第151話 女神の特異点
「……ミズキさんの仕業かな?」
リズさんとメルティを包み込む大きな『泡』を目にしながら、マスターは『ミズキ女史』に静かな声で問いかけました。
しかし、彼女は面白くもなさそうに首を振ります。
「残念ながら、わたしではないよ。ただ、わたしは『これ』が何なのか、よく知っている。……ああ、エレンシア君。余計な手出しはしない方がいい。一歩間違えれば、中のモノがまるごと消滅してしまいかねないぞ」
「え?」
二人を心配して立ちあがり、駆け寄ろうとしたエレンシア嬢は、『ミズキ女史』の言葉に動きを止め、目を丸くしています。代わりに口を開いたのは、同じく椅子から立ち上がりかけていたベアトリーチェでした。
「一体、何が起きておる? その『泡』は何なのじゃ?」
「見てのとおり、ただの『泡』だよ。少なくとも、『外側』にいるわたしたちにとってはね」
「ならば、『内側』にいる者にとっては?」
「世界そのもの──かな?」
不敵に笑う『ミズキ女史』。彼女は再び椅子にゆっくりと腰を掛けると、何かを探るような目でマスターを見つめました。しかし、マスターは少し驚いたような顔のまま、黙って二人を包む『泡』を見つめているだけです。
そのため、わたしが代わりに言葉を続けました。
「今の話の流れからすれば、この『泡』が貴女の仕業である可能性は十分にあると思いますが」
「そうだね。ヒイロ君。論理的に考えれば、今まさに『泡』の話をしていたわたしこそ、その可能性は高いだろう。でもねえ、犯人探しもいいけれど、その前にこの『泡』について、君は解析できていないのかい?」
「……実体はなく、エネルギー反応はおろか、【因子】や『魔力』の存在も感知できません。ただ、『泡のように見える』としか……」
悔しくはありますが、わたしの【因子観測装置】をもってしてもなお、『泡』の正体は掴めませんでした。
時が止まったように身動き一つしない二人の周囲を、半透明の膜が覆っている。わたしの素体の『眼』には、ただそれだけが映っています。
「見えているなら十分だ。君も立派な『知性体』の一員だという証明だよ」
からかうように笑う『ミズキ女史』。
しかし、ここで、ゆらり、と音もなく立ち上がった人物がいます。
「で? 知っているって言うんなら、教えてもらえないかな? どうすれば、二人を無事に『泡』から出せるのか」
底冷えのするような声で語るマスターの手には、『マルチレンジ・ナイフ』が握られており、そのオリハルコン化した刀身は、真っ直ぐに『ミズキ女史』に向けられていました。
「ふむ。君のような反存在が、『他人』をそうまで大切に思うなんてね。やはり、彼女たちは彼女たちで、危険な存在ではあるようだ」
「質問に答えてくれないかな。それとも、今度はこの都市の連中を皆殺しにでもすれば、教えてくれるのかい?」
「もちろん、そんなことをせずとも教えるさ。まず最初に、誰の仕業かって話からだけど……一言で言えば『女神』だ。『可能性の泡』をここまで純粋な形で世界に発現させるとなれば、それが可能な『知性』など、この世界では『女神』以外にありえない」
『ミズキ女史』はなぜか、いかにもつまらなそうな顔をしています。
「それこそ、随分とタイミングが良過ぎませんか? なぜこの瞬間に、こんな場所で、『女神』が関わってくるというのですか?」
『教会』の勢力圏内だと言うのならばともかく、ここは『法学』の魔法使いの本拠地なのです。しかし、わたしのそんな疑問に対し、『ミズキ女史』は小さく手を振って言いました。
「わたしたちがいる『世界』に、『女神』の勢力圏内でない場所など、そうそうありはしない。あるとすれば、それこそ『愚者の聖地』ぐらいのものだろう。それから、なぜ今この時に、という疑問の答えだけど、それも簡単だよ。『女神』にとって、『最も恐るべき相手』が世界の成り立ちに関する致命的な事実を『知って』しまったからさ」
「恐るべき相手、ですか? まさか……」
「そう。『愚者』でありながら、『王魔』の力を有する存在。さっきの爺さんたちの言葉を借りれば、過半数を超え、世界の『議決権』を手に入れかねない存在だ。だからこそ、『女神』は全身全霊でその存在を隔離した」
「で、でも、メルティは貴女の話なんて聞いていなくてよ?」
つい先ほど、眠気に負けて舟を漕ぎはじめていた彼女の姿を思い出してか、エレンシア嬢が反論の言葉を口にします。しかし、実のところメルティには、スキル『学習能力強化』があり、頭は決して悪くないのです。
ただ、それはともかく、『ミズキ女史』の今の説明には一つだけ引っかかる部分がありました。
「ミズキさんは、ここでその話をすれば、こうなることがわかっていたんだね?」
「予測できなくはなかったかな」
「《レーザー》」
マスターの手元から『マルチレンジ・ナイフ』のレーザー光線がほとばしり、『ミズキ女史』の頭の脇をかすめていきました。
しかし、それでも彼女は微動だにしません。しかし、その顔は少しだけ歪んでいるようです。しかしそれは、熱による苦痛というより、内面の古傷を思い出しての痛み──何故かわたしには、彼女の表情がそんな風に見えていました。
「もう、どうでもいいからさ。早く二人を助ける方法、喋ってくれないかな?」
「……少なくとも、二人を消滅させずに助けようとするならば、キョウヤ君。君は余計なことをしない方がいい。さっきはああ言ったが、実のところ、あの『泡』はちょっとやそっとの攻撃ではびくともしない。だが君の場合、軽く触れただけでもおじゃんだ。どころか、能力の余波ひとつで消滅する」
「じゃあ、どうすればいいんだい?」
「彼女たちを救える可能性があるのは、この中ではただ一人。【女神の特異点】たるベアトリーチェ君だけだろう」
「……わらわが?」
急に話を振られたベアトリーチェの周囲には、再び《女神の拷問具》が宙に浮いていました。
「【特異点】としては大きく逸脱してしまった私に代わって、君にはぜひ、その役割を全うしてもらいたい。いや、全うするところを見せてもらいたい」
「……いきなり、そんなことを言われてもな。何をすればよいか、さっぱりわからんぞ」
「そんなことはないはずだ。君が【特異点】ならば、必ずその自覚はある。『女神』が生み出してしまった『世界の中に世界があるという矛盾』を解決する。そのための方法を、君は『無意識のうちに知って』いるはずなんだ」
「…………」
『ミズキ女史』の語りかけに、黙って耳を傾けるベアトリーチェ。彼女はゆっくりと左右を見渡し、自身の『神器』である《女神の拷問具》に手を伸ばしました。
「……ずっと疑問には思っていた。なぜ、わらわのような可憐で美しい聖女の『神器』が、よりにもよって『拷問具』なのかと……」
呟きを続けるベアトリーチェ。何やらさりげなく自賛の言葉が混じっていたのは気にしないことにしましょう。
「そして、わらわのスキル『真実を告げる御使い』」
彼女は再び、背中の白い翼を展開し、大きくそれを羽ばたかせました。
「罪を量る《天秤》、苦痛を与える《拷問具》、そして……『真実』」
「なるほどね。確かにそれらは……『女神』にとっては別の意味で『致命的』なものかもしれない」
ベアトリーチェのつぶやきから何を理解したのか、『ミズキ女史』は納得がいった顔で頷きを繰り返しています。
「わらわは、わらわの為すべきことは……『女神』に真実を伝え、その『愚盲』を啓かせることなのじゃな……」
「残酷な役目だね」
『ミズキ女史』の言葉は、ただの軽口のようにも聞こえますが、その声の響きには、底知れない複雑な想いが見え隠れしているようです。
「でも、それでも、わらわがやるしかない。いつか来る、その時のための『予行演習』というわけじゃな、これは」
そう言って『ミズキ女史』に目を向けたベアトリーチェの顔は、わずかに微笑んでいました。
そして彼女は、そのままゆっくりと『泡』に歩み寄っていきます。
「……お前の想いは届かない。どころか、届いた想いは、『相手』にとっての苦痛であり、『毒』である。どんなに憧れても、どんなに腕を伸ばしても、そうすればそうするだけ、お前は疎まれ、憎まれる」
彼女の唇から紡がれる『真実』を告げる言の葉。すると、それに合わせて、まるで建て付けの悪い建物が軋むような音があたりに響き渡ります。
「な、何ですの? この音は……」
「ふふふ。どうやら、お出ましのようだ」
きょろきょろと周囲を見回すエレンシア嬢を横目に、『ミズキ女史』は虚空を見上げ、満足そうに目を細めて笑っています。
すると、その直後のこと。彼女の視線の先──ちょうど『泡』のある真上の空間に、ゆらりと何かの影が現れました。
その影は、二人を包む『泡』と同様、【因子観測装置】では解析できず、ただわたし自身の『肉眼』でのみ、感知できるもののようです。
「顕れたか、女神よ!」
ベアトリーチェは鋭く叫ぶと、戦闘準備とばかりに、周囲に展開した《女神の拷問具》を激しく回転させました。
「……あれが、『女神』?」
「そうとも、あれが『女神』だよ。ヒイロ君。君はアレを見て、どんな感想を持ったかな? 心が洗われるかい? それとも……」
心が洗われる? とんでもない。
あれほど『罪深いモノ』を見て、そんな感想など抱けようはずはありません。
「わたしの感想を言わせてもらうならば……『反吐が出る』。これしかないね」
吐き捨てるようにそう言った『ミズキ女史』の顔には、明らかな嫌悪の表情が浮かんでいます。
彼女のような異常な存在をして、『反吐が出る』と言わしめた『女神』の姿。しかし、その外見だけを問うならば、どうということはありません。おぼろげな人の輪郭だけが確認できる程度の、霧のようなモノです。
「……あまり、直視していたくはないモノですわね」
エレンシア嬢の感想もまた、『ミズキ女史』に近いもののようです。
しかし、しかし……それ以上にわたしが抱いてしまった感想はと言えば……
「ああ、なるほど。これが、これが……『同属嫌悪』というものなのですね」
次回「第152話 知は力なり」