第136話 一時の帰還
結局、人騒がせなマスターの言葉でひと悶着こそあったものの、最終的には彼のスキル『鏡の中の間違い探し』は絶大な効果を発揮し、ベアトリーチェの母親を本当の意味での正気に立ち返らせることに成功しました。
とはいえ、長年の『狂気』によって憔悴しきった彼女には、安心して休める場所が必要でした。同じく孤児院の子供たちも、『教会』からの襲撃を考えるならば、この場所にとどまっているわけにもいきません。
わたしたちは早速、彼女らを連れてドラグーン王国へ戻ることにしました。
移動方法はと言えば、エレンシア嬢の『世界に一つだけの花』とマスターの視認した人物の傍への空間転移が可能な『法術器』の合わせ技です。
「とはいえ、僕の《訪問の笛》を使ってのことだから、疲れるのは僕だけだけどね」
などと皮肉を言いながらも、対象に接触していなければ発動しない『法術器』の性質を役得とばかりに楽しんでいたのが誰なのかは、言うまでもないことでしょう。
その際、ベアトリーチェに触れたマスターが石化しないことに、シスターたちが驚愕する一幕もありました。
それはさておき、一度に移動できる人数には限界があるため、何度も往復を繰り返す形にはなりましたが、それでもやはり、『向こう側』を驚かせずにはすみませんでした。
マスターが転移先に選んだ場所は、言わずと知れたメンフィス宰相の屋敷です。ちょうどアリアンヌさんが庭園の花壇の世話をしているタイミングでアンジェリカと『訪問』し、事情を説明したとはいえ、それでもぞろぞろと二十人以上の少女たちや『教会』の信者と思わしきシスターたちが姿を現したのです。
アリアンヌさんは、呆れたように首を振ってため息を吐きました。
「もう……何が何だかわからないわ」
「あはは。御迷惑をおかけします。ほら、メルティ。ただいまは?」
マスターは笑いながらも、ちゃっかりメルティで機嫌を取る作戦に出たようです。
「うん。お母さん。ただいま!」
「……ええ、お帰りなさい。こんなに早く帰ってくるとは思わなかったけど……それもこんなに大勢のお友達を連れて……」
さすがのアリアンヌさんも、久しぶりの再会ではないせいもあってか、喜びよりは戸惑いの方が大きいようです。
「……アリアンヌ殿。申し訳ない。わらわからも、あらためて事情の説明とお願いをさせてもらいたい」
屋敷の庭に全員が出そろったところで、神妙に頭を下げてそう切り出したのは、ベアトリーチェでした。
しかし、彼女が言葉を続けようとするより早く、アリアンヌさんは優しげな笑みを浮かべて首を振ります。
「概ねの話は聞いたわ。貴女も、貴女のお母様も大変な苦労をされたみたいね。……大丈夫。とても他人事とは思えませんもの。彼女たちは、わたしが責任を持って預かります」
「え? い、いや……そんなにあっさり? じゃ、じゃが、話はそう単純では……」
柔らかな表情とは裏腹に力強く断言したアリアンヌさんに対し、呆気に散られたような声を出すベアトリーチェ。
口で言うのは簡単ですが、彼女が『預かる』と言った対象は、見も知らぬ二十人以上の少女たちなのです。ベアトリーチェはおろか、アンジェリカまでもが驚いた顔で彼女を見つめています。
「お礼なら、キョウヤさんに言ってくださいな。わたしたち夫婦は、キョウヤさんには返し切れない恩があるのだから、これくらいは当然よ」
「キョウヤが……?」
過去のいきさつを知らないベアトリーチェは、その言葉に目を見開いてマスターの方を振り返りました。
「恩に付け込むようで申し訳ないけれど、他に頼るところがないからね」
「いいのよ。それに、この子たちはメルティのお友達なんでしょう? だったら、なおさら問題ないわ。メンフィスも最初は渋い顔をするでしょうけれど、あの人を説得するのなんて簡単なんだから」
茶目っ気たっぷりに片目を閉じてみせるアリアンヌさん。
「あはは。そういえば、メンフィスってアリアンヌおばさまにはいつも頭が上がらなかったもんね」
「まあ……どこの殿方も同じですのね」
思い出したように言ったアンジェリカにエレンシア嬢が同調の声を上げ、その場が笑いに包まれます。しかし、……そんな朗らかな空気の中、ただ一人、ベアトリーチェだけが、何かを言いたげにマスターを見つめていたのでした。
──それから数日後。
メンフィス宰相の屋敷は十分に広く、孤児の少女やベアトリーチェの母親、さらには彼女の世話係となるシスターたちが寝泊まりする場所に不足はありませんでしたが、流石に長期にわたってとなると問題もあり、王城近辺の一角に新たな孤児院を用意することとなりました。
とはいえ、孤児院の手配が整うまでの間に関しては、宰相の屋敷に世話にならざるを得ません。一応、彼女たちはただで滞在するわけではなく、屋敷の雑用を手伝う小間使いの仕事をすることにはなっていましたが、その多くが子供たちであり、屋敷の中がどんな状況になったのかは、言うまでもありません。
「……やれやれ、随分とうちの屋敷もにぎやかになったものだね」
その日、公務を終えて帰宅したメンフィス宰相は、屋敷の中で人形遊びに興じている少女たちの声を耳にして、苦笑気味に言いました。
「本当にかたじけない。わらわはこの国に来るまで、『王魔』とは、己の力に酔い、他の種族を見下し、勝手気ままに生きるばかりの傲慢な種族だとばかり思っておった。じゃが、それは酷い誤解だったようじゃ……」
屋敷の一室でメンフィス宰相と向かい合う席に腰を掛け、深々と頭を下げるベアトリーチェ。しかし、メンフィス宰相は笑って首を振りました。
「まあ、そういう連中も少なからずいるのは事実だ。僕らだって、『教会』の人間を見る目は似たようなものだったさ。だからお互い様だよ」
「しかし……」
「君のお母上のことや孤児たちのことなら、それもお互い様だ。君は『賢者の石』の力でメルティを助けてくれたのだからね。だから、これ以上は言いっこなしだ。いいね?」
さすがに年上だけあってか、彼はベアトリーチェに対しても、優しく言い諭すような言葉で語り掛けています。そしてそのまま、黙ってしまった彼女から視線を転じ、彼はマスターに問いかけました。
「君だって彼女に僕への礼を言わせたくて、この場をセッティングしたわけじゃないんだろう?」
そう言いながら、彼が見渡す部屋の中には、マスターとわたし、ベアトリーチェだけがいます。
「もちろん。それとは別に話があったから、このメンバーに集まってもらったんだ」
「このメンバーに? どういうことじゃ?」
「いやあ、ひとつめの『賢者の石』について、十分な調べもせずにこの国を出発しちゃうなんて、僕も迂闊だったよ」
マスターは、照れくさそうに頭を掻きながら笑います。
「考えてみれば、『ありふれた硝子の靴』でアレの反転複製を作っただけで、『わかった』つもりになっちゃってたんだよね。でも、一番肝心な人の話を聞くのを忘れてたよ」
マスターの視線の先には、驚いたように目を丸くするメンフィス宰相の姿があります。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。何の複製を作ったって?」
「『賢者の石』の」
「そんな馬鹿な! あれは僕ら『サンサーラ』が長年研究し続けてもなお、到達できない至高の物質なんだ。それを複製だなんて……」
「ああ、だからそのままじゃないよ。言ったでしょう? 『反転』複製だって」
「反転複製? なんだい、それは?」
わけがわからず、首を傾げるメンフィス宰相。対するマスターは、説明のために口を開こうとして途中でためらい、続いてわたしの方に目を向けました。
〈口で説明するのも難しそうだし、アレ、出してくれる?〉
〈え? こんな場所でですか?〉
高速思考伝達で語り掛けてくるマスターに、思わず疑問形で返事を返してしまいました。
〈大丈夫。使ったりしないから。見てもらうだけで、十分伝わると思うよ〉
〈……わかりました。気を付けてくださいね?〉
わたしは念を押すように言うと、慎重に亜空間連結の式《ワームホール》を展開します。
「え? な、何が……?」
突然虚空に出現した空間の『歪み』に、目を丸くするメンフィス宰相。そんな彼の目の前で、マスターはためらいもなく、あっさりとそこに腕を突込み、中から『ソレ』を取り出しました。
ずるり……とでも形容したくなるほどの禍々しい雰囲気と共にそこから引きずり出されたモノ。
パンデミック・ブレイド──未定義物質【ダークマター】で構成されるその『黒剣』は、悪夢のようにいびつに歪んだ刀身を鏡のように黒々と輝かせています。
「な! なんだ、それは……。ちょっと待ってくれ! いったいどうやったらそんなモノが……」
慌てて椅子から立ち上がり、狼狽えたように身構えるメンフィス宰相。
「ああ、驚かせてごめんね。でも、見てもらわないと信じてもらえないと思ってさ」
マスターは彼を安心させようと思ってか、にこやかに笑いかけています。しかし、メンフィス宰相は彼が『黒剣』を肩に担いでみせたり、気楽な様子で刀身を撫でてみたりするたびに顔を引きつらせ、声にならない悲鳴を上げているようです。
「あ、あの……マスター。もう十分でしょうし、もうしまわれた方が……」
あまりにも気の毒になったわたしは、そう提案しつつ、改めて《ワームホール》を展開します。
「え? そう? でも久しぶりだし、もう少しためつすがめつ、見ていたかったんだけどな」
名残惜しそうに言いながら、剣を《ワームホール》に放り込むマスター。そんな彼の姿に、わたしの隣でベアトリーチェが大きくため息を吐く気配がします。
「まったく、あの男はどんな神経をしておるのじゃ。わらわでさえ、あんなモノの間近には、わずかでも身を置きたくないというのに……よりにもよって眺めていたい、じゃと? それこそ気が狂っているとしか言いようがないの」
「……こんなことは言いたくないが、その点に関しては聖女殿に同意するよ。まったく君は……心臓が止まるかと思ったぞ」
『黒剣』が目の前から姿を消したことで、胸を撫で下ろすように安堵の息を吐くメンフィス宰相。
しかし、そんな彼もこの剣がどんな手順で生み出されたのか──すなわち、わたしとマスターが『謁見の間』に潜入し、無断で『賢者の石』に触れたという話を聞くにつれ、流石に渋い顔になっていきます。
「『賢者の石』に無断で触れるなんて……それこそ、こんなことは言いたくないが、普通なら、君らは死罪を申し渡されてもおかしくないぞ」
メンフィス宰相は呆れた顔でそう言いましたが、マスターは素知らぬ顔で言葉を返します。
「そうそう、まさにそれなんだよ。確かに国宝って言えば大事なものだと思うけど、それにしたって触っただけで死罪っていうのはおおげさだよね? 特に『ニルヴァーナ』の人たちとかって、そんなに礼儀にうるさいわけじゃなかったはずだし」
何かを問いかけるような、探るような目でメンフィス宰相を見つめるマスター。すると、宰相は小さく息を吐き、やがて観念したように首を振りました。
「やれやれ……君には敵わないな。よりにもよって宰相たるこの僕に、国家最大の仇敵である『教会』の幹部を目の前にしたこの席で、この国最大の国家機密を話させようというんだからね」
「ベアトリーチェさんは敵じゃないよ。それに僕らはこう見えて、口は堅い。この世界のこと、『賢者の石』のことを調査して、世界を救う。それが僕らの目的なんだからね」
「え? 世界を救う? どういうことですか、マスター?」
思いがけない彼の言葉に、思わず問い返してしまうわたし。するとマスターは、なぜか『何を言っているのかわからない』と言いたげな顔でわたしを見ました。いえ、なぜあなたがそこで、そんな顔をするのです?
「え? 僕、そんなこと言った?」
「……言いました。何でしたら、音声を再生いたしましょうか?」
呆れるあまり、つい、口調がぞんざいになってしまいました。マスターに対し、あるまじき言い方です。反省しましょう。
「あはは。つい、勢いに任せて恰好いい言葉を言っちゃったみたいだね。それはさておき、言葉の前半は嘘じゃない。だから、メンフィスさんが知っていることを教えてくれるとありがたいんだけどな」
胡散臭さばかりが増すようなことを言いながら、マスターはメンフィス宰相にあらためて視線を向けます。
「……君らにかかっては、国家機密も形無しだな」
がっくりと肩を落としつつ、メンフィス宰相は語り始めたのでした。
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