第162話 聖女の気持ち
一方、『変態ども』とエレンシア嬢から呼ばれていた二人は、どうしているのでしょうか。重力制御を終え、わたしたちが降り立った場所は、鬱蒼とした木々が生い茂る深い森の中です。
すでに夕方に差し掛かっていることもあり、今では枝葉の間から夕陽の光が差し込み、あたりには真紅の槍が無数に屹立していました。
「なぜじゃ? なぜわらわが、キョウヤと同じ扱いを受けねばならん!」
そんな幻想的な風景の中、銀の瞳に激情の炎を灯し、大きな声を張り上げているのは、いわずとしれた聖女様です。
「まあまあ、少しは落ち着いたらどうだい。狭いところでそんなに動き回っていても意味はないし、疲れるだけだよ。とりあえず、改めてその辺に座ろうよ」
そう言ってマスターは親切にも、彼女のために自分の上着を脱ぎ、地面に広げてあげました。しかし、聖女様はそれを見下ろした後、小さく息を吐いて首を振ります。
「……その辺に? その辺もどの辺もなかろう。お前には周りが見えておらんのか?」
「うん。見えないねえ。ものの見事に」
そう、二人は確かにわたしたちと一緒に、この『フェアリィの森』に着陸しています。
しかし、彼らの周囲には依然としてエレンシア嬢が《ライフ・メイキング》により生み出した巨大植物がとぐろを巻くように壁を作っており、周囲の景色はまったくと言っていいほど見えなくなっているのです。
「まったく、お前のせいでアンジェリカやメルティちゃんの微笑ましき姿も、エレンやリズの可愛らしき姿も、何も見えん。向こうからこちらを見てくれていない以上、『世界を観測する者』も使えんし……」
「いやいや、そもそもベアトリーチェさんが余計なことを言うからエレンが怒っちゃったんじゃないか。せっかくいい話でまとめようとしていたのに」
二人は互いに文句を言いながらも、諦めたようにその場に腰を下ろしました。ベアトリーチェは、わずかにためらう様子を見せたものの、スカートの裾を両手でそろえるようにしてマスターの用意した上着の上に座ったようです。
……ちなみに、わたしはといえば、二人の『毒牙』にかからないようにと、エレンシア嬢やリズさんに『保護』されたままですので、壁の内側ではなく外側にいます。
とはいえ、二人の様子は心配でしたので、こっそり観測用の『遠隔操作端末』を壁の内側に生成していました。
「つまり、分身ってこと? すごいね。こんなものまで作れるんだ」
ミニチュアサイズに再現されたわたしの姿を見下ろし、マスターは何故か嬉しそうに笑っています。
「はい。これまでは複数の『素体』を作ると、通常の人体の感覚を忘れてしまう恐れがありましたので避けていたのですが……」
かつてのわたしであれば、複数の場所で同時に【観測】が必要な場合は、《スパイ・モスキート》などの【式】に頼っていたところです。
「今ではその心配もなくなったと……ふむ。これもやはり、キョウヤが『委員長の眼鏡』を作ってくれた賜物というわけじゃな? くふふ。まさに眼福眼福」
マスターと並んで腰を下ろす聖女様の顔は、これ以上ないほど緩みきっています。
「……特に問題はなさそうですし、ここで失礼させてもらいます」
「え? ちょ、ちょっと待ってよ、ヒイロ。今ここで、いなくなられたら困るってば!」
するとなぜか、マスターが慌ててわたしを呼び止めてきました。
「いいえ、マスター。いくらここにいるわたしが『分身』でも、そのような視線でお二人から見つめられるのには耐えられません。マスターに身の危険がなさそうであれば、引き上げさせていただきたいのですが……」
そこまで言ったところで、マスターから『早口は三億の得』による高速思考伝達で呼びかけがありました。
〈いやいや、それは謝るし、気を付けるよ! ほら、今ヒイロにいなくなられたら僕、ベアトリーチェさんと一対一になっちゃうというか……〉
〈え? 今さら照れてらっしゃる? しかし、ベアトリーチェさんは以前のメルティのように無邪気に迫ってくるタイプではないでしょう?〉
〈いや、その……そうじゃなくて。ほら、さっき落下中にもなんだか僕のことを避けているみたいなところがあったじゃん。今はそうでもないけど、二人きりになってあんな状態になったらと思うと……〉
思考伝達による会話だと言うのに、マスターの最後の言葉は消え入りそうなほど小さくなっていました。
〈……なんというか、不思議な方ですね。マスターは。初対面の相手にもまったく物怖じしない性格であるかと思えば、なんでもないことでチキン……いえ、ヘタレでらっしゃる〉
〈ヒイロ? 言い直した割には表現がひどくなってるよ?〉
〈すみません。……でも、心配いりませんよ。ベアトリーチェさんは、マスターのことを嫌っているわけでも、避けているわけでもありません。むしろ、今この時を、ちゃんと『向き合って』、彼女と話をすることができるチャンスととらえるべきです〉
わたしがそう言うと、マスターが驚いたように目を丸くし、わたしの『顔』をまじまじと見つめてきました。
〈……ヒイロ。なんていうか、随分成長したんだね〉
〈なんですか、その子供を見守る親みたいな台詞は〉
〈あはは。……そうだね。君の言うとおりだ。頑張ってみるよ〉
〈はい。そうしてください〉
〈あ、でも、ヒイロ。〉
〈なんでしょう?〉
〈分身は消してもいいけど……できれば見守っていてほしいなあ〉
〈……はあ。でも、ベアトリーチェさんには、わたしに『観測』されていることはわかると思いますよ?〉
〈そうだけど、むしろヒイロが僕から完全に『観測』の目を外す方が不自然に思われるよ〉
〈……なるほど。それはそうですね〉
マスターの言葉は、若干こじつけ気味な気がしないではありませんでしたが、ここは納得させられてあげることにしたわたしでした。
──わたしが『分身』を消してしばらく。
マスターとベアトリーチェの二人の間には、まったくといっていいほど会話がありません。閉じ込められた直後の軽口も、考えてみればわたしが『分身』を出現させてからのものでした。
とはいえ、このまま永遠に沈黙が続くはずもなく……
「えっと、ベアトリーチェさん。ちょっといいかな?」
「…………」
マスターが意を決して発した呼びかけに、沈黙を返すベアトリーチェ。しかし、無視をしたわけではありません。言葉を発さぬまま、隣に座るマスターの顔を見上げると、酷く嫌そうな、それでいて何かを求めるような、何とも言えない顔をしたのです。
「……その、僕、なにかベアトリーチェさんの気に障ること、しちゃったかな?」
そんな彼女の微妙な表情に気付くこともなく、不安げに問いかけるマスター。
「……はあ。どうしてこんなことに」
それを聞いたベアトリーチェは、丸く目を見開いた後、がっくりと肩を落とし、顔に手を当てて首を振りました。
「え? どうしたの? 悩み事?」
「……ええい! とにかく、うるさい! わらわも少し頭が混乱しておるのじゃ! 落ち着くまで待っておれ!」
「う、うん、ごめん。じゃあ、待つよ」
なぜか顔を真っ赤にしながら叫ぶベアトリーチェに、マスターは逆らうことなく口を閉じ、そのままいわゆる体育座りの体勢で待つことにしたようです。なんだか、少しいじけているようにも見えて可愛らしく感じます。
「うう……」
待つようにとは言ったものの、ベアトリーチェはそれほど間をおかず、マスターにあらためて向き直りました。
「……まさか、生身の目や耳で感じる世界がこんなものだとは、思わなかったのじゃ」
「え?」
唐突過ぎるベアトリーチェの言葉に、思わず顔を上げて聞き返すマスター。
「わらわがスキルで『見て』きた世界は、その姿形で言えば、おそらく今見ているものと寸分たがわず同じなのじゃろう。だが、それでも、実感を伴って感じられる世界がここまで色鮮やかなものだということは、久しく忘れていた感覚なのじゃ」
「……うん。本当に良かったね。誰かと一緒に、同じものを見て、同じように感じられるのって、きっと幸せなことだよ」
マスターは心の底から嬉しそうに、ベアトリーチェに笑いかけます。すると彼女は、今にも泣きだしそうに顔を歪めてうつむいた後、美しい銀の瞳に強い決意を込め、マスターの顔を見上げました。
「……うわ」
輝くような銀の髪が彼女の顔の周りでふわりと跳ね、重力に従って垂れていく様を見たマスターは、思わず感嘆の声を漏らしてしまったようです。
「……なによりも、お前が……キョウヤが……こんな風に『見える』だなんて、思わなかった」
普段は見た目の美しさとは逆に、女性らしからぬ言動で周囲を翻弄することの多いベアトリーチェですが、今、この時ばかりはか弱く、たおやかな女性のように身体を震わせ、涙を溜めた目でマスターを見つめていました。
「ベアトリーチェさん? 何が……何があったんだい?」
「……それは、お前の方じゃ。キョウヤよ」
「え?」
「お前の目は……まるで、孤児のようじゃ。与えられて当然の幸せを得ることができず、喉から出が出るほどにそれを望んでおる。なのにお前は……人の幸せをうらやむのではなく、それを自身に重ねるようにして祝福する」
『アリエナイモノ』の生誕でさえ、祝福してしまう。わたしは彼女の言葉を聞いて、そんな彼のスキルのことを思い浮かべていました。
「どうして、どうしてお前は……そんなにも健気に生きられる?」
彼女は伸ばした両手でマスターの襟元を掴むと、彼にすがりつくようにしながら言葉を絞り出しています。彼女の銀の瞳は、これ以上ないくらいに大きく見開かれ、マスターの黒々とした鏡のような瞳の中に映りこんでいました。
「……もしかして、貴女は僕のことを、『可哀そう』だと思っているのかい?」
マスターはほとんど表情を動かさず、彼女の視線を真っ直ぐに受け止めたまま、感情のない無機質な声で彼女へと問い返します。
すると彼女は、こらえきれない涙を目からこぼし、大きく頷いたのです。
「ああ、そうだ。お前は哀れだ。哀れで哀れで仕方がない。わらわの心の中は、お前への『同情』でいっぱいだ!」
マスターは、自分のことを真剣に考えてくれる相手、自分に気持ちを、同情を寄せてくれる相手がいれば、まず間違いなく感激し、感謝の言葉を述べるはずでした。それは、わたしが初めて彼と会話を交わした時の反応から見ても明らかです。
しかし、この時の彼はと言えば……
「まったく、冗談じゃないぜ。いい迷惑だよ、ベアトリーチェさん。僕は全然、『可哀そう』なんかじゃないだろ? だって僕は、『人として当たり前』にここにいる。そんな種類の同情なんて……まっぴらだ」
決して声を荒げるようなことはありませんでしたが、それでも彼にしては極めて強い否定の言葉です。少なくとも、彼が仲間の女性たちに対して、こんなに厳しい言葉を使ったのは、聞いたことがありませんでした。
しかし、対するベアトリーチェはまったく動じた様子を見せません。
「それは『不幸ではない』という意味じゃろうが。言葉をはき違えるな」
「ん? 『不幸』と『可哀そう』って、ほぼ同じ意味じゃないかい?」
「この場合は違う。前者は単なる事実だが、後者は……わらわの気持ちなのじゃ。だから、お前に否定される筋合いなどないし、お前が迷惑に感じるかどうかなど関係ない。いいや、むしろわらわは……お前になら喜んで迷惑をかけてやる」
目の端に涙の痕を残しながらも、いつものように不敵な笑みを浮かべてみせる聖女様。対するマスターは、なおも理解できないといった顔で首を傾げています。
「……何が言いたいんだい?」
「誰かの心に負担をかけることを恐れるな」
「……え?」
思わぬ返答の言葉に、今度こそ絶句してしまうマスター。
「先ほど、キョウヤはわらわに、『気に障ることをしたか』と聞いたな?」
無言で頷くマスター。
「答えはイエスじゃ。お前はいつだって、わらわの気に障ることばかりしておる」
「い、いや、さすがにそこまでのことはないんじゃ……」
「ある。汚らわしい男のくせに、わらわの可愛い『妹』たちに馴れ馴れしいばかりか、毎日こっそりキスまでしておるではないか」
そう言ってにやりと笑う聖女様でしたが、次の瞬間には再び何かを訴えかけるような表情に戻りました。マスターの襟元を掴む手に力がこもり、彼女の顔はますますマスターの顔へと近づいていきます。
「……でも、それでも、わらわ……いいえ、『わたくし』は、貴方という『人』が、わたくしに優しくしてくれた時のことを覚えている。わたくしのことを、大事にしてくれていることを感じている。だから……この先、何があろうと、貴方がどんな存在であろうと、わたくしは!」
ベアトリーチェは瞳を潤ませ、声を震わせながら、絞り出すようにその先を続けます。
「あ、あなたを……『嫌いになる』なんて……できないの。……できないのよ」
「ベ、ベアトリーチェ、さん?」
口調まで変わった彼女の様子に戸惑うように、マスターは言葉を詰まらせていました。そして、今にも唇が触れあわんばかりの距離まで顔を近づけると、彼女はゆっくりと目を閉じ……そして
そのまま勢いよく、マスターの身体を突き飛ばしてしまいました。
「うわわ! ……いたた。突然、何をするんだよ」
「ふふん。このままわらわが口づけでもしてくれると思っておったか? 甘いのう」
いつもの口調、いつもの声音で笑う聖女様。しかし、可憐な唇に人差し指を軽く添え、微笑む彼女のその顔は、ほんのり赤く染まっていました。
「キョウヤよ。これだけは覚えておけ。今後、わらわに対して遠慮はいらん。気遣いも行き過ぎれば人の心に『壁』をつくる。まるで……幼子のようなお前の『心』は、それをまだ理解しておらんようじゃったからな。教えてやらねばと思ったのじゃよ」
彼女の言葉を聞き、目と口を全開まで開いて驚きを露わにしたマスター。そんな彼が、直後に浮かべた表情こそ、見物でした。わたしにとっても、それはもう、一生忘れることができそうにない──その『表情』を一言で表すならば、『親に褒められた子供のような笑顔』だったのです。
「はは、あははは! そっか。幼子のような『心』か。うん。君には、僕の『心』がそんな風に映るのか。まったく君は本当に……僕にとっての鏡のような人なんだね」
「……な、なんじゃ。急に、気味の悪い顔で笑いおって」
彼が見せたその笑顔を見て、彼女は狼狽えるように顔を背けながらも憎まれ口をたたい叩いています。しかし、その顔は恥ずかしさのためか、耳まで真っ赤に染まっていました。おそらく、この分では『世界を観測する者』のスキルも使用していないことでしょう。
そしてマスターは、そんな『隙』を逃すような人ではありません。
「それじゃあ早速、お言葉に甘えて……と」
おもむろにそう言うと、彼は狼狽える聖女様の華奢な身体を一気に抱き寄せ、驚きで目を丸くする彼女に構わず、その可愛らしい唇を奪ってしまったのです。
「む! むー! むー!」
ジタバタと激しく抵抗する聖女様ですが、スキル込みの身体能力ではマスターに遠く及ばない以上、無駄な足掻きというものでした。
「………ぶは! はあ! はあ! はあ! って……な、な、なにすんじゃあ、こらああ!」
叫び声をあげた聖女様は、あまりの展開にパニックに陥っているようです。普段なら反撃の一つも繰り出すところでしょうが、涙目のまま顔を真っ赤に染め、口元に両手をあててうめくばかりでした。
それを見たマスターは、まったく照れた様子もなく、嬉しそうな顔で笑います。
「いやあ、ごめんごめん。だって君があんまり可愛すぎるもんだから、我慢ができなかったんだ。迷惑だったかな? でも、きっと君なら……許してくれるよね?」
「ぬぐ! ぬ、ぬぐぐぐぐ!」
なんという悪質な犯行でしょう。わたしはマスターのあまりに鮮やかな手口に、開いた口がふさがりませんでした。今のベアトリーチェの大声は、樹木の壁の外側にいる他の皆にも届いたため、ちょっとした騒ぎになっていますが、それどころではありませんでした。
しかし、さらに衝撃的だったのは、次の聖女様の一言だったのかもしれません。
「……べ、別に、め、迷惑というほどのことではない。ただ、その、次からは、一言断ってからにしてもらわないと……」
次回「第163話 彼の幸せ」