第158話 ハッピーバースデー
この都市においてマスターが殺害した三人の元老をはじめとする『法術士』たち。一般人換算で数十万人規模に及ぶ『ポイント』により生成された【スキル】。
恐らくは飽和点とも言うべきレベルを超えた『ポイント』により引き起こされたことなのでしょう。たった今、発現したそのスキルは、これまでのものとは大きく異なるものとなっていました。
○特殊融合スキル
『鏡を越えた君の願い』
体内で生成した『暗黒因子』を安定した状態で実在世界に固定し、『存在できなかった可能性存在』が持つ『世界への憎悪』を召喚する。
※元スキル『真理を語る愚神礼賛』
新たに生まれたスキルが既存のスキル『真理を語る愚神礼賛』を取り込み、大きく変質したスキル。それがこの『特殊融合スキル』です。
こんなことはもちろん初めてであり、解析したわたしにとっても驚くばかりでしたが、何よりもこのスキルを解析できたことによって、わかったことがあります。
『存在できなかった可能性存在』が持つ『世界への憎悪』
マスターの周囲に出現した黒い蛇。その正体はまさしく、これなのでしょう。
だとすれば、『暗黒因子』の役割とは……
「う、うああ、な、なんだ、その、手は……? わ、わたしに何をするつもりだ」
《闇》に覆われた右腕をゆっくりと自身に向かって伸ばしてくるマスターを前にして、『ミズキ女史』は身動きひとつすることなく、震える声を上げています。いえ、正確には蛇に睨まれた蛙の如く、動けないと言う方が正しいのでしょう。
「わからないかな? この黒いのは、ヒイロが『暗黒因子』って名付けてくれたんだけど……一見すると【ダークマター】に見えて、その実、ちょっと違う。何が違うかと言うと……」
マスターはすぐにでも彼女の頭を掴める位置にまで手を寄せながらも、もったいぶるように動きを止め、ひざまずく彼女を見下ろしています。
「アレがただの『未分化な状態』のモノであるのに比べて、コレは……『ありえない状態』のものなんだよ。だってそうでしょう? 本来なら相反するはずの『女神の愚盲』と『愚者の隻眼』を融和させる【因子】なんて、ありえるはずがないものだ。存在が定義できないという意味では、似ているのかもしれないけどね」
だからこそ、両者には『黒く見える』という共通点があるのでしょう。
「……ありえない状態? だ、だが、だから何だと言うのだ? どうして、こんな……禍々しい蛇どもが出現する?」
「決まってるさ。生まれたくても、生まれてこれなかったモノ。叶えたくても、叶えられなかったコト。そうしたモノたちから見れば、この『暗黒因子』は、まさに垂涎の的なんだよ。食べたくて仕方のないモノだ。あんな……あんなに『アリエナイモノ』が生み出せるなら……自分たちも『実在』できたっていいじゃないかってね」
「お、お前は何を言っている? そうしたモノたちだと? ま、まるで、それでは……」
どうしようもなくおぞましいものを目の前に突き付けられ、なおも目を逸らすことを許されない状態というのは、ある意味、これ以上ない拷問でしょう。『ミズキ女史』の『心』は既に崩壊寸前でした。
「そう。君が『知性体』を世界を定義する水鏡だと言ったのに対して、『彼ら』は既存の世界を否定し、奪い、新たに自身を置き換えようともがいている『水面下』のモノたちだ」
「ば、ばかな! それが本当だとして、どうして貴様にそんなモノが扱える? き、貴様は、貴様は一体何なのだ!」
「さあね。それより、君の他の質問に答えよう。僕が君に何をしようとしているのかと言えば……『コレ』を君の頭の中に『固定』してあげるのさ。そうすれば君は……君こそが……」
「や、やめろ! やめてくれ! そ、それだけは、それだけは嫌だ!」
顔面を蒼白にし、必死に叫ぶ『ミズキ女史』。しかし、マスターはとうとう、その手をゆっくりと彼女の頭に押し当てます。
「君こそが、スターだ! ……なんちゃってね」
おどけて笑うマスターが手を離し、彼女と距離を置いた直後でした。
黒い《闇》がまとわりついた彼女の頭をめがけ、周囲の黒い蛇たちが一斉に殺到したのです。飢えと渇き、あらゆる絶望の中から唯一見つけた光明に縋り付くように、彼女の頭に固定された『暗黒因子』へと群がっていく異形たち。
「う、うあああああああ!」
彼女の姿は、そんな『彼ら』にあっという間に覆いつくされ、見えなくなってしまいました。
しかし、マスターはそれに一瞥もくれることなく、唖然として見守るわたしの元に歩いてきます。いえ、歩こうとしてバランスを崩し、落下してしまいそうになりました。
「うわっと、危ない!」
「あ、マ、マスター!」
わたしは慌てて【因子演算式】を展開し、マスターの身体を気流制御で支えました。
「あはは、ごめんごめん。足場にしてた蛇がなくなってたの、すっかり忘れてたよ」
「……はあ。でも、ご無事で何よりです。今回ばかりはどうなることかと思いましたけど……」
「うん。心配させてごめんね」
「いえ、とんでもないです。『法王の筆』が機能を停止したせいか、他の皆さんが戦っているはずの『擬似生物兵器』たちも動きを止めたようですね」
わたしは彼女たちの周囲に放っていた《スパイ・モスキート》からの情報を確認し、マスターに伝達しました。
「そっか。良かった。思いのほか手間取っちゃったから、心配だったんだけど。誰も怪我はなさそうかな?」
「はい。メルティが頑張ってくれたようですね。彼女だけは多少傷も負っているようですが、他は無事です」
「え? メルティの珠のようなお肌に傷が? 大変じゃないか! 早く戻らないと!」
わたしが何気なく報告した言葉に、大げさなほどの反応を見せるマスター。
「マスター。言動がベアトリーチェに似てきていませんか?」
「うん。何だか最近、彼女は僕の同志なんじゃないかと思えてきたよ」
「……はあ、そうですか」
先ほどまでの禍々しさが嘘のようににっこりと笑うマスターに、毒気を抜かれてしまったわたしですが、とはいえ、まだ片付けなければいけない問題は残っています。
「マスター。彼女はどうするのですか?」
そう言ってわたしが指し示した先には、黒い蛇に覆われた人型の塊がありました。
「うん? ああ、あれね。もうすぐ形がなくなるんじゃないかな。悲しいことだけど、どんなに頑張っても、『アリエナイモノ』がそのまま存在し続けることはできない。僕のスキルが『暗黒因子』をこの世界に固定できる時間だって、限られてる。それと同化した『彼女だった人形』も同じだろうね」
マスターがそう語る傍から、黒い蛇の塊はグズグズと形を乱し、溶けるように消えていってしまいました。
「さて、それじゃあ次は……」
マスターは、つぶやきながら、ある方角に目を向けました。
わたしも釣られてそちらを見れば、『暗黒の海』が依然としてふわふわと漂っている宙域があります。
「あれを何とかしようか。あのままほっとくと、この都市全体に拡がっちゃうからね」
「あ、そ、そうですね。そうしましょう」
わたしは気流を制御し、マスターと自分の身体をゆっくりと『暗黒の海』に近づけていきます。
「よし、この辺でいいよ。じゃあ、始めようか。……《グラウンド・ゼロ》」
軽い口調でマスターがそう言った次の瞬間。目の前に広がっていた『暗黒の海』は、まるで記録映像の巻き戻しを見ているかのようにするすると縮小し、元の形を取り戻していきました。
「うん。こんなもんだね。それじゃあ、ちょうどいい足場もできたし、あそこに降りようか?」
「あ、はい」
わたしたちは、ゆっくりと島に降りていき、途中で気流制御を解除すると、そのまま『固い地面』に着地しました。
「うん。すっかり元に戻っているみたいだね。正直、ここまで上手く行くかは自信なかったけど、良かったよかった」
一件落着、とばかりに頷きを繰り返すマスターでしたが、わたしにはまだ気になっていることがありました。
「……でも、これで『法王』は消滅したのでしょうか? 肉体が消えても『知識』そのものが本体だとしたら……」
しかし、わたしが口にした懸念に対し、マスターは自分の掌をひらひらと揺らして笑いました。
「大丈夫だよ。だからこそ、彼女の『頭の中』に『暗黒因子』を固定したんだから」
「どういう意味ですか?」
「僕が彼女に言った言葉、聞いてたでしょ? 『法王』なんてものは、粉々になるまで破壊しつくしてやるってね。まあ、形の無いモノは壊せないけど……『究極の叡智』とやらが、『法王』そのものだというならば、そんな『知識』は存在しないものにしてしまえばいい。それだけで十分、壊したことになるだろうさ」
彼の言葉に、わたしは黒い蛇の群れが『彼女』の頭をめがけて襲い掛かった時のことを思い浮かべました。
「……なるほど。今の『法王』は、実存在に憧れ、嫉妬し、憎悪を持って彼女の『脳』を喰らった『黒蛇』の腹の中にいるということですか」
「そのとおり。『非存在の腹の中』じゃあ、どうやったところで、この世界に影響を与えることなんてできないでしょ?」
まさに『目に見えない万華鏡』にも通じるところのある方法で、マスターは『法王』を破壊してしまったのでした。
「とはいえ、少し勿体なくはありませんか? 究極の叡智とやらがどんなものかはわかりませんが、それがあれば、この世界の謎の解明もかなり進んだと思いますが……」
「でも、その『知識』を得た奴が『彼女』みたいに『法王の代弁者』になってしまったんじゃあ、意味がない。……でも、確かに僕も何もしないままじゃ『もったいない』かな、とは思ったんだよね」
そう言うとマスターは、左手をわたしに差し出してきました。
「えっと……なんでしょう?」
意味が分からず、首を傾げるわたしにマスターはにこやかに笑いかけてきます。
「例のごとく、生成時間を遅らせてあるからね。見ててごらん? もうすぐこの手の中に、『究極の叡智』を壊した代償の存在が生まれるから。楽しみにしててよね?」
「……な! マ、マスター! まさか……『ありふれた硝子の靴』を? い、いえ、これは……別の『特殊融合スキル』?」
どうやらマスターは、『ありふれた硝子の靴』に代わる新たなスキルを使用したようです。
○特殊融合スキル
『死角だらけの三面鏡』
・集合的無意識領域を含むすべての『世界』を知覚できるだけの能力の応用により、逆説的に【ダークマター】を理解(定義)できる。
・【ダークマター】の『未分化』な性質を利用し、任意の性質を持った器物を生成できる。生成条件は、世界で唯一の価値がある物を破壊、あるいは消滅させること。
※元スキル
『他人の努力は蜜の味+』
『わがままな女神の夢』
『動かぬ魔王の長い腕+』
『ありふれた硝子の靴』
あの日、ドラグーン王国の王城ドラッケンにある『賢者の石』──『王魔』たちの至宝とも言うべき『想念の欠片』を反転複製した時に生まれたモノ。
それは世にも禍々しい『不完全の病』を生み出す『パンデミック・ブレイド』でした。
その例を思えば、異なるスキルによるものとはいえ、危険極まりないナニカが生まれることは想像に難くありません。
「何が出るかな? 何が出るかな?」
だと言うのにマスターは、ワクワクした顔で自分の左の掌を見つめ続けています。
すると、徐々にではありますが、彼の手の中に輪郭を現してきたものがありました。
「……眼鏡、ですか?」
マスターの世界における視力矯正器具。おもにフレームを耳にかけ、両目の前にレンズを掲げる、あの『メガネ』です。
「うん。まあ、そうとも言うね」
「……これはどう見ても、そうとしか言わないでしょう」
あまりの予想外な代物を前に、わたしはつい、マスターにぞんざいな口を利いてしまいました。
「いいや、もっと相応しい呼び名があるよ」
「……え?」
「これはね……『クロブチメガネ』って言うんだ!」
「は、はあ……」
手にした眼鏡をぎゅっと握り、力強く高らかに宣言するマスターに、わたしはますます呆気にとられてしまいました。
「ヒイロ、君はわかっていないね。いいかい? 眼鏡っ娘のメガネといったら、誰が何と言おうと黒縁眼鏡じゃなきゃ駄目なんだ」
マスターの言葉はまるで呪文のように意味不明ですが、確かに彼の手に握られた『メガネ』は透明なレンズを黒いフレームで縁どったタイプのものです。わたしが解析する限り、この黒縁の部分が【ダークマター】なのでしょう。
「しかし、マスター。わざわざ眼鏡の形にする必要があったのですか? マスターの眼の中には『ヴァーチャル・レーダー』がすでに備わっていますし、いまさら視力の底上げを図る必要は少ないかと思いますが……」
しかし、わたしのそんな疑問に対し、マスターは何を言っているんだとばかりに大きく首を振ります。
「やれやれヒイロ、君は僕の話を聞いていなかったのかい?」
「え?」
「僕は『眼鏡っ娘』と言ったんだ。なのに、僕が着けるわけがないだろ?」
「では、誰が着けるのですか?」
「ヒイロ」
「え? …………ええ!?」
耳を疑う彼の言葉に、わたしは思わず身体を硬直させてしまいました。冗談ではありません。【ダークマター】でできた眼鏡などという危険な物を、わたしが着ける?
あ、いえ、だったらマスターに着けさせてもいいのかという話になりますが、あの『パンデミック・ブレード』ですら問題にしない彼とわたしとでは、比較になりません。
「そんな顔しなくても大丈夫だよ。前と違って、今の僕には十分な知識があったからね。新しいスキルは代償が必要な分、細かい融通が利くみたいだし、ヒイロに危険のあるものにはなってないからさ」
「そ、そうですか……。で、でも、だとすると、どんな効果があるモノなのですか? 私が着けることに何の意味が?」
しかし、マスターはその問いには答えることなく、にまにまと笑いながらわたしに近づいてきました。
「え、えっと……マスター?」
「そのまま、そのまま、動かないでね」
顔の両脇に、そっと伸ばされる彼の両手。思わず胸の動悸を感じながら、わたしは命じられたとおり身動きせず、彼のすることに身を任せます。
両耳の上にかすかに金属のようなものが触れる感触。わすかに違和感を感じる視界。
目の前から徐々に距離を置いて下がるマスター。喜びに目を輝かせ、驚いたような声を上げています。
「うわあ、うわあ、うわあ……」
よくわかりませんが、マスターは時折身を屈めたり、左右に動き回ったりと、何やら角度を変えてわたしのことを見ているようです。
「えっと、その、マスター?」
「いやいやいや! これはすごいよ! 予想外だ。何て破壊力なんだ! これは僕の中の固定観念を完全に打破したと言っていい!」
「マスター!」
わたしはわけのわからない状況に、思わず声を大きくしてしまいました。
「え? ああ、ごめんごめん」
「一体どうしたと言うのですか?」
「いやあ、僕、眼鏡っ娘と言ったら黒髪おさげに黒縁眼鏡の女の子しかイメージになかったんだよね。いわゆるザ・委員長って感じの」
「は、はあ……」
「でも! 流れるような真っ赤な髪に、黒縁眼鏡、制服姿の女の子って奴が、ここまで『クる』ものだなんて思わなかったよ! これはもちろんヒイロがとびぬけて可愛いからだろうけど、それにしてもこれはすごい!」
感心したように言いながら、わたしの周りをぐるぐる回って観察するマスター。
「ちょ、ちょっと待ってください! わたしが聞きたいのはそんなことじゃないんです! とにかく落ち着いて話をしてください!」
あまりの恥ずかしさに頬の熱さを感じながら抗議の声を上げたわたしですが、それぐらいで彼が聞き入れてくれるはずもありませんでした。
「いやあ、これはまさに新しい『委員長』の誕生だね!」
「そ、そもそも、何なんですか、その委員長って!」
次回「第159話 聖女の瞳と委員長の眼鏡」