第122話 大胆不敵の代償
「メルティさん! そのまま……どうかそのまま動かないで! 今、魔法が使えるクリスとジェニファーもこっちに向かっています! 『愚者』は刺激しなければ襲ってこないことも多いのです! どうか静かに!」
玄関から飛び出すなり、悲痛な声を上げるマリアさん。どうやら農園で作業していた子供たちは玄関の周りに集まってきているようで、どの子も皆、怯えた顔をしながらも、メルティのことを心配そうに見つめています。
しかし、対する彼女はと言えば……
「あ! ヒイロだ! やっほー! 見て見て! こんなの捕まえた!」
小さい子供が小さな虫を捕まえて見せびらかしに来たかのように、はしゃいだ声を上げています。そのたびにマリアさんが静かにするよう呼びかけるのですが、当然彼女は聞く耳持ちません。
「あ、クレハ。何があったのか、教えてくれますか?」
わたしは子供たちの中に彼女を見つけ、そう声を掛けました。すると、クレハもこちらに気付いたのか、わたしを見上げて頷きます。
「うん。最初は皆で、虫とりをして遊んでたの。そしたらメルティが、おっきいやつを見つけてくるって言って……」
「……なるほど。あれが彼女の『捕ってきた大きいやつ』ですか」
やれやれと言った思いでわたしは首を振りました。どうやら彼女、近くを通りかかった『災禍ノ鱗獣』の気配を感じてそれを追いかけ、『砂漠に咲く一輪の花』で従属させてしまったようです。
人の背丈より巨大な化け物を「でっかいトカゲ」扱いする彼女には驚かされますが、いずれにしても、この誤解はわたしが解くしかなさそうでした。
「マリアさん。落ち着いてください。あのトカゲはすでに、彼女が支配下に置いています。彼女はおろか、こちらに危害を加えることさえありませんよ」
「え? で、でも……」
不審げにこちらを振り返るマリアさんに、わたしは根気よくメルティの能力を説明します。なかなか難しいものがありましたが、彼女が『災禍ノ鱗獣』を従えている証拠を見せるべく、ちょっとした命令をさせてみるなどの実演を経て、ようやく納得してくれました。
「……はあ。心臓が止まるかと思いましたよ」
胸を撫で下ろすようにして、その場にへなへなと腰を落とすマリアさん。
「すみませんでした。驚かせてしまって。……でも、メルティのことを心配してくださって、ありがとうございます」
わたしが頭を下げて礼を言うと、彼女は大きく首を振りました。
「いいんです。早とちりしたわたしが悪かったんですし、それに皆さんは色々な意味で、わたしたちの恩人ですから」
「そうですか。でも、居候させてもらっているのですから、手伝いは当然です」
「当然以上のことをしていただいていますよ。それに、それだけでなく……ベアトリーチェ様を救っていただいたことです。聖女様は詳しいことをお話しくださいませんでしたけど、それでもあの御方の表情が以前よりすごく明るくなっていることはわかります。だから、お礼を言わせてください」
マリアさんはそう言って、わたしに深々と頭を下げ返してきたのでした。
「あ! クリス姉さまだ!」
しかし、子供たちの声を気付いて視線を戻せば、そこには『アカシャの使徒』でもあるシスターのクリスさんが『災禍ノ鱗獣』を見上げ、自分の周囲に魔法を展開している姿がありました。
「あ……まずいですね」
しかし、わたしが止める暇はありませんでした。クリスさんの周囲に浮かぶ無数の《短剣》が一斉に『災禍ノ鱗獣』に迫ります。ですがもちろん、わたしが止めたかったのはそちらではありません。
「あはは! 魔法で遊ぶの? いいよ! やろう!」
『災禍ノ鱗獣』の背から真っ直ぐ飛び降りながら笑うメルティ。彼女の額には、第三の目とも言うべき『愚かなる隻眼』が赤い輝きを放っていて……
「……ああ。これでまた、説明しなければならないことが増えました」
わたしは頭を抱えて呻きます。『愚者』を目の敵にする『教会』の信者に納得してもらわなければならないことを考えれば、今度の説明は先ほどよりもさらに骨が折れそうでした。
──結局、ベアトリーチェにも協力を願った結果、どうにかシスターたちを説得できたわたしは、そのままメルティを連れて逃げるようにマスターの部屋へと向かいました。ちなみに、彼女が連れてきた『災禍ノ鱗獣』は、屋敷から少し離れた場所で大人しく昼寝を始めています。
しかし、部屋に入った途端、メルティはマスターの姿を発見し、身体を硬直させてしまいました。
「や、やあ、メルティ。元気かい?」
そんな彼女の様子に敏感に気付いたのか、マスターの口調はかなりぎこちないものになっています。
「う、うん……元気」
対するメルティもあらぬ方向に目を向けながら、消え入りそうな声で返事をしています。
「…………」
「…………」
そしてそのまま、沈黙してしまう二人。このまま放置していては、いつまでたっても話が進みそうにありません。
「……マスター。メルティに聞きたいことがあったのではないですか?」
「え? あ、ああ、そうだったね。メルティ。その……とりあえず、座ろうか?」
わたしに水を向けられ、ようやく言葉を発したマスターは、部屋に置かれテーブルの席に腰を下ろすようメルティに促し、自分はその向かい側に着席しました。
「あのさ。メルティ。単刀直入に聞きたいんだけど……僕のこと、嫌いになった?」
「ううん。そんなことない」
ぶんぶんと首を振るメルティ。マスターはそれを見て、ひとまず胸を撫で下ろしたようです。
「でも、最近全然目を合わせてくれないし、夜も来なくなったし……いや、来てほしいわけじゃないどね」
「うん。……ごめんなさい」
「いや、責めてるわけじゃないんだよ。ただ、いつもと様子が違うから、心配なだけなんだ。最初は僕が何か君を怒らせるようなことでもしたんじゃないかと思ったんだけど……」
「ううん。怒ってなんかないよ」
「じゃあ、どうして?」
「えっと、その……」
途端に言い淀んでしまうメルティ。彼女も自分の感情を何と表現するべきか、わからないのかもしれません。
「メルティ?」
椅子に腰かけたまま、相向かいに座る彼女を覗き込むように見るマスター。
「…………い、から」
「え?」
「えっとね? その……なんか、恥ずかしいの」
メルティは頬を軽く染めながら、小さく呟きます。
「恥ずかしい? ……それって、僕と目を合わせるのがってことかい?」
「う、うん……。前は平気だったんだけど……最近、変なの。キョウヤが近くに来ると、顔が熱くなって、ぽわぽわして、どうしたらいいかわからなくなっちゃうの」
その言葉を聞いたときのマスターの顔は見物でした。彼女が何を言いたいのか、理解したのでしょう。一気に頬が緩み、いかにも嬉しそうな笑みを浮かべてメルティを見つめています。続けて彼は、小さくガッツポーズまでして見せました。
「……そっか。ついにメルティにも、女の子の恥じらいが生まれたんだね! あの賢者の石の力は、君の情緒を安定させるって話だったけど、まさかこんな効果があるだなんてね。すごいよ。いやあ、良かったなあ」
「え? で、でも、メルティ、このままじゃ困る……」
「困る? どうしてだい?」
「だって……キョウヤとちゃんとお話ししたり、一緒に遊んだりしたいのに……」
「うん。そうだねえ。どうしようか?」
消え入りそうな声でつぶやくメルティを見つめ、マスターはますます頬を緩めているようです。もっとも、わたしでさえこうして恥ずかしがるメルティを見ていると、思わず抱きしめたくなってしまうのですから、無理もありません。
「よし、じゃあこうしよう」
そして、こういう時、何よりも自分の欲求に忠実なのもまた、マスターでした。
「え? なに?」
「要するに、中途半端だから恥ずかしいのさ」
「ちゅうとはんぱ?」
「そう。一度うんと恥ずかしい思いをすれば、その後はそれに慣れてくるんじゃないかと思うんだよね」
「……そうなの? でも、どうしたらいいのかな?」
「うんうん。それなら、僕にとっておきの策がある。任せてくれるかな?」
「うん」
なんだか……嫌な予感がしますね。
そして案の定、にやにやと嬉しそうに笑うマスターは、同じ部屋にいるわたしの存在などなかったかのように行動に移りました。
「メルティ」
「なあに?」
「キス、しようか?」
「え? キスって……いつもキョウヤがアンジェリカとかエレンとしてる……奴だよね?」
「うん」
衝撃の事実発覚です。信じられません。この男……あ、いえ、マスターはなんと、メルティの見ている前でまで、二人にキスをしてやがったようです。この分では、この孤児院に長居すること自体、子供たちへの悪影響になりそうな気さえします。
「で、でも……そんな……」
ためらうメルティに拒絶の暇を与えず、マスターは彼女の肩をしっかりと掴むと、その黒々とした瞳でまっすぐ彼女の目を見据えます。
「駄目かな?」
「う、うう……キョウヤ」
そしてマスターは、彼女に拒絶の意思がないことを確認するや否や、そのまま顔を彼女に近づけ、そして……形の良い彼女の唇に自らのそれを重ねていきました。酷く手慣れており、もはや『常習犯』という言葉がしっくりあてはまるやり口です。
「……う、むむ」
とはいえ、さすがにマスターも加減はしていたようで、口づけの時間はごくわずかでした。しかし、それでもメルティに現れた変化は劇的です。それもわたしが想像した方向とはまるで異なる変化でした。
「キョウヤ……」
恥ずかしそうに頬を赤らめ、ぼんやりとした顔で彼の名前を口にするメルティ。しかし、恥ずかしそうに見えたのは、あくまでわたしの主観でしかありません。
そのことは、彼女の次の言葉からも明らかになりました。
「キョウヤ……、もっと……」
「へ?」
「え?」
マスターとわたしは、揃って耳を疑い、間抜けな声を漏らしてしまいました。よく見ればメルティの瞳は、熱を帯びたように潤んでおり、いつの間にか彼女の手は、マスターの両肩にしっかりと乗せられています。
「え、えっと、メルティ?」
「今の、気持ちよかった。だから、もっとして……」
彼女の表情は、女性のわたしでもドキリとするほど艶やかなものに変化しています。
「うわ……やばい。なんかメルティに変なスイッチが入っちゃった……」
自分にしなだれかかるように身体を寄せてくるメルティに、マスターは困惑顔でつぶやき、ついで、わたしに助けを求めるような目を向けてきました。
「……知りませんよ。自業自得じゃないでしょうか」
「い、いや、ほら、このままじゃさすがにやばいって。今までと違って妙に色っぽいし……このままじゃ僕の理性にも限界が……」
「それでは、後は本能のなすがまま、でもよろしいのでは?」
わたしがあえてそう言うと、マスターは驚いたように目をみはりました。
「え? いいの?」
「はい。その際はわたし、メルティの未熟さに付け込んだマスターの所業を、一つ残さず皆さんにお伝えするだけですので」
「駄目じゃん、それ……って、うわ! ちょ、ちょっとま……!」
言いながらも、高い身体能力を誇るメルティになすすべもなく押し倒されていくマスター。相変わらず、こうして積極的に迫られることには弱いようです。正直、わたしにとっても目の毒ではありますが、まさに自業自得でしょう。
そう思って、二人を止めなかったのが間違いでした。
なぜなら……
「キョウヤのお兄ちゃん! あーそびましょー!」
勢いよく開いた部屋の扉の向こうから姿を現した少女──クレハの目には、今まさにマスターを押し倒したメルティが、彼と濃厚なキスを交わしている場面が飛び込んでしまったのですから。
次回「第123話 音もなく忍び寄る影」