第120話 する側とされる側
助け出したクレハをわたしが抱きかかえ、どうにか孤児院に戻ると、血相を変えて走り寄ってきたベアトリーチェが勢いよく彼女の身体を抱きしめました。
「クレハ! 大丈夫か? 怖くなかったか? 怪我はないか? 怒鳴ったりして、悪かった。本当にすまん……」
わたしからクレハの身体を奪い取るように受け取った彼女は、ほとんど泣き出しかねない勢いで謝罪の言葉を繰り返します。
「ううん! ねーさま、心配かけてごめんなさい! 遠くに行ったら駄目だって言われてたのに……ごめんさい。わああああん!」
クレハに至っては、大号泣といった有様でベアトリーチェに抱きつき、泣き声を上げ続けていました。
「うーん。お姫様のピンチを救ったのはこの僕だっていうのに、すっかり蚊帳の外だね」
少し拗ねたようにマスターが言うと、ベアトリーチェはクレハから身体を離し、ばつが悪そうな顔になりました。
「……わかっておる。そ、その、なんだ。ク、クレハを助けてくれたこと、礼を言わせてもらおう」
渋々といった口調で感謝の言葉を口にする聖女様ですが、マスターは肩をすくめてやれやれと言いたげに首を振ります。
「な、なんじゃ、その態度は! 人がせっかく礼を言うておると言うに」
「そんなんじゃ、礼になってないよ。教わらなかったのかい? 感謝の言葉は『ありがとう』でしょ?」
「う、うぐぐ……!」
「まあ、僕は別に? お礼を言ってほしくてクレハちゃんを助けたわけじゃないし? 君が自分の大切な『妹』を助けてもらっておいて、その恩人に礼も言わない人間だからと言って、特に何も気にしないよ?」
「ぬ、ぬぐぐぐ! ……うう、あ、あ」
「あ? ……なんだい?」
「あ、ありがと……う。感謝、しておる。あんなことでこの子を失っておったら、わらわは一生後悔してしまうところじゃった」
神妙な顔で頭を下げるベアトリーチェに、マスターは小さく頷きながら笑いかけます。
「うん。よかったね。……ここの子たちは皆、家族同然に仲がいいみたいだし、そんな君たちが悲しむ所なんて、僕だって見たくなかったからね」
そう言ったマスターの顔は、どこか寂しげなものに見えました。
「……それでは皆さん。そろそろ夕食の時間にしませんか? 今日は家で一番料理上手なシスターのアンナが、腕によりをかけて御馳走を用意しました」
そして、頃合いを見計らうように声をかけてきたシスターの言葉に従い、わたしたちは夕食の席に向かうことにしたのでした。
──子供たちと一緒にとる夕食は和やかで騒がしく、心温まるものでした。家族の絆のようなものを前にして、わたしは何故か胸の奥が痛むのを感じてしまいましたが、にぎやかな食事の雰囲気はそんな痛みさえ忘れさせてくれるものになったようです。
どうやらベアトリーチェはこの後、今後の孤児院の経営についてシスターたちと相談があるらしく、別室に引きこもってしまいました。一方、メルティは孤児たちとの食後の遊びに夢中になっており、なぜかアンジェリカも彼女に誘われて子供たちの輪の中に入っているようです。よく見ればエレンシア嬢も子供たちに大人気なようで、ふわふわと動く緑色の髪を好き勝手に弄ばれているようでした。
わたしはそんな光景を尻目に、いつになく上機嫌で廊下を歩き、自室に戻ろうとするマスターの後を追いました。
「マスター。もうお休みですか?」
「え? ああ、うん。まだ寝るには早いけど、少しばかり疲れちゃったからね。部屋で休もうかと思って」
「そうですか。では、お邪魔はしない方が?」
「いや、大丈夫だよ。ヒイロが傍にいて疲れるなんてこと、絶対にないから。むしろ、いてくれた方が安らげるかな?」
「……マスターは、すぐにそういうことをおっしゃるんですね」
「気に入らないかい?」
「いえ。嘘をついているわけじゃないことはわかりますけど、でも、あまりにもあっさり言われてしまうと、少しだけそう思ってしまうんです」
「ははは。言葉に重みがないって感じかな? まあ、昔からよく言われてきたけど」
などと会話を交わしながら、わたしたちは客人用にとあてがわれた一室に向かいました。
歩きながら、先ほどリズさんの姿が見当たらなかったことに気付きましたが、部屋に戻ったところで、その理由がわかりました。
「あ、キョウヤさん。もうお休みですか?」
「やあ、リズさん。もしかして、ベッドを整えておいてくれたの?」
「はい。慣れないベッドでリラックスできないかもしれないと思いましたので、以前ヒイロさんに作ってもらった枕などに取り換えておきました」
この気の利きようには、頭が下がるばかりです。マスターも彼女の細やかな気遣いに嬉しそうな顔をしているのが分かります。
一方、リズさんは何故か、そんなマスターの顔をじっと見つめたまま、動きません。
「……どうしたの? リズさん」
不思議そうに声をかけるマスターですが、リズさんは逆に問いかけの言葉を返してきました。
「わたしは、どうもしませんよ」
「え?」
思いもかけない返答に、マスターは目を丸くして彼女を見つめ返します。
「……キョウヤさん。もし、お時間があるようでしたら、少しお話ししませんか?」
リズさんはやんわりとした口調ながらも、どこか有無を言わさぬ調子で言うと、マスターにベッドへ腰掛けるよう勧めました。
「あの……ほんとに、どうしたの? 僕、何かリズさんの気に障るようなことでもしちゃったかな?」
指示された場所に腰を下ろしながら、恐る恐るといった様子で問いかけるマスター。その姿は、まるで母親にしかられることを恐れる子供のようです。一方のリズさんは、黙ってマスターと同じベッドに腰掛けると、上半身を彼の方へと向けました。
「キョウヤさんって、小さい子供がお嫌いなんですか?」
「え? いや、そんなことないよ。可愛いし、無邪気だし、いいんじゃないかな?」
脈絡のないリズさんの質問に、マスターは若干戸惑っているようにも見えます。しかし、彼女はそんな彼のことをじっと見つめ、それからさらに言葉を続けました。
「嫌い……というのは違うのかもしれませんが、近づきたくないのでは?」
「うーん。なんで、そう思うんだい?」
「ここに来て以来、キョウヤさんはまともに子供たちの顔に目を向けていません」
「ああ、なんだ。そういうこと? ほら、僕ってさ、目を合わせた相手に怖がられることが多いだろ? だから、気を付けているんだよ」
「それだけではありません。近づくことも避けているようですし、何より決定的だったのは、クレハちゃんをヒイロさんに抱かせて歩いてきたことです。キョウヤさんなら、女の子に子供を抱かせて自分は手ぶらで歩くだなんて真似、絶対にしませんから」
「……リズさん。できれば、何が言いたいのかわかりやすく言ってくれると、ありがたいんだけどな」
「すみません。では、遠慮なく」
「うん」
マスターはにこやかに頷きを返します。しかし、その直後のこと。リズさんの両手が彼の頭の左右に回され、そして、そのままぐいっと引き寄せられたのです。
「うわっ!」
視界を塞がれ、顔の前に柔らかな感触を覚えたマスターは、驚きの声を上げました。ですが、それでもリズさんは構わず、マスターの顔を自分の胸元に抱え込んでいます。
「リ、リズさ……」
「気づくのが遅くなって、ごめんなさい」
「…………え?」
リズさんの豊かな胸に顔を埋めたまま、くぐもった声を出すマスター。
「わたしでは、役者不足かもしれませんけど……でも、温もりぐらいなら、分けてあげられますから……」
「な……」
「ここの孤児たちは、皆が皆、『家族』のように仲が良いですものね。無邪気な子供たち。無条件に彼らを愛してくれる大人たち。あなたはずっと、そんな彼らを寂しそうな目で見て、悲しそうに目を逸らしていました。……なのに、わたしはそんなことにも気づかず、子供たちとはしゃいでしまって……」
「…………」
マスターの頭を抱く腕に力を込めながら、リズさんは後悔に身体を震わせているようです。……とは言いますが、そもそも、そんなことに気付けたのはおそらく、リズさん一人でしょう。マスターの孤児院に来てからの態度を思い返してみても、彼女が言うほどはっきりとそんな気配がわかるようなことはありませんでした。
しかし、マスターが黙ってされるがままになっているところを見ると、彼女の言葉は正しいのかもしれません。
「……ふう。やれやれ」
マスターは小さく呟くと、ゆっくりとリズさんの腕から頭を引き抜き、軽く髪を整えました。
「キョウヤさん?」
「まったくだよ。僕の気も知らないで、よくもまあ、好き勝手やってくれたものだよね」
「あ……す、すみません」
打って変わって厳しい言葉を口にしたマスターに、申し訳なさそうに頭を下げるリズさん。そんな彼女にマスターは、憤慨したような顔で頷きを繰り返しつつ、言葉を続けます。
「まったく、あのガキどもときたら。気に入らないったらありゃしないよ」
「え?」
今度はリズさんが目を丸くする番でした。
「まだ、女の子ばかりだから許せたけど、男が混じってた日には鉄拳制裁ものだったぜ」
「ちょ、ちょっと、キョウヤさん? いったい何を言って……」
「リズさんの大きくて柔らかい胸の中で甘えるのは、僕だけの特権だって言うのにね?」
「あ……きゃ! な、何を言い出すんですか!」
ようやく自分が先ほど何をしていたのかに思い至ったらしく、彼女は自分の胸を抱えるようにして叫びました。
「まあ、今ので十分、『栄養補給』できたから良しとするかな」
「もう、人が心配してみれば、すぐそういうことを……」
珍しく頬を膨らませ、拗ねたような顔をするリズさん。
するとマスターは、そんな彼女に顔を近づけ、その目を覗き込むようにして笑います。
「ありがとう、リズさん。まったく君は本当に、最高のメイドさんだよ」
「……今このタイミングで言われても、全然嬉しくありませんから!」
距離の近さに頬を赤らめつつも、リズさんは撥ねつけるように言いました。
「あはは。でも、それ以上に……君は、僕にとって掛け替えのない人だよ。僕は、君がどれだけ皆のために献身的に尽してきたのかを知っている。なのに……僕には君にしてあげられるようなことは何もない。僕はそれが、歯がゆくてならないんだけどね」
「……そんなことありません。キョウヤさんはお嬢様を救ってくださったじゃないですか」
「それは僕がやりたくてやったことだ。それに、『君自身』には何も返せていない。だから……そうだね。たまにはリズさんの方から、何か僕にしてほしいことをリクエストしてみてもらえないかな? できる限り、頑張るからさ」
「……してほしいこと、ですか? そう言われても……」
戸惑い気味に首をかしげるリズさん。
「なんでもいいんだ。キスしてほしいでも、接吻してほしいでも、ちゅーしてほしいでもさ」
それは、いつもの軽口でした。毎度のことながら、よく飽きないものです。こうやって彼女をからかっては怒らせてしまうのですから、マスターもそろそろ学習した方が良いのではないでしょうか。
「……してほしいことなんて、ありませんから」
素っ気なく、リズさんはそういうと、その直後──
「……え?」
唇を覆う柔らかな感触に、マスターは目を丸くしています。顔を傾け、頬にかかる髪をどけながら、マスターにちゅー……いえ、接吻を続けるリズさん。傍から見てもその頬は真っ赤に染まっていますが、それでも彼女は動こうとしません。
そしてそのまま、一秒、二秒、三秒、四秒……
さらに続けて、五秒、六秒、七秒、八秒……
……って、わたしは一体、何をカウントしているのでしょうか? 長いです。長すぎです。見ているこっちの気持ちにもなれと言うものです。
「……ぷ、ぷは! リ、リズさん?」
「……わたしは『する』側で、いいんです。そ、それが言いたかっただけですから」
顔を赤らめたまま、恥ずかしそうにマスターから顔を背けています。
一方のマスターは、傍目にもはっきりとわかるほどに頬を緩ませ、嬉しそうな顔をしてやが……いえ、いらっしゃるようでした。
ところで、リズさんがマスターと顔を合わせまいとそっぽを向いた先には、わたしがいます。そのせいで、それまで周囲のことなどすっかり忘れてしまっていたらしいリズさんも、わたしが送る生温かい視線に気づいたようです。
「あ、ああ……?」
「はい」
言葉の無い問いかけに、はっきりと頷くわたし。
「一部始終、一秒たりとも見逃してはおりません。何でしたら、記録映像の再生もいたしましょうか?」
「きゃああああああ!」
わたしの言葉を聞いた直後、ベッドから勢いよく立ち上がり、悲鳴を上げながら部屋を飛び出して行くリズさん。
「あ、ちょ、ちょっと、リズさん! それはまずいってば!」
マスターが止める暇もありません。そして、何がまずいのかと言えば、『男性の部屋から半泣き状態で女性が一人飛び出して行った』というこの状況そのものが、です。
そして、間もなくのこと。
「……キョウヤ様? リズに何をしたのです?」
ざわざわと、部屋一面を覆い尽くす緑の茨。その発生源はすべて、部屋の入り口で般若のごとく立ったエレンシア嬢なのでした。
次回「第6章 登場人物紹介(ベアトリーチェとの対話)」




