第154話 法王の筆
大変長らく中断してしまい、申し訳ありませんでした。
本日より、連載を再開いたします。
『女神の亡霊』の消滅。それはすなわち、メルティとリズさんを覆う『泡』の消滅です。
「やれやれ、世話の焼ける『女神』様じゃな」
鉤爪がついた鉄棒のような《拷問具》を消えゆく『亡霊』の身体から引き抜き、ベアトリーチェはうんざりしたように息を吐きました。
「……え? え? こ、これは……?」
「あれ? さっきまでと景色が違う……」
一方、『泡』に囚われていたリズさんとメルティの二人は、先ほどまでの虚ろな表情から一転して生気を取り戻し、びっくりしたように周囲を見渡しています。
「あ、あのキョウヤ様? いったい何が……」
メイド服の襟元を正しながら、リズさんは戸惑ったようにマスターに目を向けました。
「やあ、リズさん。別世界への旅行、楽しかったかい? こっちはこっちでミズキさんとの話がかみ合わなくて困ってたんだ。ちょうどリズさんみたいな話のわかる人を待ってたんだよ」
「は、はあ……そうでしたか」
マスターの軽口に、腑に落ちない顔で頷くリズさん。しかし、聡い彼女は状況が緊迫したものであることを瞬時に察したのか、それ以上問いただそうとはしませんでした。
「リズ! 良かった!」
それを見たエレンシア嬢は、ようやくマスターから身体を離し、一目散に彼女目がけて走り寄っていきます。足元からは既に黒蛇の姿は消えていますが、あれだけの憎悪の渦の中心にいたにもかかわらず、彼女には特に変わった様子も見られませんでした。
「お嬢様。御心配をおかけしてしまったみたいで、すみません」
「いいのよ。無事だったんだから! メルティも、無事でよかったわ」
リズさんと軽く抱擁を交わした後、エレンシア嬢は依然として椅子に座ったままのメルティにも声を掛けました。
しかし、メルティは自分の両手の掌を顔の前にかざし、不思議そうに握ったり開いたりを繰り返すばかりで、エレンシア嬢の声に気付いた様子もありません。
「まさか、ここまで早く『女神の亡霊』が敗れるとは……これも『反存在』の影響? いや、わたしはそこまで計算したうえで……」
白衣の裾を握り締め、ぶつぶつと独り言を漏らす『ミズキ女史』。
「ふん。貴様は、わらわを舐め過ぎじゃ。未完成だのなんだのと言ってはくれたが、そんじょそこらの【特異点】とやらと、わらわを同列に語るものではない」
背中の白い翼を大きくはばたかせ、ベアトリーチェは銀の瞳で『ミズキ女史』を睨みつけています。ですが、それでもなお、『ミズキ女史』は呟きを続けていました。
「やはり、先ほどの『蛇』が? 世界への憎悪……か。それは確かに『女神』が最も恐れる感情だが……これは偶然なのか?」
「まあ、なんでもいいじゃん。とにかく二人を人質にしていた『泡』が消えた以上、ここからの僕はスキルも使いたい放題だ。……どういうことか、わかるよね?」
にたり、と笑みを深くするマスター。
しかし、次の瞬間でした。
「……《法王の筆》、顕現。書換対象:空間座標」
『ミズキ女史』が低い声で呟き、その腕を振りかざすや否や、周囲の景色が一変してしまったのです。
メカニカルな構造体でできた壁面は姿を消し、代わりに現れたのは荒涼とした岩場の大地でした。吹き抜ける少し冷たい風は、ここが屋外であることを示しています。
「な! 空間転移? 《転移の扉》も抜きに?」
「この程度で驚いてもらっては困るな。この『大法学院』においては、『法王』たるわたしは万能の存在なのだから」
事もなげに言い放つ彼女の手には、小さな筆のようなものが握られていました。実のところ、今の現象は単なる空間転移ではありません。わたしたちが立つ岩場には、先ほどの部屋の一部までもが、まるで切り取られたかのような形で存在しているのです。
「まったく、君たちのおかげで栄光の『議場』が岩だらけになってしまったのだぞ。その責任は取ってもらわねばな」
「……場所を変えた程度のことで、この状況を切り抜けられるおつもりですか? 今やマスターの行動を制限していた『泡』はなく、ベアトリーチェもメルティも戦線に復帰しているのです。もはや貴女に勝ち目はありませんよ」
ちなみに、アンジェリカだけはまるで何事もなかったかのように穏やかな寝息を立てたまま、即席の寝台で眠りについています。
「……まったく、大物ですわね」
そんな彼女に苦笑交じりの視線を向けるエレンシア嬢ですが、こうしている間にも、足元の大地に植物を這わせ、あたりを覆い尽くしていきます。
一方、わたしはマスターの反応を確かめるべく。彼に目を向けました。しかし、彼は何故か、焦点の合わない瞳のまま、ぼんやりとあらぬ方向を見つめています。
「君たちは、まるでわかっていないな。言っただろう? わたしは彼を解析する間、『ノイズ』を除去しておきたかっただけだと。先ほどの思わぬ『感情』には驚かされたが、大した実害はない。『反存在』の『解析』自体は終わったのだ。ゆえに、彼はもはや脅威ではないし、そもそも君らのような『ノイズ』など、最初から眼中にない」
『ミズキ女史』がリズミカルに振るう《筆》──先端から淡い光を放ち、滑らかな表面に無数の紋様が刻まれたその《筆》は、恐らく『法術器』の類でしょう。
「君らには恨みはないが、あくまで『反存在』の抹消を邪魔立てすると言うのであれば、もろともに消えてもらおう」
彼女はそういうと、《筆》を天高く掲げました。
思わずその動きにつられ、視線を上にあげたわたしたちが見たもの。それは、何もない虚空からにじみ出るように現れた無数の『異形』です。
まるで『愚者』のようにも見える鳥や竜などの姿をした彼らは、しかし、その外見とは裏腹に非常に統制のとれた動きで、わたしたちのいる『浮き島』を包囲するように飛行し始めました。
するとここで、それまで自分の手を見つめ続けていたメルティが立ち上がります。
「……あは。なにあれ? 悪趣味ね。あれで『愚者』のつもりなのかな?」
彼女の額にばっくりと口を開いた『愚者の隻眼』からは、血のような赤い輝きが溢れ出し、それに呼応するかのように身体の各所の赤い金属板も輝きを放ち始めました。
しかし、『ミズキ女史』は、メルティの『隻眼』を忌々しげな目で見つめただけで、警戒するそぶりさえ見せません。
「君らも知っている通り、『法学』の魔法は『知識』の量がそのまま、法力となるものだ。いかに『愚者の隻眼』が魔力の反作用に優れていようと、……無限に近い知識を有するこのわたしには意味がない。ほら、このとおり」
空に増え続ける無数の『異形』。その姿は、いびつな形の生き物のようですが、わたしが解析する限り、その材質はただの生物のものではありません。
擬似的な生物兵器。まるでウイルスのように増殖を続けるその数は、百を超え、千を超え、万を超え、なおも止まることを知らないかのようでした。
しかし、そんな敵の威容を目の当たりにしてもなお、わたしたちは動じる必要はないのです。なぜなら……
「……ミズキさん! 何があったかはわかりませんが……悪いことは言いません。降参してください!」
「リズ大法術士。降参とは、どういうことかな? これだけの兵力差を前に君らが言える台詞ではないと思うぞ。むしろ、キョウヤ君以外の皆にこそ、降参してもらいたいと言うのが、わたしの本音なのだがね」
自信に満ちた顔で降伏勧告を突き返す『ミズキ女史』に対し、リズさんはなおも首を振ります。
「……あれは『法術器』ですよね? だとすれば、その攻撃には貴女の意思が、『殺意』があります。この状況でキョウヤ様にそんな攻撃を仕掛けたりすれば……」
数十万を超える規模で増え続ける『擬似生物兵器』。そのすべての攻撃が跳ね返される。さすがの『ミズキ女史』でも、塵も残さず消滅させられることは間違いないでしょう。
しかし、彼女はおかしそうに笑うばかりです。
「ははは。なるほどね。ならば先に、『これ』を証明した方が良さそうだ」
『ミズキ女史』は手にした『筆』を真っ直ぐにマスターに伸ばし、歌うように言いました。
「《法王の筆》。顕現。書換対象:屈折率、収束率、減衰率」
エネルギー反応を感知。マスターは先ほどの呆然とした状態からは既に脱しているようですが、わたしよりは反応が遅れているように感じられます。
「マスター!」
「え? おおっと、危ない」
放たれた閃光は、マスターが掲げた『オリハルコンの盾』に直撃すると、激しい火花を散らして弾けました。
「ほら、ね?」
「……え?」
目を丸くしたリズさんは、マスターに問いかけるような視線を向けました。
「うん。彼女には殺意はあったし、僕も彼女にとっさに殺意を向けてはみたんだけど……発動しなかったみたいだね。──『世界で一番醜い貴方』」
「そんな馬鹿な……」
最後のつぶやきは、わたしの口から漏れ出たものでした。問答無用の効果を発揮するマスターのスキル。その発動そのものが阻害される可能性など、わたしはこれまで考えたこともありませんでした。
「現象に作用があるならば、その反作用を演算することは、そう難しいことではない。ならば、その逆もしかりだよ。さあ、今や億にも届こうかというあれらの『兵器』が相手では、そのような小さな盾では少々心許ないのではないかね?」
空を真っ黒に埋め尽くす兵器群。あれにどのような攻撃手段があるかはわかりませんが、その圧倒的な物量は、それだけでも抗いがたい脅威です。
しかし、その時、パンと何かが打ち鳴らされるような音があたりに響き渡りました。驚いてそちらを見れば、メルティが自身の両手を胸の前で合わせています。
「あはは! じゃあ、あの玩具は、わたしがみーんな! コワシテあげる!」
よく見れば、メルティの身体にも異変が起きていました。彼女の両肩、両鎖骨、両脇腹に存在しているはずの赤い金属の板。それがすべて消失していたのです。メルティはそのまま、合わせていた両手をゆっくりと離します。
離れていく掌の間から漏れるのは、血のように真っ赤な光。
彼女の両掌には、それぞれ一つずつ……ギョロリと動く『愚者の隻眼』が出現していたのです。
「……絶禍級」
『禍ツ』級、『災禍』級、『惨禍』級、『絶渦』級。わたしは『愚者』にそんな区分けがあることを思い出していました。三つの『隻眼』を有する最上位の『愚者』。精鋭で構成された『王魔』の調査隊を瞬く間に全滅させたと噂され、その存在の信憑性さえ疑われていた『空想上』の化け物。
まぎれもない現実となって現れた彼女は、究極の身体強化系スキル『肉体は精神の奴隷』を最大限に発揮し、大地を爆発させる勢いで『異形』の群れに飛び込んでいきます。
空を飛べないはずの彼女ですが、圧倒的な身体能力による跳躍は、そんなハンデなど全く感じさせません。彼女は宙を飛びながら、すれ違いざまに数十体の敵を消滅させ、手近な一体に強烈な蹴りを叩きつけたかと思うと、その反動ですぐさま次の敵に跳びかかっていました。
一方、彼女に向けられた炎や光線、雷撃といった多種多様な『異形』たちの攻撃は、いずれも『隻眼』が放つ真紅の輝きの前に、次々と消滅していきました。
「大した化け物だな。だが、億を超える敵とたった一人で戦い続けるつもりか? 無駄なことを……」
真紅の閃光と共に『異形』たちが爆散していく空を見上げ、『ミズキ女史』は呆れたように肩をすくめました。
「そうでもなかろう。いかに数が多かろうと、一度にこちらに攻撃できる数はたかが知れておる。ああして時間稼ぎをしている間に……うぬを倒せばそれまでじゃ」
ベアトリーチェは手にした《女神の拷問具》のひとつ、錆びたノコギリを手に持ち、『ミズキ女史』にそれを突きつけます。
「ふむ。確かにそれは困るな。ならば、こうさせてもらおう。《法王の筆》、顕現。書換対象:自己座標」
しかし、冷静な声でつぶやいた『ミズキ女史』が《法王の筆》を振りかざすと、その姿は一瞬で掻き消えてしまったのです。
「やっぱり、空間転移で逃げたね。こうなるんじゃないかとは思ったけど」
「……マスター。どうしますか? ここはいったん退却という手も考えられますが」
この展開を予想していたらしいマスターは、落ち着きを払った様子ではあります。しかし、マスターのスキルを無効化される恐れがある中、このままあれだけの敵と正面から戦い続けるのは無謀というものでしょう。メルティの体力も無限に続くわけではないはずです。
ところがマスターは、そんなわたしの提案に首を振ります。
「駄目だよ。空間転移ができる相手から撤退なんて、意味がない。って言うか、たぶん彼女の思うつぼだよ。彼女の相手は僕がするから、他の皆は、この場を護っていてくれるかい? ほら、アンジェリカちゃんは未だにぐっすりお休みだしさ」
「しかし、キョウヤ。あの数は流石に厳しいぞ。今でこそメルティがかなりの敵を引きつけてくれてはおるが……守ると言ってもそれほど長くはもたんじゃろう。何か考えがあるのか?」
「そうですよ、キョウヤ様。スキルを無効化するような相手と一人で戦うなんて、危険すぎます!」
ベアトリーチェに続き、リズさんまでもが反対の声を上げましたが、マスターはなおも首を振りました。
「彼女だって、すべてのスキルを無効化できるわけじゃなさそうだよ。少なくとも、僕は今でも『魔法』が使えるみたいだし、ということはつまり、『白馬の王子の口映し』は無効化されていないってことだ」
「いえ、マスター……過去に発動した継続発動型のスキルには通じないというだけかもしれません。油断は禁物です」
「うん、そういう冷静な分析をしてもらえるとありがたいね。だから、ヒイロ。君には一緒に来てもらいたい。僕は空を飛べないし、この『空中都市』の浮き島を探して回るにも移動手段がないとね」
「空……ですか。そうですね。重力制御以外にも飛行手段がないわけではありません。わかりました。お力添えいたします」
などと会話を続けていると、メルティが戦っている場所とは別の方面から、第一陣とも言うべき敵が襲来しました。
鳥のような『擬似生物兵器』たちは、一気に急降下しながら口から炎を吐きだしてきます。
「《ライフ・クリエイト》。防火樹壁」
しかし、いち早く反応したエレンシア嬢が地面に自身の髪の茨を突き刺したかと思うと、そこから急激な勢いで伸びた樹木が壁のように炎を遮りました。
「まったく、これは骨が折れそうじゃな!」
ベアトリーチェも早速周囲に《拷問具》を展開し、左右から滑空してくる別の『擬似生物兵器』たちに叩きつけました。
「『閉じられた植物連鎖』!」
続いて、エレンシア嬢の周囲五十メートル以内の植物が一斉に刃を生やすと、次々に迫りくる敵の身体へと突き刺さり、剣山のような防御壁が形成されていきます。
「リズさん。アンジェリカちゃんを見ててあげてくれるかい?」
「は、はい。……すみません。お役に立てず。お気をつけて」
「うん。大丈夫。すぐに片付けて来るよ」
申し訳なさそうに頭を下げるリズさんに優しく笑いかけると、マスターは私の方に向き直りました。
「さあ、行こうかヒイロ。彼女には色々と思い違いがあるみたいだし、ここらでひとつ、それを『教えて』あげる必要があると思うんだ」
「は、はい。行きましょう!」
次回「第155話 暗黒の海」