第160話 紳士の墜落
それからわたしたちは、この都市を脱出するべく、浮き島の端から全員そろって『飛び降り』を敢行することとなりました。
「って、きゃあああ! こ、怖いです! 怖い! 死んじゃいますよう!」
マスターに手を引かれ、一緒に大地を蹴る形となったリズさんは、徐々に加速する落下速度に恐怖の悲鳴を上げています。
「こ、怖くない! 怖くなんてありませんわああああああ!」
同じく明らかに恐怖の悲鳴を響かせているのは、落下の向かい風でスカートがめくり上がらないよう、緑のドレスを『茨の髪』で器用に押さえているエレンシア嬢です。
「あははは! これはなかなか思い切った作戦ね! 『魔法』も使わず落下すれば、敵の魔力感知にも引っかからないわけだし!」
さすがに夜には『竜の翼』を生やし、空を飛ぶこともあるアンジェリカです。彼女にとっては、この落下も大して恐ろしいものではないのでしょう。天真爛漫な『ニルヴァーナ』の王女様は、左右に両手を広げ、身体全面で風を受けながらスカイダイビングを楽しんでいるようでした。
「あははは! 楽しい!」
「あ、メルティちゃん! はしゃぐのはよいが、あまり遠くに離れるとヒイロの重力制御の範囲から外れてしまうぞ」
この中では唯一、ショートパンツという『スカートの中の心配』をしなくてもよいメルティが空中で自在に姿勢を変え、宙を泳ぐのを見て、前傾姿勢で後を追うベアトリーチェが心配そうに呼びかけています。
そんな中、マスターはと言えば……
「ふ、ふふふ! 僕は紳士だ! 振り向かないし、下も見ない! 見ないったら見ないぞ、僕は!」
聞きようによってはリズさんやエレンシア嬢と同じく恐怖の叫び声に思えるかもしれませんが、その実、彼のそれはまったく異なります。
わたしの説得にもかかわらず、なかなか飛び降りようとしなかったリズさん。そんな彼女の手を掴み、マスターは半ば強引に引っ張るように飛び降りました。
そんな彼の空中での位置は、『リズさんよりも下、他の女性陣よりも上』です。
つまり、『スカートの中の神秘』に興味津々なマスターに対し、恐怖のあまりスカートを押さえるどころではないリズさんやメルティを心配するベアトリーチェ、さらには無邪気に空中落下を楽しむアンジェリカの三人は、今や完全に無防備な状態となってしまっているのでした。
そう、本来なら……
「マスター、お任せください! その心配は、まったくの無用です。なぜならわたしが、【因子演算式】《バインド》でリズさんの他、皆さんのスカートを固定しておりますので!」
「なんでそーゆうことするの!?」
ありえない悲劇に遭遇したかのように、絶望の声を上げるマスター。
「マスター? 彼女たちの方を見るつもりはなかったのですよね? では、何も問題ないのでは?」
わたしが努めて冷たくそう言うと、マスターは落下中にもかかわらず、わたしに向かって器用に指を振って見せました。
「ちっちっち。わかってないなあ、ヒイロ。いいかい? 実際に見るか見ないかは問題じゃあないんだ。見える状態にあるかどうかが大事なんだ。……そこにスカートがある。見ようとすれば見ることのできる神秘がすぐ傍に存在する! だけど、あえて見ない! それがいいんじゃないか!」
「まったくわかりませんし、わかりたくもありませんから!」
こればかりは『眼鏡』の力をもってしても、まるで理解できそうにありませんでした。
「そっか。ヒイロには、紳士の美学は早すぎたかな?」
「ロリコンの作法に続いて、妙な言葉を造らないでください!」
思わず頭を抱えたくなったわたしですが、センサーで計測中の高度が大分下がってきています。そろそろアルカディア大法学院の『重力支配圏内』からも脱したようですので、地面に激突する前に重力制御を開始する必要があるでしょう。
わたしは【因子演算式】を展開し、重力加速度に従って増していた速度を徐々に減衰すると、全員の身体に負担がかからないよう、丁寧に落下を停止しました。
「え? これは、いったい……?」
自身で行ったことながら、まったく危なげのない重力制御の成功に、わたしは戸惑いを隠せません。
「どうしたんだい?」
重力場で形成された空中の『地面』を足で確かめつつ、マスターがわたしに問いかけてきます。
「……いえ、いつもより【因子演算式】の展開がスムーズにできたものですから。これももしかして、この『委員長の眼鏡』のおかげなのでしょうか……」
「だろうね。言ったでしょ? ヒイロが本来の力を発揮できるようになるって。僕としては、そのためにその『眼鏡』を作ったんだ。そうなってもらわないと困るよ」
「そうでしたか。さすがはマスターです。わたしの性能の向上まで見越してくださっていたとは……」
わたしは感激して言ったのですが、それを聞いたマスターは、なぜか目を丸くすると、小さくため息を吐いてしまいました。
「いやいや、性能の向上、だなんて言葉で片づけてもらっちゃ困るよ」
やれやれとばかりに掌を上に向け、首を振るマスター。すると、横からリズさんが補足するように言葉を続けてくれました。
「そうですよ、ヒイロさん。さきほどキョウヤ様がベアトリーチェ様に言った言葉をお忘れですか? わたしには、『じんこうちせいたい』が何なのかは知りませんが、ヒイロさんが『魔力』を感じ取ることが苦手だという話は存じています。でも、そんな貴女がキョウヤ様や他の方々と同じように『魔法』に接することができるようになれたのなら、『みんなと同じ世界を感じられるようになった』と言えるのではないですか?」
「あ……」
リズさんにそう指摘され、わたしは初めて気づきました。
『委員長の眼鏡』は、いわば『人の心』を理解するための道具です。
──しかし、それ以前に、わたしが『皆と同じ』であるために必要な道具なのです。
いまだに自分のことを『性能』という言葉で表現してしまうわたしには……『人』であることの自覚が足りなかったのかもしれません。言うことを聞くだけに人形にはならない。それこそが、わたしがマスターのお傍に仕えるための大事な条件だったというのに……。
「マスター、申し訳ありませんでした。マスターの御心遣いにも気づけず、見当違いをしてしまいました。わたしが感謝すべきは、まさにその心遣いに対してであるべきでした。本当に……ありがとうございます」
感極まって、震える声で頭を下げるわたし。
徐々に降下していく重力場の内側ではしゃいでいた他のメンバーも、こちらの様子を不思議に思ったのか、周囲に集まってきています。
すると、彼女たちと『同じ』になれたのだという実感がわたしの中にじんわりと広がり、思わず涙腺が緩んでしまいました。
「あ! キョウヤがヒイロを泣かしてる!」
「何がありましたの? まさか、キョウヤ様? ヒイロに何かセクハラでもしたのではありませんわよねえ?」
わたしの瞳から零れ落ちた涙を見て、真っ先に非難の声を上げたのは、アンジェリカとエレンシア嬢でした。
「ちょ、ちょっと待ってってば! 僕は別にヒイロを泣かしたりなんか……」
女性陣に詰め寄られ、途端に慌てふためくマスター。つい先ほど、世界の『四分の一』に匹敵する力を持った『法王』を徹底的に破壊した少年と同一人物とは到底思えない狼狽ぶりでした。
「ヒイロ、大丈夫? 悲しいの?」
一方、泣いている人を見ると放っておけないのがメルティです。心配そうにわたしの元に駆け寄ってくると、優しくわたしの背中をさすってくれていました。しかし、その手の感触までもが、なんだか温かく、心地よいものに感じられ、わたしはますます感極まってしまいます。
「ふふふ。ヒイロも随分と涙もろくなったものじゃなあ? その方が可愛げがあってよいが……しかし、お前たちよ。わらわが思うに、本人から何も話を聞かないうちに、キョウヤの意図を決めつけてしまうのは早計というものじゃぞ」
どうやら後から近づいてきたメンバーの中では、唯一ベアトリーチェだけが、こちらの話を最初から聞いていたようです。目や耳が利くようになったからといって、『世界を観測するもの』のスキルを使わなくなったわけではないのでしょう。
「キョウヤの意図? なんだかよくわからないけど、わざと泣かせたんじゃなくて、偶然ヒイロが泣くようなことを言っちゃったってこと?」
不思議そうに首を傾げるアンジェリカに対し、ベアトリーチェは首を振ります。
「言ったのはリズじゃよ。キョウヤではない。だが、のう……キョウヤよ。正直に答えてはどうかな? リズが言ったように、ヒイロが皆と同じ世界を感じるようにする……そのためだけに、その『眼鏡』を彼女に与えた、ということで間違いないか?」
にやにやと笑いながら、マスターに問いかけるベアトリーチェ。少し前までマスターに優しい言葉を掛けられ、顔を真っ赤にしてリズさんの背後に隠れていた女性とは思えない豹変ぶりです。
「な、何を言っているのかな? そんなの、当然じゃないか。僕の大事な相棒であるところの彼女のためなんだ。そ、それぐらいは当然ってものだろ?」
なぜかマスターは、彼女の質問に狼狽えたように言葉を詰まらせました。
「……おかしいですわね? 確かに今の話が本当なら、感動的ではありますけれど……なんだか、怪しい匂いがしますわ」
どんな嗅覚を働かせているのか、エレンシア嬢はいぶかしげな視線をマスターに向けています。
すると、マスターの態度はますます挙動不審なものになっていきました。
「や、やだなあ。、エレン。別に僕は、エレンに責められるようなこと、してないぜ?」
なぜか言わなくてもいいようなことを口にするマスター。エレンシア嬢に責められるようなこと、と言えば……
「しらばっくれても無駄じゃぞ、キョウヤよ。わらわはお前がその『委員長の眼鏡』とやらの効能を説明した際の台詞をはっきりと覚えておる」
「うう!」
説明した時の台詞? はて、どこか不自然な箇所があったでしょうか?
わたしは、なおも背中をさするメルティの手の感触にうっとりと目を細めつつ、そんなことを考えていました。
「覚えていないのなら繰り返してやろう。……『肉体の感覚強化もあるけど、どちらかと言えば無意識下まで含めた精神性の感覚強化の方が強い』じゃ」
ドヤ顔で語る聖女様ですが、特段、その台詞におかしなところはありません。
ですが、ここでもやはり、気づいたのはその手のことに鋭い『嗅覚』を持つエレンシア嬢でした。
「……肉体の感覚強化、ですの?」
「そうじゃ。先ほどの目的を果たすだけなら、ヒイロに足らんものは『魔力』の感知を始めとする精神性の強化のみで十分だったはずじゃ。ならば……『肉体の感覚強化』はこの期に及んでなぜ必要なのじゃ?」
ジロリと、マスターに薄紫の瞳を向けるベアトリーチェ。
「い、いや、肉体感覚の方だって、強化できた方が何かと便利でしょ?」
「……いえ、マスター。ヒイロの『素体』は、肉体の感覚に関して言えば、痛覚も含めて自在に操作可能です。もっとも、必要な情報を得るには【因子観測装置】に頼る方が確実ですので、必要以上に強化することはないのですが……」
当然、マスターもそのことはご存じのはずでした。
「えっと、さっきから何の話をしているんだ? 何が問題なのか、わたしにもわかるように話してもらえないかな?」
最初から会話に加わる気のないメルティを除けば、唯一話についてこれていないのは、アンジェリカでした。
「……アンジェリカさん。ここは黙って話を聞きましょう。多分ですが……そろそろ結論が出るはずですから……」
リズさんはうすうす感じているものがあるのか、アンジェリカの肩を軽く叩き、小さく首を振っています。
「さて、自分から言いたくないのであれば、わらわが話そうか? ヒイロは自身の肉体の感覚をある程度操作できる。しかし、精神性の感覚を高めるためには『委員長の眼鏡』を使用せねばならず、そうなると必然的に『彼女が意図しない肉体感覚の強化』がそこに付随することになると言うわけじゃ。……ふっふっふ。あとはわかるな?」
「……ええ、わかりますわ。そんなときに、思わぬ肉体的な刺激を受ければ……いくらヒイロさんと言えど、これまでにない反応をせざるを得なくなる。それこそ、不意を突くようなものですからね」
エレンシア嬢の声はすでに怒りで震え、花柄のドレスの背後で揺れる茨の髪は、鎌首のごとく持ち上がりつつありました。
……ここにきてわたしは、ようやく理解しました。先ほどからメルティがさすってくれている背中、その手の感触をこれまでにないほど『心地よく』感じているその理由に。
自身で操作できない感覚に対しては、どうしても受け身にならざるを得ないのです。
「キョウヤにしては、素晴らしい手際じゃ。褒めてやってもよいぞ。なにせこれで……」
「やめてください。その先は言わないでください」
マスターが何か言うより早く、認めたくない事実から耳を塞ごうと口を挟んだわたしですが、ベアトリーチェの言葉は止まりません。エレンシア嬢の茨は成長・増殖を始め、ようやく理解に達したアンジェリカの身体からは陽炎が立ち昇り……ただリズさんだけが、呆れたように顔に手を当ててため息を吐いています。
「ヒイロの初々しい反応を楽しむ『スキンシップ』が、これまで以上にたっぷりとできるようになるのじゃからなあ!」
「死にさらせですわ! この変態ども!」
エレンシア嬢の叫びに合わせ、『緑の茨』の奔流は、なおも見苦しく言い訳を続けようとするマスターと胸を張って高笑いを続けるベアトリーチェを飲み込み、あたりを埋め尽くしていったのでした。
次回「第8章 登場人物紹介(ヒイロによる情報整理)」