるはずはないんだ」
「『賢者の石』が共鳴したウロボロスの暴走のことですか?」
「うん」
ドラグーン王国に帰還したときの話を思い出しながら尋ねると、マスターは軽く頷きを返します。
「あれは結局、侵食してきている世界そのものじゃなく、それに成り代わった超巨大知的生命体──『女神』の意思だった。じゃあ、メルティが言うように、『愚者』たちのことで悲しんだりすることができる『マザー』だって、『同じ』なんじゃないかな?」
「違う! 母様は、あのような罪深きメガミとは違う!」
激しく否定するプロセルピナ。対するマスターは、それにも頷きを返しました。
「うん。僕も『女神』そのものだとは言ってないよ。でも……『隻眼』の反転複写とか、『女神』の使徒と同じ数の『御使い』とか、そんな言葉を並べ立てれば一目瞭然だ」
「…………」
「『マザー』は世界の意思そのものじゃなく、世界の反応──いわば『鏡像』なんだ。それも、極めて巨大な知性体という『水鏡』に映るほどのね。きっと君の言う『同志』の最後の一種族こそ、それに関係する者なんじゃないのかい?」
マスターの問いかけに、プロセルピナは悔しげに唇を噛み締めます。
「……答えられない」
「これまで『女神』が飲み込んできた世界には、『法王』とか『王魔』みたいに世界に干渉可能な種族がいた。でもこの世界には、そういう『不純物』が少なかった。つまり、それだけ『綺麗な鏡像』を映し出すことができる世界だったんだ」
「綺麗な……鏡像?」
プロセルピナは驚きに目を見開き、マスターを見上げました。
「だからこそ、この世界は『女神』に飲み込まれずにいる。鏡映しで多少は劣化しているかもしれないにせよ、『女神』と『法王』を写し取った存在が『マザー』なのだとすれば、ただそれだけで彼女は、この世界の『議決権』をもっていることになるんじゃないかな?」
「……どうして、そこまで」
「つい先日、僕は大量に『法王』の知識を奪い取っているんだよ。さすがに全部の知識というわけにはいかなかったけど、あとはヒントでもあれば正解にたどり着くのは難しくない」
「……プロセルピナが、そのヒントを与えてしまったというわけか」
がっくりと肩を落とすプロセルピナ。鎧に包まれた背中を小さく震わせ、彼女は大きく息を吐きました。
「ならば、わかったであろう。お前のような『狂える鏡』が彼女のもとへ行けば、『綺麗な鏡像』にどれだけの悪影響が出るかということが」
「でも、それならどうして君たちは、僕を『試す』とか言ったんだい?」
そうです。プロセルピナは明らかに、試す素振りなど見せないまま、マスターを問答無用で殺害しようとしていたはずです。
「ぷーちゃんは、他のみんなとは考えが違うんだよね?」
頭上から割り込んできたその言葉は、空を飛ぶ飛竜から勢いよく飛び降りてきたメルティのものでした。
「ぷーちゃんはやめなさい」
「えー? 可愛いじゃん、ぷーちゃん」
「可愛くてもダメなものはダメ」
「むう、けち」
「ぷ! くくく……!」
妹に言い聞かせるような口調のプロセルピナと駄々をこねる子供のようなメルティの会話に、わたしの隣でマスターが必死で笑いをこらえていました。
すると、マスターの様子に気づいたプロセルピナは、赤い瞳をぎろりとこちらに向けてきました。
「笑うな、貴様。と、とにかく……今のままでは、この世界は滅びる。千年前のあの日を境に、世界の歪みはますます強く、大きくなってきている。だから、『餓狼』が焦る気持ちはわかる。だが、それでもプロセルピナが見る限り、お前は劇薬にも似た危険な存在だ」
「なるほどね。僕がアリアンヌさんやベアトリーチェさんのお母さんを『直した』のと同じようなことを期待している人たちもいるってわけか」
「つまり、『根本的に間違っている』ものを、さらに間違わせることで正そうということですか?」
狂気にとらわれた彼女たちを救った【スキル】『鏡の中の間違い探し』。その原理はまさに、狂える鏡の本質のひとつというべきものです。
しかし、わたしがそんな問いかけを口にした、その時でした。
「なに? これは、まさか!」
プロセルピナが異変を感じて叫ぶと同時、わたしたちの周囲の景色は、大きく変化してしまっていました。
「え? なにこれ、すごい。きれい……」
うっとりとした表情で周囲を見渡すメルティの目には、あたり一面を埋め尽くす水晶のような石の輝きが映っています。磨かれた鏡のように滑らかな床に、規則正しく立ち並ぶ水晶柱。
「こ、こんなことが……」
突然の出来事に、わたしは思わず言葉を失ってしまいました。
「ヒイロ、今のって、空間転移?」
しかし、いち早く驚愕から立ち直ったマスターの問いかけを受け、わたしは慌てて先ほどの事象の分析結果を確認します。
「……はい。景色が変わったのではなく、『空間座標』が変わったとみるべきでしょう。ただし、今のはプロセルピナが使った空間歪曲による座標連結でもなければ、ミズキ女史のような座標情報の書き換えによる同一質量の交換転送でもありません……」
おそらくはプロセルピナ同様、『反転された魔法』による空間転移には違いありませんが、理論的には説明が難しいところです。しかし、今のわたしには、『感覚的』に事象を把握することが可能な『委員長の眼鏡』があるのでした。
その感覚に従って言うならば……
「極めて強引な方法で我々を空間ごと喰らい、飲み込んだ、とでも言うべきでしょうか」
「やはり、『餓狼』か! メルティが降りてきたところを狙ったな!」
プロセルピナは首の後ろでくくった黒髪を振り乱し、怒りに満ちた声で叫びます。そしてそのまま、苛立たしげに槍を振り回し、姿の見えない誰かに呼びかけるように言葉を続けました。
「貴様は、己が何をしたのか、わかっているのか! このような危険な『異物』を『マザー』の御許に招き入れるなど!」
すると、彼女に応えるように、水晶で覆われた空間に低い男の声が響きわたります。
「見苦しいぞ、ぷーちゃん。お前は負けたのだ。どのみち、その男を止めることなどできなかっただろう。だから我が、こうして代わりに拘束してやったのではないか」
「ぷーちゃんはやめろ!」
「ぶふ!? くくく……!」
シリアスなやり取りに混じるコミカルな呼び名に、『名付け親』であるはずのマスターは、苦しそうにお腹を押さえて笑っています。どうやら、とても会話ができる状態ではなさそうですので、わたしが代わりに話を進めるとしましょう。
「なるほど、貴方が『餓狼』ですか。ならば、説明してください。ここはどこなのです? はっきりとした座標が確認できない以上、通常空間とは異なるようですが……」
あたかも『別の空間』に飲み込まれたかのような感覚に、わたしは焦りを覚えていました。なぜなら、アンジェリカたちに同行しているはずの『分身』とのリンクまでもが切れてしまっているのです。
わたしは【因子観測装置】で周囲を探査しましたが、壁の存在すら確認できないような広大な空間に、天井や床、さらには周囲に屹立する柱などが水晶のような透明な鉱物で構成されていることが確認できるのみです。
さらに言えば、この空間においては、『魔力』が存在しないことはもちろんのこと、【因子】の操作を妨害する力場も存在しているようです。
「いきなりの無礼はご容赦を。異世界からの客人よ。それと……ようこそ我が体内へ」
礼儀正しい言葉遣いながら、その男の声には、明らかに人を食ったような調子が感じられました。
「我が体内? 体内にこのような空間を作っていると?」
「そのとおり。理解が早くて助かりますな。そして我は今、『マザー』のお膝元にいる。つまり、あなた方は我の腹を破って外に飛び出しさえすれば、『マザー』に謁見奉ることも可能というわけです」
「…………」
冗談なのか本気なのか、はっきりしない彼の言葉に、わたしはどう反応してよいかわからず、思わずマスターに目を向けました。
彼は、自分の手元をぼんやりと見つめた後、ゆっくりと口を開きました。
「『パンデミック・ブレイド』は、飲み込まなかったんだね。随分と器用な真似をするじゃないか」
「……『王魔』を雛形とする我らには、あの剣は『目の毒』だ。いくら『餓狼』とて、あんなものを飲み込む気にはなれなかったのだろう」
諦めたように槍を下ろし、そうつぶやいたのはプロセルピナです。
「左様。あれはかつて『ウロボロス』を暴走させたモノの『鏡像』であろう。あれ自体を恐れるわけではないが、その事実は、我らにとって根源的な不安を掻き立てるものなのだ」
「そうなの? でも、メルティは怖くないよ?」
「ははは。まあ、君は特別だよ。何せ『王魔』でありながら『愚者』である存在など、世界中どこを探しても君しかいない。君は言うなれば、この世界の『理想形』なのだから」
不思議そうに口をはさんできたメルティに、『餓狼』はこれまでとは打って変わった穏やかな声で語りかけました。
「うーん。そう聞くと、やっぱり『王魔』は、『女神』や『法王』とは扱いが違うのかな? どっちも同じ異世界からの侵入者なんだろうに」
「当然だろう。『王魔』は世界に干渉しこそすれ、自ら進んで同化するような『愚』を犯してはいない。『女神』の世界に取り込まれた際に、そうした性質を有してしまったという意味では、犠牲者にも近い存在なのだからな」
「だから、取り込んで『正しく生みなおす』ってわけかい?」
「『王魔』には気の毒だが、それが母なる『マザー』の意思である。メルティのような奇跡は、そうそう起こるものではない」
『王魔』の側にとっては、たまったものではない理屈かもしれませんが、どうやらそれこそが、『王魔』が世界に生まれるたびに『愚者の参集』が発生する理由なのかもしれません。
「でも、その『マザー』とやらは、『女神』や『法王』の鏡像なんじゃないのかい?」
「違う。奴らに対抗するため、本来ならば世界には不要だったはずの『意思』を持たざるを得なくなった。そのための『鏡像』だ。あれは『マザー』そのものではなく、代弁者に過ぎない」
『餓狼』はプロセルピナと違い、『マザー』に関する情報を隠すつもりが全くないようです。彼の狙いはまだ読めませんが、いずれにせよ、この空間から脱出する方法は慎重に探らないとならないでしょう。
「ヴァナルガンド! 貴様、母様を愚弄するか!」
「落ち着け、プロセルピナ。我は『彼女』の一面を言い表したに過ぎない。『彼女』を構成する全てを鑑みれば、『彼女』こそ我らの母であるという見解に違いはない」
プロセルピナをなだめるように言った後、ヴァナルガンドは、マスターに語りかけてきました。
「……君を我が体内に招き入れたのは、確認したいことがあったからだ。クルス・キョウヤよ」
「なんだい?」
「『女神の愚盲』が世界を滅ぼさんとするならば、君はどうする?」
「当然、助けるよ。僕の好きな人がいる世界だ。滅びてもらっちゃ困る」
「助ける? つまり、『女神』と戦うということか?」
「君はそれを言わせたいんでしょ? 毒を以て毒を制す。ぷーちゃんが言っていたことだけど」
「違うというのか?」
それまで穏やかだったヴァナルガンドの声に、危険な響きが混じりはじめたのは、この一言からです。
「悪いけど、どうするかは、まだ決まってないんだよ。それを決めるために、『マザー』さんに会いに来たんだしね」
「……世界を救いたいならば、『女神』を滅ぼせ。あれこそが、この世界を飲み込む諸悪の根源だ」
ほとんど脅迫めいた強い口調で、ヴァナルガンドは繰り返します。
「罪深きメガミを滅ぼし、世界の『王魔』をすべて正しく生みなおす。それこそが世界正義だ。お前には『法王』を抹消した実績がある。だからこそ、お前にその役割を与えようというのだ」
わたしは、マスターの表情をこっそりと窺うように横目で見ました。ヴァナルガンドの物言いは、間違いなく、マスターにとって気に入らないもののはずです。
すると案の定、マスターはその黒々とした鏡のような瞳を、あらぬ虚空に向け、禍々しい笑みとともに言いました。
「ばーか。まっぴらごめんだね」
「なんだと!?」
続くヴァナルガンドの怒声は、周囲の水晶柱を振動させ、メルティやプロセルピナが思わず耳を塞いでしまうほどの大音声でした。
「己の立場を理解していないのか? 我が体内は、周囲の空間とすべてが断絶している。『魔力』の使用もヒイロ殿の世界操作も受け付けぬ、絶対支配空間である」
「ふうん。それも『フェンリル』から受け継いだ力なのかい?」
「本来であれば、己の愛する者を己の体内に閉じ込める。そのための『フェンリル』の『食欲』が具現化したものだがな」
「それで? 絶対支配空間とやらに僕らを閉じ込めて、どうするの? 君の言うことを聞かなきゃ殺すって?」
「『女神』の殲滅に必要な力を我が『消化』するだけのことだ」
「貴様、最初から、それが狙いか!」
そう叫んだのは、プロセルピナでした。どうやら彼女でさえ、彼の狙いは知らなかったようです。
「ぷーちゃんはどうするんだい? 彼女だけ先にここから脱出させるかい?」
「それはできまい。ヒイロ殿は、その瞬間を虎視眈々と狙っているようだ。一瞬でも外界とのつながりをつくるわけにはいかない。我にとって、相手を飲み込み、同化することは『愛』なのだ。ゆえに理解してもらうしかない。メルティともども、我が糧となってもらおう」
その言葉と同時、周囲の柱や地面、天井から、二つの赤い隻眼を備えた狼型の『愚者』たちが次々と姿を現しました。
「『魔法』も世界操作も使えず、頼みの剣も外の世界だ。そして貴様がいかに強かろうと、我が体内で『強さ』は無意味。おとなしく我の【体内ファージ・システム】に飲み込まれるがよい」
彼の言葉に合わせるかのように『惨禍の狼』たちが一斉に飛びかかってきます。
「くそ! 同胞たちよ! こんな争いは無意味だ! やめるんだ!」
プロセルピナは手にした槍を振りかざし、彼らを打ち払うようにして説得の言葉を口にしますが、狼たちの動きに変化はありません。迷うことなく、こちらの喉笛を噛み裂かんばかりに波状攻撃を続けてきました。
「もう! なんで仲良くできないのよ!」
メルティもまた、悔しそうに叫びながら群がる狼たちを蹴散らしていますが、彼らは倒されるたびに新しい個体が周囲の水晶からあふれ出てくるため、まるで数を減らすことができません。
メルティの【スキル】で従属しないところを見ると、どうやらこの『狼』たちは見た目どおりの『愚者』ではなく、ヴァナルガンドの体内で生まれた特殊な存在なのでしょう。
「マスター! すみません! わたしの【式】も阻害されているようです!」
わたしは簡易型の電磁バリアや熱線などの【式】を展開し、周囲の狼たちを牽制しながらマスターに注意を呼びかけました。
しかし、当のマスターはと言えば……
「同志とか言っても、随分と違うものだね。種族を重視する『フェアリィ』と個を重視する『フェンリル』の違いと言ったらそれまでだけどさ。でも、さっきから聞いてれば、『気の毒』だの『愛』だの……君のその言葉には、『まるで心がないかのよう』だぜ?」
全身に喰らいつく『惨禍の狼』のことなど気にも留めず、ひたすら何もない虚空を見上げています。
やはり例によってマスターは、痛覚を弱めることによる治癒力の強化を使用していません。むしろ、痛覚を強めることによる身体強度の強化によって狼の牙からの致命傷を避けているだけであり、その身体は痛みに耐えるように震えていました。
「……ぐ、な、なんだ、貴様のその目は! なぜ、なぜ、我が絶対空間内にありながら、我の目を見ることができる! なぜだ!」
「馬鹿だなあ、君は。こんな『間違った』やり方さえしなければ、僕とだって友好関係が築けたかもしれないのに。残念だけど、君の手札はもう手詰まりだぜ」
全身から血を流したまま、マスターは全身を襲う痛みに表情一つ変えることなく立っています。それどころか、その顔には、見る者の背筋を凍らせるような黒くて深く、そして何より禍々しい笑みが浮かんでいるのです。
「う、うあああ。やめろ! よせ! そんな目で、我を見るな!」
この時、マスターが発動した【スキル】は、次の二つです。
『全てを知る裸の王様』
相手が自身を視界に収めさえすれば、その相手と自由に『目を合わせる』ことを可能とするスキル。
『覆せない悲劇の終焉』
目を合わせた相手が自分に恐怖すれば、その相手に取り返しのつかない不条理を与えることのできるスキル。
ヴァナルガンドは、マスターの持つ『パンデミック・ブレイド』にさえ、根源的な不安を覚えるのだと言っていました。
そんな彼が『黒々とした深淵の底』に見つめられて、恐怖を感じずにいることなどできるはずもありませんでした。
次回「第171話 竜王の背の上で」