第135話 地下室の闇
調理場の隅にある隠し階段。わたしたちはベアトリーチェの案内により、その階段を暗い地下へと降りていきました。するとすぐに、一枚の大きな木の扉に出くわします。
「クリス。入るぞ」
「はい。ベアトリーチェ様」
どうやら中にはあらかじめ、先回りしていたシスターがいるようです。孤児院に二人いる『アカシャの使徒』の一人である彼女──クリスは、ゆっくりと扉を開けてわたしたちを中へと招き入れてくれました。
中に入った途端、わたしは異質な雰囲気を感じ取ります。
「……人の声?」
と同時に、アンジェリカがそんなつぶやきを漏らしました。広い地下室には、あちこちに小さな照明が設けられているのですが、その明かりが届かない部屋の一角から、『人の
声』が聞こえてきているのです。
「……女性の声、ですね」
「なんだか、怖いわ……」
リズさんとエレンシア嬢は互いに顔を見合わせ、不安げに言葉を交わしています。
そのまま声のする方に近づくにつれ、徐々にではありますが、その場所にいる人影の姿が見えてきました。
「……ひっ!」
小さく悲鳴のような声を上げたのは、リズさんです。わたしも途中からは闇を透かしてその姿をはっきりと見据えていたとはいえ、それでも間近で見るその姿には息を飲まざるを得ません。
「ふうん……。想像以上だね」
一方のマスターは、小さく呟くようにそう言うと、リズさんやエレンシア嬢が一瞬で目を背けてしまった『それ』を平然と見つめています。
「あは、あはは! うふ? うふふふふ?」
髪を振り乱し、狂気じみた笑い声を漏らす一人の女性。かつては美しかっただろう金髪もすっかり色あせ、目の下のクマやガリガリに痩せ細った身体は、彼女がもう長いこと、この地下室で生活しているだろうことを思わせるものでした。
しかし、問題なのは、彼女の外見などではありません。
「えへ? いひひひ! うふあは、あははは!」
規則的に腕を振り上げ、振り下ろす彼女。その手には鋭く尖った突起物が無数についた棒のようなものが握られています。そしてその棒は、何もない虚空に振り下ろされているわけではありません。
「ふぐ……ふぐ……」
重く、鈍い打撃音。くぐもって響く苦痛の声。飛び散る鮮血。彼女の服を汚すどす黒い血の跡。長細い台座のような物に括り付けられているモノは、かろうじて人の形を保っているだけのイキモノでした。
「お、おい! 何をやっている! なんだ、これは? やめさせろ、こんなこと!」
顔面を蒼白にして叫ぶアンジェリカですが、彼女の動きはシスターのクリスによって、やんわりと制されてしまいます。
「いけません。……御母堂様が正気を保っていくには、もはやこれしか方法がないのですから」
「御母堂様? ベアトリーチェのか? ……い、いや、そんなことは後だ! 何が正気なものか。あんな、あんな『拷問』が許されていいわけが……!」
そこまで言ったところで、アンジェリカは何かに気付いたようにベアトリーチェへと目を向けました。
「……悪いがアンジェリカ。少し、静かにしておいてもらえぬか? 前もって話もせずにつれてきたことは悪かったが、上でできるような話でもなかったからの。とりあえず、そっちに母様の食事用テーブルがある。話ならそこでしよう」
肉と骨を打つ嫌な音が響く室内──しかし、詳しい状況が分からない以上、わたしたちはベアトリーチェの言葉に従わざるを得ません。やむなく、その光景から目を逸らし、彼女に促されるままにテーブルへと着いたのでした。
「先ほどクリスが言った通り、彼女はわらわの母様じゃ」
「亡くなられたわけではなかったのですね?」
「うむ。ヒイロに話をした時も、死んだとは一言も言っておらんじゃろう。愚かな家宰が母様を騙し、彼女の心が壊れるまで弄んだ。わらわはそう言ったつもりじゃ」
そうです。そして彼女は、この屋敷の地下にその家宰の成れの果てが今も拷問を受け続けていると、そう話していたはずです。
「……まさか、その『拷問』の主が貴女ではないとは思いませんでしたが」
「あれは拷問ではない。何故と言って『アレ』はもう、生きているとは言い難いのじゃからな」
「確かに、生命反応は極めて微弱でしたね」
「だが、例え意識がなくとも、何の反応もない肉塊を叩く程度のことでは、母様の『正気』は保てぬ。シスターたちの魔法で、生死のぎりぎりの線を維持していると言ったところじゃな」
ベアトリーチェはことさらに『正気』という言葉を強調します。それに対してアンジェリカが何かを言いかけたようですが、ここで口を開いたのは、それまで黙り込んでいたマスターでした。
「ちなみに、お母さんが『正気』を失うと、どんな感じになるの?」
「死ぬ」
たった一言。ベアトリーチェはそれだけを口にしました。
「死ぬ? それはあの調子で錯乱して、自分を傷つけるかもしれないってこと?」
「いいや、そうではない。死んだ夫のことを思い出し、甘い言葉で騙された自分のことを思い出し、失った財産や使用人たちのことを思い出し、……己の愚かさゆえに、娘さえも汚されかけたことを思い出した結果、自身で死を選ぶ」
人はそれを『正気』というのではないか? わたしは思わずそう言いかけてしまいましたが、流石に口に出せることではありません。
しかし、この場にはそれをためらいもなく口にできる人物がいました。
「彼女を死なせないために、彼女に復讐の対象を与え続け、『正気』という名の狂気に入り浸らせているってわけか」
「貴様! ベアトリーチェ様の御心も知らず、よくもそんな言葉を!」
マスターの『心無い言葉』に、激昂したのはクリスでした。しかし、ベアトリーチェは彼女を制するように手を振り、小さく首を振りました。
「己の愚かさは、わらわ自身が一番よく分かっている。でも、それでも……わらわには他に方法がなかった。原因はわからぬが……精神に働きかける『女神』の魔法を使っても、『正気』を失った母様が死に向かうのを止めることはできない。でも、わらわは母様に死んで欲しくはない」
絞り出すような声で言うベアトリーチェは、身体を震わせてうつむいています。
しかし、マスターはここで、思いもよらない言葉を口にしました。
「正直、聞いた限りじゃベアトリーチェさんのお母さんだって、ここまで狂ってしまうほどの酷い目に遭わされたわけじゃないと思うんだけどな」
不思議そうに首を傾げ、何かを考えるようなそぶりを見せるマスター。
「……わらわの母様の心の弱さが原因だと? そんなこと言われなくても……」
「そうじゃないよ」
「なに?」
「他の誰に分らなくても、『正しい人の心のカタチ』を探し続けてきた僕にはわかる。この世界の人たちは、程度の差こそあれ、あまりにも『狂気』に弱い。ちょっとしたことであり得ないような凶行に走る連中が多い」
マスターは過去の出来事を思い出すように自身の手を見つめ、つぶやき続けています。
「この世界には、どうしてこんなに『狂気』ばかりが溢れているんだろう? ヨミ枢機卿や『聖歌隊』の連中なんて言わずもがなだけど……」
指を折り曲げながら、マスターはここで、アンジェリカに目を向けました。
「……アンジェリカちゃん」
「え?」
「そういえば、以前、似たようなことがあったね。失った娘に似せた人形を本物と思いこみ、思いこむことで悲しみを忘れていた人がいた……」
「……アリアンヌおばさまのこと?」
「うん。考えてみれば、あそこが出発点だった。十年間、娘を失った悲しみに囚われ、あんなことをし続けるのは、絶対に不可能だ」
「え? 不可能?」
「うん。人はね……本当の意味では、永遠に狂い続けることなんてできないのさ。そんなことができる奴がいるとしたら……そいつはきっと『人』じゃない」
吐き捨てるように言って笑うマスター。それを聞いて、わたしは思い出しました。
『生まれてこの方、自分が正気だった試しなんて、一度もない』という彼の言葉を。
「決定的だったのは、アリアンヌさんが僕が駄目元でやった『鏡の中の間違い探し』を受けて、『何の問題もなく』助かってしまったってことだ」
「それの、何が問題なの?」
「あの時僕は、このスキルでは、『間違っているものをさらに間違わせる』ことしかできないと言った。それは間違いなく、その通りなんだ。けれど、一時的な狂気に囚われているだけの対象を『間違わせた』としても、それこそ『正気』に戻るのは一時的なことに過ぎないんじゃないかって思ってもいた」
「でも、アリアンヌおばさまは……」
「うん。だから、僕はこう思う。少なくともあの時の彼女は、『正しく』狂い続けていたんだ。だからこそ、彼女を救うには、『根本から間違わせる』方法しかなかった」
「正しく? で、でも……」
「きっかけはあったんだろうさ。でも、それだけで十年も狂い続けるのは異常だ。狂気なんてものは所詮、時間によって癒されるはずのものなんだよ」
確かに、考えてみればおかしな点はありました。わたしが分析した限り、アリアンヌさんの症状は、いわゆる『精神病』、すなわち脳内物質の分泌異常による幻覚などの類ではありませんでした。
わたしがそのことをマスターに伝えると、彼は小さく頷きます。
「僕のいた世界の『精神病』とは違う……正真正銘、『心』の病気ってことかな?」
さらにマスターは、そのままベアトリーチェに視線を向けると、問いかけの言葉を口にします。
「ベアトリーチェさん。君のお母さんは、この状態になってどれくらい経つ?」
「……約五年じゃな。いまいち、お前の話は要領を得ないが、『女神』の魔法で母様の心をを癒すことができない理由は、今の話の中にあるのか?」
「かもしれない。この世界には、どうしてこんなに『狂気』……いや、この場合は『病気』かな? そんなものばかりが溢れているんだろうね? わかるかい?」
今度の問いかけは、同じく異世界から来たわたしに向けられたものだったようです。
「いえ、ヒイロには……人の心は解析できませんから」
決まり文句のように繰り返されるわたしの言葉。いつもなら、マスターはそんなわたしに困ったような顔を向けるだけでした。しかし、今回は少し違うようです。
「そんなことはないさ。僕は、ヒイロならそれができると思ってる。ヒイロなら……『人の心のカタチ』を解析して、僕にわかりやすく教えてくれるんじゃないかってね」
「マスター……」
ナビゲーターとしてのわたしには、荷が重い話です。もちろん、『女の子』としてのわたしにも同じことでしょう。しかし、そのわたしが両者であり続けることができるなら、いつかそれも叶うのかもしれません。
「いずれにせよ、僕たちはもっと知るべきだよ。この世界のことを。僕だって万能じゃない。とにもかくにも、必要なのは知識だね」
「……それはいいが、肝心の話が進んでおらん。母様を救ってくれるのではなかったのか?」
「うん。それなら問題ないよ。アリアンヌさんと同じ状況だとすれば、それこそ同じやり方で助けてあげられるだろうからね。きっと彼女の死への衝動自体も、それで治まるはずだ」
「なんじゃ、ならば早くしてくれ。わらわたち全員が姿を消している時間が長ければ、さすがに子供たちが心配するぞ」
「そうだね。じゃあ、さっそく始めようか?」
そう言って脇の鞘から『マルチレンジ・ナイフ』を取り出し、颯爽と立ち上がるマスター。
「な、何をするつもりじゃ?」
驚いて問いかけるベアトリーチェに、マスターは満面の笑みを浮かべて答えます。
「これから、君のお母さんを殺すのさ」
次回「第136話 一時の帰還」




