第117話 聖女の孤児院
『グランドタートル』は、バシャバシャと『水音』を立てつつ、時折平原に転がる岩なども水のようにかき分けながら泳ぎ続けています。かなり目立つ移動方法に見えて、ベアトリーチェのスキル『侵食する禁断の領域』には音や光を外部から遮断する効能があるため、周囲からは認識されにくい状態となっているはずでした。
国境はもう間もなくといったところですが、その先の目的地については、ベアトリーチェからひとつの要望が出されています。
「まずは、わらわの運営する孤児院に向かってもらいたい。行方不明のままでは皆に心配させてしまうし……、何よりわらわも皆の無事を確認したいからの」
彼女の孤児院がある場所は、意外にも『神聖王国アカシャ』の領内ではありません。どこにあるのかと言えば、神聖王国の南──ドラグーン王国から見れば南西の方角──に存在する東ウェルナート帝国の領内です。
「わらわの地元じゃからな。それに神聖王国は『教会』の総本山であるというだけであって、『教会』自体は世界各地に存在する。特にウェルナート帝国にいたっては二十年前の戦争当時から『教会』の強い影響下にある国じゃ。別に不思議なことでもあるまい」
ごつごつとした岩の甲羅に身体を固定させたまま、ベアトリーチェは自身の孤児院について教えてくれました。
「もともとは、戦争やその後の混乱で身寄りを亡くした子供たちを養育するため、わらわ自身の屋敷を利用して造った施設なのじゃ」
「でも、女の子しか養育しないんでしょ?」
「馬鹿にするな。わらわとて、幼子を性別ひとつで見捨てるような真似はせん。男の子なら皆、街中に用意した施設で他の者に任せておる」
「あはは。結局、君の孤児院には女の子しかいないってわけだね」
わたしたちはそんな会話をまじえつつ、その二日後には、目的地の東ウェルナート帝国領へと到着していました。
さすがにドラグーン王国ほど実り豊かな国ではないようですが、東西に分裂する前はこの大陸でも最大の版図を誇っていた大帝国の国土です。それなりに緑も多く、荒廃した感じは見受けられません。しかし、農地を耕す農民たちは皆、どことなく疲れた表情をしているようでもありました。
「……農奴、ですのね」
顔をしかめてつぶやいたのは、エレンシア嬢です。
「農奴? なんだい、それ?」
マスターが首をかしげて問いかけます。すると、暗い顔をして黙ってしまったエレンシア嬢に替わり、リズさんが答えを返してくれました。
「簡単に言えば、土地に縛られた奴隷のことです。所有物としての奴隷よりはましですけれど、彼らは収穫した農作物の大半を地代として領主に納めなければなりません」
「大半を? ふうん。それじゃあ、生きていくのも大変そうだね。でも、疲れた顔をしているとはいえ、さすがに栄養失調気味には見えないけど……」
「はい。地代によって足りなくなった生活の糧を得るため、彼らは領主の元で様々な労働に従事して『報酬』を得ていますから」
「え? でも、その報酬って元々、彼らが納めた地代なんでしょ?」
「はい。要するにタダ働きですね。でも、それだけではありません。彼らは皆、転居や結婚をするにもいちいち領主の許可を必要としていますし、罪を犯した場合には領主の裁量によって裁かれる立場にあるんです」
「……へえ、まさに『土地に縛られた奴隷』だね」
あらためて農奴たちの様子に目を向けてつぶやいた後、マスターはどうでも良さそうに視線をそらしてしまったのでした。
──『聖女の孤児院』は、静かな農園の中にポツンとひとつ、建っていました。
農園と言ってもそれほど大きなものではありません。大きな屋敷の周囲を囲むように農地が広がっており、そこかしこに馬小屋や井戸、小麦粉を挽くための水車小屋などが点在しています。
牧歌的な雰囲気を漂わせる小さな農園。その中心に建つ大きな屋敷。
恐らくはあれが『聖女の孤児院』なのでしょう。
「随分と、のどかな場所だね」
マスターはその景色を見て、わたしの抱いた感想と同じ言葉を口にしました。
「もともとここは、『没落貴族』から接収した荘園の一部じゃ。今なら『教会』の信者から得られる喜捨だけでも経営できなくもないが、基本的には自給自足。周囲の農園は、農作業の繁忙期を除けば、基本的に孤児院のスタッフと子供たちだけで管理しておるのじゃぞ」
胸を張って誇らしげに笑うベアトリーチェ。
ちなみにわたしたちは、孤児院が見えてきたところで『グランドタートル』の背から降り、徒歩で建物へと向かっているところでした。
やがて、徐々に大きくなっていく建物の姿とともに視界に飛び込んできたのは、屋敷の周囲で動き回る子供たちの姿です。
「あ! 姉さまだ!」
「ねーさまー!」
無邪気な声を上げる孤児らしき少女たち。なかでも嬉しそうに手を振りながら駆け寄ってきたのは、まだ十歳にも満たないだろう三人の子供たちです。
「ふふふ! クレハ、ミア、レンカ。良い子にしておったかの?」
ベアトリーチェは慈愛に満ちた微笑みとともに両手を広げ、飛びついてくる彼女らをしっかりと受け止めています。
「……はじめに見た時とは、随分印象が違って見えるな。この聖女」
アンジェリカが腑に落ちないと言いたげな顔でつぶやきます。
しかし、そんな言葉など聞こえてはいないベアトリーチェは、他の三人の少女を順番に抱きしめると、最後の一人の顔に頬ずりを始めました。
「あはは! ねーさま、くすぐったいよ!」
「何を言うておる。久しぶりにクレハのすべすべ肌を堪能できるのじゃ。もう少しよかろう?」
「もー。ねーさまったら、いつも甘えんぼさんなんだからー!」
クレハと呼ばれた七歳ほどの可愛らしい少女は、頬を膨らませながらも嬉しそうに笑っていました。どうやら彼女の頬ずりは、日常茶飯事のようです。
「…………」
「なんじゃ、ヒイロ。その目は?」
「いえ……」
一見して心温まる孤児院の院長と孤児たちのやりとりのはずなのですが、聖女のこれまでの言動を思い返してみる限り、若干の怪しさを感じてしまいます。
「ははは。随分と仲がいいね」
「……ほえ?」
マスターがそんな二人に微笑ましげな視線を向けつつ声をかけると、クレハと呼ばれた少女は不思議そうな顔をして彼を見上げました。軽く首を傾げたことで、綺麗な栗色の髪がさらりと零れて揺れています。
「む? どうした、クレハ?」
「……男の人」
ぽかんとした顔のまま、小さく呟くクレハ。
「……ねーさまが、男の人を連れてきた!」
「え? ちょ、ちょっと待て。クレハ。お前、何か誤解を……」
「み、みんな、聞いて聞いて!」
「あ! おい!」
クレハはベアトリーチェが止めるのも聞かず、そのまま屋敷の方へと走り出してしまいました。すると、そのほかの二人の子供たちも恐る恐るマスターの顔を見上げ、それから……
「ねーさまに恋人ができたー!」
「うおおおおおい!」
動揺の声をあげるベアトリーチェを尻目に、蜘蛛の子を散らすように駆け出して行ったのでした。
「待て! 誤解じゃ! 何を言うておる! わらわは普段から、男など汚らわしい奴らばかりじゃと言うておろうが!」
慌てて彼らを追いかける聖女様。
「うふふ。置いて行かれてしまいましたね」
あまりの展開に呆然としていたわたしたちの中で、最初にそう言って笑ったのはリズさんでした。
「……まったく、着いて早々、随分騒がしいな」
呆れたように言ったアンジェリカですが、ベアトリーチェと子供たちとのやり取りは彼女にとっても微笑ましいものだったらしく、その頬は緩みきっているようでした。
「……でも、あの子たちも皆、身寄りのない子供たちなんですのね。わたくし、今のように屋敷を出るまで、こうした現状を知ろうともしていませんでしたわ」
農奴を見た時と同じように、エレンシア嬢は少しだけ暗い顔をして呟きます。すると、そんな彼女に、マスターはそっと近づいて声を掛けました。
「エレン。君だって、十分不幸だったじゃないか」
「え? どういう意味ですの?」
彼の言葉が理解できず、不思議そうに問い返すエレンシア嬢。
「さっきの君の台詞は、幸福な人間が不幸な人間を知って、『後ろめたさ』を感じた時に言うものだよ」
「で、でも……現に聖女様はこうやって孤児たちを助けていらっしゃるのに、わたくしは何も知らずに……」
「それの何が問題なんだい? そりゃあ、困っている人を助けるのは『人として当然』のことだと思うけど、義務じゃない。できないことまでする必要はないんだぜ?」
「そ、それは……」
「罪悪感なんて必要ないよ。だって、この世に孤児がいることについて、君は全然悪くないんだ。強いて言うなら悪いのは、この世界だろ? まあ、君が世界に喧嘩を売りたいのなら、僕はいくらでも付き合うけどね」
「キョウヤ様……」
あまりにもまわりくどい、マスターの気遣いの言葉。しかし、エレンシア嬢には、それが何より嬉しいものだったようです。
一方、メルティはと言えば、何やらうずうずした様子で身体を震わせ、追いかけっこを続けるベアトリーチェと子供たちを見つめています。黒髪が短くなったせいで、逆に大人びた印象を与える外見になったはずの彼女ですが、精神的にはまだまだ子供のようです。
「あ、メルティ? ちょ、ちょっと待ってくだ……」
わたしが止める暇もありませんでした。
「メルティも混ざるー!」
彼女はその場で大きく跳躍すると、そのまま逃げ回るクレハの傍に着地します。
「きゃあ!」
「うふふ! つかまえた!」
「おお! でかしたぞ。メルティ!」
地響きとともに飛び降りたメルティは、クレハをしっかりと抱きしめるように捕まえてしまいました。ベアトリーチェがここぞとばかりに駆け寄りますが、他の子供たちはどんどん遠くに逃げてしまっています。
「ふっふっふ! メルティさえおれば、百人力じゃわい! さあ、残りの子たちも捕まえてくるのじゃ!」
「はーい!」
ベアトリーチェの号令を受け、メルティは元気いっぱいに返事をしながら再び跳躍していきます。
「わわ!」
ほとんど一跳びで対象の傍に着地を決めるメルティを相手にしては、さすがの子供たちも逃げきれません。次々と彼女に捕獲されてしまいました。
次回、「第118話 少女の楽園」